百七十二
宇宙暦七九六年十月十二日 イゼルローン要塞
カール・フォン・ベルガー大将の執務室には、窓がなかった。
壁の一面を占める表示盤には、回廊の宙図が映っている。八月の着任以来、ベルガーはその図の前で報告を受け、指示を出してきた。
机の上には、三つの綴りが並んでいた。
一つ目は、トゥールハンマーの復旧工程だった。追加派遣を要請した専門技術者は百二十名、割り当てられたのは六十三名。理由の欄には「本国の配分計画による」とだけ記されていた。
ベルガーは、配員の決まっていない作業の欄に印を付けた。予定表の日付だけは、まだ以前のままだった。
二つ目は、防御設備の点検記録。装甲は健在、防御砲台も動く。主砲の欄だけに、使用不可の表示が続いている。
三つ目は、前任者たちから引き継いだ戦況記録だった。
シュトックハウゼン大将とゼークト大将。二人はともに職を解かれ、要塞司令官と駐留艦隊司令官の席を去った。
交信の記録は残っていた。照合の依頼、入港の許可、確認の報告。要塞側と艦隊側の記録を時刻順に並べ直すと、相手の管轄として確かめずにいたことが見えてくる。それぞれの書類だけを読んでいたときには、気づかなかったことだった。
「閣下」
副官が入ってきた。
「元帥府より入電です。ロイエンタール中将の艦隊、本日中に到着します」
「規模は」
「一万隻であります」
自艦隊の一万五千と合わせ、二万五千。敵が一個艦隊なら、数では上回る。
だが、指揮官として本国が予想しているのは、あのヤン・ウェンリーだった。引き継ぎ資料の中で、何度も目にした名である。
「出迎えの準備を。それと、要塞司令部へ連絡してくれ。中将の到着後、三者で協議したい」
副官が去ると、ベルガーは技術部の報告を手前へ戻した。
門の研究に人員が取られているという噂は、ここにも届いていた。噂のままで、文書にはならない。照会すれば、本国の配分に異議を申し立てたことになる。
行き先を確かめたところで、今日の工程が埋まるわけではない。
六十三名で、どこまで進められるか。
彼は、印を付けた欄の見直しを技術部へ求めた。増援艦隊を迎えるまでに、こちらから渡す資料を揃えておきたかった。
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百七十三
オスカー・フォン・ロイエンタール中将は、旗艦《トリスタン》を降りると、出迎えの列へまっすぐ歩いてきた。
左右で色の違う目が、ベルガーの上で止まった。
「ロイエンタールであります。閣下」
「ベルガーだ。遠路、ご苦労」
中将の背後には元帥府の特命がある。だが、駐留艦隊を預かるのはベルガーであり、要塞には別の司令官がいる。敬礼を交わせば済む関係ではなかった。
「補給の手配は要塞司令部と済ませてある。先に、こちらの編成を見てもらいたい」
「お願いいたします」
二人は入港区画に隣接する打ち合わせ室へ入った。扉が閉まると、ベルガーは編成表を広げた。
「要塞付属戦隊を含めて、一万五千隻。迎撃に出せる。ただし、戦隊ごとに機動の所要時間が違う。一斉に反転させるなら、この差を見てほしい」
ロイエンタールは、艦数の欄から、その隣へ目を移した。
「戦隊別の記録をいただけますか。本職の艦隊も、同じ形式で提出します」
「用意してある」
ベルガーは、もう一枚を渡した。
中将は受け取ると、その場で読み始めた。家名にも昇進の経緯にも触れなかった。
「敵の見積もりは」
ベルガーが訊いた。
「上限で一万五千。指揮官は、前回と同じ男と見ております」
前回、というところで、ロイエンタールの指が紙の上に止まった。
あのとき、この中将は攻撃命令を発する寸前で止められた。要塞司令部から届いた緊急通信の記録を、ベルガーも読んでいる。
「その件で、協議の場に一つ、案を出したく存じます」
「聞こう」
ロイエンタールは、携えてきた薄い綴りを編成表の脇に置いた。
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百七十四
オトフリート・フォン・ファルケンベルク大将は、会議室の中央の席に座っていた。
背が高く、姿勢がよく、制服の着こなしに隙がない。卓上には、家の紋章を刻んだ筆記具が置かれていた。
「遠路、大儀であった」
ロイエンタールにそう言ってから、要塞司令官はベルガーへ視線を移した。
「協議を急ぐというのは、この件かね」
「中将から提案がある」
ロイエンタールが一枚の文書を卓上へ置いた。
「指揮権限と連絡の手順を、文書で確認していただきたい」
「戦場のことを、紙で決めるのかね」
「決められることだけを、であります」
ロイエンタールは、文書の最初の項を示した。
「両艦隊の指揮系統は別です。共同の機動を始めるとき、どちらが先に動き、どちらが援護するか。要塞からの情報を誰が受け取り、どう両艦隊へ伝えるか。それを先に定めておきたい」
ファルケンベルクは文書を読み進めた。指先が、要塞司令部からの指示を扱う項で止まった。
「要塞の安全に関わる事態でも、私には知らせることしかできぬ、ということか」
「存亡に関わる緊急停止まで、否定するつもりはありません」
ロイエンタールの返答は速かった。
「前回の停止も、あの時点の情報では必要でした。ただ、艦隊側へ判断の根拠まで十分に伝わっていたかは、別の問題です」
ベルガーは、ロイエンタールを見た。
攻撃の機会を奪った命令を、この中将は必要だったと言った。口調に納得の色はなかったが、その二つを混ぜてもいなかった。
「危険について、何が確認され、何が推定なのか。停止を必要とする範囲はどこまでか。結論とともに、それを伝えていただきたいのです」
「確認を待っていては、間に合わぬ場合もある」
ファルケンベルクが言った。
「未確認なら、未確認として。警報を遅らせる必要はありません。その後に判明したことも、両艦隊へ同時に伝えていただきたい」
ファルケンベルクは、すぐには答えなかった。
ベルガーが文書を自分の方へ引き寄せた。
「停止した後、何を確かめ、いつ継続の要否を判断するかも書こう。こちらからも、対応できる範囲を返す。結論だけが一往復して終わる形にはしたくない」
ファルケンベルクは、短く頷いた。ベルガーにではなく、ロイエンタールの方を見ていた。
「艦隊側にも、同じことを求める」
要塞司令官は言った。
「進路変更と帰還の予定を、こちらにも伝えよ。艦が戻るたびに防御砲台の射界を変える。知らされずに動かれては、収容も援護もできん」
「承知した。共通の宙図に反映させる」
ベルガーは答えた。
ファルケンベルクは、もう一度文書へ目を落とした。
「ただし、要塞内部の警備と入出港の管制は、本職の責任である。その点は動かさぬ」
「そこを変更する提案ではありません」
ロイエンタールが答えた。
「元帥府の特命も、この要塞の管制を代行するものではありません」
要塞司令官は、紋章のある筆記具を取った。署名はせず、まず余白へ修正を書き入れた。
ベルガーの家には、中央へ一言を届ける力もない。ファルケンベルク家には、それがある。その違いを、この部屋でなくすことはできなかった。
だが、次に艦隊が帰還するとき、砲台の射界を誰が変えるかは、ここで決められる。
ベルガーは、修正された一行を読んで頷いた。
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百七十五
協議は二時間に及び、文書は三枚になった。
通常の艦隊行動は各艦隊司令官が決める。共同機動の主導と援護の分担は、あらかじめ共有する。要塞の存亡に関わる緊急停止は残し、その根拠と続報を両艦隊へ同時に伝える。各々の上級司令部から受ける命令は、従来の指揮系統に従う。
三人は、その連携要領に署名した。
ファルケンベルクは最後に署名すると、自分の控えを取り、管制部へ渡すよう副官に命じた。ロイエンタールには儀礼通りに応じ、ベルガーには短く頷いて退出した。
駐留艦隊司令部へ移った二人は、宙図の前に立った。
「ありがとうございました」
ロイエンタールが言った。
「私にも必要だった。一度の迎撃で、次に出せる艦隊まで失うわけにはいかん」
ベルガーは、要塞を示す印に指を置いた。
「ここへ戻る道は、残しておきたい」
「本職の艦隊を前面に。駐留艦隊は、まず防御圏に近い位置で展開していただきたい。一方に敵が寄れば、もう一方が側面を支えます」
ロイエンタールが二つの艦隊の位置を示した。
ベルガーは、先ほど渡した機動記録を開いた。
「この間隔なら、こちらの反転を待つ時間が生じる。少し詰めたい」
「詰めすぎれば、同じ攻撃に巻き込まれます」
ロイエンタールは、片方の印をわずかにずらした。
ベルガーは記録を確かめた。
どちらへ寄せても、隙は消えない。離せば反転を待つ時間が生まれ、詰めれば一撃に二つの艦隊が入る。二つの不利のうち、小さい方を選ぶだけだった。
「その位置で試そう」
二人は連絡参謀を呼び、双方の旗艦との回線を開かせた。表示の座標を照合し、機動開始と援護要請の合図を確かめる。
気の合う相手には見えなかった。だが、この中将は、ベルガーの示した所要時間を自分の配置へ織り込んだ。ベルガーも、その修正に応じた。
「二万五千で迎える」
ベルガーは宙図を見ながら言った。
「数では上回る。だからといって、こちらから要塞との間を切らせる必要はない」
「向こうは、それを望むでしょう」
ロイエンタールは答えた。
「前回も、我々が見ていた艦隊とは別に、一隻が動いていました。今回も、目の前の動きだけで決めたくはありません」
ベルガーは頷いた。
「こちらも、見たものは送る。判断が違えば、その理由も」
「本職も、そういたします」
その夜、ベルガーは執務室で、三つの綴りに四つ目を加えた。
主砲の復旧工程、防御設備の点検記録、前任者たちの戦況記録。そして、今日の連携要領。
彼は四冊目を閉じ、共同配置の通達を認証した。
ほどなく《トリスタン》から受領の返答が来た。続いて要塞司令部から、両艦隊に宛てた出港管制の割当表が届いた。
ベルガーは、自分の表と時刻を照合した。
一致していた。
七月、この要塞では、二つの表が合わなかった。
もう一つ、七月と違うことがある。叛乱軍の指揮官が誰であるかを、こちらは知っている。そして、この要塞に一万隻が加わったことを、向こうはまだ知らない。