平行世界の自分と入れ替わることができる睦ちゃんの、終わりのお話です。本歌取りのつもりです。
「なめらかな世界と、その敵」をぜひ読んでください。

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特殊タグ表示ありで読むことをオススメします。


なめらかな世界の終わり

 

 「わたくしとおともだちになってくださらない?」

 

 小学校の入学式。隣の席に座った彼女が、こっそりと私に囁いた。

 

 


 

 夏が近付くと胸が騒めくのはどうしてだろう。

 

 枕元に射し込む朝日で目を覚まして、カーテンを開くと、窓から月光が私を照らした。東の空に臨む満月は、見つめるには少々眩しい。道行く人々の足元の安全を保証するには些か心許ない光だ。朝日ほど目に毒々しくはない月光に目を(すす)いで、私はベッドから起き出した。

 時計を見る。朝の6時30分。

 朝日をアラーム代わりにして、月の光を背に身支度をするのが私の日課だった。

 朝日は嫌いだ。これからの一日を照らす光。私を安寧から追い出すバックライト。誰にも見られたくない私は、本質的にきっと夜行性なのだった。

 

 パジャマから制服に着替えた。

 ネイビーのセーラー服。おそらく最も多く手に取った制服だ。肌触りの良い厚手の生地のプリーツスカート。鏡を見ながら白いタイを結ぶ。

 鏡に映る私は、ベージュのセーラー服を着ている。プリーツスカートの折り目はアイロンで伸ばされており、ウエストのベルトのボタンには一度引っ掛けてほつれた形跡が残っている。

 ワイシャツのボタンを止めて、グリーンストライプのネクタイを絞めた。グレーのブレザーを羽織って着替えを終える。

 

 制服に着替える頃には既に朝食が用意されていて、リビングへ向かうとバターが香る。ジャムが添えられたベーグルが白い皿に置かれていて、私はいつもと同じ席についた。

 みなみちゃん(お母さん)たーくん(お父さん)は長期の仕事で2人とも不在だ。お手伝いさんが用意してくれたミルクティーに口をつける。

 

「睦ちゃんは今日もお仕事よね?」

「睦は今日は休みだよな?」

 

 みなみちゃん/たーくんが今日の予定を尋ねてくる。私は肯定を返した。

 

「今日もドラマのお仕事だよ。みなみちゃんが推してた仕事なのに!」

「うん。今日は学校と、バンド」

 

 誰もいないリビングで、私はジャムを塗ったベーグルに齧り付いた。冷めていたので、温かいものを。壁掛け時計を見る。みなみちゃんがドラマの小道具を貰ってきたものだったはずだ。時刻は七時を回らないくらい。顔を洗って、身嗜みを整えてから家を出ても充分に始業に間に合う。

 

 姿見の前で随分と伸びた髪を梳かす。数年前に持たされたブラシを、今も使い続けている。伸ばした髪の手入れも、お手伝いさんに教えられて覚えた。毛先から順に梳かしていく。以前と比べて静電気で髪が引っかかるようになった……気がする。もしかすると替え時なのかもしれない。それとも自分の髪質が変化しているのか。ヘアオイルの瓶をしまって、私は朝の身支度を終えた。教科書と必需品が入ったスクールバッグと、ギターケースを担ぐ。

 ローファーの踵を踏みかけて、玄関の壁に手をついた。

 

「いってきます」

「行ってらっしゃい」

「気を付けてな」

 

 誰もいない家に向かってそう呟くと、みなみちゃん/たーくんが見送ってくれた。

 空を見上げると、満月/半月/三日月が私を見下ろしている。門を抜けて、最寄り駅へと歩く頃にはすっかり朝が来ている。私がすっかり一日の始まりに屈服しているからだ。せめて目を覚ましていた方がましだ。グラデーションの月は白く染まって浮かんでいるか、建物や地平の陰に隠れてしまう。

 

 改札を抜けて駅のホームに到着したタイミングで電車が滑り込んでくる。7時22分。ダイヤの間隔は一定以上縮められないけれど、10分ごとという制約さえ守れば出発時刻は自由自在だ。7時03分、13分、23分、33分……。7時21分発も、23分発も、29分発の可能性も大体同程度。おおよそ10パターンのダイヤから都合の良いものを選び取る。

 

 電車はなるべく空いているタイミングの、なるべく空いている車両を。スーツと制服の群れに圧死させられることは避けられる。

 

 そして私は無事に電車/送迎車によって学校/撮影現場の最寄りまで到着し、時間通りに学校の門を通り抜け/控え室のドアを開けた。

 

「おはようございます!」

 

 花女の校舎の前で若宮イヴ先輩が風紀委員の挨拶当番と身なりチェックをおこなっている。

 

「おはようございます」

 

 小さく挨拶を返して、逃げるように校舎に滑り込んだ。

 

「おはよーございまーす」

「おはようございます」

 

 羽丘でも同様に、教員に紛れて朝日六花先輩と戸山明日香先輩が当番の仕事をしていた。ちょうど前を歩いていた学生の一団に紛れて、視線を遮る。

 

「ごきげんよう」

 

 月ノ森では幾人かの教員と守衛が立っているくらいだった。それも警備のため、という雰囲気があって、私たちは相互に「ごきげんよう」という最も“芝居がかった”挨拶を交わし合う。途中で鉢合わせた知人と教室までの道程を同じくすることになった。

 

 教室に入って自分の席に着くと、今日の時間割を改めて確認する。一時間目は国語/数学/英語で、二時間目は体育/化学/世界史──台本は事前に読み込んで覚えてきたものから変更なし。演出に少々修正が入っているらしい。プロダクションのスタッフとAPから説明を受け、メイクを施される。

 

「睦ちゃんは器用だから、上手くやってくれると思ってるよ」

「はーい、まっかせて」

「はは、頼もしいなぁ。実際、テイク数が減るからすごい助かってるよ」

「もう。いっつも調子いいことばっかり言うんだから」

 

 子役として人気を得て、芝居を評価され続けるまま子役と女優の中間に立っている「若葉睦/森みなみの娘」は、中高生の役が必要とされる際に重宝されている。

 若葉睦が演じた役が社会的ブームを生み出したこともあるし、この芸能界のサラブレッドはラベルに書かれた情報と包装の美しさによって人気を博してきた。

 家族仲も良好で、家族ぐるみの付き合いをしている著名人も多い。「若葉睦」は両親から/日本中の“世間”から愛されている。

 

「2+2は?」

「よん」

「……なんだ、眠っているのかと」

「起きたばかり。まだ眠く、ない」

 

 花女の教室で、クラスメイトが私の机に手をついた。同じ/別のバンド──Ave Mujicaのベースの、海鈴。彼女はこれまた同じ/別のバンド、CRYCHIC/MyGO!!!!! の立希と仲が良いから、同じく“バンド仲間”でありクラスメイトであるところの私のことも程々に気に掛けてくれているらしかった。

 

「ね、睦ちゃん! 昨日オープンしたばっかりのカフェなんだけど……ほら、これ! めっちゃオシャレじゃない?」

「えー、可愛い! 愛音ちゃんもう行ったの?」

「うん、ともりんと二人で」

「私も誘ってくれれば良かったのに」

 

 羽丘で愛音ちゃんが私に話しかけた。見せてくれたスマホの画面には、レトロ調の内装のカフェの写真が写っている。燈ちゃんがグラスに入ったメロンソーダを眺めている写真、オシャレな皿とカトラリー、プレーンなパンケーキ、ビロードのソファ。

 

「誘おうと思ったけど、すぐ帰っちゃったじゃん」

「ああ、お仕事だったから……」

 

 明るく社交的ないつもの私/睦ちゃんは、ちょっと本気でカフェに行けなかったのが残念で深く目を瞑った。ええっと、昨日は── ドラマの撮影のために早退した/撮影がなかったから愛音ちゃん燈ちゃんとカフェに行った

 

「あ、睦ちゃんに写真送ってなかった! 送っとくね!」

「ありがと。ちょっと混んでたけど良かったよね。クリームソーダのグラスも可愛かったし」

 

 ソーダに乗ったアイスクリームを食べて頭痛に突っ伏している私の写真までも送られてくる。それは黙って消しておいた。

 

「何の話をしていますの?」

「祥子ちゃんには関係ないよ〜っだ/愛音と燈と出かけたカフェの話。……祥とも、また行きたい

 

 ……月ノ森で朝礼が始まる。隣の席のそよが心配そうに私を見ていた。

 少し余った袖丈から、真鍮のボタンを撫でる。失敗だ。調子に乗りすぎた/選ぶ先を間違えた。

 

 日直の号令で礼をして朝礼が終わる。一時間目が始まるまでの小休憩の間に、そよが私に話しかけてくる。

 

「……体調、悪いの?」

「ううん。少し疲れただけ」

「無理はしないでね。CRYCHICの練習はいつでもできるんだから。祥ちゃんに言っておく?」

 

 そよは優しいから、何かあるとすぐに気がついて私を心配してくれる。それに甘えて、私は席替えでそよの近くの席を選んでしまう。きっとこれは良くないことなのだろう、と思いながら、私はまた今日もこの席を選んで座っている。

 

「いい。練習は、やる」

 

 CRYCHICの練習が特段面白いとか、心地よいわけではないけれど、私はあまりギターが上手くないから、バンド練習の機会を減らしたくない。

 それに、祥の様子も分かりにくくなる。CRYCHICの時の祥は感情が少し分かりやすい気がして、私は、心を許されているような気になる/普段は心を許されていないことを知る

 

 授業が始まると、私はそよの隣で英語の授業を受け、初華の隣で数学の授業を受け、燈の斜め前で数学の授業を受けた。立希に心配されながら長距離を走って、休み時間にはしゃいでいる香澄先輩を見かけ、月ノ森の廊下で祥と話した。

 

 放課後になって、バンド練習のために海鈴/初華/そよ//立希と待ち合わせた。レンタルスタジオまでは電車で向かう。登校のときと同じように、ホームでの待ち時間なくスムーズに電車に乗り込み、比較的空いた車両でシートに座ることができた。

 

 雨が降っていた。すぐに雨が降っていない“方”へと移る。曇り空を選んだからか、それでもしばらく経って雨が降ってきてしまった。晴れ空を選ぶのは少々手間だった。今日は雨の日らしい。

 

 雨の隙間を縫って、予約したスタジオに駆け込んだ。用事が入って遅れるらしい祥を待ちながら、私は強烈なデジャビュと、微かな諦念に包まれていた。雨の日は良くないことが起こる。

 

「祥ちゃん、遅いね」

「先に練習しとく? 時間のムダだし」

「私は……待ちたい」

 

 結局、ぽつぽつと雑談をしながら一時間待った。立希の苛立ちとそよの焦燥がピークに達したところで、スタジオのドアが開いて祥が姿を現した。羽丘/月ノ森の制服姿のままびしょ濡れで、そよがタオルを取り出した。

 

 何度も見た光景だ。

 意を決したように、祥が口を開く。

 

……CRYCHICを、辞めさせていただきますわ

 

 また、こうなった。

 小さな可能性の世界へと、またもや私は逃げ出した。

 

 ───

 

 物心が着いた頃から、私はこの能力/疾患に自覚的だった。

 無限に存在する『私』の可能性を、行ったり来たりすることができる。尤もこの能力/疾患が私に特異的なものであることに気付いたのは、しばらく後のことだったけれど。

 

「『T-PIS』?」

「ここより科学が発展した世界では、私みたいな人間はそう呼ばれてる」

 

 乗覚性多重自己症候群、あるいはTrans-Parallel Identity Syndrome。略して「T-PIS」。そういう病名が付いている。

 ギターを構えながら、いつもと姿勢を変えるために足を組んでみる。私は燈に対して自分の事情を話してみることにした。

 

「私には、自分に都合の良い現実世界を選ぶ能力がある。『雨が降ってるけど濡れたくないから、雨が降っていない現実に行く』『朝が来たけど太陽が眩しいから、まだ夜が明けていない世界に行く』『電車が中々来ないから、一分後に目当ての電車が来る世界に行く』『友達と喧嘩をした。喧嘩しなかったことにする』『もし自分が違う学校に通っていたら?』『もし自分と家族の関係が変わっていたら?』そして今の私は、そんな可能性を渡り歩いている。……『もしCRYCHICが解散しなかったら?』」

「CRYCHICは、解散するの?」

「解散する。私が何をしても、祥はCRYCHICの解散を選ぶ。私が探した中では、CRYCHICは永遠にならない」

 

()()()の教室で、燈は足を揃えて私の言葉を吟味している。

 遠すぎる過去にも未来にも、渡ることはできない。時間の流れが変わる可能性は極めて低いから、私が直に干渉できるのは前後半年程度だ。もちろん、「CRYCHICが存在しない世界」を探すことは簡単だけれど、「CRYCHICが解散しない世界」を見つけ出すことは困難だった。結局、私が見つけ出せるのは「CRYCHICが()()()()()()()()()世界」だけだ。

 

「祥ちゃんが……どうして?」

「豊川の事情。私には、どうにもならない」

 

 最初に話す相手に燈を選んだのは、燈が私にとっての楔だからだ。

 この世界には可能性を大きく内包している人がごくたまに存在していて、その人物の存在を歪めることは少々難しい。身近なところでは燈と祥が該当する。

 私はあらゆる「私」の可能性に飛べるけれど、私の周囲に大きく影響を及ぼすことは困難だった。成したいことは、私自身が動かなければならない。結局、私のこの力は、万能でもなんでもない。

 

 そしてCRYCHICは、あらゆる可能性の中で、祥と燈が出逢えば結成されるバンドだ。そよも立希も私も、CRYCHICには必須ではない。けれど、燈や祥が存在しないCRYCHICは生まれ得ない。

 

 豊川家の問題がなくなればCRYCHICは解散しないのか、と考えたこともある。けれど豊川家が全く別物であれば、もしくは両親が違えば、私が知っている祥は存在しなくなる。

 

 極論──私に、若葉睦に、「CRYCHIC」を守る力はない。

 

「そこまでしてCRYCHICを守りたいワケ? なくなるのが運命なら、綺麗に着地すればいいんじゃないの」

「それじゃあ祥は──幸せに、ならない」

 

/立希が、吐き捨てるように言った。

 

「睦は、そんなにCRYCHIC続けたいの」

「祥が──」

「祥子のためじゃなくて、(アンタ)自身がだよ。睦は何が納得できなくて藻掻いてるの」

「私は……分からない」

「……なぁ、もう限界なんでしょ」

 

 友達の幸福を願うのって、そんなにおかしなことなのだろうか。

 

「CRYCHICって、そんなに特別なのかな? Ave Mujicaにだってこんなにお客さんが来てくれてるんだよ? 祥ちゃんだってきっと幸せだと思うんだ」

「違う。これは祥の幸せじゃない」

 

立希/初華の言葉を否定する。

 ひっそりとトイレで泣いているのを見た。吐いていたのも知っている。眠れないのを化粧で誤魔化しているのも、祥が本当は、CRYCHICをやり直したいって思っていたことも。

 

「我々では信頼に値しないと?」

「……」

 

初華/海鈴がガッカリしたように言う。

 そうだ。寄り掛かるだけの私たちでは、誰かを幸せにすることなんてできない。

 

「あらゆる可能性の中で、祥は燈に出会う。私が口を挟んでも、必ずCRYCHICが生まれて──いつかは消え去る」

 

 私には、守れない。だけど、燈なら? 

 

「燈なら、祥を引き留められる?」

 

CRYCHIC/MyGO!!!!! の燈は首を横に振った。

 

「本当は、永遠なんて存在しないって、私たちは知ってる。私は、沢山傷付いて、沢山傷付けて……少しだけ、祥ちゃんを恨んだときもあった。春が過ぎて夏が来ても、また春は巡ってくるんだって愛音ちゃんが教えてくれて……」

「冬には木枯らしが吹く。……私にはたぶん、時間がない」

 

月ノ森/羽丘の制服を身にまとった燈は、私に絆創膏を手渡した。

 

「……転んだら、絆創膏を貼ればいいんだって」

「私は、転ばない」

「睦ちゃんが、祥ちゃんに貼ってあげて欲しい」

 

 私には、難しい。

 痛みを知らない人間には、誰かを思いやることができない。

 

「睦ちゃんはさ、どうしてCRYCHICが無くならない方法を探してるの?」

「祥は、その方が幸せだから……」

「でも、意味ないんじゃない? だってCRYCHICはとっくに──一年前に無くなっちゃったんだから。睦ちゃんがやってるのは現実逃避、でしょ」

 

//が意地悪く笑う。

 

「祥子ちゃんを幸せにしたいんだったら、Ave Mujicaの祥子ちゃんを助けてあげなきゃいけないのにさ」

「逃避……」

「だってそうでしょ? 睦ちゃんを救ってくれたのは睦ちゃんが最初に出会った祥子ちゃんなのに。でも無理か。睦ちゃんはずーっとずーっと、逃げ続けてきたんだもんね」

 

 手にしていたギターケースを下ろして、私は一人スツールに座り込んだ。実家の地下室は、空調の音だけがノイズのように響いている。

 

〈Reminiscence〉

〈Member:List〉

 ・若葉睦

 ・伊藤練医師

 ・早川美亜羽(ミァハ)監査官

〈/List〉

『若葉さん。我々は貴方に何らかの“労働”を強要するつもりはございません。ですが「乗覚性多重自己症候群」について説明するに当たっては、この病気が我々の社会に齎した“功績”に関しても説明せねばなりません』

『ここでの会話はわたしの権限において録音されます。ご承知頂けますね?』

『……はい』

『以前にご説明した通り、貴方のその疾患は、自分が望むままに自分の可能性を渡り歩くことができる力を齎します。そこに実質的な制限はなく、たとえば壁をすり抜けることさえ可能です』

『量子トンネル効果ですね。起こり得る可能性がゼロでないならば、あらゆる事象を実現できる』

『早川監査官の仰る通りです。この疾病に関して、私が追加で説明しなければならないことはおおよそ3点あります。1つ目はこの疾病の功績についてですが……我々の体内に埋め込まれているこのチップ「微細型汎用健康維持装置」、通称Medisimがどのように発明されたかご存知ですか?』

『……知りません』

『常に体内の情報を取得し、投薬によって適切な水準を維持し続けるこの装置の開発は、たった二年で終了しました。貴方と同じ疾病を患った一人の中国人が、これを実現した世界から情報を齎したからです。分かりますね? この病の功績とは、ありとあらゆる困難を打ち破るための情報を齎す、という点になります。宇宙開発も、難病の治療薬も、新たな文明の利器も、なんだって自由自在です。ですから当然、貴方にかかる期待も相応に大きい』

『若葉さん。貴方には自由が保証されています。どんな国家でも、貴方を拘束し、何かを強要することはできません』

『もう1点ですが、この疾病……能力は、経時で寛解してしまうようです。先例を調べると、能力が使えなくなる予兆があるのだとか。どれくらいで能力が使えなくなるのか、当人には何となくわかる、という記載がありました。今のところ、その傾向は?』

『……ありません。まだ』

『そうですか。先天性の疾患ですが、多くは第二次性徴の終わり……つまり20歳までに能力が消失してしまうようですね。長く見積ってもあと5年程度でしょう』

『はい』

『それと、最後ですが。貴方のそれは、平行世界の自分と入れ替わる能力です。この病はしばしば、解離性自己同一性障害と間違われてきました。平行世界の自分と入れ替わるということは、この世界に残された貴方の肉体には、貴方が入れ替わった先の貴方が入り込むということです。性格や価値観が違うこともあるでしょうし、他人からは豹変したようにも見えるはずです。他人からどう見られるか、ということも考えながら付き合っていかれると良いかと思います。貴方自身が環境に引っ張られることもあるでしょう』

〈/Reminiscence〉

 

 もう、時間がない。

 私が私を責め立てる。これは現実逃避に過ぎないのだと、自責が私を苛む。眠っていても、起きていても、祥のことを考えていても、CRYCHICでギターを弾いていても、Ave Mujicaでモーティスを演じていても。

 

 もうじきに、私はこのチカラを喪う。

 ここよりも遥かに文明が発展したあの世界で、医者が言っていたことは真実だった。私の中には、それとわかる()()が胸騒ぎを起こしていた。

 

 ……久々にこの部屋に帰ってきたような気がする。

 Ave Mujicaの練習用のスタジオとして使われることになった地下スタジオ。ここ数年は私と祥しか使っていなかったこの部屋は今や、五人が出入りする状況になっている。

 

 燈から渡された絆創膏を『この』私は持っていないけれど、持っていても意味は無かっただろうと思う。

 

 随分と色んなことを試してきた。CRYCHICを復活させても祥は幸せにならない、ということも知ってしまった。私が祥に貼ってあげられる絆創膏は『CRYCHIC』そのものだったのに、それでは傷を癒せなかった。

 なら、私が一番守りたいこの世界の祥に、私は何をしてあげれば良いんだろう。

 

 逃避だ、という自覚がある。

 祥を救うタイムリミット以上に、私は、このチカラを喪うことを恐れている。

 

 地下室を出て、自室に戻る。勉強机の上にはB5サイズのノートが、開かれたまま置かれていた。赤いボールペンで、何かが書かれている。

 

随分とここに帰ってないみたいだね

私と入れ替わったのは誰かに愛されたかったから?

私って誰にも愛されてないんだね

祥が可哀想

時間がないよ

CRYCHICの私と入れ替わったのはどうして? 

祥を助けてあげて

怖いんでしょう?

 

 ノートを閉じた。

 私の言う通り、私は恐れている。

 本質的に言えば、能力の喪失ではなく、この世界そのものが恐ろしい。

 

みなみちゃんは私を愛している/みなみちゃんは私を嫌っている

たーくんは私を愛している/たーくんは私に無関心だ

CRYCHICは今も続いている/CRYCHICは無くなってしまった

祥は今日も笑っている/祥はずっと笑っていない

今日は晴れている/今日も雨が降っている

 

 

「……睦? こんな時間にどうかいたしまして?」

「祥は、覚えてる。私たちが会った日のこと……」

「ええ、当然ですわ」

 

 半ば無意識に、私の足は祥の下へ向かっていた。

 事務所のスタジオに備え付けられたピアノの前でノートを睨みつけていた彼女は、私の存在に気が付いて少し驚いたようだった。

 

「あの日、睦はみなみさんに手を引かれて、わたくしをじっと、疑るように見つめていましたわね」

 

 祥は私の手を掴んだ。黄金色の瞳が、至近距離で私を覗き込む。膝を折った私を、抱き留めるように祥が支える。

 

「──目を逸らしてはなりませんわ。……あなた、睦ですわよね」

「……うん」

「わたくしがあの日に出会った睦。……ええ、間違いありませんわね」

 

 体温が私に伝染(うつ)る。掴まれた指先から、祥の鼓動が分かった。息がかかる程の間近で、私たちは向かい合っている。

 

「気付いてたの?」

「当然ですわ。何年幼馴染をやっているとお思い?」

「もう、十年」

「それくらいですわね。……睦、あなたは多重人格者でしたのね」

 

 私は頷いた。

 祥から見れば、私が多重人格者であることは事実だ。額を突き合わせたまま、私は燈にしたように、この疾病の病状を祥に聞かせた。祥は驚いた様子もなく、合点がいったようにただ私を見つめるだけだった。

 

「遠くを見つめるのは、別の世界を見ているんですのね」

「夢を、見てる。私が胡蝶になる夢……花畑にたどり着けば、私は胡蝶と入れ替わる」

「けれど、あなたはここに戻ってきた」

「……分からなくなった、から。どこへ向かって飛べばいいのか」

「わたくしの隣では……不足ですの?」

「……」

 

 沈黙は否定へと変わって、私たちの中間地点に横たわった。

 祥が深く息を吐いて、ゆっくりと目を瞑る。

 

「あなたが、ふと遠くを見るのが嫌いでした。目を逸らす度に、貴方はわたくしの隣から立ち去っていたのですわね」

 

 私は視線を落とした。

 握った拳がスカートにシワを作る。

 

「祥は……CRYCHIC、続けたかった?」

「……いいえ」

「嘘……つかなくて、いい」

「嘘ではございませんわ。わたくしはCRYCHICを続けたいとは思いません。もとより、CRYCHICを解散させたのはわたくしですのよ」

 

 それが本心でないことは、私にだってわかる。

 間違いを見つけることはできても、存在するはずの正解を見つけることはできない。

 

「ですから、もうCRYCHICをやり直そうとする必要はありませんわ。わたくしにとってのCRYCHICは、既に過ぎ去った過去の一つにすぎませんの」

「でも、祥は笑わなくなった」

「──っ、それは、こちらの台詞ですわ。睦こそ……もう、わたくしに笑いかけてはくれませんのね」

 

 CRYCHICをやり直しても、祥は幸せにはならないと知っている。だけどその「正解」を、旅路の先にも私は見つけられなかった。

 家族に囲まれて笑っている祥を、CRYCHICで微笑んでいる祥を除いて。

 

 私は、違う世界で幸せに生きている祥の隣に立つことができる。

 祥のお母さんが病気に罹らなかった世界を、祥のお父さんが失敗しなかった世界を、CRYCHICがまだなくなっていない世界を、私は容易く見つけることができる。

 

 でも、今目の前にいる祥を救うことはできない。

 それができるのは祥自身か、燈くらいだと思う。

 

「……Ave Mujicaが睦の負担になっていることにさえ気が付かなかったわたくしが、そう望むことさえ烏滸がましいですわね」

「……祥は、私を心配しなくていい」

「ですが……」

 

 祥は何かを堪えるように唇を固く結んで、それから絞り出すように口を開いた。

 

「……与えられてばかりですわ」

 

 そんなことはない。

 首を横に振ったけれど、祥に伝わったかは分からない。

 

「私には、祥が必要」

「とてもそうは思えませんわ。Ave Mujicaだって、結局は睦と初華に頼りきりで……」

「祥がいないと、私はこの世界で生きていけない」

 

 今度は私から祥の手を握った。

 

 祥は、私にとっての錨のようなものだ。

 運命という波に流され、無数の世界で構成された海を渡る私を、この世界に引き止める錨。

 

 初めて祥と出会ったあの日──目まぐるしく移り変わる世界の中で、私の手を握ってくれた祥が、私の立つべき大地を、私が乗るべき船を、私が目指すべき星を決定した。

 

愛されたかった

認められたかった

若葉睦として見られたかった

 

「祥が、私のギターを褒めてくれた。一緒にピアノを弾いて……私たちは、友達になった」

「もちろん覚えていますわよ。……穢してしまいましたわね、あの思い出も──」

 

 祥が触れていたピアノの、黒鍵に指を乗せる。かつて祥が弾いていたあのイントロを思い出して、指先が鍵を渡り歩いた。

 

「……ギターが、そちらに」

「祥。私はもうすぐ、普通になる」

「それは、つまり……」

「多重人格者ではなくなる。私に優しい世界に浸ることも、幸せな祥の横顔を見ることもなくなる」

 

 今更になって、私は、自分がひどく怯えていることに気が付いた。

 私を私たらしめてきたこの能力が、病がなくなることが、私の今後の人生をどう変えてしまうのか。私にはまるで、想像がつかない。

 

 健常者が視覚を喪った世界を本当の意味で想像できないように、聴覚を、味覚を、触覚を、嗅覚を、手足を喪うのと同じように、乗覚を喪った自分がどう生きていくのか……いずれにせよ、明るい未来が待っているとは思えないけれど。

 

「時間切れ。私は祥の幸せを見つけられなかった」

「……わたくしは幸せですわ。Ave Mujicaも、家も、食べ物も、着るものも、音楽も、わたくしの手元に残っている。睦、あなたが隣にいてくれる。これは幸せではありませんの?」

「……わからない。祥は、もっと幸せになっていい、のに」

「睦、わたくしを見て?」

 

 ピアノ椅子に腰掛けたまま、祥は真っ直ぐに私を見た。

 

「わたくしが、不幸に見えますの?」

 

 小首を傾げる祥の目元には隈ができている。作曲とプロデュースに忙殺されて眠れていないのを、化粧でも誤魔化しきれていない。

 ストレスか、生活習慣の乱れか、肌も荒れている。花色に染められた絹のようだった髪には枝毛が出ている。

 

「祥、は……」

 

 手放しに幸せでないことは、不幸と等号で結ばれるべきなのか。

 おそらくは大多数の人間が下せるのだろう判断に、私は躊躇した。

 

 祥が最も幸せになる方法を、私は知っている。そこに私たちは存在しないだけで。

 

 能力を喪ったら、私もそんなことを考えないで済むのだろうか。

 見えなければ、見たくないものは見ないで済むのだから。

 

「わたくしは幸せですわ。誰かが否定したとしても、わたくしは自分が不幸だとは思わない」

 

 ですから、と一呼吸。真っ直ぐに下ろした左腕の肘あたりを右手で押さえて、祥は私へ問いかけた。

 

「睦は睦自身の心配をするべきですわ。……あなたがわたくしにして欲しいことを(おっしゃ)って?」

「私は……勇気が、欲しい」

「勇気?」

「この世界に立つ勇気。私()()が私になっても、正気でいられる勇気。私が、若葉睦が、祥の隣に立つ勇気」

 

 私の前に立つ/が、私にマイクを手渡した。

 カラオケで使い古された、草臥れたマイク。随分昔のことのように思えるけれど、一度だけ、燈の前で歌ったことがあった。子役の先輩だった千聖ちゃんが所属しているアイドルバンドの曲。

 ひどく、示唆的だった。

 

「私には、できない。私じゃなくて、祥を助けてあげられそうな若葉睦の方が……そっちの方が、いい」

 

 祥に向き合う勇気を求める先が、よりによって燈なのか。

 無意識に渡った世界で、私は顔を伏せた。

 

 平行世界を移動する力がなくなる、として。

 最後の瞬間までは、私は選べてしまう。

 今後の生涯を過ごす世界は、私に最も都合が良い世界がいい。

 

 みんなが私に優しくて。

 私の周りの人が傷付かないで日常を送れて。

 私は平穏に、ただ呼吸ができるような世界。

 

「睦ちゃんなら、できるよ。だって、私たちを助けてくれた。そよちゃんのことも……」

「私は、誰とも向き合ってこなかった」

「違う。睦ちゃんは、ずっと向き合ってきた。祥ちゃんのために」

 

 気が付けば、私たちは歩道橋の上に立っていた。

 西の空がルビーのように紅い。

 

「私だったら、閉じこもってた。たぶん……。遠回しな敵意の優しそうな言い換えに気づかないフリをして、分かるわけない他人の心を分かろうとして……そんな世界から逃げ出して、一生、私に優しい世界で暮らしてた」

 

 燈は胸の前で手のひらを合わせた。

 西日が深い影を落とす。表情はよく見えなかった。

 

「ありがとう、燈。……さようなら」

 

 編みかけのニットがほどかれるように、世界が崩れてゆく。

 燈が何かを叫んだ。私には聞こえなかった。

 

「言葉で人は変わると思う……?」

 

 台本を読み込んでいる/千聖ちゃんに尋ねてみた。明らかに集中力を欠いた様子だった彼女は、顔を上げて、深く背もたれに身体を預けた。

 

「ええ。……何か、悩み事?」

 

 私は、彼女に親近感と尊敬を覚えている。

 私と同じように世間から期待され、私と同じように孤独で、私と同じように世間から失望され、私と違って今日も一人で前を向いている彼女に、私は縋るように問いを投げた。

 

「……そんなところ」

「『若きウェルテルの悩み』を知っている?」

「名前、だけ」

「18世紀に刊行されたゲーテのこの著作は、多くの若者を自殺へと誘ったそうよ。……つまり、言葉には人を殺す力がある」

 

 ウェルテル効果。こちらも名前と概要くらいは聞いたことがある。

 

「人を殺せるなら、救うこともできるでしょう。言葉をのせた音楽も然り。答えになっているかしら」

「……うん、ありがとう」

 

 私の表情から何かを読み取ろうとしたのか、しばらく無言のまま向き合っていた。それから根負けしたように千聖ちゃんは台本へ向き直って、ぽつりと言った。

 

「悩みは抱え込まないようにね」

 

 テレビの電源が切られたように、ぷつりと千聖ちゃんの背中が見えなくなった。

 私のなめらかな世界が崩壊していく。無数の船が並べられた水平線から、一隻ずつ抜錨し、飛び乗れないほど遠くに行ってしまう。遠く、雲も超えてまだ遠くへ、海の方へ。

 

 私に都合の良い世界に逃げるということは、私の心を引き上げてくれた祥に、二度と会えなくなるということだ。私は都合の良い世界に浸り、祥には存在するのかも怪しい私が残る。

 それを許容できなくて、私の心は葛藤している。

 

「祥。私は、勇気が欲しい。……ピアノを弾いて」

「……二人でセッションをするのは随分久しぶりのことですわね」

 

 ギターに触れる。

 私と祥を結んだギター。

 私を私のままにしたギター。

 

 呼吸を整える。

 ストラップを肩甲骨の間に通し、左肩の骨に乗せるように固定する。

 ギターから両手を離したまま数歩ふらふらとさまよって、足を少しだけ開いたまま立ち止まる。ピックが指の中でもぞもぞと身動(みじろ)ぎをした。

 

 祥が私を見る。

 目を合わせて、頷きあった。

 その、合図とともに。

 弦をはじく。

 瞬間、私のなめらかな世界がはじけた。

 

 春日影のイントロ。

 二人きりのスタジオで、祥が苦笑する。

 

 CRYCHICの私が、ギターを弾いている。祥のピアノに合わせて、燈の歌声に耳を傾けている。隣を振り向けば、そよが私に微笑んだ。立希が刻むリズムが、私の背中を押している。

 

 思い出の世界を透過する。

 

 MyGO!!!!! の私が、ギターを弾いている。燈が掛けてくれた言葉に頷いて加わったバンドで、かつて祥がいた場所には愛音がいる。観客に向けてアピールをしようとして、コーラスを飛ばした。そよが呆れたように視線を飛ばす、()()()()()()()()

 

 子役だった私が、ギターを弾いている。安物のクラシックギターを抱えて、弦の一本一本を睨みつけながら指で抑える。対面で楽奈が、私に手本を見せるように弦を弾いている。それを見て覚えるどころではなく、私は野良猫に囲まれながら、汗をかいていた。

 

 Ave Mujicaの私が、ギターを弾いている。溶けだしてしまいそうな私を型に嵌めるようなモーティスの衣装。帽子がズレてしまわないよう、姿勢を正す。人形劇の人形のように、天から吊られるような重心移動とステップ。バレエから取り入れたピルエットが、殊の外観客を沸かせた。祥と演奏をしている感覚は薄い。文字通り、操られているようだった。

 

 速度が増していく。

 加速が弾んでゆく。

 なめらかな世界が切り取られていく。

 

 ストロボの映像のように、高速で世界が切り替わる。

 

 青いライトに照らされて、私は赤く染められる。

 観客の歓声が、波のしじまへ消えてゆく。暗闇に浮かぶペンライトの波が、風荒ぶ海の飛沫へと変わる。

 

 羽女の文化祭。花女の文化祭。CRYCHICの、MyGO!!!!! の、Ave Mujicaのスタジオ練習。仲が良い先輩たちとのセッション。春が過ぎ、夏が来たり、秋は行き、冬が去る。

 

 駐車場のアスファルトを踏む。月ノ森の制服に身を包む。木漏れ日の照明に照らされる。私が、睦が、モーティスが、ムツミが、私たちが、シャッフルするように入れ替わる。電子音でメディカルチェックの案内が流れる。

 

 上履きがリノリウムの床を踏む。スタジオの木目が軋んでいる。体育館のステージは張り替えられたばかりで、木の匂いがする。新雪を踏む。落葉を踏む。桜の絨毯を踏む。屍を踏む。空を踏む。水を踏む。月を踏む。

 

 耳を劈く雷鳴が叫ぶ。観客が歓声を上げる。幾千も重なった手拍子が私の心臓を叩く。私の声が、燈の声が、祥の声が、初華の声が、蝉の声が、海鳥の声が、バンド仲間だった彼の/彼女の声が、耳朶を打つ。静寂さえも鳴っている。宇宙でも音楽は鳴る。

 

さようなら、睦ちゃん

 

 海の底で、モーティスが笑う。

 雨が降る。紙吹雪が降る。魚が降る。雪が降る。灰が降る。炎が降る。光が降る。

 

 天災が来る。足の生えた都市が逃げる。冬の悪魔が私を睨む。白い羽獣が歌う。悪魔が槍を投擲する。竜の焔が全てを舐め尽くす。蒸気の騎士が立ち塞がる。死者の喧騒を疎む。嵐を光が裂く。琥珀色の石が歌っている。彼女がヴァイオリンを手にする。

 

 仮面(ペルソナ)を被る。心を盗む。真夜中のテレビを渡り歩く。影の迷宮へ潜る。

 電子の歌姫が歌う。喫茶店にうさぎが鎮座する。世界が(Re:スタートす)る。また繰り返す。私たちは(ゾンビ)になる。位階が上がる(レベルアップする)。科学と魔術が交差する。魔女見習いになる。宿題をゴミ箱に捨てる。拳を握る。魔物になる。人になる。チェンソーを振るう。悪魔が笑う(彼女に聞かれている)。私たちは偶像(アイドル)へ成り果てる。

 

 爆発を起こす1秒前のような緊張感が、永遠に続く。

 私は目を開いている。

 

 夜に虹がかかる。空は美しく青く、悍ましく赤く、穏やかに曇る。

 みなみちゃんが私を抱きしめる。たーくんが私の頭を撫でる。

 祥のお母さんが微笑む。祥のお父さんが祥を抱き上げる。

 クラスメイトが私を囲む。花が咲いている。

 

 祥は自分に生えた悪魔(サルカズ)の角に、初めて気がついたように目を丸くした。私の髪と耳をブラシが撫でた。

 

 ビルの灯りが消えるように、一つ一つの世界が閉ざされていく。

 ピンクのギター。私が手にしているこのギターと、祥のピアノの音だけが私を繋ぎ止めている。

 

 弦を弾くたび、泡沫の世界が一つ弾ける。

 木の葉が落ちるように、桜が散るように、遍く世界の私が見えなくなってゆく。

 

 汗をかいていた。

 視界が滲む。

 

 虚脱感。喪失感。私の胸腔から私が零れ落ちてゆき、できた隙間には恐怖が入り込む。

 

 私が手を振っている。

 家族に囲まれた私から、努めて視線を逸らした。

 

 私は永遠とも須臾ともつかない時間の中を旅し、壊れかけた乗覚が捉えたありとあらゆる世界の残滓を網膜に焼き付けた。

 

 消えていく。

 幸せそうに笑う両親が。

 穏やかなCRYCHICの日常が。

 豊川家の団欒が。

 

 暖色のライトだけが照らす小さなスタジオに、(さざなみ)のように細かく数え切れないほどの音が押し寄せて──

 

 ピアノが鳴っている。

 ピアノが鳴っ──

 ピアノが──

 

 ぷつりと途切れた。

 

 途方もない喪失感に、私は膝を折った。

 ピアノ椅子から飛び出した祥が、私の背中に触れた。

 

「睦!?」

「……私を、許してくれる世界があった。みなみちゃんもたーくんも、祥も、燈も、そよも立希も、みんな優しかった。最後の瞬間、どうして私はあっちに行かないんだろうって、思った。私に優しい世界に──」

「……わたくしはきっと、あなたに酷な決断をさせてしまったのでしょうね。謝罪はいたしませんわ。ただ……ありがとうございます。──わたくしの隣にいてくれて」

 

 後戻りはできない。

 いまさら、祥が生きてきた世界の恐ろしさを理解する。

 道の途中で雨に降られたら、濡れてしまう世界。

 

「……祥」

「ええ」

「私で、ごめんね。でも、隣にいるから」

「……これ以上ありませんわ」

 

 祥は私を固く抱きしめた。

 触れて良いものか分からなくって、そっと背中に手を回す。

 

 私の前には、一人の幼馴染がいる。

 絶対的で唯一の現実が、そこには横たわっていた。


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