機動戦士ガンダム 地獄の底のお姫様 ―木星帝国の王女は、地球を焼かないと決めた― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「ニコル、と呼んでください。トビア・アロナクスの……孫にあたります」
U.C.0160。鏡に映るのは、木星の放射線と絶え間ない心労が、深い皺に変えた、一人の老いた女。テテニス・ドゥガチ。木星の王女。あるいは、木星を看取り続ける最後の番人。わたしの手には、シャリア・ブルの静かな記録と、この100年にわたし自身が血を流して刻んだ“木星史”を収めた、古びたデータディスクがあった。
そこへ、15、6歳の少年が現れた。緩く波打つ栗色の髪。真っ直ぐで、ちょっと生意気そうな瞳。……トビア。一瞬、彼が死の淵から蘇ったのかと錯覚した。時が40年以上、巻き戻ったみたいに。
少年――ニコルが差し出したのは、一個の瑞々しいリンゴだった。腐った金属臭の部屋に、場違いなくらい鮮やかで甘い香りが広がる。40年以上前、あの救命ポッドでトビアがくれた“生命の味”が、今また、巡り巡ってわたしのもとへ戻ってきた。
「じいちゃんは最期まで、木星の空を心配してました。“あそこに、俺がリンゴを渡せなかったお姫様が、まだ一人で残ってるんだ”って。だから、俺が届けに来ました」
わたしは語り始めた。この少年に、全部を伝えるために。シャリア・ブルから始まった、血と鋼鉄の木星100年史を。シロッコが説いた美しい毒。父が憧憬を憎悪に反転させた狂気の配給日。サイコミュって怪物は、人の心を食って際限なく肥大する。でも本当は、この宇宙の孤独の中で、人が人を理解して、優しくなるための道具だったはずなんだと。
「後悔してますか? 木星に残ったこと。ジュドーさんとプロキシマへ行かなかったこと」
「数えきれないほどね。……でも、わたしがここを離れてたら、この星は今頃ただの墓場か、三度目の戦火を地球に放つ火薬庫になってた。誰かが地獄の底で、火を消し続けなきゃならなかった。それがたまたま、わたしだった。ただ、それだけ」
わたしは観測モニターを拡大した。ジュドーが遺したバイオ・ドームの中で、超重力と高放射線に耐えるよう何度も品種改良された、小さなリンゴの苗木が、今、不器用に、でも確かに、葉を広げてた。木星で生まれた、最初のリンゴの木。
わたしはニコルに、あのデータディスクを託した。これが、わたしの遺言。
「持っていきなさい。地球の人たちに伝えて。木星にも、かつて光を求めた人たちがいたことを。父みたいに道を誤った者も、シャリア・ブルみたいに優しさを信じた者も。そして今も、ここで土を耕してる人たちがいることを」
「いつか、重力のない空で、じいちゃんと会ってください。きっと喜びます」。ニコルはディスクを大切そうに受け取って、そう言った。少年が去った後、わたしは彼が置いていったリンゴを、一口だけ齧った。甘い。そして少しだけ、鉄の味がした。それは、わたしがこの100年を生き抜いた、誇り高い命の味。「さようなら、トビア。わたし、最後までお姫様として、ちゃんと美しく戦ったわよ。……ねえ、褒めてくれる?」。老いた瞳から一筋の涙が、木星の重力に引かれて、静かに落ちて、チタンの床で小さく弾けた。いつかこの一滴が、あのリンゴの木を育てる水になることを信じて。――わたしは、重力のない空を夢見ながら、ゆっくりと目を閉じた。木星の深淵に射した、ほんのひとすじの光を、抱きしめて。