機動戦士ガンダム 木星の深淵 シロッコの亡霊とジュドー・アーシタ 王女ベルナデットの木星戦記 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0160年。
木星の「鉛の空」は、今日も変わらず私たちの頭上にのしかかっている。
かつてフォンセ・カガチが狂信を煽り、ジュドー・アーシタが新天地へと旅立ったあの日から、さらに数年の時が流れた。
私はもう、ドレスの裾を気にする王女ではない。鏡の中に映るのは、木星の過酷な放射線と、絶え間ない心労によって刻まれた深い皺を持つ、一人の老いた女だ。
私の手の中にあるのは、1つの古びたデータディスク。
そこには、かつて父ドゥガチの書斎で見つけた、シャリア・ブルの静かな瞳が収められている。
そして、その隣には、私がこの100年の間に見聞きし、自ら血を流して刻んできた「木星史」が綴られている。
「テテニス様。……いえ、ベルナデット様。お客様です」
側近の声に顔を上げると、エアロックが開く音が無機質な居住区に響いた。
入ってきたのは、15、6歳ほどの少年だった。
その少年を見た瞬間、私の心臓は、老いた肉体には不釣り合いなほどの激動を覚えた。
緩やかに波打つ栗色の髪。真っ直ぐにこちらを見つめる、澄んだ、しかし意志の強い瞳。
……トビア。
一瞬、私は彼が死の淵から蘇ったのかと錯覚しそうになった。
「地球圏から来た、……バナージ・リンクスの縁者だと聞いています。……君の名は?」
「ニコルと呼んでください、ベルナデットさん。トビア・アロナクスの……孫にあたります」
少年が差し出したのは、1個の瑞々しいリンゴだった。
木星の腐った金属臭が漂うこの部屋に、場違いなほど鮮やかな甘い香りが広がる。
私は震える指でその果実を受け取った。冷たい。そして、生きている。
40年以上前、ヘリウム輸送船の中でトビアが差し出してくれた、あの「生命の味」が、今再び私の元へ戻ってきたのだ。
「……トビアは、あの子は、幸せだった?」
「はい。じいちゃんは最期まで、木星の空を心配していました。あそこに、俺がリンゴを渡せなかったお姫様が残っているんだって」
私は笑った。
銃口を向けられても、暴徒に囲まれても絶やさなかった「王女の虚勢」ではない。
ただの、恋をした一人の少女としての、心からの微笑み。
私は少年に椅子を勧め、バタラの廃材で作ったティーテーブルに座らせた。
「ニコル君。君は、どうしてこの地獄のような星に来たの? 地球はあんなに温かくて、地面が揺れない奇跡に満ちているのに」
「じいちゃんの物語の続きを知りたかったんです。どうして木星は、あんなに地球を憎んだのか。どうしてシャリア・ブルやパプテマス・シロッコという天才たちが、ここから生まれたのか。……そして、ベルナデットさんが、何を守り続けてきたのかを」
私はゆっくりと頷き、データディスクを起動した。
ホログラムの光が、窓のない無機質な壁に、かつての戦火と希望を映し出す。
「いいでしょう。これは、シャリア・ブルから始まった、血と鋼鉄の木星100年史。……そして、一人の少女が、自分の名前を取り戻すための物語よ」
私は語り始めた。
第1次ネオ・ジオン抗争の後、木星へと流れてきたジュドー・アーシタという少年の熱。
パプテマス・シロッコが説いた、女性の献身を燃料にする「美しき毒」。
父クラックス・ドゥガチが、地球への憧憬をストーカー的な憎悪へと反転させた、あの狂気の配給日。
ニコル君は、黙って私の言葉に耳を傾けていた。
時折、居住区の外でヘリウム3の精錬プラントが爆発し、地面が微振動する。
だが、彼は怯えなかった。
トビアの血が、この木星の重力さえも「知るべき歴史」として受け入れているようだった。
「……サイコミュという名の怪物はね、人の精神を食らって肥大するの。でも、それは本来、宇宙の孤独の中で、人が優しくなるための道具だったはずなのよ。シャリア・ブルがそう信じたようにね」
私は、バタラのコクピットで感じた「魂を圧搾する万力」のような精神圧のことを話した。
エンジェル・ハイロウで眠らされそうになった2万人のサイキッカーたちの悲鳴。
ザンスカールの狂風の中で、ギロチンの音を聞きながら祈ることしかできなかった、あの無力な夜のこと。
「ベルナデットさんは、後悔していますか? 木星に残ったことを」
ニコル君の問いに、私は窓の外……正確には、厚い装甲板の向こう側にあるはずの、木星の大赤斑を見つめた。
あの化け物の顎のような嵐の下で、私たちは100年、鉄を噛みながら生き延びてきた。
「後悔? ……ええ、数え切れないほどね。でもね、ニコル君。私がここを離れていたら、この星は今頃、ただの墓場か、あるいは三度目の戦火を地球に放つ火薬庫になっていたわ。……誰かが、地獄の底で火を消し続けなければならなかったの」
私は立ち上がり、壁にかけられた古いパイロットスーツを指差した。
テテニス・ドゥガチという名の茨の冠。
それを被り続けることが、私の選んだ「贅沢」だった。
「見て、ニコル君。あのプラントの近くに、小さな緑が見えるでしょう?」
私は観測モニターの端を拡大した。
そこには、ジュドーが遺していったバイオ・ドームの中で、不器用ながらも必死に葉を広げる、小さな苗木があった。
木星の超重力と高放射線に耐えられるよう、何度も何度も品種改良を重ねた、リンゴの木だ。
「まだ実はならないけれど、100年後には、ここもリンゴの香りで満たされる星になるかもしれない。……その時、私たちはもう重力の檻の中にいないわ」
私はニコル君に、データディスクを託した。
これが、私の遺言。
シャリア・ブルから始まった血の歴史を、ここで終わらせるための鍵。
「持っていきなさい。そして、地球の人たちに伝えて。木星(ここ)にも、かつて光を求めた人たちがいたことを。……そして、今も土を耕している人たちがいることを」
ニコル君は、ディスクを大切に懐に収め、深く頭を下げた。
彼はエアロックへ向かい、最後にもう一度振り返った。
「ベルナデットさん。……いつか、重力のない空で、じいちゃんと会ってください」
「ええ。……その時は、思いっきり文句を言ってやるわ。……一人で先に行くなんて、不公平だってね」
少年が去った後、私は再び独りになった。
リサイクルされた酸素の乾いた音が、静寂を埋めていく。
私は、ニコル君が置いていったリンゴを一口かじった。
甘い。
そして、少しだけ、鉄の味がした。
それは、私がこの100年を生き抜いてきた、誇り高き命の味だった。
私は窓のない部屋で、遠い、あまりに遠い地球の瞬きを想う。
宇宙世紀。
それは、人類が重力という呪縛に抗い、傷つけ合い、それでもなお光を求めた100年の名前。
私はその最後の一片を、この木星の底で守り抜いた。
「さようなら、トビア。……私は、最後までお姫様(テテニス)として、美しく戦ったわよ」
老いた私の瞳から、一筋の涙が重力に引かれて落ちる。
それは木星の冷たいチタンの床に当たり、小さな音を立てて弾けた。
いつか、この涙が、リンゴの木を育てる1滴の水になることを信じて。
私は、重力のない空を夢見ながら、静かに目を閉じた。