呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
安土の夜は、まだ燃えていた。
いや、燃え残っている、というにはあまりにも執念深い火だった。木が炭になるための火ではない。天守の梁や壁土の奥、金箔の剥げた柱の節、焼け落ちたはずの階のさらに上、そこに見えぬ何かが巣食っていて、その呼吸のたびに熱を吐いているような、そんな火だ。
羽柴秀吉は、煤けた階をひとつずつ踏みしめて上がった。
靴裏に灰がこびりつく。足を上げるたび、黒い粉が細く舞い、鼻腔を焦がす。火薬の匂いがした。木の焼ける甘ったるさより、もっと乾いて、鼻の奥を刺す、戦場の匂いだった。
ここへ来るまでに何人かを止めた。
討ち漏らした残兵でも、光秀方の潜伏でもない。
安土そのものに当てられ、熱に目をやられ、怯えて剣を抜いた兵たちだった。秀吉は彼らを斬らなかった。ただ退けと言っただけだ。退かぬ者には頬を打ち、肩を蹴り、階下へ転がした。ここから上は兵のいるところではない、と直感していた。
最上階へ至る手前で、風が変わった。
風というより、圧だった。
熱が一方向へ流れている。上だ。
天守のてっぺんに、戦の熱そのものが溜まっている。
秀吉は息を整えた。喉が乾いている。舌の付け根にざらつく飢えがあった。腹が減っている。実際には山崎以来ろくに口へ物など入れていないのだから当たり前だが、そういう飢えではないことは、自分がいちばんよく知っていた。
信長に近づくほど、飢えはひどくなる。
あの人の術の残り香に触れるほど、自分の猿学は、己の空洞を思い出す。
最後の段を上がった。
天守の上層は、半ば吹き抜けていた。屋根の一部は崩れ、夜の闇がのぞいている。遠く、琵琶湖のあたりに月の白い気配がある。だがこの場だけは夜ではなかった。赤い。暗い赤だ。炭火の底に残る色だ。そこへ時折、鉄砲火のような白い閃きが走り、遅れて腹を打つような破裂音が来た。
中央に、それはいた。
人の形をしていた。
織田信長の形を。
だが、秀吉は一目でわかった。その一目で、わかってしまったことが、余計に苦しかった。
これは信長ではない。
背丈は似ている。肩の張りも、立ち姿の傲慢さも、たしかに似せてある。だが輪郭が、あまりに“信長らしすぎる”。まるで誰もが恐れた信長像を、そのまま夜と火で鋳固めたようだった。人の噂、敵の悪夢、兵の震え、寺社の怨嗟、そういうものが勝手に集まって、信長という器へ流し込まれた、魔王の偶像。
顔の半分は、火に焼けて崩れていた。
崩れているのに、なお信長の顔だとわかる。
それがいっそう不気味だった。
目にあたる部分は、火縄の先のように赤く点っている。
着物らしきものは黒煙と煤で編まれ、その裾からは時折、銃口のようなものが突き出しては引っ込んだ。人の姿に、火薬庫と鉄砲衆の怨念が着込まされている。
信長呪霊は、秀吉を見ると、わずかに首を傾けた。
その仕草すら、ひどくそれらしかった。
「……信長様ではないな」
秀吉は言った。
言葉にして、ようやく自分の胸の奥へ杭を打つような気持ちだった。
相手は答えない。
答える必要もないのだろう。こいつにあるのは言葉ではない。
火。
鉄。
爆ぜ。
そして、人が勝手に与えた“魔王”という役だけだ。
次の瞬間、床板が鳴った。
秀吉が反応するより早く、呪霊の周囲に黒い筒が幾つも浮き上がる。銃口だ、と認識した時には火が走っていた。火縄が爆ぜる音が一斉に重なり、白く短い閃光が扇状に広がる。
秀吉は身をひねった。
一発、二発、三発。頬の横を焼けた鉛がかすめ、後ろの柱が弾け飛ぶ。反射で呪力を脚へ回し、床を蹴る。踏み込みの先、呪霊の懐へ飛び込んだつもりだった。だが遅れて、先ほどの銃火が爆風となって追ってきた。熱と圧に横殴りにされ、秀吉の身体が柱へ叩きつけられる。
痛い。
熱い。
喉が渇く。腹が減る。
秀吉は舌打ちした。
信長の術の苦みの、ずっと薄い残滓。火にはならない。燃えもしない。だが苦しいことだけはわかる。その端っこだけを、自分はずっと後ろから拾ってきた。
「……ほんに、いやらしい」
立ち上がる。
呪霊は待たない。今度は炎だった。手ではなく、周囲の空間そのものが捻れて、火薬のような圧を帯びた火舌が走る。普通の炎ではない。伸びるというより、炸裂する。触れた床が焦げる前に破裂し、破片をまき散らす。
秀吉は低く身を沈め、転がるように距離を詰めた。
火は追ってくる。
いや、違う。火が自分を追うのではない。自分の中の怯えに、火が吸い寄せられている。
そこで秀吉は、二度目の違和感を覚えた。
粗い。
信長なら、こうではない。
あの人の恐れの喰い方は、もっと静かだ。もっと底が見えず、こちらが怯えたと気づく前に、もう奪われている。こんなふうに、恐れに反応して派手に撃ち、派手に燃やし、派手に見せびらかすような真似はしない。
これは、人が見た信長だ。
信長そのものではない。
秀吉は、燃え上がる床板の縁を蹴った。
高く飛ぶ。
呪霊の首を刎ねるつもりで刃を振るう。だがその刃は、信長の肩口で止まった。鋼に当たったのではない。火に当たったのでもない。膨大な呪力の塊が、刃と肉のあいだに介在している。
その距離で、信長呪霊の顔が近づいた。
焼け崩れた口元が、笑ったように見えた。
次いで、腹の底をえぐるような爆発。
秀吉は吹き飛ばされた。
床の上を転がり、焼けた板のささくれが頬を裂く。視界が一瞬白く飛ぶ。耳鳴り。咳。口の中に血と煤の味。胃の奥からこみあげる空腹が、ほとんど吐き気に近い。
――信長様なら、もっと苦しかったのだろう。
思ってしまったことに、自分でぞっとした。
戦の最中に、敵を前にして、そんなことを考えるな。
だが秀吉の身体は、すでに別のところで動いていた。
信長に焼かれた。
信長の背を追った。
信長の苦みの、ほんの薄皮だけを知った。
それでも離れられなかった。
離れられなかったから、ここにいる。
「紛い物め」
秀吉は立ち上がった。
頬から血が流れる。袖で拭うと、その布もまた火薬臭い。
「お前はあの方ではない」
呪霊が火を吐く。
秀吉はその火を避けず、真正面から踏み込んだ。
「お前は、世が恐れた信長様じゃ」
銃火。
秀吉は腕で受け、焼けながらなお一歩出る。
「寺が見た魔王じゃ」
爆ぜ。
足元が砕ける。だが落ちる前に別の板へ飛び移る。
「敵が悪夢に描いた天下人じゃ」
火の海の中で、信長呪霊の輪郭が揺らぐ。
秀吉の言葉に呪術的な意味があるわけではない。
ただ、それでも効いた。なぜならそれは、相手をただ否定する言葉ではなく、信長像を一枚ずつ剥がす言葉だったからだ。
「だが、お前は、信長様ではない」
呪霊が吠えた。
初めて、人らしい怒りの形を見せた。
その瞬間、天守じゅうの熱が一斉に寄った。火と火薬と銃火のすべてが、中央へ吸い寄せられ、信長呪霊の身体に重なっていく。
秀吉は、そこで自分の限界を知った。
これ以上は、ただの猿真似では届かない。
模倣しただけでは、あの人の偶像にさえ届かない。
自分は本物になれない。
なれぬまま、なろうとしてきた。
腹の奥で飢えが鳴く。
喉が焼ける。
何かを食え、と身体が叫ぶ。
だが自分は信長ではない。喰えない。燃やせない。持てない。
持てないはずなのに、それでもここまで来てしまった。
秀吉は、ふと笑った。
自嘲でも、開き直りでもない。
ただ、ようやく腹へ落ちたものがあった。
――儂は、信長様になりたかったのだ。
戦の勝ち方でもない。
城の落とし方でもない。
天下人の座ですらない。
あの人のように、時代の中心で燃えたかった。
あの人のように、人の恐れを一身に受けてもなお前へ行く、その背を、その姿を、自分のものにしたかった。
そこまで認めてしまえば、あとは早かった。
秀吉は獲物を下げた。
代わりに、両手をゆっくりと開いた。
能の舞台に上がる前のように、ひとつ息を吸い、ひとつ吐く。
「……領域展開」
焼けた天守の空気が、すっと痩せた。
「魔王参詣」
音が消えた。
次に来たのは、静けさではない。
様式だった。
燃えさしの床板が、いつのまにか磨かれた檜のような色へ戻っている。天井はないはずなのに、上には黒い闇ではなく、舞台の見所を思わせる広がりがある。柱はそのまま、しかしただの焼け残りではなく、橋掛かりのような意味を帯びる。信長呪霊との距離は、ただの間合いではなく、参道になっていた。
秀吉の領域は、借りるだけのものではなかった。
借りて、学んで、積み重ね、継ぎ接ぎし、変質し、「奪う」ための場と化した。
のちにそれは制度として表出し、刀狩と呼ばれるようになる。
戦乱の道具を取り上げ、持つ者から力を奪い、天下の秩序へ組み替える。
そうして平和へ近づくはずの営みの、その内側で、秀吉自身の力だけが肥えていく。
そのねじれを、秀吉はいま初めて術として引き受けた。
信長呪霊が銃火を放つ。
秀吉は、片手を差し出した。
撃たれたはずの火縄銃が、宙で音もなくほどけた。
銃という形を保っていた呪力が、くしゃりと潰れ、秀吉の手の内へ吸われる。
次に火が来る。
秀吉はそれも掴んだ。火は燃え広がらず、細い帯になって指のあいだから吸い込まれていく。熱も、爆ぜも、火薬の焦げた臭いさえも、少しずつ奪われる。
信長呪霊のまわりから、銃が減った。
火が減った。
熱が減った。
残るのは、輪郭だけだった。
秀吉は、一歩ずつ歩み寄る。
それはまるで、舞台へ参る足取りだった。
魔王へ近づくのではない。魔王だった人の不在へ、自分の足で進んでいく。
奪うたび、秀吉の中の何かが膨らんだ。
これが自分の力かと、ぞっとする。
平和のために刀を取り上げる。
武器を取り上げる。
熱を取り上げる。
そうして誰もが弱くなるほど、自分だけが強くなる。
――これが、儂の天下か。
信長呪霊は、もはや火を吐かなかった。
火がないのではない。吐けないのだ。
銃火を奪われ、爆ぜを奪われ、熱を奪われ、最後に残ったのは、人の形だけ。
焼けた輪郭の中に、空っぽの顔が浮かぶ。
そこに信長はいなかった。
秀吉は足を止めた。
ほんの一瞬だけ、目を閉じる。
「……信長様」
呼んでも、返事はない。
あるはずもない。
ここにいたのは、あの人ではなく、人々があの人へ貼りつけた魔王の張りぼてだ。
それを剥がせば、あとは抜け殻しか残らない。
秀吉は、その抜け殻へ棒を振り下ろした。
音は、不思議と小さかった。
世界を焼き尽くすような怪物の最期にしては、あまりにも小さい。
だがその小さな断裂から、天守全体へひびが走った。奪われるべきものを奪われ、支えるべき熱を失った城が、ようやく本来の焼け跡へ戻り始める。
柱が鳴る。
梁が落ちる。
金箔の名残が、火の粉になって舞う。
秀吉は動かなかった。
崩れる天守の中で、ただ立っていた。
勝った、とは思えなかった。
討ったのは信長ではない。
信長の紛い物だ。
それでも、その紛い物を討てたのは自分だけだった。
人々が恐れた信長像の粗さを見抜けたのも、自分だけだった。
信長に焼かれ、信長の背だけを見てきた自分だけが、最後にその偶像を剥がす役を負わされた。
胸の奥で、喪失が遅れて形を取る。
もう、信長はいない。
あの人は本能寺で終わった。
ここで討ったのは、その後に残った熱と像だ。
なのに。
なのにこの手には、たしかに何かが残っている。
銃を奪った。
火を奪った。
熱を奪った。
魔王の偶像を削ぎ落とし、その力の残り香だけが、自分の中へ来た。
秀吉は、焼け落ちる安土の中で、ようやく認めた。
自分の芯は、天下ではない。
富でもない。
飢えを終わらせることですら、そのもっと奥にある。
信長への憧憬だ。
あの人に焼かれたこと。
その背を追ったこと。
なれないと知りながら、なお近づきたかったこと。
そのどうしようもない情が、儂の力の芯だった。
だから勝てた。
だから、こんなにも苦い。
天守の一角が崩れ、熱風が吹き抜けた。
秀吉はようやく踵を返す。
安土は落ちる。
信長の偶像はここで終わる。
だが自分は終われない。
信長を失った。
そして、その後を背負った。
その二つが、もう切り離せぬと知って、秀吉は炎の中を歩き出した。