学園黙示録-RE aper of the dead-   作:兎の助

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第一話:ある男の朝

暗い…どこまでも暗い下水道。水の滴る音だけが反響しながら耳の奥に届く。

 

コンクリートの壁面を伝う水が、微かな光を反射してぬめりと光っている。腐敗した有機物の臭気が空間に漂う。

下半身を濡らす下水の気持ち悪さは、常人なら避けて通りたいだろう。だがそれを、男は顔色ひとつ変えず足を進めた。

 

男の名――否、コードネームはハンク。アンブレラ社の私設精鋭部隊、U.S.S所属のエージェント。どんな戦場からでも生還することから、ついた異名は「死神」

今この瞬間、その異名はこれ以上ないほど正確に彼の状況を言い表していた。

 

部隊のメンバーは自分を除き全員が死んだ。

 

ラクーンシティ地下の研究施設――NESTにあるバーキン博士の研究室で起きた惨劇が、未だに脳裏に焼き付いて離れない。

ウィリアム・バーキン…TウィルスとGウィルスを開発した天才科学者だったが、彼は会社を離反し、合衆国政府に亡命しようとした。

 

その為、アンブレラ社はU.S.Sを送り、Gのサンプルを奪取するよう命令を下した。

 

だが作戦は最悪の形で瓦解した。抵抗したために無数の銃弾を受けたバーキン博士は、死ぬ間際に自らの体にGウィルスを投与。

 

その結果、彼は急速的な変異を起こし、化け物が生まれた。

 

人の形を留めながら、もはや人ではない何か。肥大化した腕が、鋼鉄を紙のように引き裂く。

部隊のメンバーは悲鳴を上げる間もなく一人、また一人と肉塊へと変えられていった。

 

ハンクだけが生き残ったのは戦術的判断の賜物でも、特別な技量のおかげでもない…運だ。純粋で、理不尽な運だけだった。

 

それでもハンクは動じなかった。一時の感情など、目まぐるしく変わる戦場には不要だ。

 

死んだ仲間を悼む時間があれば、一歩でも前へ進む。

 

怒りに震える時間があれば、一発でも銃弾を撃ち込む。

 

涙を流す暇があるなら、一秒でも思考に費やす。

 

それがハンクの流儀であり、生存哲学だった。

 

その時、沈黙を貫いていた無線機から声が聞こえてきた。

 

《こちらナイトホーク。アルファ、応答しろ。アルファ、聞こえるか?》

 

「ナイトホーク、こちらアルファチーム、ハンクだ」

 

《てっきり全滅したかと思っていた。ずっと探していたんだが――》

 

「K12に到着。回収地点の詳細を」

 

《なるほど…「死神」と呼ばれるわけだ》

 

「回収地点の指示を」

 

《安心しな、死神さん。ラクーン市警正門に向かっている。そこでピックアップだ》

 

「了解」

 

その指示を聞くや否や、ハンクは目的地に向けて歩みを進める。その時、下水道の闇の中で屍が蠢いているのが見えた。

 

Tウィルス――バーキン博士の研究所から漏れ出た呪われし病原体が、ネズミを媒介して今やラクーンシティ中に広まりつつある。

死者が立ち上がり、生者の新鮮な生き血と肉を求めて徘徊する。それがこの街の現実となっていた。

 

急速的な新陳代謝の影響によって腐敗した皮膚に、焦点の合わない白濁した眼球。

だらしなく開いた口からは血と唾液の混ざり合った液体が垂れ流しになっており、ぎこちない動作で体をよじらせながらこちらに迫ってくる。

 

そんな哀れな死者たちに向けてハンクはMP5を構え、そして引き金を引く。

その一連の動作に、一切の躊躇いはない。

 

倒れていく死者を踏み越えて前へ、ただひたすらに前へ突き進む。

 

下水道を抜け、その先のラクーンシティ警察署を抜けた先に回収地点がある。Gウィルスのサンプルさえ届ければ、それでいい。それだけでいいのだ。

 

やがて夜明けの光が廃墟となりかけた街に差し込み始めた頃、ハンクは正門の扉を蹴破った。目の前に広がるラクーンシティは、すでに地獄だった。

近くの建物からは火の手が上がり、遠くで断末魔が木霊する。生きていた街が、今死につつある。

 

だが、ハンクには関係のないことだった。ヘリのローター音がこちらに向かって徐々に近づいてくる。

 

ヘリからロープが降りてくる。ハンクはGウィルスのサンプルケースを抱きしめるようにして、ロープを掴んだ。冷たい夜風が頬を打ち、眼下では街が燃える。

 

死神は、また今日も生き残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルベルト・ハンクは、目を覚ました。

 

白い天井に整然とした六畳ほどの寝室。窓の外から鳥の声と、遠くを走る車のエンジン音が聞こえてくる。ごく普通の、どこにでもある日本の朝だ。

彼は上半身を起こし、寝汗で湿ったシャツの胸元を軽く引っ張りながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

「夢…か」

 

呟きは、ほとんど声にならなかった。

 

夢だ。当然、夢に決まっている。

アルベルト・ハンクは藤美学園高校の英語教師。20代前半で独身。

大学を卒業し、教員免許を取得し、縁あってこの街に赴任した、ごく平凡な何の変哲もない経歴の持ち主だ。

 

銃など、生まれてこのかた触ったことがない。

なのに、あの夢の中の「自分」は――

 

ハンクは手のひらを見つめた。普通の教師の手だ。

チョークの粉が馴染んだ、荒れてもいなければ、ペンだこ以外にろくな傷跡もないごく普通の手。

 

それがあの夢の中では、まるで銃器という道具の延長であるかのように動いていた。躊躇なく引き金を引き、死者の頭部を何の感慨もなく撃ち抜いた。

 

似ても似つかない、と思う。

 

あの夢の中の「自分」は、恐怖というものを知らないのではないかと感じるほど冷静だった。仲間が全滅しても表情ひとつ変えず、ただ前進し続ける。

感情があるのかどうかすら怪しいほどの、機械のような男。

 

今の自分とは、まるで別人だ。

 

だが――ハンクは眉をひそめた。

 

妙に、懐かしかった。

 

夢の中の感覚がどこか遠い記憶を刺激するような、あの不思議な感触。

臭気すら記憶しているような錯覚。銃口の跳ね返りを掌で感じたような錯覚。それは夢特有の現実感の欠如とは、明らかに趣が違った。

 

まるで、かつて本当に体験したことを、夢という形式で追体験したかのような不思議な感覚。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

ハンクは首を振り、ベッドから立ち上がった。

 

夢に現実味を感じるのは、よく眠れなかった証拠だ。

最近は授業の準備に追われ、睡眠が不規則になっている。それだけのことだ。深く考えるに値しない。

 

彼はそう考え、意識を切り替えることにした。

 

寝汗を落とすためにシャワーを浴び、白いシャツとスラックスに着替えながら、ハンクはいつもの朝の支度を進めた。

キッチンに向かい食パンをトースターに差し込むと同時に、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。豆を挽く香ばしい匂いが、夢の残滓を少しずつ薄めていくようだった。

 

コーヒーが出来るまでの間の暇つぶし兼情報収集を兼ねて、テレビをつける。

朝のワイドショーが、賑やかな声で部屋に満ちた。天気予報、スポーツのスコア、芸能ニュース。いつもと変わらない、平和な朝の風景だ。

 

トーストが焼き上がった音がして、ハンクがそちらに手を伸ばしかけた、その時だった。

ふと、記憶が蘇った。

 

今日は燃えるごみの日だ。

 

「しまった…!」

 

思わず声に出してしまった。昨夜のうちにまとめておいたゴミ袋が、玄関脇に置いたままになっている。回収は朝八時まで。

ハンクは慌ててゴミ袋を引っ掴み、サンダルに足を突っ込んで玄関を出た。

 

玄関のドアが閉まったと同時に、無人になった部屋の中にニュースキャスターの声が小さく響いた。

 

「――速報です。今朝早く、床主市内の繁華街付近において、通行中の男性が突如、別の男性に襲われ、腕を噛まれるという事件が発生しました。被害者は現在病院に搬送されており、意識はあるとのことですが、詳しい状況については――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼が住むのは川沿いの丘上に建つメゾネットタイプのマンションだ。防犯設備も完璧なので少々家賃は張るが、それでも部屋からの眺めと学校までの距離を考慮すれば、我慢できる範囲だ。

 

ゴミ捨て場には既に先客がいた。

 

そこに居たのは女性だった。

 

小麦色の肌に引き締まった四肢。余分なものが一切ない体型。長い紫の髪をざっくりとまとめているが、顔立ちは整っており、朝の気怠さの中でも不思議な存在感を放っていた。

ゴミ袋を分別しながら、ふと視線を向けてくる。

 

「あ、おはようございます」

 

澄んだ声だった。特別愛想がいいわけでもないが、不快感もない。ごく自然な、隣人への挨拶だ。

 

「おはようございます。……確か、南リカさん、でしたっけ」

 

ハンクは記憶を辿りながら答えた。二階に住む女性だと記憶していた。

 

「よく覚えてましたね」

 

名前を呼ばれた女性――南リカは少し意外そうな顔をして、ゴミ袋をネットの中に収めた。

 

「貴方は確か、ハンクさん…でしたよね?英語の先生をやられているとのことでしたけど、どこの学校で?」

 

「藤美学園です。赴任してまだ二年目で」

 

「ああ、近いじゃないですか」

 

リカは軽く相槌を打ちながら、視線を手元のゴミ袋に戻した。

 

「藤美って、そこそこ大きい学校ですよね」

 

「ええ、まあ。南さんはご存知なんですか」

 

「知ってますよ。友人がそこで働いてるんです。保健室の先生なんですけど……まあ、あの人のことだから、ちゃんとやれてるのかどうか、正直いつも心配で」

 

そう言いながらどこか呆れたような、しかし確かに親しみのこもった苦笑が口元に浮かんだ。

 

「それは……大変ですね」

 

ハンクは当たり障りなく返しながら、内心で少し意外に思った。あれだけ落ち着いた雰囲気の女性が、誰かのことを心配そうに話す。その組み合わせが、妙に人間らしくて印象に残った。

 

「まあ、なんだかんだ上手くやってるみたいですけどね。じゃあ、お互い仕事頑張りましょう」

 

リカは小さく肩をすくめ、話を切り上げるように軽く会釈した。

 

「ええ。お疲れ様です」

 

短い言葉のやり取りの後、ハンクもゴミ袋を手際よく片づけ、踵を返す。

 

部屋に戻ったハンクはコーヒーを一口飲み、トーストに薄くバターを塗ると手早く胃に収める。

テレビの電源を消すと、鞄を手に取り、玄関の鍵を閉める。

 

そして慣れた手つきで自転車に跨ると、ペダルを力強く踏みつけこぎ出す。

 

朝の空気は清々しかった。雲ひとつない青空。通りを歩く人々は穏やかで、川沿いで犬を散歩させる老人が、遠くで欠伸をしている。

今日も、いい一日になりそうだ。そう思いながら彼は学校へと向かっていった。

 

 

 

 

だがその日から彼が…いや、人類が今まで享受してきた「日常」が、音を立てて崩れ落ちていくことを、この時はまだ誰も知る由もなかった――

 

 

 

 

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