怪異探偵 千駄ヶ谷卓郎しか知らない世界   作:哀愁のガムテープ

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別れの拳と漆黒の檻

 

文京区・目白坂。古い製本所の地下室。

鼻を突く死臭と、糊の甘い臭いが混ざり合う空間で、亜子は拳を白くなるほどに握りしめていた。

目の前でゴボリと喉を鳴らし、皮膚のない赤剥けの肉体を震わせながら立ち上がった数体の肉の傀儡たち。

彼らはもう、人間でもなければ、純粋な怪異でもない。鬼のDNAと赤マントの狂気が混じった血を無理やり流し込まれ、尊厳を徹底的に破壊された生きる屍(・・・・)だった。

 

「痛い…痛いよ…」

 

「殺して……お願い、早く……」

 

「苦しい…殺してくれぇ…」

 

目白坂の地下で、肉の檻に閉じ込められたまま生々しい哀哭を漏らす。意識と痛覚だけを残された彼らにとって、動くことそのものが地獄の激痛だった。

千駄ヶ谷探偵事務所の鉄則は一つ。怪異を殺してはならない。

慈愛を以て封印し、救済すること。暴力による解決や争いは、基本的にはご法度だ。

だが、今のこの光景を見て拳を引いていられるほど亜子は聞き分けの良い座敷わらしではない。

 

「…。いま…楽にしてやるから…」

 

亜子は低く呟き、深く腰を落とした。その瞳の奥に、哀しみを超越したドス黒く濁った戦いの悦び。彼女が本来持っている戦闘狂としての火が、パチパチと音を立てて爆ぜる。

 

「一撃で終わらせてやる…。全力でテメーらを救ってやるから!!」

 

床が、爆音とともに陥没した。

シュッ!!!と、空気が引き裂かれるような鋭い音が地下室に鳴り響く。

小柄な亜子の身体が重力を完全に無視して壁へ、そして天井へと弾丸のように跳ね上がった。その動きはまさに、目にも留まらぬ速度で戦場を攪乱する。

 

「ガあ、あ……っ!?」

 

傀儡の一体が、その超高速の軌道を追いきれず、虚空を見上げた。

その時にはすでに、亜子はスルスルとその大きな体躯の懐へと滑り込んでいた。小柄だからこそ入れる、死角の最深部。

 

「まずは、一人!!」

 

溜め込んだ全質量と、空間を歪ませるほどの圧力を拳の一点に集中させ、傀儡の胸へと叩き込む。

ドン!!!

衝撃波が地下室の古紙を派手に吹き飛ばした。

内側から肉体を爆破されたかのように、傀儡の身体が盛大に弾け飛ぶ。

しかし、亜子の攻撃はそれで終わりではない。着地の反動を利用し、今度は四足で床を捉えると、即座に二人、三人目の懐へと低空飛行で肉薄していく超高速のステップ。

壁を蹴り、スタンドを粉砕し肉の絨毯を滑りながら、亜子は楽しそうにそして狂ったように笑みを浮かべて拳を振るい続けた。

その姿は、凄惨な地獄の光景の中で唯一躍動する、美しくも恐ろしい戦神だった。

だが、拳が肉塊を穿つたび、犠牲者たちの「ありがとう」「痛い」「ごめんね」という最期の念が、亜子の拳を通じて彼女の脳髄へと直接流れ込んでくる。

 

(くそっ…。感謝なんかするな…鈍るだろ…)

 

ただの暴力で命を奪うだけなら、どれほど楽だろう。

だが、彼女は千駄ヶ谷卓郎の背中を見てきた。彼がどれほどの痛みをその身に引き受け、怪異たちの呪詛を掌に収めてきたかを、誰よりも近くで知っている。

だからこそ、亜子もまた自ら進んでその痛み(・・)を請け負う覚悟を決めていた。拳に伝わる犠牲者の絶望を、拒絶せず、すべて自分の胸の中に抱きとめる。これこそが、千駄ヶ谷と共に活動してきた亜子なりの、絶対の指針だった。

 

「お前らの痛みも、無念も、全部うちが持ってってやるから…。 だから、もう泣くな!!」

 

最後の一人。その懐に完全に潜り込んだ亜子は、大粒の涙を流しながら、渾身の力を込めた拳をその心臓へと突き立てた。

 

「逝けぇぇぇぇッ!!!」

 

最後の肉の傀儡が、哀しみの鉄拳によって粉砕され、肉の破片とともに、彼らを縛り付けていた血が黒い煙となって霧散していく。

その煙の向こうで犠牲者たちの魂が一瞬だけ、本来の人間の穏やかな表情を取り戻し、すうっと消えていくのが見えた。亜子なりの、泥臭くも圧倒的な成仏の瞬間だった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…っ」

 

静まり返る製本所の地下。

拳から血を流し、息を荒く乱しながら立ち尽くす亜子の周囲には、粉砕された家具と、解放された魂の残滓だけが残されていた。

背負い込んだ無数の痛みに胸を焦がしながらも、亜子は拳を強く握り直し、地上へと視線を向ける。

 

「卓郎の霊気がおかしい…まさかアイツ!」

 

新宿の異変、御茶ノ水の惨劇へと繋がる糸を求め戦い終えた小柄な背中が、地獄の底から静かに歩みを進めるのだった。

 

 

 

 

新宿の雑踏から完全に隔絶された、そびえ立つビルの狭間。そこを猛烈なスピードで這い上がる影(・・・・・・)があった。

 

「ハハッ、ハハハハッ、アハハハハハ!」

 

千駄ヶ谷卓郎の肉体を乗っ取った裏側の人格(・・・・・)は、人間の骨格では不可能な角度で四肢を折り曲げ垂直なコンクリートの壁に文字通り張り付いていた。

アスファルトを蹴るのではない。ビルの外壁、配管。

非常階段の鉄柵に爪を立て、まるで巨大な黒い蜘蛛か狂犬のように、四脚で激しく跳躍を繰り返す。

左掌から溢れ出た黒い瘴気が、千駄ヶ谷の衣服を皮膚をどす黒い漆黒の毛並みのような影の衣へと変えていた。

 

「あぁ〜。 あっちだ。匂うぞ…美味そうな血の匂いがよぉ…」

 

一跳びで十数メートル。ビルの屋上から屋上へと影が爆ぜる。その速度はもはや、肉眼では捉えきれない黒い閃光。

新宿の空を切り裂き、その獣は一直線に目的地の御茶ノ水へと翔けていく。

 

同時刻、御茶ノ水にある洗練された高級心療内科。その最上階にある院長室の強化ガラスが内側からではなく、外側からの圧倒的な質量の衝撃で粉砕された。

散らばるガラスの雨。その中央に四足で着地した【支配された千駄ヶ谷】がいた。

低く屈み、喉の奥からゴロゴロと獣特有の威嚇音を鳴らすその瞳は、完全に白目を消失し、どす黒い闇に変貌している。

 

「…おや。私の大切なカウンセリングルームを、随分と野蛮にノックするものだね。予約はお取りかな?」

 

部屋の奥に設置しれたデスクの後ろ。血の外套を静かに翻し、深紅の仮面をつけた男。傍らにあるベットには、裸で横たわっている若い女。意識はあるのか、声を出せず眼球を激しく動かしているが赤マントは、一切の動揺を見せずにそこに立っていた。

 

「テメーが赤マントだなぁ…。お前…ずいぶんと美味そうな匂いがするなぁ。その仮面の下、どんな面してんだよ?」

 

千駄ヶ谷の口から放たれたのは、地を這うような悪意のこもった凄まじく低い声だった。

次の瞬間、裏・千駄ヶ谷の姿が文字通り消えた(・・・)

オフィスの床を爆砕するほどの踏み込み。赤マントの視界がブレるよりも早く、裏・千駄ヶ谷は天井へと跳ね、そこから真下に向けて牙を剥いた。

黒い瘴気を纏った左腕が、質量を持った凶器となって赤マントの脳頭蓋へと振り下ろされる。

 

「フッ…!」

 

赤マントがステップを刻む。刹那、彼の背後から見えない肉の触手が数本、猛り狂う鞭となって天井の獣へ迎撃に出た。

空間が歪むほどの超高速の応酬。

だが、裏・千駄ヶ谷は空中で異常なほどに身をひねり、迫り来る不可視の触手を自らの鼻と肌だけで完全に感知していた。

「おっせ〜な」

 

耳を塞ぎたくなるほどの、肉と影がぶつかり合ったとは思えない金属音と爆発音が室内に炸裂する。

裏・千駄ヶ谷は空中で触手の一本を左手で強引に掴み取ると、そのまま自らの牙でガリガリと噛みちぎった。

 

「おいおい… 捕食するのかっ!?興味深いね!君は!!」

 

初めて赤マントの、仮面の下の声が驚愕に揺れる。

ちぎられた触手から溢れる濃密な鬼の血。それを美味そうにペロリと舐め取った裏・千駄ヶ谷の顔に、底なしの狂気の笑みが浮かぶ。

 

「うめぇ…」

 

一言呟くと獣と化した千駄ヶ谷は再び加速する。すでにクリニックの空間そのものを置き去りにし始めていた。

 

「鬼の血ってのは、こんなもんかよ!先生よぉ!!」

 

壁を蹴る音が、もはや重なって一つの爆音に聞こえる。

右、左、天井、背後。四脚で重力を嘲笑う裏・千駄ヶ谷の軌道は、ただの線ではなく、赤マントを全方位から包囲する漆黒の檻(・・・・)と化していた。

赤マントが放つ無数の肉の棘や、茨城童子の与えた血を具現化した触手が空を切るたびに虚しく虚空を穿つ。裏・千駄ヶ谷はそのすべてを、異様な柔軟性で紙一重で躱し、あるいは掠った皮膚から黒い瘴気を爆発させて弾き飛ばしていく。

 

「ぐ、あ……っ!?」

 

次の瞬間、赤マントの右腕が、肘の関節とは逆の方向にへし折れた。超高速のすれ違いざまに、ただの戯れで捻り潰したのだ。

 

『キャハハハッ!! いい音だっ! 痛てぇんだな?もっと鳴けよっ!!」

 

それは戦闘ではなく、完全な蹂躙(・・)だった。

裏・千駄ヶ谷のスピードはさらに跳ね上がる。赤マントの深紅の外套がズタズタに引き裂かれ、その下にある洗練されたスーツが、肉ごと細切れにされて飛び散る。

 

「馬鹿な…私が、この私が…このような品性の欠片もない獣に…」

 

芸術家を気取っていた精神科医のプライドが、恐怖と屈辱で内側から崩壊していく。赤マントは血飛沫を撒き散らしながら床を転がり、壁際に追い詰められた。

息を吸うことすら許されない猛攻の前に、すでにその身体は満身創痍、瀕死の塊へと成り下がっていた。無邪気な子供が、好奇心でおもちゃの人形の体をバラバラに刻むかのように。

 

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