異世界から来た中堅冒険者のおっさん、現代日本で始末屋になるようです 作:鳥獣跋扈
声だけがふわりと響いた。
「で、どうだった? 立ち会ったのか?」
空間は闇。ほとんど何も見えず、壁も天井も床も、輪郭を失っている。
ただ、ぽつり、ぽつりと浮かぶろうそくの火だけが、この空間が“どこか”であることを辛うじて示していた。
灯は十本ほどだろうか。
古びた真鍮の燭台に立てられた蝋燭が、まだ若い炎を揺らめかせている。
熱は弱く、蝋がゆっくりと垂れる音すら聞こえそうなほど静かだ。
それでも——人の気配は、見えない。
肉体を伴わない声だけが、あたかも“ここ”に誰かがいるかのように闇の中を渡っていく。
「いやいや、そんなことしませんて。ただお使いに行っただけですやん」
軽々しい返答が、最初の重い声をさらりと受け流した。
柔らかく抜ける関西訛りが、蝋燭の光を撫でるように流れていく。
「どうだか。気配を感じて、いの一番にすっ飛んで行っておいてそれはないんじゃない?」
次に立つ声は、高く、どこか艶を帯びている。
笑えば男も女も惑わしそうな、妖しげな色のある声だ。
「ともあれ、だ」
また別の声が、ふたりのやり取りを切り上げた。
穏やかだが芯の通った、落ち着いた低音。
「察した気配は異界のモノ。対峙した所感を聞きたい」
質問に、関西訛りの声がひとつ息を吐いてから応じた。
「いやぁ、あきませんわ。底が知れません」
軽い調子の中に、わずかな苦味が混じる。
「ちょいと気配を感じただけですけどな、全力で“あかん”て、こっちの中身が警鐘鳴らしとりましたわ」
へらへらと笑う声音の奥に、冗談では済まなかった気配が潜んでいる。
「それほど、か」
落ち着いた声がわずかに低くなる。
蝋燭の火が、その言葉に呼応するようにふるりと揺れた。
「一応、“例の紙”は入れておいたんでしょ?」
妖艶な声が、退屈そうな気配のまま、それでいて鋭い問いを投げる。
「ええ、もちろん」
関西訛りの男が答える気配。少し肩をすくめたような気配さえも声に滲んだ。
「ただ、あの紙ってホンマに使えるんです? 先々代のころを最後、一度も鳴ったことないって話でしたけど」
「そうだな。だが、それも通例というものだ」
落ち着いた声が、わずかに苦笑を含んだ響きで返す。
「大半は鳴らずに終わる。……それで済むなら、それが一番いい」
「……さいですか」
関西訛りの声が、短く沈んだ。
しばし、炎がくすぶる音だけが暗闇の間に響いた。
「とりあえずは、だ」
最初の重く低い声が、空気をまとめ直した。
他のどの声よりも分厚く、地面からせり上がってくるような響き。
「久方ぶりの来訪者。それを見極めるのも、我らの仕事」
蝋燭の炎がまたひとつ、ふっとかすかに細くなる。
「各々、気を引き締めるよう」
その一言に、誰も反論はしない。
代わりに、静かな同意が言葉にならないうねりとなって闇を満たした。
……ユラ、ユラ、と。
蝋燭の火が、ひとつ、またひとつとぽつりぽつり消えていく。
炎が消えるたび、空間がすこしずつ狭くなるような感覚だけが残る。
やがて、残る火は一本だけになった。
細い炎が、黒い芯の上で心細く揺れ続けている。
「……何事も起こらねば良いのだがな」
穏やかな声とも、重い声ともつかない、擦れたつぶやきが闇に落ちる。
最後のひと息。
フ、と小さな音を立てて、炎が消えた。
途端に、そこには本当の暗闇だけが残る。
誰の気配も感じられず、ただ、焼けた蝋の匂いと、さっきまで確かに誰かがいた余韻だけが、静かに漂っていた。
* * *
「おーい! こっちこっちっす!」
川風に乗って、カズのよく通る声が飛んできた。
朝方にバルドが鍛錬に使う河川敷。その少し下流側、浅い砂利の河原に、炭火を起こしたバーベキューコンロがひとつ。
Tシャツ姿のカズが、肩にかけたタオルで汗を拭きながら大きく手を振っている。
その声に、ペットボトルと缶の入ったビニール袋を片手ずつ提げて、バルドと虎太郎が歩いていく。
頼まれていたのは、飲み物の買い出しだった。
数日前——。
封筒の中身を全員で確認し終えたあと、しずくが井之頭会長へ連絡を入れた。
会長の方では、あの組織に心当たりのある「被害者」が数名浮かび上がり、そこから関係図を洗い直すことで、次の依頼候補が見えてきた。
「この組織に恨みを持つ者」——次なる依頼人となりうる人物たち。
先日の件についての正式な依頼料も、しずく曰く「破格」の額だったらしい。
その話を聞いたカズが、だったら祝勝会やりましょう!と声を上げ——今に至る。
当初は井之頭会長も誘おうとしたのだが、向こうは向こうで、家族と孫娘のためのささやかな祝いの席を設けると言う。
仕事の詳細を知っているのは会長だけだが、しずくが邸宅を訪れた際、社長からも「ありがとう」と礼を言われたらしい。
家族も、何となく事情の一端を察しているのだろう。
「おっ、来た来た!」
河原にはすでに、しずくとひよりが折り畳みチェアに腰かけ、紙コップを片手にちびちびと何かを飲んでいた。
しずくのカップからは、かすかなアルコールの匂い。ひよりの方はジュースだ。
しずくはさも当然のように、ひよりはどこか恐縮したように、コップの縁に口をつけている。
カズはコンロの前で、トング片手に黙々と肉と野菜をひっくり返していた。炭のはぜる音と、ジュウジュウと油が落ちる音が食欲をそそる。
「買ってきたぞ」
ビニール袋を掲げると、カズが顔を輝かせる。
「おお、ナイスタイミングっす! あざっす! すんません、買い出しまでお願いしちゃって……」
「かまわん。それに——」
バルドは、袋から缶ビールを一本抜き出し、にやりと口の端を吊り上げた。
「依頼達成に酒はつきものだ」
どこか懐かしむような声音だった。
焚き火の周りで、仲間と酒を回した夜の感触が喉の奥に蘇る。
虎太郎も、自分用のジュースの缶を取り出しながら楽しげな顔でこちらを見る。
ひと通り配り終えたところで、しずくが椅子から立ち上がった。
「よし! 全員揃ったわね!」
頬がわずかに赤い。もう既に何杯かやっているらしい。
「それじゃあ——今回の依頼の成功を祝って、かんぱーい!」
そう言うが早いか、自分の紙コップを高々と掲げ、そのままグビグビと豪快に飲み干す。
周囲が苦笑しながら、各々も飲み物を掲げた。
「かんぱーい!」
グラスと缶が軽くぶつかる音が川音と混じって響く。
バルドは、少し離れたところにある大きな河原の岩に腰を下ろすと、手元のビール缶をプシュリと開けた。
立ち上る炭酸の白い泡。
缶を傾け一口、喉に流し込む。
冷たい液体が、舌の上で鋭い苦味を弾けさせる。
いつも故郷で飲んでいたエールとは違う、透き通った苦味と強い炭酸。
喉を通り抜けた後も、胸の内側で泡が弾むようだった。
(……うむ。悪くないな)
思わず、口の中で呟く。
——転移罠に引っかかり、気がつけば見知らぬ世界。
魔物の気配もしない、鉄とガラスに覆われた街並み。
自身の全く知らない気配の土地で、ほんの少し、心細さが胸をよぎったのを覚えている。
だが、気づいてみれば——やっていることは変わらない。
依頼を受け、悪を討ち、守るべき者を守る。
本質は同じだ。
(どこであろうと、やっていける。そう思っていたが……)
ビールをもう一口流し込み、空を仰ぐ。
薄い雲が、ゆっくりと川沿いの空を流れている。
(案外、気をもんでいたのかもしれん)
そんな自分に気づいて、ふっと苦笑がもれた。
「バルドさん!」
呼びかけと共に、影が一つ近づいてくる。
振り返ると、コンビニの袋から新しい缶ビールを取り出した虎太郎が、にかっと笑っていた。
「もう一本、どうですか?」
数日前より、わずかに顔つきが引き締まった気がする。
目の奥に、戦いの場を知った者特有の芯のようなものが宿り始めていた。
「ああ、貰おう」
差し出された缶を受け取る。指先に、冷たさと、僅かな重み。
その小さな感触が、この世界で得た新しい「仲間」と「居場所」の重みのようにも感じられた。
河原には、肉が焼ける匂いと、炭の煙と誰かの笑い声。
遠くで子どもがはしゃぐ声、水面を撫でる風の音。
見知らぬ場所のはずなのに、この光景はどこか懐かしい。
——ここも、まだまだ面白い依頼が転がり込んでくる。
虎太郎の魔力もまだ伸びしろは大きい。
しずくの「仕事」も、これからもっと厄介なものへと変わっていくだろう。
(ふむ。当分、退屈はしなさそうだ)
そう思いながら、バルドは二本目の缶を、ぐいと開けた。