1920年8月21日、サラトガ競バ場、トラヴァースS。
「このタイムはレコード、レコードです!」
その日、その場所で目にした光景を、わたしは一生忘れることはない。
天国までもっていけると言えるほど、その光景は美しかった。
きれいな快晴、青い空を背景に風にたなびく純白の雲が浮かんでいる。
「Man o' War、これで春から七連勝、年間無敗のまま! 七度目となるUpsetとの対戦も危なげなく制してみせました!」
ダートに寝転がって荒い息を整えながら、わたしはずっと天を見上げていた。
Man o' Warと、わたしの終生のライバルとの戦いは今日が最後だった。
彼女はこのレースを最後にサラトガ競バ場を去り、いくつかの競バ場を転戦して年末に引退してしまう。
その旅に、わたしはついていくことはできない。
「結局、大差で負け越しちゃったか」
笑う。
最終的な対戦結果は七戦一勝六敗。ボロボロなんてものじゃない、完敗だった。
ライバルなんて名乗るのもおこがましい戦績だ。歴史はわたしを無謀にもアメリカ競バ界の伝説に挑み続けた愚かで平凡なウマ娘として記録するだろう。
「Upsetさん、今日のレースも楽しかったです」
すっと影がさす。
一人のウマ娘が、寝転がるわたしの顔をのぞきこんできていた。
美しい赤髪をなびかせて、宝石のようにキラキラと輝く黒い瞳がわたしをみつめる。
Man o' Warは今日も気恥ずかし気にはにかんでいた。
「こちらこそ、とっても熱かった。ありがとう」
二人のうちに、沈黙が漂った。
初めて会ってから、1年と19日。
七つのレース、三つの競バ場、駆けぬけた49ハロンの記憶が走馬灯のように思い起こされる。やがて、ゆっくりとMan o' Warは口をひらいた。
「今日まで、ほんとうにありがとうございました」
「……」
わたしは、なにを言っていいのかわからずに、口を閉ざす。
果たして、Man o' Warというウマ娘にとって、わたしはいったいどんなウマ娘だったのだろうか。ろくな戦績もないくせにしつこく競ってきて、どこまでも追いかけていったわたしを。
「ごめんね、迷惑だったでしょ。まるでストーカーみたいにつきまとってさ」
思わず、胸のうちの黒いものがこぼれ落ちる。
ろくに勝てもしないくせして、よくもライバルなんて。
「いいえ、違います。迷惑なんかしてません、むしろ感謝してます」
顔を上げる。
わたしが目にしたのは、眩しくなるぐらいまっすぐな瞳をした、Man o' Warだった。
「僕にレースの楽しさを教えてくれたのも、僕を一人にしないでいてくれたのも、いつもあなたでした。いつもあなたは僕に全力でぶつかってきてくれて、だからこそ怖くて、嬉しかった」
思わず、目を腕で隠す。
こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえる。
やめて欲しかった、そんな話を聞いたら泣いてしまうから。これまでのわたしの走りは、戦いは無駄じゃなかったのだと、泣いてしまうから。
「あなたこそが、僕にとって最大のライバルでした」
その言葉は、わたしにとって一生の宝物となった。
◆◆◆◆◆
わたしが、Man o' Warと初めて会ったのは、1919年の夏だった。
アパラチア山脈のふもとにあるサラトガ・スプリングズは全米屈指の避暑地。だが、アメリカのウマ娘たちにとってはもう一つ、別のことで知られていた。
サラトガ競バ場。
真夏のダービーと称されるトラヴァースSに代表されるように、避暑地らしく夏季にいくつもの大レースが開催される。
夏になると、東海岸のあちこちからウマ娘がレースのために集まってくるのが毎年の恒例だった。
そして、それはわたしも違わない。
わたしは今年の春、ベルモントパーク競バ場でデビューしたばかりだ。
一戦目の未勝利戦で勝利を飾ると、続く5月にあったジュヴェナイルSで三着。
ここまでそこそこの戦績で、トレーナーも喜んでいてくれた。ぜひ、サラトガ競バ場でも勝ち星を積み重ねたいところだ。
そうして二人で相談して決めた次走は、ユナイテッドステーツホテルS。
それが人生を取り返しのつかないほど変えてしまう一戦になるとも知らず、わたしは運命の1919年8月2日をむかえた。
◆◆◆◆◆
「ふーん、Man o' Warが一番人気か……」
出走前のオッズを確認して、呟く。
Man o' War、その名を知らない訳ではなかった。なにしろ同時期に同じベルモントパーク競バ場でデビューした同期なのだから。
しかし、ジュヴェナイルSの三着からしばらく休んでトレーニングに集中していたわたしと違って、Man o' Warはその後もあちこちを転戦していた。
ジャマイカ競バ場やアケダクト競バ場などニューヨーク州のレースを連戦連勝し、今やデビューから飛ぶ鳥を落とす勢いの無敗の五連勝。
気の早い者はすでに世代最強、いや史上最強だとまで興奮気味に語っている。
もちろん、今日のユナイテッドステーツホテルSでも一番人気に推されていた。
対してわたしはどうかというと、三番人気。
まあ、こんなものだ。デビューしてから一着と三着を一回ずつだし、しかたがない。
「よっしゃ、一発かましてやりますか!」
でも、そっちのほうがわたしにとっては面白かった。
名は体を表すというが、わたしほどあてはまるウマ娘もいないと思っている。
Upset、「大番狂わせ」の名が示す通り、わたしは下馬評をひっくりかえして期待されていないところから大勝ちするのが大好きだった。
だって、それがウマ娘のレースの醍醐味だと信じているから。
決まりきった運命なんて全然面白くない。事前の予想が狂いに狂って勝敗がどうなるかギリギリまでわからなくなる、そんな手に汗握るレースこそが楽しいに違いなかった。
ダートを踏みしめ、コースに上がる。
そうして初めて、わたしはMan o' Warと会った。
◆◆◆◆◆
そのウマ娘は、ひどくつまらなさそうな顔をしていた。
デビュー戦から六馬身差の圧勝劇。無敗で怒涛の五連勝。
そんな噂話から想像していた、自信にあふれた威風堂々としたウマ娘はどこにもいない。
そこにいたのは、やけに赤い髪を風になびかせながら、どうしてかふてくされている一人のウマ娘だった。
「……」
わたしは、訳がわからなかった。
これからずっと楽しみにしていた大レースが始まる。なのに、どうしてそんなムスッとした、なにもかもに飽き果ててしまったような顔をしているのか。
だが、それでもレースの準備は進んでいく。
観客のざわめきが、静まっていった。
人々の視線の先にいるのはMan o' War。果たして、噂に聞く世代最強は斤量130ポンドを背負ってここサラトガで勝つことができるのか。
一人の有力ウマ娘、その才能の限界を計る場こそが、ここだった。
ウマ娘の競走は、スタート地点を各ウマ娘が歩き回っているうちにbarrierとよばれる網が持ちあげられてスタートすることになっている。
だから、わたしは出遅れないようじっと気をうかがっていた。
なにしろ、ユナイテッドステーツホテルSは6ハロン、1200mほどの短距離戦だ。わずかの遅れで勝敗が決まりかねない。
そうして、わたしはそっとMan o' Warの様子をうかがった。
「え?」
思わず、声が漏れた。
Man o' Warは、よりにもよってよそ見をしていた。
まるでこのレースに興味がないといわんばかりにフラフラと視線をさまよわせている。そんなもので、いいスタートが切れるはずがない。
だというのに、なぜ。
barrierが上がる。
レースが始まる。
練習を積み重ねたわたしの体は、内心の動揺に多少もたつきながらも、なんとかスタートを決める。それは、ほかの競走ウマ娘たちも同じ。
だというのに、Man o' Warは動かない。
一拍おいて、明らかに出遅れたといえるタイミングでようやく走りだす。
観客席の人々が、いっせいに悲鳴を上げた。
Man o' Warがサラトガ競バ場で走るのはこれが初めて。ここの観客は、Man o' Warが走るのを目にしたことのない人のほうが多い。
だから、誰しもが終わりだと思った。
それは、わたしもだった。
それみたことか、とわたしは思った。
わたしはすっかりMan o' Warから興味をなくして、前をむく。
勝手に自滅したMan o' Warなど気にしていては勝てるレースも勝てなくなる。
よりにもよってレースの初めによそ見をするなんて、正気の沙汰とは思えない。これでMan o' Warの勝利の芽はなくなったと言っても過言ではなかった。
なにしろこれは6ハロンの電撃戦、短距離走なのだから。
……だというのに。
……ありえないはずなのに。
ドン、ドン、と大地を蹴る音が背後から響いてくる。
まるで至近距離に砲弾でも撃ちこまれているかのような衝撃が大地に走る。
ぞわり、と全身に鳥肌がたった。
「なんで……」
それは、不可能なはずだった。
Man o' Warは、これまでの連勝で130ポンドもの重りというハンデを負っている。それに加えてこの出遅れ。
それは6ハロン、おおよそ1200mの短距離決戦において、致命傷となるはずだった。
「なのに、なんでっ!」
軽やかに、Man o' Warがわたしを追い越していく。
地鳴りのような足音を響かせながら、Man o' Warはいともたやすく先頭にたった。
「……っ!」
土埃に汚れ、あがくように走るわたし。そんなわたしを嘲笑うようにして、Man o' Warはまるで飛んでいるかのように軽やかに距離を離していく。
「Man o' War、これでデビューから六連勝! 二バ身差で圧勝ゴールイン!」
つまらなさそうな顔をしたそのウマ娘は、つまらなさそうな顔をしたまま、わたしの二バ身先でゴール板を通過した。
◆◆◆◆◆
一瞬の沈黙の後、爆発するような歓声がサラトガ競バ場に響き渡った。
誰しもが、己の目と鼻の先でみせつけられた伝説に打ち震えていた。
これだ、これだ。出遅れようがレースに集中していなかろうが、関係ない。
Man o' Warの実力は、才能は、そんな些事で陰るようなものではない。ほかのウマ娘にとって致命的なあやまちも、このウマ娘にとっては些細ですぐに取り返せる手違いにすぎない。
その圧倒的な力で、なにもかもを破壊してしまえばいいのだ。
もはや、誰も疑う者などいなかった。
Man o' Warが、このウマ娘こそが世代最強、いや史上最強のウマ娘なのだと。
歴史に名を残す偉大なる赤毛のウマ娘、ビッグレッドなのだと。
でも、その大歓声の底に沈むわたしは、まったく違うものが目に見えていた。
◆◆◆◆◆
「はぁっ、はぁっ……」
かすむ視界の先で、Man o' Warはぼーっと突っ立っている。
荒い息を吐きながら、わたしはようやく悟った。
なぜ、Man o' Warがよそ見をしていたのか。
なぜ、Man o' Warがつまらなさそうな顔をしていたのか。
単純な話だ。
Man o' Warは、レースが始まる前からすでに結果を知っていたのだ。どんなに出遅れようと、どんなに気を抜こうと、必ず追いついて勝てると。
汗だくになって地べたに転がるほかのウマ娘に、その瞳がむけられることはない。
決まりきった結末など、つまらないに決まっている。
恐らく、Man o' Warはデビューからたったの五戦で気づいてしまったのだ。その気になれば己が敗北することなどない、と。
「っ……!」
そのことに気づいた時、わたしはどうしてか悲しくなった。
まだ、負かしたわたしたちを全力で嘲笑ってくれたほうが楽だった。
まだ、己の勝利を高らかに誇ってくれたほうが楽だった。
わたしは、Upsetというウマ娘はレースの喜びを知っている。勝つか負けるかのギリギリのところで勝負をする面白さを、緊張感を知っている。
でも、Man o' Warはそれを知ることができない。
あまりにも隔絶した才能が、能力が、そもそも競走という根本的なシステムを成り立たなくしている。それはもはや祝福ではなく、呪いだった。
「Man o' War、あなたは……」
まるでレースの勝利などどうでもよかったかのように、つまらない顔をしたまま去っていく。
その背中をみつめながら、わたしは静かに胸の上で手を握りしめた。
―――そんな人生、あまりにも悲しすぎるではないか。
◆◆◆◆◆
「Man o' Warに勝ちたい?」
トレーナーがすっとんきょうな声を上げた。
「……はい」
わたしは、顔をうつむかせる。
8月13日。
つぎの対戦は、サンフォード記念S。
中一週、その一戦で、わたしはどうしてもMan o' Warに勝ちたかった。
ここで負けてしまえば、一生あのウマ娘はつまらない顔をしたまま勝ち続けて、ターフを去ってしまうだろう。
勝てるか勝てないか、そんなギリギリを競いあうのがどういうことかも知らずに。
どうしてか、それだけは嫌だった。
あの子が、つまらない顔のまま競走人生を終えることだけは許せなかった。
それだけは、わたしのの競争人生すべてを賭してでも許してはならないと思ったのだ。
「とは言ってもだなぁ……」
トレーナーがボリボリと頭をかく。
「今やMan o' Warは世代最強、いや史上最強のウマ娘と言われてる。困ったことにオレもその口でね」
トレーナーの目が、冷たく光った。
「Upset、君とアレとが百戦したって一勝もできない、そう思ってる。トレーナー失格だけどね、アレは無理だ。まず間違いなく歴史に名を残す、そういう怪物なんだから」
「……そんなことは、わかってます」
そう、たった一戦でわたしは理解した。
そもそもの地力が、才能が違う。Man o' Warのライバルになんて、なれっこないと。
でも、それでも。
このままMan o' Warという一人のウマ娘が腐っていくのはみたくなかった。
レースの喜びを、敗北の悔しさを知らないままダートを去ってほしくなかった。
「それに、トレーナーはわたしの名前を忘れたんですか」
挑発するように笑ってみせる。
天から授かったわたしの名前、正にわたしを表す一言。
「わたしはUpset、大番狂わせの名を掲げるウマ娘です。勝てるはずないなんて上等、それをひっくり返してこそのレースなんですから!」
わたしはそう言い切って、まっすぐにトレーナーを見つめる。
トレーナーは呆気にとられた顔をして、どうしてか笑い始めてしまった。
「っふ、ははは! そうだよな、おまえはそういうウマ娘だ! まったく、さっきまで真面目な顔をしてたのが馬鹿みたいだよ」
「ひどいですよトレーナー! わたしはいつだって真剣ですよ!」
肩で笑い転げるトレーナーをわたしはポカポカと叩く。
そうして、どちらからともなく手を握った。
「よーしUpset、下馬評なんかぶっ壊して勝っちまおうじゃないか!」
「望むところです!」
◆◆◆◆◆
1919年8月13日、サラトガ競バ場。
その日はやけに快晴で、ひりつく暑さが肌を焼いていた。
この前のレースのように、Man o' Warは冷たい顔をしてそっぽをむいている。
いつものように、つまらなさそうに。
胸が痛む。
誰だって走ることが大好きなはずのウマ娘が、こんな顔をしていていいはずがない。
これからの人生を、暗く沈んだものにしていいはずがない。
だから。
「ねえねえ、Man o' Warさん、でしたっけ」
だから、わたしは話しかけた。
「わたし、今日はあなたに勝ってみせます。だから、そんな風に油断してたら負けちゃいますよ」
「……」
Man o' Warはこちらに顔をむけることさえしない。ただ、つまらなさそうに青空にうかぶ白い雲を眺めている。
その姿を目にして、わたしのどこかが吹っ切れた。
「ああ、そうですか」
あいかわらずMan o' Warはわたしを視界にすら入れないつもりらしい。
今日の観客たちはどこか退屈そうだ。あくびをしている人もいれば、新聞を指でもてあそんで暇を潰している人もいる。
誰もが疑ってすらいないのだ、Man o' Warの勝利を。
ああ、と手が震える。自然と口の端が吊り上がった。
上等じゃないか、それでこそレースだ。
あらゆる下馬評を、決まりきっていると思われている結果を、鼻で笑ってこそのわたしだ。この高揚感こそが、ウマ娘のレースだ。
これ以上に楽しいことなんて、きっとこの世にはない。
だからこそ、わたしはMan o' Warに教えてやらねばならないのだ。
レースとは、楽しいものなのだと。一瞬たりとも気を抜くことができない、ギリギリの戦いなのだと。
barrierが上がる。レースが始まる。
いつものようにひどい出遅れを決めたMan o' Warを横目に、わたしはいきなり全速力にギアを上げた。
走る、とにかく走る。
先頭だけは、一瞬たりとも譲ってなんかやらない。
「……」
まわりのウマ娘が、嫌な顔をして後ろに下がっていく。こちらがなにがあってもハナをとるつもりだと気がついたのだろう。
申し訳ない、とは思う。でも、譲るつもりは1mmだってありはしない。
レース開始から5秒。視界から、ウマ娘が消えた。
これから残り5.5ハロン、わたしは誰の背も追いかけるつもりはない。
死んでも、この先頭だけは渡してやらない。
◆◆◆◆◆
「破滅の逃げしか、道はない」
トレーナーが考えてくれた作戦は、いたって単純だった。
わたしたちが唯一有利な点、それはレースに真剣であること。
油断しきっていて、恐らく次も出遅れるだろうMan o' Warと違って、わたしがスタートでミスをすることはない。
繰り返しの反復で、己の体に染みついているからだ。
「だから、つけるとしたらその一点だけだ」
トレーナーがまっすぐにわたしの目をみつめる。
「先頭をとれ。とにかく全速力で逃げ続けろ。Man o' Warが気づく頃には取り返しのつかないところまで逃げる、それしか道はない」
◆◆◆◆◆
……ああ、今日も青空がきれいだ。
Man o' Warは天を見上げて、そんなことを考えていた。
これからのレースのことなんて、これっぽっちも考えていない。つまらないから。
子どもの頃から、Man o' Warは己の才能を知っていた。
敗北など、ない。同級生相手に競って負けたことはない。怪物のごとき才能が、そもそもレースそのものを成り立たなくさせている。
ゆえに、Man o' Warは常に孤独だった。
トレーナーも、両親もデビューさえすれば世界が変わると言っていた。全米のウマ娘と競えば、対等なライバルもみつかると。
でも、違った。
デビューしてから、Man o' Warの頭に敗北がよぎったことはない。
地力が、積んでいるエンジンが違った。どんなに相手が死にもの狂いで走っていようと、己の足はたったの数完歩で追いついてしまう。たとえ、致命的なほどに出遅れたとしても。
だから、Man o' Warにとってレースは楽しくなどない。
今のMan o' Warが走るのは、トレーナーや両親がそう望むからという惰性。後は、そこそこ金も稼げるし。
どうせ、いつだって自分が勝つに決まっている。それは今日も変わらない。
「ねえねえ、Man o' Warさん、でしたっけ」
誰かが話しかけてくる。でも、どうでもいい。
「わたし、今日はあなたに勝ってみせます。だから、そんな風に油断してたら負けちゃいますよ」
これまで、数え切れないほどその言葉を耳にした。レースが終われば、みんな顔を暗くして逃げ去っていく。もう返事をするのも面倒だった。
そうして、今日もMan o' Warは大幅に出遅れてレースをスタートした。
◆◆◆◆◆
いつものように、前のウマ娘たちを抜き去っていく。
「っ、嫌……!」
絶望の顔をした、ウマ娘をおいていく。
「お前には、お前にだけは負けるものかっ!」
鬼の形相をして食い下がろうとするウマ娘に、いともたやすく土をかけていく。
ほら、いつもの通りだ。
次はいつもみたいに、そろそろ先頭がみえて……。
「?」
首を小さく傾げる。
おかしい、いつもならもうそろそろ先頭にたってもおかしくないんだけれども。
Man o' Warは気持ち足どりを速めた。いくら勝てるからって、真後ろを向いてスタートするのはふざけすぎたかもしれない。
「っ、なんで……!」
「バケモノよ、あんたなんて、バケモノ!」
「あ、ははは、こんなの勝てないや」
ウマ娘たちの心を折りながら、Man o' Warは走って。
そうして、初めて先頭を目に入れた。
小さな背中が、視界に入った。
「……あ」
その時、なぜかMan o' Warの背筋にぞくりと、寒気が走った。
◆◆◆◆◆
どうして、だろう。
今までずっと灰色だった世界に、色がつく。
その背中がゆれるたび、世界が鮮やかになっていく。
追う、追う、追う。
己の足に渾身の力をこめ、ただひたすらに満身を駆動してダートを駆けていく。いつもなら、とっくに追いつけているはずだ、先頭に立てているはずだ。
それが叶わないのは。
「っぁああああ!」
眼前で絶叫するこの背中がいてくれるからだ。
天才たるMan o' Warは、その走行フォームを目にしただけでわかった。この背中に才能などない。
それなりの努力を重ねていたのだろうが、それで勝てるほど己はやわではない。本来なら、とっくの昔に背後に置き去りにしているはずの背中。
なのに、なぜ勝てないか。
「……あ」
その一歩一歩から、勝利への渇望が伝わってくる。なにがなんでも己に勝たんとする魂の咆哮、実に純粋で透き通ったウマ娘の本能の叫び。
それは、今までずっと嫉妬や恐怖ばかりを耳にしてきたMan o' Warが初めて聞いた音だった。
じわじわ、と腹の奥からびりびりする緊張が湧きあがってくる。
もう、最終直線にきてゴール板まで距離がない。このままでは、勝てない。
それは、Man o' Warという一人のウマ娘が、怪物が初めて味わった敗北の予感。このままでは負ける、という純粋無垢な恐怖と痺れ。
ぞくりと背筋が震えた。
これが、勝負というものか。
そうだ、レースと言うものはこういうものだ。絶対の勝利などありえない、誰しもが平等に、ただひたすらにあがき、もがき、そして勝利の女神に追いすがる。
それが、ウマ娘のレース。
ズン、とこれまでとはけた違いの力で大地を蹴りつける。この眼前の背中に勝利するためには、今までのMan o' Warでは足りない。
越えなければならないのだ、過去の自身を。
ウマ娘の本能が満たされる。
同胞たるウマ娘たちと、走る。
その先にある、魂の叫ぶところ。ウマ娘の到達すべき、頂点。己の限界を越えなければたどりつけない、究極の栄光。
そのために、競う、争う。
この時初めて、Man o' Warはレースの喜びを知った。
真の意味で、ウマ娘として完成したのだ。
◆◆◆◆◆
背後からは砲撃のごとく爆音が鳴り響いている。
同じウマ娘の細い足から生みだされているとは思えないほどの轟音。まるで戦場にいるかのような、腹の奥底まで響く振動。
Man o' Warが、きた。
わたしは、歯が砕けそうなほどに顎を食いしばった。
ここまでは、トレーナーの読み通り。これまでとは比べものにならないほどのタイムを刻み、そしてMan o' Warの意表を突く。
ということは。
ここから先は、なんの勝算もないということ。
「……ははっ」
自然と、口の端が吊り上がる。
これだ、これがわたしだ。Upsetという名、大番狂わせの名を背負う、一人のウマ娘だ。
ここから先、勝利の保証は、確実な戦略は、ない。ただ己の選択と、そしてその結果が残るだけの最終直線。
上等だ。
ウマ娘の本能が叫ぶ。走れ、走れと。
大地を踏みしめ、背後に蹴り上げる。
すでにわたしの肺も、心臓も限界だ。筋肉は悲鳴を上げ、思考は霞がかったように鈍る。だが、ただひとつだけ、勝利への渇望だけが爛々とわたしの瞳に輝いている。
残り、100m。
ピシリ、となにかにひびが入ったような気がした。
わたしの将来だとか、才能だとか、これから先の伸びしろのようなもの。そこにひびが入ったような、そんな幻覚。
残り、75m。
それもそうだ、本来ならばわたしはMan o' Warと競ることのできるような才能なんてない。その運命をねじ曲げるというのなら、代償が求められるのは道理。
もしかすると、この先のわたしが栄光を掴める日はもうないのかもしれない。ほんのわずかの後悔が、頭をかすめる。
残り、50m。
だが、それがどうした。
わたしは、より一層深く大地を踏みしめた。
未来だろうがなんだろうが、くれてやる。今、この背後につけている一人のウマ娘、レースの喜びすらも知らない哀れなあの子を救うためならば、命だってかけられる。
残り、25m。
なにより、勝つためならばなんだってできる。
わたしの隣で今まで見たことないような顔をして死に物狂いでつっ走る、あのウマ娘に勝つためなら、なんでも捧げてみせる。
残り、0m。
ゴール板を、蹴り飛ばす。
半バ身差、一着。
その日、わたしは会心の大番狂わせを果たしてみせた。
◆◆◆◆◆
誰も、声を上げなかった。
誰しもが眼前の現実を疑っていた。
Man o' Warが、これから先世代どころか史上最強のウマ娘となるだろう才能の暴虐、神話の怪物がどこぞのウマの骨とも知れない無名のウマ娘に敗北した。
それは、誰も予期していなかった世紀の大逆転だった。
やがて、観客たちの沈黙が沈んだささやき声に変わる。
怒り、落胆、失望、そんな感情が渦巻くスタンドを、しかしダートの上の者たちは欠片も気にしていなかった。
「……ふ、ふふ」
まるで、魂の奥底からこぼれたような笑い声。
「ははっ、あははは、負けちゃったや、ははは!」
Man o' Warが、思わずといったふうに笑っていた。
まるでどこか吹っ切れたように、実に晴れやかに。
格下に負かされたというのに、どうしてか今のMan o' Warは心底嬉しそうだった。
その脇で、勝者だというのにダートに転がり、今にも死んでしまいそうな荒い息をしているわたしはニッカリといたずらげに笑ってみせる。
「ほら、油断してたら負けたでしょ?」
「ふふ、そうですね。僕、完敗です」
Man o' Warがくしゃりと泣きそうになりながら笑った。
「負けて悔しくて、ギリギリの勝負に心臓がドキドキして、あなたと競えたことが嬉しくてたまらない」
Man o' Warがわたしにならって大の字に転がる。しばらく、沈黙が二人をつつみこんだ。
しばらくして、Man o' Warがボソリと、こぼす。
「……初めて知りました。レースって、こんなに楽しかったんですね」
「そう、そう思ってくれたんだったら嬉しい」
Man o' Warの声色が、どこか暗く沈んだ。
「なんで、僕は気づかなかったんでしょう。今までの人生をみんな無駄にしてきたみたいで、なんだか悔しいです」
わたしは思わず吹き出してしまいそうになった。
ついさっきまでスタート地点でつまらなさそうな顔をしてよそ見をしていたウマ娘の言葉とは思えない。
ツンツンと、脇を肘でつつく。
「なに言ってんの、これからいくらでもレースができるでしょうが」
わたしの言葉に、Man o' Warは静かに笑った。
「そうですね。ほんとうに、そうだ」
◆◆◆◆◆
それから、わたしとMan o' Warは友達になった。
おたがい現役のウマ娘だ。毎日トレーニングでいっぱいいっぱい、休日などほとんどない。でも都合がつけば、よく二人で遊んだりした。
そうしてダートの上ではわからなかったことを、わたしは知った。
Man o' Warの祖父は軍人で、こないだあった世界大戦にも出征したそうだ。Man o' Warはそんな祖父にあやかって名づけられたとか。
でも、Man o' War本人はいたってふつうの、女の子だった。
甘いものが大好きで、チョコレートやアイスクリームに目を輝かせる。あんまりオシャレに興味がないわたしと違って、フリルのついた可愛らしいドレスがお気に入りらしい。
ただ、圧倒的なレースの才能があるだけ。
それだけが、彼女の人生に重い影を落としていた。子どもの頃から戦っても必ず勝てる、だから周りから期待されて、好きでもないレースを走り続けて。
願わくば。
わたしのそばのベンチに座って上機嫌にアイスクリームをむさぼるMan o' Warをみつめながら思う。もうすっかり親友に、わたしにとって大事な人の一人になった彼女のことを思う。
長い苦しみの先に、ようやくMan o' Warはレースの喜びを、楽しさを知ることができた。もうこれ以上辛いことなんてあってはならない。
願わくば、これから先に幸せがありますように。
……ちなみに、肝心のレースではわたしはMan o' Warに連敗中である。というか、レースの楽しみを知って死にもの狂いで勝ちにくるMan o' Warが強すぎた。
グランドホテルS、ホープフルS、フューチャリティS……。
これで一勝四敗である、タイにもっていくためにはあと三勝しなければならない。ベッドの上でわたしは頭を抱えるのであった。
◆◆◆◆◆
1920年4月28日、コンソレーションH。
その年の初めを、わたしは白星でスタートさせた。幸先がいい話だ。
わたしはてっきり続くアメリカで一番の大レース、ケンタッキーダービーでMan o' Warと戦えるのだと思っていたけど、驚いたことにMan o' Warは出走しないらしい。
だったら勝てる、と思ったのだが。
残念ながら、わたしはアタマ差で2着に敗れた。
Man o' Warはいない、そんな油断があったのかもしれない。勝利への渇望が欠けていたのかもしんれない。
……あるいは、Man o' Warに勝ったあのサンフォード記念S。そこで、わたしはなにかとても大事なものを失ったのかもしれない。
後悔はない。
あそこまでの大番狂わせはわたしの人生でも数えるほどしか果たせないだろう。その点ではむしろ誇るべきことだ。
だけれど、続くプリークネスS。
またまたMan o' Warの2着に敗れたわたしは、新聞にのせられた記事を目にして思わず笑ってしまった。
『Upset、所詮は一発屋か!? Man o' Warのライバル足りえない訳を語る!』
Man o' Warはこのごろその名声をひたすらに高める一方だ。わたしに負けたサンフォード記念以外は全勝、もはや史上最強のウマ娘の名を欲しいままにしている。
記事に文句なんて言えるはずがない。
初めからわかっていたことだ、わたしはMan o' Warのライバルになんてなれやしない。もう勝てるかどうかも怪しい。単純に、もう彼女についていけるだけの才能が残っていないのだ。
だというのに。
どうしてか、胸の奥が痛かった。
◆◆◆◆◆
「なんですか、これ」
わたしは、新聞紙をくしゃりと握りしめた。唇がわなわなと震えて、それでも目だけは記事から離れない。
記された名は二つ、Man o' Warと、もう一人のウマ娘。
「ベルモントSの出走ウマ娘が、たったの二人……?」
その現実は、わたしの理解を越えていた。
「嘘、でしょ。よりにもよって天下のアメリカクラシック三冠、その最終レースなのに」
ベルモントSといえば、12ハロンのアメリカ三冠最後の大レース。
キャリア3年目のウマ娘たちが挑む初めての長距離レースで、テスト・オブ・チャンピオンのあだ名の通りそのスタミナが試される、栄光と名誉あるレースだ。
それが、出走ウマ娘がたったの二人。
たったの、二人。
「……残念だけど、これが現実ってやつだな」
トレーナーがどこか哀れむように呟いた。
「勝てないとわかってるレースに出たがるウマ娘とトレーナーなんていないさ。みんなだってキャリアがあるんだ、わざわざ白星を献上するぐらいならってことだろう」
Man o' Warは強かった。強すぎた。
だから、勝てないから避ける。戦わなければ、負けることもない。それは実に正しい考えで、だからこそ文句を言うこともできない。
「……でも」
歯を食いしばる。
脳裏に、初めてレースで笑ってくれたあの日のMan o' Warの笑顔がうかぶ。
ようやく、Man o' Warはレースの喜びを、楽しさを知ったのだ。ウマ娘として誰もが胸に秘めている願いを、叶えられたのだ。
なのに、なのに。
「そんなの、あんまりじゃないですか」
顔をうつむかせ、絞りだすように呟く。
新聞にのったMan o' Warの笑顔は、どこか辛そうだった。
◆◆◆◆◆
Man o' Warは、ベルモントSをワールドレコードで勝利した。
これはそれまでのワールドレコード保持者のイギリスのウマ娘の記録を二秒以上も更新する大記録であり、ダートで芝のタイムを上回るという狂気の沙汰である。
前年誕生したアメリカ初代三冠ウマ娘、Sir Bartonの全米記録を、一瞬で塗り替えたのだ。
以降、Man o' Warのレースに出走するウマ娘の数が四人を越えることはなくなった。
続くスタイヴェサントHでは出走ウマ娘は二人。これまでのアメリカ競バ史上最低オッズ、1対100を叩きだし勝利。
続くドワイヤーS、出走ウマ娘二人。もちろん勝利。
続くミラーS、出走ウマ娘三人。もちろん勝利。
「もう出走できるレースはないだろ、誰もMan o' Warと戦わおうとしないしな」
「あーあ、つまんな。じゃあもうMan o' Warも引退か。そもそもレースが成立しないんなら仕方ないか」
そんな言葉が聞こえてきて、さらには本当にMan o' War本人が引退を考えているなんて聞いたのは、1920年の熱い夏のことだった。
◆◆◆◆◆
「……ぁ、Upsetさん!」
Man o' Warは、いつもの笑顔だった。
引退を囁かれてもなお、明るくてひたむき。去年のサンフォード記念Sから浮かべるようになった、人好きのする、どこかいたずら気な笑顔。
でも、わたしの目はごまかせない。
まるで取り繕ったような、お行儀のいい笑顔。その奥で、Man o ' Warは痛みをこらえて、泣くのを必死に我慢していた。
ようやく誰かと競う喜びを知ったのに。レースで走る、その楽しさを知ったのに。
「今日は三人だけのレースなんですって。なんだか、悲しいですね」
まるで迷子になった子供のよう。
たったの三か月。
それだけで、Man o' Warの笑顔はひどく歪になっていた。
ああ、ああ、神よ。
なぜ、こうもこの子を苦しめるのか。
どうして、こうも運命はこの子をもて遊ぶのか。
「久しぶり、元気にしてた?」
努めて、明るい声を出す。
そうしなければ、怒りでどうにかなってしまいそうだった。ウマ娘に、こんな笑顔をさせていい者などどこにもいないのだ。
憎い、殺したいほどに憎い。
過去の己が、弱気になって親友の苦しみにすらよりそえなかったかつての己に激怒する。
なにが勝てるかも怪しい、だ。彼女に、Man o' Warにレースの楽しさを、ギリギリのところで競り合うその喜びを教えたのはどこの誰だ。
おまえだろうが。
なにが、ライバル足りえないだ。このまま親友がなにもかもを諦めて腐っていくのを眺めるのがおまえの望みか。
おまえの名はなんだ、
もう、逃げるわけにはいかない。
ほかの誰でもない、わたしがライバルになるのだ。
「わたし、今日は君に勝ってみせるから。だから、ちょっとでも油断してたら負けちゃうからね」
Man o' Warの顔が、泣きそうなぐらいに歪む。そのまま、わたしは背をむけダートに歩いていった。
あなたを、孤独になんてさせるものか。それだけは、わたしが許せない。
◆◆◆◆◆
1920年8月21日、サラトガ競バ場、トラヴァースS。
僕は、スタートと同時にまるで一発の弾丸のように飛びだした。
トレーナーと考えた作戦なんて、もうどうでもよかった。ただひたすらに、なにかから逃げるように先頭を走っていった。
Upsetさんの言葉が、頭に響く。
『わたし、今日は君に勝ってみせるから。だから、ちょっとでも油断してたら負けちゃうからね』
かつてサンフォード記念Sで僕にレースの喜びを教えてくれた時と、そっくりそのままの言葉。その言葉を、どうしてか今の僕は素直にうけとれそうになかった。
ずるい、卑怯だ。
頭の中がぼうっとして、霞がかる。
昔からずっとそうだ。みんな、みんな、どこかにいってしまう。
子どものころ、友達たちで競走をすることになった。夕暮れの、あばら家が点々と散った小麦畑。あまり乗り気じゃなかったけれど、でも僕は走った。
だんだんと暗くなっていく小麦の海。
気がつけば友達はみんないなくなって、僕ひとりだけが走っていた。
ずっと一人で、孤独に。
声を上げても誰も答えてくれない。ぎゅっと胸がしめつけられて、心細くて、独りぼっちで。それから、僕はレースが好きじゃなくなった。
Upsetさんが、その楽しさを教えてくれるまでは。
それからは毎日が楽しかった。僕のそばにはいつもUpsetさんがいて、死にもの狂いで僕を負かそうと追いかけてきてくれた。もう、一人じゃなかった。
でも、ほかのみんなは違った。
どんどんと、僕とレースに出てくれるウマ娘の数が減っていくのがわかる。
スタート地点がどんどんとまばらになって、やがて三人とか、二人とかになって。
この先予定されているレースのうちには、あまりにも誰も出走したがらないのでトレーナーが自分の知り合いのウマ娘を一人出走させなければレースが成立しなかったものもあるそうだ。
そして結局、僕はまた一人になった。
トレーナーから、内密に伝えられたことがある。前年にアメリカクラシック三冠を達成した先輩のSir Bartonさんが、僕と戦いたがっているらしい。
上手くいけば二人きりのマッチレースができるそうだ。
ただ、とトレーナーは声を潜めた。それが終わればもう戦ってくれそうなウマ娘も、でられそうなレースもない。
『引退だ、Man o' War。もうおまえと戦える敵はいない。史上最強のウマ娘は、おまえだ』
そう、むしろ誇らしいように告げる。両親たちも両手を叩いて喜んだ、我が子はこれからアメリカの競バ史に永遠にその名を残すのだと。
けっきょく、トレーナーもパパもママも最後までボクのそばにいてくれなかった。僕じゃなくて歴史の虚像だけを追いかけて、遠いどこかにいってしまった。
僕は、そんなことがやりたいんじゃないのに。
嫌だ、嫌だ。孤独なのは嫌だ。
また、あの小麦畑に帰ってきてしまった。
夕暮れの、暗い小麦の穂の海。
そのなかに、僕はひとり。
なんで、なんで、レースはこんなにも楽しいのに。
目から、涙がこぼれ落ちる。
どうして、こんなにも一人なのだろう。
◆◆◆◆◆
「無理だ、今のおまえが勝てる相手じゃない」
わたしがトラバースSに出走したいと言った時、トレーナーはにべもなかった。
顔すら上げることもなく、ただ断言した。わたしでは、今のMan o' Warに勝てない、敗北しかないのだと。
「去年のMan o' Warとはまるで違う。あの時点ですでに絶対的な世代最強だったが、まだ蛹だった。夏を越えて、Man o' Warは覚醒した。異次元の存在、神話から飛びだしてきたバケモノだ」
まるで脅えるように、トレーナーは己の体をかき抱いた。
「はっきりと言えば、オレは今のMan o' Warが怖くてしかたがない。たとえトレーナー失格と言われようと、アレと戦いたくない。オレには、その勇気がない」
「今のアレは、正しく史上最強のウマ娘だ」
わたしは、頭を深々と下げた。
「……それでも、戦わなくちゃいけないんです」
そもそもあまり才能のなかったわたしをここまで連れてきてくれたのはトレーナーだ。走るのを遅かったわたしを、大番狂わせをしてやろうと笑って一緒に戦ってくれたのはトレーナーだ。
そんなトレーナーに、一度ならず二度もわたしは無理難題を頼みこんでいる。
史上最強のウマ娘と戦わせて欲しいと、願っている。
だから、わたしはすがりつくことしかできない。
「お願いします。また、Man o' Warと戦わせてください」
暫くの後、トレーナーは力なく頭を縦にふった。
◆◆◆◆◆
ああ、ここまで。
わたしは、静かに目を細めた。
わたしのはるか先を走る、一人のウマ娘。その姿は正しく芸術品だった。
いっさいの無駄のない力の伝達、鍛え抜かれた脚部の筋肉から生みだされる伝説の英雄もかくやという怪力、そしてまるで砲弾のごとき速度。
最後に戦ったプリークネスSとは、まるで違う。
今のMan o' Warは正しく神話の領域に足を踏み入れている。
この先数百年は語り継がれるであろう、誰も夢想することすらおこがましいほどの大記録、聖なる大偉業。それが、Man o' Warだ。
ただ一人先頭を走るその姿は実に美しくて、実に勇ましくて。
……そして、実に孤独だった。
「……っ!」
わたしは、大地を固く踏みしめた。
かつてMan o' Warを唯一わたしが破ることができたサラトガ競バ場。くしくも同じ8月の大レース。
「すぅぅぅ……」
肺いっぱいまで息を吸いこむ。
ここから最終直線まで、もはや呼吸の回数は片手で数えるほどしかない。大逃げにうってでたMan o' Warに勝つための道はただひとつ。
最終直線でのよーいドンの追いこみ勝負、それしかない。
己の体を限界まで追いこむ。トレーナーに無理を言って、もう今年の残りはどのレースにも出走しない。
それはつまり、このレースでどうなるかわからないという宣言。
トレーナーは黙って、わたしの瞳をみつめてきた。それでも、わたしは退かなかった。ここで、わたしはMan o' Warと戦わなければならない。
はるかかなた、先頭を走るMan o' War。
まるで夜空に浮かぶ星のような彼女を、確かに捕らえる。最終カーブが終わり、視界が一直線にひらける。
砕けそうなほどに、歯を噛みこむ。
まるで過剰な荷重をかけられた汽車のように、ギギギと軋む音がする。
神話に挑もうと言うのだ、それぐらいの無茶はやってのけなければならない。文字通り、己の体を粉々にしてでも力を振り絞らなければ、史上最強のウマ娘は捕えられない。
そうして、わたしは命を賭けて最終直線に突入した。
◆◆◆◆◆
暗い、小麦畑にふと日の光りがさした。
顔をうつむかせながら走っていた僕は、思わず目で追ってしまう。なぜか、胸の奥があったかくなって、歓喜の思いがこぼれ落ちてくる。
「……あ」
ふと、目から涙の雫がこぼれ落ちた。
「……っ!」
遠くから、誰かの声が聞こえてくる。
心臓が、はねた。
もう、後ろを振り向かなくても誰がきたのかわかる。いつもそうだった、いつもあの人は僕に本気で勝つために勝負をしかけてきた。
その足音はお世辞にもキレイとはいえない。
疲労と肉体の限界からか乱れに乱れているし、才能の限界を感じさせる。だが、そんなことはあの人には関係ない。
勝つ、ただひたすらに己の前にいるウマ娘を追い抜いてやる。
そんな勝利への渇望が、あの日サンフォード記念Sから変わらない気迫が、背中からひしひしと伝わってくる。
腹の奥からキュッとした、酸っぱいような緊張感が、胸の高鳴りが迫ってくる。
敗北の予感が、頭をかすめる。
「はは!」
これだ、これだ。
これが、僕の求めていたものだ。どちらが勝つかわからない、己の限界を越えなければ勝つことすら許されない、極限の勝負。
忘れていた、これがレースだ。
「っあああああ!」
「くっ、あああああ!」
背後であの人が咆哮する。僕も負けじと絶叫する。
ゴール板がどんどんと近づいてくる。距離がどんどんとつめられていく。なのに、なぜかその一瞬一瞬は永遠のようにも感じられた。
恐怖と、苦痛と、歓喜と。
勝てるか、負けるか、差されるか、逃げきれるか。
魂をかけた、最終直線。
ゴール版を駆け抜けた瞬間、まるですべりこむようにしてダートに転がる。
最後の瞬間、ちらりとみえた数字は僕の一着と、レコードをタイムを示していた。
◆◆◆◆◆
1920年8月21日、サラトガ競バ場、トラヴァースS。
「このタイムはレコード、レコードです!」
その日、その場所で目にした光景を、わたしは一生忘れることはない。
天国までもっていけると言えるほど、その光景は美しかった。
きれいな快晴、青い空を背景に風にたなびく純白の雲が浮かんでいる。
「Man o' War、これで春から七連勝、年間無敗のまま! 七度目となるUpsetとの対戦も危なげなく制してみせました!」
ダートに寝転がって荒い息を整えながら、わたしはずっと天を見上げていた。
「結局、負けちゃったか」
笑う。
ふたをあけてみれば、結果は2.5バ身差の敗北。最終的な対戦結果は七戦一勝六敗となった。ボロボロなんてものじゃない、完敗である。
ライバルなんて名乗るのもおこがましい戦績だ。
「Upsetさん、今日のレースも楽しかったです」
すっと影がさす。
一人のウマ娘が、寝転がるわたしの顔をのぞきこんできていた。
美しい赤髪をなびかせて、宝石のようにキラキラと輝く黒い瞳がわたしをみつめる。
Man o' Warは今日も気恥ずかし気にはにかんでいた。
「こちらこそ、とっても熱かった。ありがとう」
二人のうちに、沈黙が漂った。
初めて会ってから、1年と19日。
七つのレース、三つの競バ場、駆けぬけた49ハロンの記憶が走馬灯のように思い起こされる。やがて、ゆっくりとMan o' Warは口をひらいた。
「今日まで、ほんとうにありがとうございました」
「……」
わたしは、なにを言っていいのかわからずに、口を閉ざす。
わたしは、Man o' Warを、彼女を孤独にさせまいとして走った。彼女に挑み、ダートの上では一人ではないのだと、教えたかった。
でも、負けてしまった。
敗者が、なにを語るというのか。
「Upsetさんには、感謝してます」
顔を上げる。
わたしが目にしたのは、眩しくなるぐらいまっすぐな瞳をした、Man o' Warだった。
「もう、大丈夫です。これから先、僕は一人じゃないって気がつきましたから。だって、たとえどんなに遠くにいってもあなたが挑んできてくれるんでしょう?」
「……もちろん」
わたしの言葉を聞いたMan o' Warが、にへらと破顔する。
「だったら、僕はもう大丈夫です」
心の底から嬉しそうな、元気でどこか憎たらしい笑顔。その笑顔を目にした時、わたしはようやく、報われたように思えた。
「僕にレースの楽しさを教えてくれたのも、僕を一人にしないでいてくれたのも、いつもあなたでした。いつもあなたは僕に全力でぶつかってきてくれて、だからこそ怖くて、嬉しかった」
思わず、目を腕で隠す。
こぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえる。
やめて欲しかった、そんな話を聞いたら泣いてしまうから。これまでのわたしの走りは、戦いは無駄じゃなかったのだと、泣いてしまうから。
「あなたこそが、僕にとって最大のライバルでした」
その言葉は、わたしにとって一生の宝物となった。
◆◆◆◆◆
Man o' Warはこの後のレースをみなレコード勝利で飾り、その年のうちに引退した。
最終戦績は21戦20勝、世界記録を3回、全米記録を2回、コースレコードを3回。
伝説の100馬身差の勝利、初代三冠馬とのマッチレースでの勝利。Man o' Warは正しくアメリカ競バ界の神話となった。史上最強のウマ娘と、なったのだ。
その一方Upsetというと、その後の歴史において評価されることはなかった。
レースを引退しトレーナーに転向したものの、育てたウマ娘に光る者はいない。
少数精鋭を掲げ、トレーナーとして育成するウマ娘の数を年に25人ほどに絞っていたにもかかわらず、後に三冠ウマ娘のWar Admiralなど数々の名ウマ娘を育てあげたMan o' Warとは対照的だ。
故に、Upsetの名はため息とともに語られる。
もしも、あの一戦でUpsetが勝っていなければ、Man o' Warが無敗のままならば、その後無謀にも幾度となく挑み続けた、あの愚かなウマ娘がいなければ。
ビッグレッドが残すことになったであろう無敗という栄光はどれほど美しく輝いていただろうか。
Upsetは燦然と輝く伝説の喉もとに刺さった、小骨のようなものだ。
そんな噂を耳にしたMan o' Warは激怒のあまり無表情となり、己の生涯のライバルの不名誉を否定しようとした。だが、さしもの伝説のウマ娘と言えども、人の口には戸は立てられない。
悲しきかな、Upsetの名にはいつも暗い影がつきまとうようになった。
だが、つらい話ばかりでもない。
実は、である。
今の今までUpsetというウマ娘を知らなかったかもしれないあなたも、知らず知らずのうちにその名を耳にしたかもしれないからだ。
Upset、という英単語は「大番狂わせ」を意味する。
Upsetがレースを走るより前の時代、たしかにその意味はあったものの、用法としてはあまり使われず、耳にすることは少なかった。
たとえば野球、たとえばサッカー、たとえばアメリカンフットボール。
これらスポーツで、誰しもが予期しなかったジャイアントキリング、勝ち目のないはずの勝負で格下が格上を打倒する展開。
それまで、これを指す英単語は定まっていなかったのだ。
だが、とある一人のウマ娘が、後に伝説となるアメリカ最強のウマ娘を打ち倒した時、そのウマ娘が名として冠していたひとつの単語は、人々の胸に入りこんだ。
中流階級が世界中で誕生し、スポーツというものが大衆とともに隆盛していくなかで、一人のウマ娘が撒いた種は、その英単語は全米に、ひいては英語圏、全世界へと広がっていった。
ヒトも、ウマ娘も、予定調和など大嫌いだ。
いつだって人々は、才能も環境もなにもかもが恵まれたエリートではなく、泥水を啜ってきたアンダードッグに己を重ね合わせる。
勝てることなどほとんどない。
それもそうだ、王道は正しいからこそ王道、正しく才能があり、努力を積み重ねたエリートは敗北しないからこそエリート。
だが。
それでも。
針の穴に糸を通すかのごとき勝機を血と汗と涙でつかみとり、薄氷の上を駆けぬけ、ゴリアテの巨人に小さな投石器で立ち向かうダビデの少年は時に現れる。
なにもかもを笑い飛ばすような大逆転が起きた時。
常識を覆す世紀の一戦を一人の観客として目撃した時。
あらゆる逆境をはねのけ、泥にまみれながらも勝利を手にした時。
人々は興奮と熱狂の中で彼女の名を口にする。
かつて偉大なるビッグレッドを打ち倒した一人のウマ娘。伝説に、神話に幾度となくぶつかり、敗れ、それでも立ち上がった不屈の挑戦者。
すなわち。
・ハクセツ
Upsetが母父の馬にグレーロードがいるのですが、この馬は戦後農林省の手で日本に種牡馬として輸入されました。このグレーロードを母父とするのが「芦毛の美人姉妹」とされたジョセツ・ハクセツの二頭。地方から中央に転入してきたハクセツはあの岡部幸雄騎手に初重賞勝利をもたらした牝馬で、スピードシンボリに想いをよせられていたという逸話も残されています。
・ニシノライデン
上で述べたグレーロードを母の母の母の母の父にもつ遠い子孫がニシノライデン。すさまじい斜行癖のある馬で、欧米で導入されていた降着制度を日本でも採用するきっかけになったとして、「降着制度の産みの親」という不名誉なあだ名があります。三冠馬シンザンの最高傑作、ミホシンザンの最後のレースの天皇賞春ではすさまじい斜行をしながらもハナ差の二着まで迫りましたが、そもそも斜行で他馬の妨害をしていたので議論の末に失格処分というなんともしまりのないオチをつけました。(ただ、1985年の有馬ではシンボリルドルフ・ミホシンザンに次ぐ三着を確保するなど優れた力を秘めた名馬でもありました)
かなり描写を盛っています。たとえば米国クラシック三冠路線がそのかたちで認識されるのはこれからもっと後の話で、初代三冠馬Sir Bartonも初めは三冠馬と認識されていませんでした。また、Upsetが大番狂わせという語義のきっかけになったというのは有名なアメリカの迷信で、現在では反証する資料も数多く残されており、否定されています(本文にもあるとおり、その語義が一般化するのに貢献した可能性はありますが)。このようにかなりフィクション混じりで書いていますので、申し訳ありませんが気をつけていただけると幸いです。