カーテンを引く綾香の背中を見つめながら、私は密かに、愛おしさで胸が震えるのを感じていた。
かつての私なら、こんな狭い部屋、こんな退屈な街、一瞬で消し去って、もっと輝かしい永遠を彼女に与えていたでしょう。
けれど今の私は、彼女が淹れてくれた少し苦いハーブティーを啜り、彼女が選んだありふれた古本を撫でることでしか、世界を繋ぎ止めることができない。
それが、こんなにも幸福だなんて。
全知なんて、本当にいらないものだったわ。
あんなものがあるせいで、私は綾香が私のために一生懸命悩んでいる顔も、ヤキモチを焼いて震える指先も、全部「予定調和」として見過ごすところだった。
今の私には、明日何が起こるか分からない。
朝、綾香がどんな表情で私を起こしてくれるのか。
お店にどんなお客さまが来るのか。
そんな些細な未知が、今の私の生きる目的になっている。
私の指で静かに光る、この歪なシルバーリング。
綾香はお守りだなんて言っているけれど、これが私をこの世界に縛り付ける最強の呪いであることを、私はちゃんと知っている。
綾香はときどき、私をここに閉じ込めていることに罪悪感を感じているみたい。
でもね、綾香。
閉じ込められているのは、私の方じゃない。
私を独占するために、自分の人生も、魔術も、魂も…全部を私に捧げて、この箱庭の番人になったあなたこそ、私の虜(とりこ)なのよ。
あなたが私を「死ぬ時は連れて行く」と言ってくれた時、私、本当に嬉しくて壊れてしまいそうだった。
私を一人にしない。私を神様に戻さない。
地獄の果てまで、あなたの執着で私を繋ぎ止めてくれる。
…なんて、甘美なプロポーズかしら。
「お姉ちゃん、おいで。もう寝る準備、できたよ」
綾香が私を呼ぶ。
その声に従って、私は彼女の腕の中に滑り込む。
かつての私は、王子様に救い出される夢を見ていたけれど。
今は、私を地の底まで連れて行こうとする、この愛しい魔女に抱かれている。
「ええ、今行くわ。…ねえ、綾香。明日の朝は、今日よりもう少しだけ、私を強く抱きしめて?」
「…もう、お姉ちゃんは我儘だなぁ」
困ったように笑いながら、それでも私の望みを全部叶えてくれる私の伴侶。
全知を失った代わりに手に入れた、この温かな指先の感触。
約束の最後の日まで、私はあなたの普通のお姉ちゃんを演じ続けましょう。
あなたが愛してやまない、この小さな日常という名の舞台の上で。
おやすみなさい、綾香。
明日も、あなたの愛という檻の中で、私は世界一幸せな女の子として目覚めるわ。
ベッドに潜り込むと、綾香の香りがシーツの奥からふわりと立ち上がって、私の心を安らかな眠りへと誘う。
以前の私なら、眠ることさえも情報の停止でしかなかった。けれど今は、綾香の腕の中で意識を溶かしていくこの時間が、何よりも贅沢な儀式のように思えるの。
「お姉ちゃん、また私の手を握ったまま寝ようとしてる…」
綾香が少し呆れたように、でも、とろけるような優しい声で呟くのが聞こえる。
私は返事をする代わりに、彼女の手のひらに自分の指を絡め、銀の指輪同士をカチリと合わせた。
いいのよ。こうしていないと、夜の闇に私が溶けて、どこか遠い場所へ帰ってしまいそうな気がするから。
全知を失った私の魂は、時折、風に舞う羽根のように頼りなくなる。
そんなとき、綾香のこの執着が、錨(いかり)のように私を現世に引き留めてくれる。
暗闇の中、綾香の眼鏡がサイドテーブルに置かれる音がした。
無防備になった彼女の瞳が、私だけを見つめている。
私は、彼女の胸元に顔を埋め、トクトクと刻まれる心臓の音に耳を澄ませた。
「綾香…。あなたは、本当に私の最高のお姫様(王子様)ね」
「…何言ってるの、お姉ちゃん。早く寝なよ、明日もお店あるんだから」
そう言って私の頭を撫でる彼女の手が、少しだけ震えている。
私を失うことを誰よりも恐れ、私を普通にするためにすべてを懸けている、愛しい私の伴侶。
私たちは、こうして何千回、何万回と、同じ夜を繰り返していくのでしょう。
外の世界で誰が死に、どんな歴史が刻まれようと、この沙条邸の結界の内側だけは、私たちが塗り替えた色で満たされている。
死が二人を分かつ時、綾香は約束通り私を連れて行ってくれる。
その時、私たちはようやく、一つの完成された物語になる。
それまでは、この続きがどこまでも続く、穏やかな停滞を楽しんでいたい。
「愛してるわ、綾香。…夢の中で待ってるわね」
「…うん。おやすみ、お姉ちゃん」
綾香の腕に力がこもる。
私は、その完璧な拘束に身を委ね、深い、深い、幸福な眠りへと落ちていった。
二人の指で、見えない銀の輪が、静かな夜の闇に溶け合っていた。
朝、カーテンの隙間から差し込む光が、綾香の長い睫毛を揺らしている。
私は少しだけ先に目を覚まして、隣で眠る愛しい人の寝顔を眺めるのが、一日のうちで最も好きな時間。
かつての私が見ていた未来には、こんな穏やかな朝の光なんて、一筋も差し込んでいなかった。
世界を朱く染め上げ、聖杯を満たし、ただ一点の目的のために突き進んでいた私は、今の私を見たらなんて言うかしら。
「…おはよう、お姉ちゃん。…また、じっと見てたでしょ」
綾香が、まだ眠気の残る声で笑いながら、私の頬に手を添える。
「おはよう、綾香。…あなたの寝顔が、あまりに可愛らしくて。ついね」
私がそう言うと、綾香は顔を赤らめて「もう、朝から…」と、私を抱きしめる腕に力を込める。
その腕の強さが、私にはたまらなく愛おしい。
私を絶対に離さないという、彼女の悲壮なまでの決意が伝わってくるから。
私たちはキッチンに立ち、並んで朝食を作る。
トースターが焼ける音、お湯の沸く蒸気、そして二人で交わす他愛もない会話。
「沙条書房」の開店準備をするために、一階へ降りる。
看板を出す必要はない。
けれど、近所のおばあちゃんが庭に咲いたお花を届けてくれたり、放課後の学生が「お姉さん、また来たよ」と顔を出したり。
そんなささやかな交流が、私の世界を少しずつ、けれど確実に色で埋め尽くしていく。
かつての私が持っていた全知という冷たい光よりも、ずっと温かく、ずっと確かな色彩で。
夕暮れ時、お店の片隅で、綾香が古い本を修繕している背中を眺める。
彼女はときどき、ふと不安そうな顔で私を振り返る。
私が、いつかこの退屈に耐えかねて、また神様の座へ帰ってしまうのではないか…そんな恐れが、彼女の瞳の奥にチラついている。
大丈夫よ、綾香。…私はもう、あの高い場所には戻れないし、戻りたくもないわ。。
私は、カウンターの下で自分の左手を見つめる。
あなたが磨き、あなたがはめてくれた、この銀の指輪。
これが、私の世界の中心。
これが、私の真実。
私たちは、明日も、その次の日も、同じように笑い、同じように愛し合う。
それは、他の誰から見れば停滞に見えるかもしれない。
けれど、私と綾香にとっては、一刻一刻が新しい奇跡の連続。
「ねえ、綾香。今夜は、修学旅行のときに買ったあのワイン、開けちゃいましょうか」
「いいね。イタリアを思い出しながら…ゆっくり飲もう」
私たちは、約束した最後の日まで、この穏やかな道を歩いていく。
死が訪れるその瞬間まで、あなたの執着に抱かれ、あなたの愛に溺れながら。
私たちはこうして、生きていく。
世界で一番残酷で、世界で一番幸福な、二人だけの日常を。
あとがき
これにて完結となります。
ここまで読んでくださった方ありがとうございました。
書けてしまったら日常や魔術関連のあれこれを投稿するかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。