あなたはファインダー越しにわたくしを見る。
 

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どうもです。


準透明人間

 

 チャイムが鳴る予兆──スピーカーが(こぼ)す咳払いのようなノイズ──が聴こえるのと同時、黒板の前に立つ数学教諭がチョークを仕舞う。前日に宿題としてあなた達に課されていた模試の過去問の解説を書き終えたところだった。

 

「授業中の解説で不明なところがあれば、質問に来るように」

 あなたは手元のプリントに視線を落とした。書き込まれた回答は、教諭が書き連ねた数式ほど教科書に忠実ではないが、大枠を外れてはいない。あなたが質問に行くことはないだろう。授業直前にあなたの回答を写した友人達も、おそらく同様である。

 

 彼に質問を投げ掛けるのは、たいてい教室の前方で机に齧り付いている女子生徒だった。真面目で勤勉だが、不器用。彼女のような人種にあなたが抱く印象はそんなところだ。むしろ、不器用であるから真面目なのかもしれない、とさえ考える。器用であれば要領よく「ズル」をして、勤勉でなくとも最低限の労力でそれなりの立ち位置を確保するだろう。あなたの友人達のように。

 ついでに、彼女もまた今日は質問に行かないだろう、とあなたは予想した。授業中に当てられた生徒が宿題をサボっていたために、教諭の機嫌は大層悪くなった。だからといって彼は生徒への指導をなおざりにはしないが、職員室へ向かう足が重くなるのも事実。

 

 いずれにせよあなたには関係がないことだ。視線と思考を打ち切った。チャイムが鳴り終わると同時に起立、形式だけを取り繕った礼をして、入れ替わりで担任が教室へ入ってくる。明日の連絡事項だけをつらつらと話して、すぐにあなた達は放課後へと解放された。

 

「マジで助かったわ。あんがと」

「はいはい」

 

 友人がプリントを翻しながら、軽く礼を述べる。あなたもわざわざ恩に着せたりはしないし、友人の小さな「ズル」を咎めたりもしない。彼はふとした拍子にあなたに飲み物を奢ったり、肩を持ってくれるからだ。これが真に公正な取引なのかはあなたには分からないが、主観的には帳尻が合っていると感じている。

 

 部活のバスケに慌ただしく向かっていく背中を見送って、あなたは教科書を片付ける。紺色のスクールバッグに、明日までの課題に使用するための化学と物理の教科書が入っていることを確かめる。七割ほど閉めたところでファスナーが一度引っかかる。ほつれた糸が噛んでいた。

 

「今日も用事?」

「うん。……宿題のこと?」

「訊きたかったけど、先生に訊くよ。引き留めてごめんね」

 

 クラスメイトに声を掛けられた。

 先程ちらりと様子を伺った女子生徒だ。

 あなたは何度か、彼女の質問に答えたことがあった。それ以来、些細な問題の解き方くらいなら、アドバイスを送るような関係となっている。彼女の机に置かれていたのは数学ではなく物理のテキストだった。

 

「明日で良ければ」

「ほんと? じゃあ、お願いするかも」

 

 教室を出て、中央に黄色く線が引かれた廊下を歩く。「右側通行」の張り紙が所々に貼られているが、ほとんど形骸化している。何せ、教師すら完全には遵守していないルールだ。

 

 あなたは下足ロッカーに上履きを預け、スニーカーに履き替えた。スポーツブランドのロゴが入った、モノクロデザインのスニーカーには「華美でない」というレッテルが貼られている。

 

 学校を出ても、学生服があなたの身分を定義する。ポリエステルとウールを混紡した黒の生地。詰襟は普段意識しない程度に息苦しい。前合わせのボタンは5つ。真鍮製らしい金色に、意匠としては校章が配されている。今すぐ記憶を喪っても、あなたが学生であったことは自明である。

 

 帰宅ラッシュの群れに混じって、あなたは20分ほど、列車に揺られていた。

 

 あなたの目的は待ち合わせだ。おおよそ週に一度、あなたはこのように「羽丘学園」を訪れている。

 校門に近付くと、吹奏楽部の練習が微かに聴こえてくる。その巧拙は、あなたには判断が付かなかった。

 

 待ち合わせの相手とはすぐに合流ができた。

 校門の角で手持ち無沙汰に揺れている彼女に手を振ると、表情がにわかに明るくなる。ターコイズの髪と、スクールバッグに下げられた勿忘草のストラップが遠目にも目立つ。

 

「待たせちゃったかな」

「いいえ、あっという間でしたわ」

「そう? でも次はもう少し急ぐよ」

 

 どちらともなく手を繋ぐ。

 彼女──豊川祥子と、あなたは恋人同士だった。

 

 

 僕があなただった頃の記憶は、たったこれだけ。

 あなたの記憶が戻り、僕があなたになれば、あなたは己を恨むだろうか。それも構わないが、謝罪を届けられないことがもどかしい。

 

 

 さて、記憶喪失に陥ったとして、その前後で僕は別人だろうか。当然ながら、人の数だけ──或いは哲学の数だけ、答えが存在する。たとえば、記憶の連続性が欠けている以上は別人だ、と見做す人がいるだろう。僕はこの意見にはかなり賛成で、僕とあなたは他人である、という見方をすることが多い。

 もちろん、同一人物であると見做す人も多いだろうと思う。それを完全に否定することはできない。僕の「自我」を他人が観測できない以上、僕の外観は以前のあなたから連続性を保っていて──つまり、会話の中で生じるエピソードの齟齬以外に、他人から僕が僕でないことを判断する要素なんて存在しないのだから。

 

 人格や嗜好は、さほど変わっていないはずだ。

 けれど、当たり前ながら、人間関係は大きく変化した。だって、覚えていないのだ。母も父も、恋人も友人も。たとえどんな関係を築いていた相手だろうと、僕にとっては初対面だ。

 家族写真にも、僕と見知らぬ他人が写っているだけだった。

 

 積み上げ直すのは苦痛だが、仕方がない。こうして人間関係のリセットのために転校もさせてもらったのだから、親族に対してくらいは努力すべきだろう。

 

 交通事故を経て別人もどきになった芳野千尋は、案外と平穏に学生生活を送っている。

 

「よしのんって、祥子ちゃんと何かあったの?」

「それ、僕に訊くの? 覚えてないよ」

「それもそっかぁ」

 

 デリカシーという概念を産道に置いてきたらしいクラスメイトが、放課後の教室で僕に尋ねた。僕が課題を終わらせてから帰るのを日課にしているのを知ってか、部活に行かずに僕の1つ前の席を我が物顔で占領している。

 彼女──千早愛音は、話題に挙げられた豊川祥子の友人だ。適当に答えても面倒なことが起こりそうだが、もしかすると、彼女がわざわざ僕に尋ねてきた時点で手遅れなのかもしれない。

 

「ともりんなら知ってるかな?」

「さあ。豊川さんにでも訊いてみればいいんじゃないか」

「それ、私が怒られない?」

 

 僕は首を横に振った。腕を枕に椅子の背もたれに顎を載せた彼女は、僕が開いたテキストに「そこ間違ってない?」と指摘する。気の抜けた言動をする割に、彼女の成績が良いことはクラスメイトの間でも有名な話だった。僕は問題を睨んでから、ミスに気がついて回答を修正した。

 

「天文部で何かあったの?」

「ううん。気になっただけ」

「今更?」

 

 僕と祥子の間にただならぬ因縁──と言うと大袈裟に聞こえる──が存在することは、同級生の中では有名な話らしかった。理由も単純で、祥子が有名人だからだ。外部生の祥子と、転校生の僕。知己の間に飛び込んできた未知が、噂好きの女子高校生の琴線に触れるのは至極真っ当なことのように思える。

 

「ずっと気になってはいたけど……ほら、よしのんと話すようになったの最近でしょ?」

「気になったままにしておいた方が良い気がするな」

「よしのんは気にならない?」

「あんまり。……他人みたいなものだから」

「祥子ちゃんが?」

「僕自身が」

 

 へぇ、と彼女は口元を歪めた。殊の外、感情が籠められた返事だったような気がして、僕は束の間、その感情の中身を推測する羽目になった。不快感? 意外性? それとも失望だったりするのだろうか。

 友人を心配しての調査だとしたら、それを他人事のようにあしらわれて不快な思いもするかもしれない。態度が良くなかったな、と内省する。

 

「千早はもう忘れたのかも知れないけど、僕は一応記憶喪失なんだよ。一年前より前のことは覚えてないし、この一年で豊川さんともほとんど話したことはない」

「分かってるって! ……でもさ、よしのんってあんまり、『記憶を取り戻したい』って感じしないよね。記憶喪失だって言われても、何が違うのかわかんないな」

「……千早はさ。『あなたは病気です。この薬を飲めば治りますが、人格が変わる副作用が出るかもしれません』って言われて、即座にその薬を飲める?」

「あー…………ごめん」

 

 理解がない、とまでは思わないが、記憶喪失というのは案外軽んじられるのだと身をもって知ることになった。僕がそれほど不自由なく日常生活を送れているように見えるからなのかもしれないし、創作の記憶喪失はあっさり治るケースが多いからかもしれない。

 創作における記憶喪失は大抵、治る前提がないと面白くなかったり苦痛だったりするけれど、生憎、現実世界には『面白さ係数』は存在しないから、僕のこれが治るのかもわからない。

 数日で直るケースも多い、と説明されてから一年が経ち、記憶喪失者としての振る舞いも板に付いてきた。治したいかは半々といったところだろう。

 

「でもさー、私は気になるな」

「野次馬は嫌われるよ」

「そうじゃなくて……見てられないんだよ、いろいろ」

「とにかく。僕は何も分からないから、何か知りたいなら豊川さんに当たってくれよ」

 

 テキストを閉じた。どうせほぼ終わりかけだ。これくらいなら家で続きをやっても構わないし、明日の朝でも間に合う。席を立って、スクールバッグを肩にかける。黒の合皮は、ほぼ新品同然だった。

 千早の顔は見なかった。彼女も何も言わなかった。

 そのまま教室を出て、談笑する後輩の一団の後方を歩く。

 

 外に出ると、夕焼けが綺麗だった。

 スマホで写真を撮る。

 道路の模様になった桜の名残を踏みつけながら家路に就く。

 

「そりゃあ、気になるさ。……僕が傷付けたんだ」

 

 考えるな。

 忘れろ。

 ……無理か。

 

 元から空っぽなんだから、これ以上忘れることは難しい。

 

 

 

 翌日も、千早はやってきた。

 部活は天文部に所属していて、その上でバンドもやっていたはずだけれど、随分暇らしい。

 

「聞いてきたよ!」

「はあ」

「祥子ちゃん以外にね」

「誰に」

「えーっと、祥子ちゃんの昔からの友達?」

 

 はぁ、と生返事。

 口が固い人達ばかりではないだろうから、こうなれば僕と彼女のかつての関係も割れているのだろう。

 

「てかさー、隠してたでしょ。記憶なくしてても、よしのんが知らないわけなくない?」

「何を聞いたか知らないけど、話すわけないことくらいわかるだろ」

「祥子ちゃんと付き合ってたこと?」

 

 黙殺する。

 こういうときは余計なことを言わないようにすべきだと学んできた。

 

「祥子ちゃんと何かあったのって、記憶失くしたあとなんじゃない?」

「……まあ、そうだけど。何があったのかは本当に知らないよ」

 

 彼女と最後に話したタイミングでは、一切の記憶がなかった。今でこそ新たな記憶を積み重ねて、ついでのように事故の当日の記憶も薄らと戻ってはいるけれど、あの日は彼女が誰かも分からなかった。

 だから仕方なかったとか、自分が悪くないと言うつもりはないのだが、実際、僕だったあなたと祥子の関係を知らない以上は何も言いようがない。

 

「名前を訊いただけ」

「あー。……あー」

「きっと、残酷なことをしたんだろうね」

 

 あの病室での出来事は、胸の中にしまっておくつもりだ。

 

「……そ、それにしても、祥子ちゃんが誰かと付き合うのって全然想像できないな〜」

「なに、恋バナをしに来たの?」

「違いますけど〜。……寄りを戻せとは言わないんだけどさ、せめて仲直りとか──」

「寄りを戻すのも仲直りをするのも、不可能だよ。わかるだろ、前の僕とは別人なんだ。……芳野千尋は、一度死んだんだよ」

 

 記憶を失うことと、命を失うことはさほど変わらないと思う。前者には可逆性があるけれど、逆に言えばそれくらいだ。

 僕が僕であることを定義するものは、肉体ではなく意識である。そして意識を育み育てるものは記憶であり経験であって、その全てを喪ったあなたは死人と変わらない。

 

「はぁ? よしのんはよしのんでしょ」

「過去の僕を知ってるやつは、そんなことを言ってくれないだろうな」

 

 千早は何かを言おうとして、かぶりを振った。

 

「千早は良い奴だよね」

「へ? ないない!」

「別に、謙遜する必要はないだろ」

 

 良い奴。そう、千早は良い奴なのだ。良い子、とか、善人と言い換えても構わない。かつての僕が、そして祥子がそうであるように。

 

「……じゃあ、そういうことだから。豊川さんを慰めるならそっちでやってくれ」

 

 そもそも、千早がやろうとしていることは無意味だ。僕と祥子は他人同士なのだから、僕が彼女の心を慰めることなどありはしない。有り得るとすれば、僕の記憶が戻ることくらいだろうか。

 

「あっ、ちょっ、待ってよ!」

「病院があるから」

「それは引き止めらんないけどぉ……」

 

 Ave Mujicaの──つまり、ときどきメディアに現れる彼女は、上手くやっているように見える。もちろん、一般人の視点からは彼女の疲労や負担を仰ぎ見ることはできないが、その辺りは友人に囲まれている彼女のことだ、外野が心配するまでもない。

 

 千早がやろうとしていることは、言わばカサブタを剥がすような所業であって、どうか冷静になって欲しいと思う。

 

 今日は空が曇っていた。

 ポケットのスマホが震える。通知を確認すると、どうでも良いラインのメッセージが表示される。

 

 駅に向かって歩き出そうとして顔を上げると、どこかで見たことがある横顔を視界に捉えた。一瞬の思考を経て思い出すのと同時、彼女が顔を上げた。

 

「あっ──祥ちゃんの……」

 

 祥子のバンドメンバーの三角さんだ。会うのは二度目だが、距離が少し離れていたからか、思い出すのに少しだけ時間がかかってしまった。

 

「豊川さんと待ち合わせ?」

「うん、そう……です。その、先日は、すみませんでした。私、本当に烏滸がましいことを……」

「え? ……ああ、気にしないで。三角さんの言う通りだと思うし、()──豊川さんに近付くつもりもないから」

 

 気まずげに顔を伏せた彼女にかける言葉も分からず、さっさと立ち去ることを腹に決める。『祥ちゃんにもう関わらないでください』なんて言われたときには面食らったものだけど、特に隔意を抱いてはいない。彼女の理屈に僕も納得しているからで、そのロジックは僕が千早の提案を拒否し続ける理由とだいたい同じだ。

 

「えっと、今日は──」

「……出くわすと気まずいから、それじゃ」

 

 気を遣ってか、何か言おうとした彼女が口を開くのと、僕がこの場を立ち去るための言葉を吐いたのがほとんど同時だった。

 彼女はずっと不安そうな顔をしていて、メディアに映る際の雰囲気とはまるで違っていた。話していると、こちらが責めているような気にさせられる。

 

 実際、彼女は責められると思っていたのだろう。僕がその選択肢を選んでも、後ろめたく思うことはないだろうし。

 

 だから、顔を上げた彼女が僕に掛けた言葉は、青天の霹靂というほかなかった。

 

「あのっ! ……少し、話せませんか」

「……僕と?」

 

 キャップの隙間から、紫の瞳が僕を見ていた。

 しばらく考えた後、僕は不承不承に頷いた。

 

 

 コマーシャルの影響で、エスプレッソとはキリマンジャロやブルーマウンテンのようなコーヒーの銘柄か、もしくはカフェラテのような飲み方の一つだと思っていた。実際には圧力をかけて濃く抽出したコーヒーのことで、砂糖を加えて、朝の活力を得るために飲むものなのだとか。

 というわけで、僕も彼女もブレンドコーヒーを注文した。

 

 喫茶店のボックスシート、それも奥まった位置で、窓から見えない席を確保する手際を見ていると、彼女は芸能人なのだと改めて思う。

 

「それで、何か困ったことでも?」

 

 早速話を切り出した。本題に絡まない会話を前置くのはあくまで、互いの親睦を深めるためであって、僕たちの関係にそういうものは必要ないだろう。

 

「祥ちゃんの私物に、写真がたくさんあって……芳野さんなら何か知ってるかなって」

「豊川さんや若葉さんには訊かなかったの?」

「祥ちゃんは、あまり訊かれたくなさそうだったから……睦ちゃんには、教えて貰えなかった。祥ちゃんか芳野さんに訊いた方が良いって」

 

 写真。テーブルの上に置いたスマホに視線を落とした。もちろん、心当たりがある。

 答えるべきか否かを少し考えてから、この程度は今更か、と結論を下す。

 

「僕が──前の芳野千尋が撮った写真じゃないかな。写真を撮るのが好きだったみたいだから。つまり、形見みたいなものなんでしょう」

「か、形見……」

「思い出は褪せていくけど、写真を見れば思い出せる。形見としては上等な部類じゃない?」

 

 写真が良いものであるほど、思い出は美化されていくような気がするけれど。それはそれで良いことなのだと思う。過去は美しいほど心を慰める。

 

 僕のスマホのライブラリにも、大量の写真が眠っている。サボりがちだったらしい日記にも、写真を撮ることについて書かれていた。画角であったり、被写体であったり、ロケーションについてであったり、メモのような走り書きが罫線を踏み越えて残っている。

 

 写真の大半は祥子が写ったものだ。

 本来は僕に向けられたものではない彼女の笑顔や日常を覗けてしまうことには罪悪感があったが、さりとて写真を消すこともできないでいる。

 

「そういうわけだから、あまり気にすることはないと思うけどね」

「そうなの、かな」

「何も言わず居なくなった人間が、今を支えてくれる人間より優先されることはないんじゃないかな」

 

 テーブルに届けられたコーヒーのソーサーの縁を撫でる。

 三角さんの言葉から、彼女が何を求めて僕に相談を寄越してきたのかを考えていた。

 

 ひどく悪辣に考えてしまえば、彼女にとって芳野千尋は邪魔なのだろう。いつまでも祥子の心に居座っている彼が目障りで、こうして探りを入れに来た。言ってしまえば、恋人の元カレがチラついてくるようなもので……この考え方は大雑把にすぎるだろうか。

 

 もしくは単に、助けを求めに来たのかもしれない。勝手な推測の話にはなるが、彼女はとにかく不安で仕方がないらしい。祥子が自分から離れていかないか、誰かが祥子の関心を惹いてしまわないか。

 既に脱落した僕は、その内心を隠しつつも不安を吐露するのに都合が良いのかもしれない。

 

 肌感では、これらの中間が彼女の目的であるような気がする。

 

 僕に思うところはない。

 三角さんを責めようとも、擁護しようとも思わない。彼女達の関係を推し量るには情報がないし、祥子がバンドメンバーに引き入れたからには、彼女にとっても大きな得と信用があるのだろうと推測できるくらいだ。

 

「……写真が気になるなら、三角さんも自分たちで撮ればいいんじゃない。上書きになるかは分かんないけど」

「え?」

「写真が残る限りは忘れないでしょ。それでも思い出して欲しくないと願うなら、新しく撮り続けて埋もれさせるしかない」

「……芳野さんは、そうして欲しくないんじゃない?」

「さぁ。他人の写真なんて、なんとも思わないだろ」

 

 三角さんは、ひどく痛ましそうに僕を見た。

 

 

 

 三顧之礼、という言葉を思い出した。

 つまり、今日も千早が僕の机の前にやってきた、ということだ。

 

「よく考えたんだけどさ、私もみんなも、今のよしのんのことを知らないでしょ? それが良くないのかもしれないな〜って」

 

 適当なことを宣うピンク頭を無視して、僕はスマホでニュース記事を眺めていた。「アルテミスⅡ」計画によって宇宙船「オリオン」から撮影された月面や地球の写真。偶然にも、自室に眠っているカメラのメーカーと同じ会社の撮影機材が使われているらしい。……まあ、世界的なシェアを持つ大企業だから、僕と同じ状況の人間はそれこそ、星の数ほど存在することだろう。

 

 昨日はあれから、フォルダに眠っている過去の写真を精算した。撮り損じたものを消去して、日付、あるいは行事ごとにフォルダを整理して。その作業に夜通しかかったものだから、寝不足で少し機嫌が悪いのを自覚している。

 

「僕が前と同じ友達を作る必要って、あると思う? つまるところ、千早とか、大人の自己満足でしょ」

「必要はないかもだけど……なんか、悲しいじゃん」

「悲しくないだろ。僕が拒絶してるならまだしも、向こうから近寄ってこないんだから」

 

 臭いものには蓋をする。見たくない存在は遠ざける。当たり前の心理だ。

 彼女達にとって、真っさらになった僕は「都合が悪い」存在なのだろう。

 

「……天文部の二人にも、こんな(はなし)してんの」

「え? あー、祥子ちゃんには、まだ……」

「そういう所は卑怯だよね。打算的だ。豊川さんにこの話題を出すと友情にヒビが入るかもしれないけど、僕を怒らせてもちょっと気まずくなるくらいだもんな」

「そんな言い方──」

「千早は良い奴だよ。僕に受け入れる気がないだけだ」

 

 千早は戸惑ったように小さく笑った。怒ってもいいのに、誤魔化す方に回る。

 八つ当たり地味たことをしている自覚はあったが、いい加減、この放課後の邪魔者には辟易していた。家で課題をやるようにするか、千早を追い払うか。

 

「そもそも千早は、豊川さんの不調を気にしてるんでしょ。一昨日も言った気がするけど、そっちで上手いことやってくれよ」

 

 スマホに視線を戻した。

 千早の反論を黙殺する体勢だ。

 通知を確認してからスマホを仕舞い、机に広げられたままのテキストをぱらぱらと捲る。

 

「祥子ちゃんのことも心配だけど──」

 

 言いかけた千早が、教室の後方に視線を向ける。からからと音を立てて、スライド式の扉が開いた。

 

「愛音、こんなところにいましたのね。この数日──」

 

 釣られて振り返ると、琥珀色の瞳と目が合った。

 千早に何か言おうとしていた、彼女の時が止まる。

 

「……千尋」

二度目(にどめ)まして、豊川祥子さん」

 

 自分でも驚くくらい冷たい言葉を吐き出した。目を丸くした彼女が僕と千早の間に視線を行き来させる。

 

「……天文部に来るのが遅いと思えば、芳野さんと話していたんですのね。わたくしに隠れて企みごと?」

「え────っと」

「クラスメイトと話してたら変かな?」

「愛音と芳野さんの組み合わせでなければ、疑ったりはいたしませんわ」

「千早には何も言ってないし、少なくとも僕は何も企んでないよ。──だって僕らは、見ず知らずの他人でしょう」

「…………そうでしたわね」

 

 やっぱり、僕は善人には程遠い。

 あなたならば、祥子を傷付けるような言葉選びはしなかった。

 今の僕は、刺々しい口調で予防線を張ることで、彼女から否定される痛みを軽減しようとしている小狡い人間だ。

 

 ついでに千早のことも突き放しておく。

 

「あのさぁ、二人は付き合ってたんでしょ?」

「……」

「いいや?」

「言葉遊びはいいから。芳野千尋と豊川祥子は、恋人同士だったんでしょ。それだったらさぁ、少しくらいは……」

 

 呆れ顔で言って、千早は言葉を切った。僕に言葉遊びのつもりはないのだけど、まあ、他人から見たらそんなものだろう。

 

「少しくらいは歩み寄ったって、良いじゃん」

「……もう手遅れですわ」

「未練たらたらの髪飾りしといてよく言うよね〜。勿忘草でしょ?」

「これは未練ではございませんわ。……些細な悪意に過ぎませんの」

「はいはい。じゃあ今日は二人で帰って。天文部の部室も閉めちゃうからね」

 

 ピシャリと言い切って、千早は足早に去っていった。本当に余計なことをしてくれる。引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、嵐のような女は消え失せてしまった。

 

 片付けかけていたテキストの残りを鞄に仕舞う。どういうわけか、祥子は一人で立ち去らずに僕のことを見ていた。

 

「何か?」

「……いえ」

 

 顔色が悪い。

 また倒れてしまわないかと心配になるくらいだった。

 

「……座ったら? 顔色が悪いけど」

「心配はご無用ですわ。……少し、思い出していただけ」

「僕が記憶を失った日のことを?」

「……ええ。それ以前から、その日までのことを」

 

 はあ、とどっちつかずな相槌を打つ。

 それじゃあ、と鞄を手に教室を立ち去ろうとすれば、彼女は黙ったまま後ろをついてきた。逸る足を抑えて、歩幅を縮める。逃げ出すのは心象が悪い。

 

「少々、お時間を頂いてもよろしくて?」

()()言ってる?」

「ええ。良い機会ですわ」

「……明日にはきっと噂になるよ」

「何か問題が?」

「きっときみは嫌だろうと思ったんだけど」

 

 祥子が僕の隣を歩いている。違和感と懐かしさが綯い交ぜになって、僕の胸中を彷徨っている。

 

 写真に写る彼女は、花のように美しかった。

 凛として立ち、花弁の重さにも頭を垂れない。

 

 隣に立つ彼女は、僕に視線を向けることもなく、ただ黙って歩いていた。

 代わりに周囲の視線を感じながら僕らは校門を通り抜け、駅の方へと向かう。

 

 靴底がアスファルトに擦れる間隔がやけに鮮明に感じ取れた。

 

「あの日のこと、覚えていらっしゃいますの?」

「事故の日のこと?」

「……ええ」

 

 少し考えてから、ありのままを答えた。

 

「きみと待ち合わせたところだけ」

「……そう」

 

 歩行者用信号が鳥の鳴き声を鳴らす。急かされるように信号を渡りながら、また黙る。

 

「では、事故の顛末は?」

「伝聞では。きみの証言なんだろうけど」

「……あなたは、通行人を庇って飛び込みましたの」

「そうらしいね」

 

 医者からも警察からも家族からも、当時の状況は伝え聞いていた。ドライブレコーダーの映像も。

 僕……あなたは他人を庇って事故に遭ったらしい。実に善人らしい最期だ。

 

「スマホを見ながら、イヤホンをつけて歩いていらっしゃる方でしたわ。少しでも周囲に注意を払っていれば、事故は起こらなかった」

 

 車側の信号無視だと聞いている。

 歩行者が責められるいわれはないはずだ。

 しかし僕は、当時の状況を覚えているわけじゃない。彼女の言葉を肯定も否定もせずに、ただ沈黙を返した。

 

「……どうして、わたくしはあなたの手を掴まなかったのでしょう。どうして、あなたはわたくしのことを忘れてしまったのでしょう。どうしてわたくしは……」

 

 僕たちは小さな公園にたどり着いた。夕暮れ時だからか、僕たちと同じような学生の姿も見える。

 花壇の前に立った彼女は、髪留めを解いた。勿忘草の意匠が施されたリボンが、彼女の手の中で揺れる。

 

「わたくしの髪の色が花のようだと褒めてくださったのも、誓いと共にこのリボンを贈ってくださったのも、写真を撮り始めたきっかけも、全て忘れてしまったのですわね」

「……そうだね」

「写真を見返しても、何も思い出せませんの?」

「理解できるだけで、思い出せはしないみたいだ。……前の僕は、きみに首ったけだったらしいね」

 

 忘れない為に写真に残す、とでも言ったのだろうか。

 

 彼女に言った通り、フォルダに残されている写真は僕の記憶を蘇らせはしなかった。

 記憶が蘇ったところで、真の意味で僕が元通りになることはないのだろうと、今では確信しているのだけれど。

 

 積み重ねた16年間と、上書きした1年と少し。以前の僕は今の僕とは違うし、今の僕に記憶が蘇っても前の僕には戻らない。今の僕が実感しているように、価値観の一部なんかはまるっきり塗り替えられてしまうのだろうが。僕は死に、あなたは蘇らない。

 

 そういう意味では、あなたが残した写真はきちんと僕の心を動かすことに成功していた。

 カメラの向こうで微笑む少女に、僕はどうしたって好感を覚えている。あなたの記憶が影響していないとも言えないけれど、それよりは幾分、外部記憶装置と化した写真の影響が大きいだろう。

 

 物語の登場人物に好意を覚えるように、僕は写真の向こうにだけ存在する過去の物語に焦がれている。

 

「首ったけ……ええ。わたくしの反射的な衝動の前に、命さえ投げ出してしまう程には」

 

 フォルダの中で、一際存在感を示していた写真を思い出した。

 勿忘草の花壇を背景に微笑む彼女の写真。あなたの写真好きとしてのオリジンだっただろうその写真と同じ場所に、僕達は立っていた。

 

「もし写真があっても、あなたはあの日のことを思い出しはしないのでしょうね。……わたくしにとって都合の悪いことなど、一つも」

 

 彼女の髪の色の花を背景に、花色の髪の彼女が立っている。

 かつてよりも少し痩せて、影がさしている。

 

「あの日、先に気づいて足を踏み出しかけたわたくしを……あなたが引き留めた。そして飛び出したあなたは──」

 

 病院送りになってこのザマ、と。

 それは知らなかった。てっきり一目散に飛び出したものとばかり。

 

 ……けれど、同じことだ。飛び出すことを選んだのはあなたで、そこにきっかけがあろうとなかろうと、他人に責任を被せられるはずもない。

 

「選んだのは僕だよ」

「承知しておりますわ。けれど、後悔せずにはいられませんの」

「きみを悲しませないがためだけに、車へ飛び出すような判断を一瞬でできるものかな」

「……最後に、目が合ったのです」

「そっか、この記憶は……」

 

 ──最期の瞬間か。

 

 花壇には「ムラサキ科ワスレナグサ属ワスレナグサ」とゴシック体で刻印された白い札が刺さっている。青紫の小さな花が、頼りなさげに揺れている。

 

 僕たちはベンチへ腰掛けた。

 精神的なものか、祥子の足元が覚束無い気がして気を遣った形だ。

 利用者が多いせいか、屋外にもかかわらずベンチは砂埃を被っていなかった。

 

 彼女の隣で、僕は深く息を吐く。

 目を瞑って考える。

 

 問うべきか黙るべきか、天秤が揺れる。

 逡巡の後、天秤はリスクのある方へと振れた。

 

「良い機会ってのは、これを伝える機会ってこと?」

「半分は。……もう半分は、恨み言を申し上げようと思っていたんですの」

「ぶつけてもらっても構わないけれど」

「いいえ、惨めになるだけですもの。……それに、あなたを前にすると、何も浮かんできませんわ」

 

 彼女は自嘲げに笑う。

 見たことがない──あなたが撮った写真の中には存在しなかった、悲喜が入り混じる表情に、視線を奪われた。

 

「愛音にはああ言いましたが、実の所、未練がないとは口が裂けても言えませんの。……恋人としても、わたくしが傷付けた幼馴染としても」

 

 あなたは、彼女にこんな表情をさせなかったのだろうか。

 きっとそうなのだろう。でなければ、あなたが撮った写真は、彼女への想いの永続性を謳うこれは、ただ自己満足の紙切れになってしまう。

 

 なんと答えるか迷っている間に、彼女は続けた。

 

「記憶が、意識が、全く同じでなくとも、わたくしはあなたにあなたの影を求めずに居られない。苦笑も、足音も、視線も、声も、あなたが芳野千尋であることをわたくしに知らしめますの」

「カタチが同じだけでも?」

「中身だって同じですわ。表れる部分が違うだけ」

「働かない中身は存在しないのと同じだよ。新しく上書きされれば、中身だって実質的には変わっていく」

「それでも──自我の連続性が途絶えたとしても、わたくしたちが積み重ねたものが無に帰すわけではございませんわ。気付かせてくださったのは、睦なのですけれど……」

 

 確かに、僕の中にはあなたが丸ごと仕舞い込まれている。彼女が言うように、内包する情報としてあなたと僕に連続性があることは否定できない。

 

 しかし、僕の中に存在するあなたの記憶は、依然として封印されたままだ。その間に僕が積み重ねた経験、体験は新たに僕を形作り、容易く僕を変えていく。

 

 プールに一滴のワインを垂らすのと、ワイングラスの水に一滴のワインを垂らすのは違うのだから。

 

「僕に芳野千尋を求めるのはオススメしないけれどね。僕は彼ほど底抜けのお人好しでも、思いやりに溢れた善人でもない。お互いに嫌な思いをするだけだ」

「……実体験ですの?」

「まあね。君だって体験したでしょう。僕たちが話すのはまだ二度目だ」

「………………ええ、そうですわね」

 

 記憶喪失を自覚した日。

 僕は彼女に名前を尋ねた。彼女はショックを受けて崩れ落ちてしまったのだけれど、言ってから、あの日のことを持ち出すのはフェアではなかったなと思い直した。あの時、彼女は僕の状態を聞きはしても受け止めてはいなかったのだろうから。

 

「結構、堪えるよ。僕へ親しげに声を掛けてくれる人達が、人違いに気が付いたように立ち去ってしまうのは」

 

 僕も彼らに同じ思いをさせているのだろう、という諦念もある。

 友人だったはずの僕が、まるで初対面のように首を傾げて名前を尋ねるのだから、溜まったものでないのだろう。だからこれはお互い様の苦痛で、それ故に距離を置いた方が幸せだと思う。

 僕が羽丘に転校した理由の一つでもあった。

 

「……今は、少しだけでもあなたのことを知りましたわ。人違いだなんて申しません」

「だからって、思い出を穢すようなことをしなくても良いと思うけどな。思い出は思い出だから美しいんだ」

「それは、わたくしがあなたに失望すると?」

「そうならないとは思えない。僕と彼は別人だと思っているけれど、君はつい今ほど、僕と彼を切り分けないと言ったばかりだ」

 

 琥珀色の瞳が揺れる。

 彼女にとって、芳野千尋が己を拒絶するという事象はどれくらいの衝撃で、どれほどの苦痛なのだろうか。僕には想像がつかない。

 

「もちろん、それはそれ、これはこれ、で解決する問題なのかもしれない。人の感情なんて結局は理屈で割り切れないものなのだから、いつかは落とし所だって生まれるだろうと思う。……そこまで耐えられればね」

 

 僕は記憶を無くしてからいくつかの哲学書を読んだ。哲学者は各々に自我を定義する思想を持ち、そのどれもが一定の強度を持った論に補強されていた。

 今の僕は、多少それらの影響も受けていることだろう。けれど結局は感情で動くし、相反する思想のグラデーションに生きているような自覚もある。

 

『理由と人格』なんかはその最たる例だった。

 人格の同一性は、心理的な継続性と連結性にのみ還元される。となれば、心理的な連続性が欠如した僕とあなたは同一ではなく、あなたが築いてきた人間関係は僕には適用されない。

 けれど僕は両親に対して半ばあなたのように振舞っているし、大袈裟に言えば、僕と祥子のこのやり取りだって、あなたとの関係を踏まえたものだ。

 

 彼女の発言だってサルトル的だと思うし、それを完全に否定はできない。……ああ、なるほど。これは確かに地獄か。

 

「……では、どうしてわたくしの誘いに乗ってくださったんですの? 今のあなたが、見ず知らずのわたくしについてきてくださるとは思えませんわ」

「僕が『芳野千尋』であることに、多少の責任感はあるからね」

「それだけですの? ……その、わたくしは、浅ましくも期待してしまいましたの。あなたが、わたくしのことを憎からず想ってくださっているのではないか、と」

 

 分岐点に立ってしまった。

 彼女の言葉を受けて、最初に思い浮かんだのはそんな感想だった。

 喜びとは裏腹に、唐突に手渡されたボールを弄ぶ容体には葛藤ばかりが滲んでいる。

 

 彼女が返答を待っている。

 僕が否と言えば、僕の日常には平穏が戻るだろう。僕は今日、あの日の事故の顛末を知った。ただそれだけでお終いだ。千早がしつこく僕に話しかけることもなくなるだろうし、三角さんに後ろめたさを覚えることもない。

 豊川祥子と芳野千尋の縁は途切れ、僕はフォルダの写真を削除する。

 

 凪いだ海に漕ぎ出すように、僕は新たな人生をやり直すのだろう。

 嵐に吹かれない代わりに、背中を押す風に帆を立てることもできないまま。

 

「僕は、」

 

 そんな道を選ばなかったのは、間違いなく、あなたが遺した写真のせいだった。たった一瞬の煌めきを、刹那に揺れる心臓を切り取った影が、白紙になった僕の心に写し出された。

 映画のヒロインに瞬間、心奪われるように。小説のセリフひとつが琴線に触れるように。白紙の心に焼き付いている。

 

「……そうだね。何も知らないはずの君のことを、好ましく思っている。僕ならぬ僕が切り取った、美しい君の微笑みに囚われている」

 

 だから、彼女から齎される好意は僕にとっての猛毒だった。致死量の青紫に、囲まれている。

 

 他人とは、愛とは、地獄である。

 彼女が慈しむのは、彼女の祈りは、彼女の愛は、かつての僕に向けられたものだ。

 僕が彼女からの愛を望むのなら、最も短絡的で簡単な道が示されている。僕が僕であることを諦めるだけで良いのだから、これほど楽な道はない。

 

「だからさ、僕は君のことを否定できない。突き放したようなことを言うくせに、こんな所までのこのことついてきているんだから、自明かもしれないけれどね。君がたとえ、真に僕のことを見てくれなかったとしても」

「では、わたくしからもあなたの勘違いを正しますわ。……わたくしは確かに、あなたに焦がれていますけれど、決して盲目的に好いているつもりはございませんの。あなたが見たわたくしの写真こそ、随分と偏っているのではなくて?」

「承知の上だよ。写真には幸せな思い出しか残らないんだから。……この一年、君を見てきた。幻想ばかりに溺れちゃいない」

 

 不機嫌な写真なんて撮らないだろう。

 そんなことは重々承知の上だ。

 泣き顔も怒りも失望も嫌悪も、写真には残らない。

 

 けれど、一年間、彼女と同じ学校に通っていたんだ。直接会話はせずとも、彼女の為人(ひととなり)を知る機会はいくらでも存在したし、僕の心はそれほど変化していない。この事象においては、だけれども。

 

「わたくしも同じですわ。……あなたのことをずっと目で追っておりましたの。今更、容易く失望など致しません。あなたは紛れもなく千尋ですわ」

 

 現実は嘘をつくと知っているのに、耳触りが良い言葉を並べる彼女の手を取りたくなる。

 

 記憶の欠落によって、僕の自我が途切れているとして。写真という外部記憶媒体を通じて、彼女への想いだけを僕があなたから引継いだとしたら。

 この感情だけは、地続きの──芳野千尋を芳野千尋たらしめるエゴの一つと言えるだろうか。

 

 だとすれば、彼女の言葉はとてつもない呪いだった。

 彼女の想いは、願いは、僕をあなたへと引き戻す引力だ。

 

「あなたがわたくしの手を取ってくださるのなら、どうか、写真を撮ってくださる?」

 

 言いながら、彼女は確信しているらしかった。ベンチから立ち上がって、スカートの裾を払う。

 罪を犯したものは地獄へ落ちる。子どもでも知っている道理だった。

 

 彼女は、僕を愛するとは言わない。僕を否定しないと述べただけで、その感情は結局、あなたに向いているのだ。

 僕を見ていると言いながら、僕にあなたのような仕草を求める。

 

 まあそれは、僕も同じか。

 

 小さな青い花に視線を向けて、それから僕の方へと振り返った彼女に向かって、僕はポケットからスマホを取り出しながら立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

「結局さ、元鞘ってやつ〜?」

「さあね」

 

 席替えで隣の席になった千早が、半目でニヤつきながら僕に話しかけた。

 早々に帰り支度を済ませて、この面倒臭いクラスメイトの視線から逃げ出す。

 

 部活へ向かう生徒の流れに乗って昇降口へ。下足へと履き替えて、校門に向かう。

 ウォーミングアップを始めた吹奏楽部の管楽器の音から逃れるように歩けば、待ち合わせの相手はすぐに見つかった。

 校門の角で手持ち無沙汰に揺れている彼女は、僕の姿をみとめるなり表情をにわかに明るくした。花色の髪と、スクールバッグに下げられた勿忘草のストラップが遠目にも目立つ。

 

 デジャビュ。薄い記憶の中の彼女と、今の彼女が重なる。

 

「待たせちゃったかな」

「いいえ、あっという間でしたわ」

 

 琥珀色の瞳が、僕を透過してあなたに微笑んだ。

 


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