鋼の錬金術師遺伝〜若き憤怒の肖像、星堕ちる夢〜 作:だいたい大丈夫
最強の眼を持つ男が、初めて見えているのに届かない敗北を知った日の記録である。
【ガンスミス『フリード』】
ここはは、現在、私の論理的思考を根底から破綻させる異常な熱量に支配されている。
床面に這いつくばる士官候補生、サイファー・グランツ。
彼を上から踏みつけているのは、店主の孫娘マリア・フリードだ。
彼女の靴底から伝わる物理的な加重は、人体の構造上、明確な苦痛を生み出すはずである。しかし、私の視覚と聴覚が捉えるサイファーの生体反応は、理屈に反して純粋な歓喜の波長を放っていた。
「で、マリア。君は士官学校の試験を受けるためにわざわざ親元からここへ出てきた。で、良いのかい?」
理解の範疇を超えている。自らの肉体が物理的に蹂躙されているこの状況下で、なぜ進路に関する質疑応答が成立するのか。私の脳髄が情報の適切な処理を完全に拒絶し始めている。
対するマリアの反応もまた、私の構築してきた常識の枠組みを容易く破壊していくものだった。
「そういう事だ。ふん、ただの変態の割には、きっちりと状況を把握するだけの頭があるらしいことをほざくじゃないか」
さらに加重が増す気配。そして、その暴力を至上の褒賞として受け入れる男の異常な知覚。
これ以上、この狂気に満ちた力学を傍観し続けるわけにはいかない。
「だが、マリア殿。そろそろいい加減に、サイファーから足をどいてやればいいのではないか?」
未来の軍人として、あるいは一個の人間として提示した至極真っ当な提案。しかし、返ってきたのは未知の言語体系に触れたかのような、理不尽極まりない反応だった。
「何を言っているのだ、貴様は。こいつはこれで喜んでいるのだろう?見ろ、このだらしない顔を。ならば私は、この変態の望みをただ叶えてやっているのだ。むしろ感謝されこそすれ、貴様に非難される謂れは全くないな」
反駁するための思考を組み立てる間すら与えられず、足元からサイファーの極彩色を帯びた歓喜が響く。
「そうだそうだー!その通りだよマリア!ああ、親友、君にはわからないのかい?君にはこの極上の愛の形が理解できないのか!」
「そういうものなのか……?」
現在に至るまで、この男の異常な生態の根源を私は微塵も理解できていない。中尉、彼とはそういう度し難い法則で動く存在なのだと、ただありのままの事象として受け入れてほしい。私に論理的な解説を求めるのは酷というものだ。
◇
当時のマリアに対する私の認識は、ただ世界の広さを知らぬ無知な少女、という一点に尽きた。
自身の能力を過信し、上を目指す野心。それ自体は評価に値する。だが、彼女はこの世界を支配する絶対的な力学を知らない。だからこそ、私は親切心から盤面のルールを提示してやることにしたのだ。
「残念ですが、マリア殿。あなたがどれほど士官学校で優秀な成績を収めようと、最終的にこの国の大総統になるのは、この『私』だとすでに決まっている。これは覆る事のない決定事項なのです」
「ゆえに、あなたがそのように上を目指して無駄な努力をしたところで、結局は人生の貴重な時間を無駄にするだけです。怪我をする前に、おとなしく田舎の実家に帰ることですね」
未来の敗北が確定している者への、これ以上ない私なりの慈悲であった。
だが、その言葉が空間に溶け込んだ直後、周囲の空気が明確に異質な成分へと変貌した。
「ほう……それは面白いことを言う。貴様は私に、真っ向から喧嘩を売っているのだな?」
「その度胸だけは買おうではないか。表に出ろ。その偉そうな減らず口に見合うだけの腕前が、果たして本物かどうか、この私が直々に確かめてやる」
私の善意による忠告は、なぜか完全なる闘争への誘いとして処理されたらしい。人間の感情の動きとはかくも非論理的で、予測不能なノイズに満ちている。
「マリア……やめときなよー。そんな野蛮なことより、それより僕をもっと踏んでいてくれよー。お願いだー」
「黙れ変態」
「黙れ変態め」
私の音声が、初めて彼女の音声と寸分の狂いなく同期した瞬間だった。
「わかりました。あなたがそこまで望むなら、その無謀な挑戦を受けて立ちましょう。で、どうしますか?剣でやりますか?それとも素手で?」
「ふん。貴様ごとき凡愚、素手で捻り潰してやるのは赤子の手をひねるより簡単だが、それではつまらん。ちょうど裏に、素振り用の模擬刀を持ってきている。それで貴様の骨の一本でも折ってやれば、少しは自分の身の程が分かるだろう」
大総統となるべく設定されたこの私へ向けて、骨を折ると堂々と宣告する人間の存在。
「おい。お前ら、血気盛んなのは勝手だが、店の近くでやるなよ。もし流れ弾……いや、流れ剣でうちの商品に少しでも傷がついたら、お前ら全員の臓器を売ってでも弁償させるからな。やるなら、誰にも迷惑のかからない遠くの空き地に行け」
「分かりました、お祖父様。では、ちょっとこの身の程知らずを躾けて、行ってまいります」
私もそれに従い、工房の外へと歩を進める。
◇
【アメストリス中央司令部 大総統執務室】
「で、大総統。結局、その決闘はどうなったのですか?」
私はあえて前置きを省き、事実のみを空間に提示した。
「のされた」
「……はい?」
「だからのされたのだよ、中尉。頭から足の先まで、完膚なきまでにな。ぐうの音も出ないほどの惨敗というやつだ」
続く沈黙。
私は湧き上がる内心の面白さを隠すことなく告げた。
「いやいや、中尉。勘違いしないでくれたまえ。相手が少女だから手加減をしたとか、そのような非合理的な考えは微塵もなかった。本気で、徹底的に叩き潰す気で挑んだのだ」
あの時の理不尽なまでの敗北感が、私の内側で鮮明な映像として再生される。
「……まさか、人間にそれほど強い個体が存在するとは、当時は思いもしなかったのだよ。世界は広い。私の想像を遥かに超える化け物が、潜んでいたというわけだ」
◇◇
【セントラル郊外の空き地】
当時の私の技量が現在と比較して決定的に劣っていたわけではない。「最強の眼」の機能は、すでに完全な状態で稼働していた。
飛来する銃弾の軌道すら見切る、神の如き知覚能力。
論理的に計算すれば、敗北の二文字など私の辞書に存在し得るはずがないのだ。
「来い!!」
「はっ!!」
私の眼は彼女の予備動作を完璧に捉え、筋肉の僅かな収縮から次の一手を完全に予測している。
「甘いわ!!」
しかし、そこに決定的な齟齬が発生していた。
彼女の踏み込みの異常な速度。そして、一切の無駄を削ぎ落とした剣の軌跡。それらが、私の肉体の物理的な処理限界を完全に凌駕しているのだ。
頭では全ての情報が可視化されているにも関わらず、神経から筋肉への伝達が決定的に追いつかないという致命的な事実。
鈍い衝撃音。
右肩の骨髄まで響くような強烈な痛みが、私の予測システムの敗北を告げている。
「ぐあっ……!」
「これで一回死んだ」
「くっ……!もう一回だ!!」
ここで諦めるという選択肢は存在しない。
「おいおい親友ー、もうそろそろいい加減にして帰ろうぜー。これ、とっくに寮の門限過ぎちまってるぞー。僕、教官に怒られるのとかマジで嫌なんだけど。怒られるならマリアに怒られたいし」
「はあ……はあ……私は……負けん……!門限など知るか!私は未来の大総統だぞ!」
何度この土に塗れたか計算も追いつかない。制服は汚れ切り、全身の細胞が警告のサインを発し続けている感覚。
「…………はあ……。はあ……貴様、いくらなんでもしつこすぎるぞ。こんなに何度も死んでおきながら立ち上がるとか、ゾンビか何かか。大体、そんなしつこい男は絶対に女に嫌われるぞ」
「はあ……、はあ……女だ男だで、今は勝負していない!!私は純粋に、貴様という個体を越えなければならないのだ!行くぞ!!!」
肺機能の限界に抗い、残された全神経を一点に研ぎ澄ませる。
その時だった。
極限まで稼働させた最強の眼が、彼女の完璧な軌道の中に生じた微小なズレを感知した。
そこだ。
「!!」
私の剣が、彼女の木剣を宙へと弾き飛ばす確かな力学的フィードバック。
――勝った。
私の脳が勝利の方程式を完了させた直後。
彼女の鼻を鳴らす音が鼓膜を叩く。
丸腰になり、一切の攻撃手段を失ったはずの彼女は、速度を落とすどころかさらに加速し、私の懐という死角へと侵入してきた。
「なっ!?」
右腕が強固に固定され、圧倒的な遠心力によって視界の天地が反転する。
背中から硬い地面に激突し、肺に溜め込んでいた空気が強制的に外部へと排出された。
仰向けに倒れ伏した私の胸元に、絶対的な重量がのしかかる。軍靴の底が、私の呼吸器系を完全に制圧しているという事実が、遅れて脳髄に届いた。
「ぐふっ……」
「ああっ!ずるいぞ親友!どうして君ばかりマリアに踏まれるんだ!僕と代われ!いや、僕も一緒に踏んでくれ!」
狂気じみた音声情報を処理し、それに反発するだけの物理的な余力は、最早一ミリも残されていなかった。
「どうやら貴様は、口だけのただの凡愚だが、ほかの凡愚よりは多少マシな『根性』らしきものが備わっているらしい。私を女だからといって舐めてかからないその姿勢だけは、まあ特別に評価してやろう」
「……それは、非常に光栄ですね」
本心からの賞賛か、ただの強がりか。自分自身の内面で発生した感情すら、正確な言語に定義することができない。
「俺はマリアを女としか思ってないよー!だから僕も踏んでー!」
「少なくとも、この横で喚いている変態よりは、貴様の方がよほど男らしいと認めてやる。ほら、さっさと立て。そして帰れ。私が軍の規律を乱すことに加担したと言われては、今後の受験に響いてひどく面倒だ」
私の自由を奪っていた圧力が不意に消え去る。
物理的な解放感と、自らの全存在を真っ向から粉砕されたという圧倒的な敗北感が入り混じる、未体験の複雑な感覚だった。
◇
全身の神経にこびりついた鈍い痛み。隣には、呑気に欠伸を繰り返すサイファーの気配だけがある。
「やれやれ……。こんな時間になっちまったよ。じゃあ裏の抜け穴を通って……って、どう考えても点呼でいなかったことは丸わかりなんだよなあ。これ、どうやって教官を誤魔化すかな。親友が腹痛でトイレから出られなくて、僕がずっと看病してたってのはどう?」
低俗な戯言は私の思考回路を素通りしていく。私はただ、先ほどの戦闘における情報処理の誤差を延々と反芻し続けていた。
「サイファー」
「ん?なんだい親友。何かいい言い訳でも思いついた?」
「あのマリアと言うのは……一体どんな女だ?」
私の音声に、隣を歩く男の気配が停止する。
「おお?おおおお?あの常に冷静沈着なキング・ブラッドレイ君にも、ついに女を欲しがる生々しい人間の本能が芽生えたのか!?いやー、青春だねえ!でもダメだぜ!あれは僕の女神だ!君には譲らないよ!」
「そういうことではない!勘違いするな変態!私は次は絶対に勝つ!!あの屈辱を晴らすためだ。そのための綿密な情報収集をしているだけだ!」
彼の歪んだ認識を完全否定する言語を発するが、伝わった気配は微塵もない。
「なるほどねー。情報収集ねー。でもさ、あの強さはあの子の凄まじい努力の賜物だぜ?毎日毎日、手の皮が破れるまで素振りしてるんだ。弱点なんてそうそう簡単には見つからないんじゃないかな」
「わかっている……。力や技で劣るなら、盤外戦術から攻めるしかないのだ。だから、例えば彼女の好きな食べ物とか……休日の過ごし方とか……好きな花とか……そういう情報が必要なのだ」
「ふーん?好きな花、ねえ……。それ、ただのプレゼントの選び方じゃない?」
「……なんだ?文句があるのか」
認識の齟齬をごまかすように、私は意識の焦点を夜空の別の星へとずらした。
「いや!なんでもないさ親友!恋する男は無敵だからね!じゃあ、せっかくの重大な規律違反だ!もうどうせ怒られるんだし、このまま街に繰り出して朝まで飲みに行くか!!」
私の中で渦巻いていた敗北のわだかまりを、わずかに前向きな何かへと変質させていく。
「…………行くか」
あの日、喉に流し込んだ安い酒の味。
大総統としてのプライドを粉砕された圧倒的な敗北。
論理的に考えれば不快感しか残らないはずのその一日が、それでもなぜか、その夜の酒の味だけはひどく美味く感じられたのだ。
◇◇
【アメストリス中央司令部 大総統執務室】
「大総統閣下」
「なんだね?中尉」
「先ほどの過去のお話ですが……夫人は、今でもそれほどまでに強いのですか?」
「私の一つ下なのだ、さすがに肉体的な体力は衰えはする。若い頃のように、何十回も私を投げ飛ばすような真似はできんよ。だが……」
思考は再び、遥かな過去から現在に至るまで続く、私と彼女の日常の力学へと飛躍する。
「殺されたくないのでね。我が家では、どのような事情があろうとも、決して夫婦喧嘩はしないという絶対の方針を貫いているのだ。私が大総統として無事に生き長らえているのは、その方針のおかげと言っても過言ではない」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
若き日のブラッドレイとマリアの決闘、そしてサイファーの暴走について、印象に残った場面があればぜひ教えていただけると嬉しいです。