魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ 作:あのさぁBOT
轟音と共に、白髪の青年――レグルスが森の奥へと吹き飛んでいく。
ラインハルトが放った蹴りは、常人であれば肉塊に変わるほどの威力だった。大気が爆ぜ、衝撃波が周囲の巨木をなぎ倒す。だが、バウンドしながら土煙を上げた男は、何事もなかったかのように立ち上がった。
「――全く、いい加減にしてくれないかなぁ! さっきから一方的に暴力を振るってさぁ、君は人の話を聞くという最低限の礼儀も持ち合わせていないわけ!? 僕は無敵なんだ! 完成された存在なんだ!! いくら君が殴りつけようと、僕の身体には傷一つ付きやしないっていい加減気付けよ! 人の話を聞かず、暴力で無理矢理ねじ伏せようだなんて、そんな野蛮なことが許されると思ってるなら、君は騎士以前に人間としての知性を疑ったほうがいいよ!」
レグルスは服についた塵を払うような動作で、不快そうに顔を歪めた。その衣服には、ラインハルトの攻撃を受けたはずの跡すら残っていない。
手ごたえがない。
ラインハルトは、自身の拳を握りしめ、冷徹に現状を分析した。
すでに何度も攻撃を叩き込んでいる。音速を超える一撃、岩盤を砕く一蹴。だが、レグルスの身体にはかすり傷一つついていなかった。
それどころか、彼の身体に触れた瞬間の感覚が異常だった。硬いのではない。殴りつけた時の感触は人体と遜色ない。だが、破れない、壊れない。
(これほどの打撃を直接受けて、無傷か)
レグルスの言う通り、彼は本当に「無敵」なのかもしれないと、ラインハルトは思い始めていた。
だが、だからといってこの男を放置することはできない。
ラインハルトの脳裏には、数分前に起きた光景が焼き付いていた。街道を走り、騎士たちを、アンタレスを乗せていた竜車が、一瞬にして跡形もなく粉砕されたあの瞬間だ。
あの圧倒的な破壊力を生み出したのは、目の前に立つ、この饒舌な男に他ならない。一振りの手で、あるいはただの小石を投げるだけで、彼は世界の断絶を強いてくる。
「君がどれほど無敵を語ろうと、その手がもたらした破壊は看過できない」
ラインハルトは拳を構えなおした。
この短い戦闘でレグルスの人となりはよく分かった。この男は「無欲」や「平穏」を標榜しながら、その実、気に入らない全てを容易く消し去る暴君だ。
「またそうやって、僕を悪者扱いして自己を正当化するわけ? 君のその独善的な正義こそが、僕の平穏を脅かす毒だってことに気づけないのかなぁ? 僕がここにいる権利、僕がここに存在し、僕の心臓が僕のためだけに動く権利を――」
レグルスの言葉が続く中、ラインハルトはふと、別の戦場へと視線を向けた。
そこには、シリウスに捕らえられたアンタレスと、それに対峙していたクルシュたちの姿がある。
「――ッ!」
ラインハルトの青い双眸が、戦慄に細められた。
視界の端で捉えた光景は、あまりにも凄惨だった。
指揮を執っていたはずのクルシュが、そして彼女を守るように立っていたヴィルヘルムが、血の海の中に崩れ落ちていた。
一人ではない。周囲の騎士たちも、まるでドミノ倒しのように地面に沈んでいる。彼らの四肢からは鮮血が噴き出し、衣服は瞬く間に赤黒く染まりきっていた。
ラインハルトは、かつてないほどの窮地に、その拳を強く握りしめた。
「――僕の僕だけに許された不可侵な権利を、君はさっきから何度も無視し続けているよね? それって僕という個人を対等な存在として認めていないってことじゃないかな。いいかい、対話というのは双方向の理解の上に成り立つものであって、君のように一方的に暴力を振るいながら視線を外すなんて行為は、慎みに対する冒涜以外の何物でもないわけ。僕がどれだけ寛容であっても、僕という存在そのものを否定されるような無礼を――」
レグルスの唇から溢れ出す、終わりのない自己愛の羅列。ラインハルトはそれを、冷徹な静寂を以て遮った。
「……悪いけど、これ以上君の独り言に付き合ってはいられないんだ」
ラインハルトが、一歩を踏み出した。
ただの足踏みで、世界の理を置き去りにしたような加速を生み出し、大気を爆ぜ、レグルスが防御の姿勢を取る暇さえ与えなかった。
「なっ――!?」
驚愕に目を見開くレグルスの正面へ、ラインハルトは一瞬で肉薄した。そして、その饒舌な口を封じるように、大きな掌で白髪の青年の顔面を鷲掴みにした。
そのままラインハルトは全身のバネを使い、腕を大きく振りかぶる。
爆発的な旋回。ラインハルトが腕を振り抜いた瞬間、レグルスの身体は、まるで投げられた小石のように重力を無視した速度で撃ち出された。
「なあああああああああああああああああああああああああああああ……!?」
無敵を標榜していた大罪司教は、情けない悲鳴を昼の空に引き去りながら、空の彼方へと豆粒のように小さくなって消えていった。
ラインハルトは、飛んでいく男に一瞥もくれず、即座に地を蹴った。
向かう先は、血の海と化したクルシュたちの戦場だ。
視界の先、両足を失いながらも凛として剣を握るクルシュの背後に、ざんばら髪の小柄な影――ライが、今まさに「主菜」を喰らわんと飛びかかろうとしていた。
「させない」
ラインハルトの身体が、音速を超えた弾丸となって、ライの側頭部へと一蹴を叩き込んだ。
「っが!? は……!?」
凄まじい衝撃波が森を揺らす。ライの身体は横方向へと強引に弾き飛ばされ、地面を何度もバウンドしながら茂みの奥へと消し飛んだ。
「――クルシュ様!」
ラインハルトはクルシュの前に降り立ち、その惨状を青い双眸に焼き付けた。クルシュやヴィルヘルム、そして周囲の騎士たちが、シリウスの権能によって共有された「両足切断」の苦痛と洗脳に喘いでいる。
「ラインハルト……ッ!」
苦悶に顔を歪めながらも、クルシュは鋭い眼光をラインハルトに向けた。
「一刻も早くフェリスを……! 彼の洗脳を解け!」
クルシュが指し示した先には、自らの血まみれの足を見つめ、うっとりとした表情で拍手を繰り返す治癒術師の姿があった。
「直ちに…!」
ラインハルトは、恍惚とした表情で地獄の調和に浸るフェリスの元へ駆けつけた。
屈み込み、その震える肩へと静かに掌を添える。
「――あ、れ……?」
フェリスの瞳から毒々しい熱狂が消え、正気の光が戻ってくる。彼は自分の目の前にあるラインハルトの顔と、そして自らの失われた両足を見て、みるみるうちに顔を蒼白に染めていった。
そして、呆然と顔を上げ、クルシュが血の池の中で座り込んでいることに気付く。
「ク、クルシュ様……? クルシュ様ぁ!!」
彼は蒼白な顔で、なりふり構わず主の元へと這い出した。主君であるクルシュを優先する、彼の騎士としての執念が、共有された苦痛さえも強引にねじ伏せていた。
「今、今行きます、クルシュ様……! 待って、待ってて、……っ!」
両手で泥を掴み、感覚の失われた脚の付け根を無様に引きずりながら、フェリスはただ一点、地面に伏せるクルシュだけを見つめて前進する。
その凄惨な姿に、ラインハルトは胸を締め付けられるような痛みを感じたが、今ここで足を止めるわけにはいかなかった。
ラインハルトは、返り血で赤黒く染まった街道を、静かな、けれど逃れようのない足取りで進んだ。
その視線の先には、包帯だらけの女――大罪司教らしき女性が、一人の少女を抱きかかえて立っていた。
「……その子を、アンタレスを放してもらおうか」
ラインハルトの声は、騎士としての冷徹な平熱を保っていた。だが、その青い双眸は、少女の絶望的な怯えを克明に捉えていた。
シリウスは、ラインハルトの要求を耳にすると、あやすような手つきでアンタレスの髪をさらに執拗に撫でた。彼女の巻かれた包帯の隙間から覗く左目が、困ったような、けれど拒絶の意志を明確に孕んだ熱を帯びて、ラインハルトを射抜く。
「ダメ。ダメですよ、剣聖さん。ごめんね、そんな無慈悲なことを言わないでください」
シリウスはラインハルトの言葉を優しく拒むと、まるで大切なものを誇示するように、アンタレスの小さな身体を自身の胸元へと壊さんばかりに抱き寄せた。
「この子は、私と、私の愛しいペテルギウスとの間に生まれた、大切で愛しい子供なのです!」
シリウスの口から放たれた言葉は、狂気の中にある種の確信を伴って響いた。
「あの人が、私のペテルギウスが、この世界に遺してくれた唯一の宝物。……私たちが分かち合った愛の結晶。それを、誰にも渡すつもりはありません。決して、離すつもりはないのです!」
彼女の全身から噴き出したドス黒い執着が、権能を通じて周囲の空気を焼き焦がす。
シリウスにとって、腕の中の少女はもはや単なる同胞ではなく、自分をこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の救いそのものとなっていた。
ラインハルトは、手に僅かな力を込めた。狂った母性と、歪んだ生存本能。それらが織りなす地獄の調和を前に、彼は世界の守護者としての冷徹な選択を、静かに、けれど確実に定めようとしていた。
彼は、返り血で赤黒く染まった街道を、静かな、けれど逃れようのない足取りで進んだ。
騎士としての冷徹な平熱を保ったまま問いかける。
「君たちの目的はなんだ。その子――アンタレスを奪還することかい?」
シリウスはアンタレスの黒髪を執拗に撫でながら、あやすような手つきで首を傾げた。
「奪還? ごめんね、そんな物騒な言い方はしないでください。私はただ、会いに来ただけなのです。私の愛しいアンタレスと……そして、あの人に」
彼女の巻かれた包帯の隙間から覗く左目が、湿った熱を帯びてラインハルトを射抜く。
「他の人たちが何を考えているのかなんて、私には関係ありません。あの方たちは、愛の共有を理解しない不純物なのですから」
シリウスはそこで言葉を切ると、先程まで溢れ出していた狂気が静まり、代わりに刃を突き付けられているような鋭い怒気がラインハルトを襲った。
「それよりも、剣聖さん。私に教えてちょうだい。その規格外の力…。……私の愛しいペテルギウスを、あの人を壊したのは、あなたですか?」
その質問が投げかけられた瞬間、ラインハルトの眼は、アンタレスの小さな身体が物理的な衝撃を受けたかのように激しく戦慄したのを正確に捉えた。
彼女はシリウスの胸元にしがみついたまま、指の骨が白くなるほど包帯を握りしめ、過呼吸に近い喘ぎを漏らしている。
ラインハルトの眼は、彼女が抱く「死に直結する絶望的な恐怖」を克明に映し出していた。
同時に、あの洞窟での光景を思い出す。自分の命を『資源』として消費し、圧倒的な暴虐を以てペテルギウスという邪精霊を最後の一片まで喰らい尽くしたアンタレスの姿を。
ラインハルトは、彼女が自ら同胞を「処理」した現場を、間違いなくその目で見ていた。
(……そうか。彼女は恐れているんだ)
彼女が自らの保身と憎悪のためにペテルギウスを殺害したという真実。
それがシリウスに伝わった瞬間、目の前の狂った慈愛が、救いようのない殺意へと反転することを彼女は理解している。
ラインハルトは、アンタレスの瞳に宿る「醜悪だが切実な生存への執着」を見つめた。
彼女が偽りの平穏を掴むために積み上げた嘘。それを見過ごすことは、騎士の正義としては正しくないのかもしれない。
だが、スバルが守ろうとした『白さ』を、そしてこの臆病な少女が心から願った『平穏』を護るために、ラインハルトは自ら事実を捻じ曲げ、騎士としての宣告として口にすることを選んだ。
「……ああ、その通りだよ」
ラインハルトは、シリウスの狂気的な視線を正面から受け止め、静かに、けれど断固として答えた。
「魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティは、僕がこの手で討ち取った」
その時、シリウスから放たれる殺気は、もはや物理的な熱量となって周囲の空気を焼き焦がした。
彼女の全身を巻く包帯が、その内側から噴き出すドス黒い怒りによってパチパチと音を立てて爆ぜる。彼女の左目が捉えているのは、愛しい夫を奪ったと宣言したラインハルトただ一人であった。
ラインハルトは、ただ静かに、けれど逃れようのない圧力を以てシリウスを見据えた。
「……そう、ですか。よくも、よくも私のペテルギウスを…ッ!!」
ジャラリ、とシリウスの腕に巻き付いた鎖が猛然と唸りを上げる。
憤怒の権能によって増幅された彼女の憎悪は、周囲に控える騎士たちの精神を再び汚染し、彼らの右肩からは共有された「痛み」の鮮血が噴き出した。
ラインハルトが踏み込もうとした、その刹那。
「――待って、お母さん!!」
悲鳴のような叫び声が、戦場の静寂を切り裂いた。
シリウスの胸元にしがみついていたアンタレスが、その細い腕で必死に彼女の包帯を掴み、ラインハルトとの間に割って入るように身を乗り出したのだ。
「アンタレス……?」
シリウスの動きが止まる。その左目に宿っていた苛烈な殺意が、一瞬にして戸惑いへと塗り替えられた。
アンタレスは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、シリウスの顔を見上げ、狂おしいほどの必死さを込めて言葉を叩きつけた。
「やめて……! お願い、やめてください!! 勝てない……あの人には絶対に勝てないんですッ!!」
彼女の言葉にあるのは、ラインハルトへの畏怖。そして、何よりも自分自身がこの戦いの余波で『死ぬ』ことへの、救いようのない根源的な恐怖であった。
「あの人は化け物なんです! 僕はこの目で見ました! 白鯨だって、ペテルギウスさんだって……あんなに簡単に……っ! お母さんがどんなに強くても、あの『正義の怪物』には届きません!!」
アンタレスの絶叫。それは彼女の本能が導き出した、最も効率的で、最も無様な生存戦略であった。彼女はシリウスの胸に顔を押し当て、子供のような、けれど冷徹な打算を含んだ懇願を続ける。
「死にたくない……僕は、死にたくない! お母さんとラインハルトが戦い始めたら、僕、絶対に巻き込まれて死んじゃう……っ!! だから、お願いします…! やめてください…!」
ラインハルトは、その言葉を静かな悲哀を以て聞き届けていた。
彼女が自分を『化け物』と呼ぶのも、自身の保身のためにシリウスを止めているのも、すべては理解している。だが、その歪んだ叫びこそが、今この場の凄惨な連鎖を食い止める唯一の鍵であることもまた、事実であった。
アンタレスの必死な、あまりにも自己中心的な、けれどそれゆえに真実味のある言葉が、シリウスの胸の内に深く浸透していく。
シリウスは、自らの胸にしがみつき、過呼吸気味に泣き喚くアンタレスの姿をじっと見つめた。
彼女の『憤怒』の権能が、アンタレスの抱く「死への絶望的な恐怖」を克明に共有させる。そのあまりにも脆い魂の震えを感じた瞬間、シリウスの全身を包んでいた炎の如き殺気が、霧が晴れるようにスッと消え失せた。
「…………ふぅ…………」
シリウスは長く、重い吐息を一つ吐き出した。
そして、赤熱していた鎖の熱を収め、震えるアンタレスの頭を、壊れ物を扱うような手つきで優しく抱きしめた。
「……そう、そうなのですね。ごめんね、アンタレス。私、自分の愛に夢中で、あなたの震えに気づいてあげられませんでした」
シリウスの声は、再び湿った、ドロリとした慈愛に満ちたものへと戻っていた。彼女はアンタレスの頬を包帯の巻かれた指で愛おしそうに撫で、甘い毒のような声音で語りかける。
「無理をさせて、本当にごめんね。……怖かったわよね? 辛かったわよね? あれを前にして、あなたがどれほど心を削り取られていたか。……ごめんね、ありがとう」
シリウスはアンタレスを優しく抱きかかえると、一度だけ、ラインハルトの方へと顔を向けた。
その左目に宿っていたのは、もはや激情ではない。それは、遠い先にある確実な『清算』を見据えた、冷徹な静寂であった。
「剣聖さん。……今日は、この子の涙に免じて、あなたを見逃してあげます」
シリウスは、うっとりとした表情で、けれど逃れようのない復讐の宣告を口にした。
「私の愛しい人を奪った罪。私たちの世界を汚した不敬。……その落とし前は、後日、必ずやお受け取りに参ります」
シリウスはそう言い残すと、アンタレスを腕に抱いたまま、ゆっくりと踵を返した。
彼女たちが闇に溶けるように戦場を去っていく様子を、ラインハルトはただ、拳を握りしめたまま見送るしかなかった。
「……アンタレス」
最強の騎士の呟きは、夜の風に吸い込まれて消えた。
彼の前には、ただ赤黒く汚れた街道と、誰にも救われなかった狂気の残滓だけが残されていた。
そして、街道に静寂が戻ったのも束の間。不浄な気配を纏った影が、再び森の奥から這い出してきた。
「――っ」
ラインハルトは即座に身を翻し、音もなく現れたその「異物」を青い双眸で射抜いた。
そこに立っていたのは、先ほどラインハルトの一蹴によって森の奥へと沈んだはずのライだった。
ライはよろよろとした足取りで歩み出ると、自らの側頭部――ラインハルトの蹴りが直撃した箇所を、細い指先でそっと押さえた。その顔には、先ほどまでの獰猛な余裕はなく、代わりに隠しきれない戦慄と、ドロリとした不気味な高揚感が入り混じっていた。
「今の僕たちじゃ、君という『美食』を味わうには、まだ足りないみたいだぁ」
ライはひび割れた声で笑い、ラインハルトを凝視した。その瞳の奥には、最強の騎士という理不尽な壁に対する、底知れない飢餓感が渦巻いている。
「でも、いいさ! 楽しみが増えたのは良いことさぁ…。君のような極上の経験が、この世界にまだ残っている……それだけで、僕たちの胃袋が喜びで震えてるんだからさぁ!!」
ライはそう叫ぶと、自らの身体を抱きしめるようにして身をよじった。
「それじゃあ、今日はこの辺で、お兄さん。次はもっとお腹を空かせてくるからさ、君を根こそぎ喰らわせておくれよぉ!!」
ライは最後に一度だけラインハルトを睨みつけると、獣のような俊敏さで踵を返し、深い森の闇へと足早に消えていった。
ラインハルトはその背中を追おうとはしなかった。
彼には、まだ警戒すべき「最悪」が残っていたからだ。ラインハルトは視線を空へと向けた。
(……レグルス。あの男は、まだ終わっていない)
ラインハルトが空の彼方まで放り投げたあの男。彼が標榜していた「無敵」が本物であるならば、あれでも彼を沈めるには至っていないはずだ。かなり遠くまで飛ばしたので、特殊な移動手段がない限り、ここまで戻って来るのに時間がかかるだろう。
念のため、ラインハルトは大気のマナの揺らぎを感じ取り、空の向こう側に潜む理不尽な暴威を警戒し続けた。
しかし、今はそれよりも優先すべきことがあった。
ラインハルトは血の海と化した街道を振り返り、倒れ伏した騎士たちの元へ駆け寄った。
「……しっかりしてくれ」
ラインハルトは、シリウスの権能によって共有された「両足切断」の苦痛と外傷に喘ぐ騎士たちの間を回り、迅速に応急処置を開始した。
彼には魔法の才能はないが、『加護』のおかげでただの応急処置でも殆どの苦痛を無くすことが出来る。
「あ……ぁ、ラインハルト、様……」
「大丈夫だ。すぐに助けが来る」
ラインハルトが騎士たちの治療に奔走していると、遠くの街道から、地を鳴らす蹄の音と、竜車の車輪が砂利を噛む音が聞こえてきた。
ラインハルトは顔を上げ、音のした方へと視線を向けた。そこには、砂煙を上げてこちらへ向かってくる数台の竜車があった。
それは、ラインハルトがあらかじめ『遠信の加護』を通じて連絡を送っていた、スバルたちの救援部隊だった。
「――おーい! ラインハルト! 無事かよ!」
先頭の地竜を巧みに操り、道案内役としてこちらへ駆け寄ってきたのは、金髪の少女――フェルトだった。
彼女はラインハルトの姿を認めると、安堵したように鼻を鳴らした。
「お前の言う通り、こいつらを案内してきたぞ!」
フェルトが指し示した後方の竜車から、弾かれたように飛び出してきたのは、ナツキ・スバルだった。
「ラインハルト! アンタレスは!? みんなは無事なのか!?」
スバルは泥にまみれた街道を走り抜け、凄惨な現場を目の当たりにして息を呑んだ。
ラインハルトは立ち上がり、救援に駆けつけた友人たちを見つめ、静かに、けれど逃れようのない事実を告げた。
「スバル……僕たちは魔女教の強襲を受け、大損害を被ってしまった。そして……申し訳ない。僕がついていながら、アンタレスを攫われてしまった」
「……攫われた? あいつらにか!? あいつは無事なのか、傷を負わされてねぇか!?」
スバルが叫ぶ。その声には、自分を裏切ったはずの大罪司教に対する、矛盾した、けれど否定しようのない執着が混じっていた。
「姿はどうだった!? どんな力を使ってアンタレスを連れて行ったんだ! 答えろ、ラインハルト!」
スバルの問いに応じたのは、ラインハルトではなかった。
フェリスの応急処置によって、辛うじて上体を起こしたクルシュだ。
「……全身を、包帯で巻いた女だった。感情と感覚を強制的に共有させる厄介極まりない権能を持っていた。あの場には『暴食』の大罪司教を名乗る者が同席していたこと、そしてあの狂気から、おそらく奴も大罪司教だ」
「……大罪司教…。『暴食』……」
スバルの顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。彼は何かに取り憑かれたような静けさで、情報の断片を咀嚼しようとしていた。
アンタレスへの執着に焼かれながらも、その奥底にある『死に戻り』の経験が、彼を不気味なほど冷静にさせている。
「そいつは、どんな奴だ。アンタレスに、何をした」
「ライ・バテンカイトスと名乗っていた。ざんばら髪の、貧相な少年の姿をしていたが、その実力は高く、まるで歴戦の戦士を相手にしているようだった。どんな力を使っているのか詳細は不明だが、白鯨に近い力を持っていると思われる」
そう言うとクルシュは、少し離れたところで並べられている「正体不明」の騎士たちを見た。その騎士たちはまるで「眠り姫」のように、目を覚ます兆しがない。
説明を聞き、ラインハルトは聖剣の柄を強く握りしめた。
「……僕の側にも、もう一人いた」
ラインハルトの言葉に、スバルの視線が戻る。
「自らを魔女教大罪司教『強欲』担当のレグルス・コルニアスだと名乗っていた男だ。見た目は平凡な青年だったが、その力は不可解を極めていた。僕の攻撃は一切通用せず、触れるものすべてを断絶する……。……僕は、その男を遠くへ引き剥がすことしかできなかった」
三人の大罪司教。
ラインハルトは、己が最強でありながら、守るべきものを守りきれなかった不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
「……。……そうか」
スバルは、不気味なほど落ち着いた様子で、ただ一言、そう応えた。その三白眼からは激情が消え、底の知れない虚無だけが、静かに横たわっている。
「わかった。……それだけ分かれば、十分だ」
スバルはラインハルトたちの顔を順番に見つめ、微かに、けれどどこか慈しむような笑みを浮かべた。そして、彼は何処か遠くを目指すような足取りで、ふらりと歩き出す。
「スバル、どこへ――」
ラインハルトが手を伸ばそうとした、その刹那だった。
スバルは懐からひどく冷酷な光を放つナイフを取り出した。
「――ッ!?」
世界の理が、ラインハルトに最大の警報を鳴らす。しかし、スバルのその動作には、ラインハルトの加護が反応すべき『敵意』も『殺気』も、欠片ほども混じっていなかった。
ただ、決まったルーチンをこなすかのような、あまりにも自然で、あまりにも落ち着いた『作業』。
「……待ってろ。今度こそ、救ってやる」
スバルは、そう独り言ちると、自らの喉元へ迷いなく刃を突き立て、そして一気に引き抜いた。
鮮血が、ラインハルトの白い騎士服に、エミリアの銀髪に、レムの顔に、無慈悲に飛び散る。
「スバルッ!!」
「スバルくん!!」
ラインハルトが彼を抱き止めた時には、すでに彼の魂の灯火は、激しく明滅し、急速にその輝きを失おうとしていた。
「ぁ……、……っ」
ドロリとした熱い感触が、ラインハルトの手のひらを濡らしていく。
彼はあの感触を確かめるように、己の手のひらを見た。そこには、今まで見たことが無いほど赤く、無慈悲な「死」がこびりついていた。まるで、騎士たちを、少女を守れなかった罰が、スバルの血となって己に刻まれたかのように。
スバルは、ラインハルトと、泣き叫ぶエミリアと、絶望に顔を歪めるレムに囲まれながら、満足げに一度だけ瞳を揺らした。
その三白眼の奥にある執念は、死の闇に呑まれる直前まで、ただ一人の少女を――あの『傲慢』を、呪縛から解き放つための『次』の盤面だけを見据えていた。
崩れ落ちる身体から、力が完全に抜け落ちる。
ルグニカの空は、誰の叫びも聞き入れぬまま、ただ静かに、一人の少年の命が尽きるのを、冷徹に見届けていた。