魔装機神ヴェネフィルディア   作:深雪ソーマ

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第三十三話 転位観測座跡

 転位観測座跡へ向かったのは、その日のうちだった。

 

 別働隊にいま必要なのは休息より先に先手だった。旧神殿跡を潰し、東の祠跡で箱を押さえたとはいえ、向こうがそれで止まるとは誰も思っていない。むしろ、最後の座が見えかけた今こそ急ぐべきだと、全員がわかっていた。

 

 北東外れへ向かう道は、これまででいちばん人気がなかった。

 

 街道から外れ、古い監視路を抜け、半ば埋もれた石段を上る。王都の外縁に近いはずなのに、景色から人の暮らしの匂いがすっと消えていく。残っているのは、風に削られた石と、長いあいだ放っておかれた施設だけだ。

 

「ほんとにこんな場所にあるの?」

 

 エリシアが前を見たまま言う。

 

「昔の観測施設って、だいたいこういうところにあるわよ」

 

 セレニアが答える。

 

「静かで、余計な干渉が少なくて、でも街から完全に切れてはいない場所」

 

「便利なんだか、不便なんだか」

 

「用途次第ね」

 

 それはそうだろう。

 

 水湊は足場の悪い石段を上りながら、胸の奥へ意識を向けた。

 

 冷たい灯は静かだった。けれど静かなだけで、無関心ではない。近づくほど、ヴェネフィスの気配が少しずつ前に出てきているのがわかる。

 

『ここ、嫌だね』

 

 ナインが影の中で言う。

 

「まだ見えてないのにか」

 

『見えてないからだよ。隠れてる感じがする』

 

 その表現は、妙にしっくりきた。

 

 やがて石段が終わり、開けた場所へ出る。

 

 そこにあったのは、塔でも神殿でもなかった。

 

 円形の石造建築だった。

 

 半分は地面に沈み、半分だけが外へ出ている。屋根は落ちているが、壁の輪郭は残っていた。中央部に向かって床がゆるく下がる構造になっていて、その形だけで“観測座”という名前に少し納得がいく。

 

「……あれか」

 

 水湊が小さく言うと、教授が短く頷いた。

 

「おそらくな」

 

 建物の周囲には、草木の代わりに白っぽい苔のようなものが広がっている。だが近づいてみると、それは自然物ではなかった。砕けた術式石の粉だ。ずっと前に崩れた観測具の残骸が風化して、そのまま地面に混じっているらしい。

 

 レオンが周囲を一周し、戻ってくる。

 

「見張りは見えん」

 

「見えないだけ、かもしれないわよ」

 

 エリシアが言う。

 

「そうだな」

 

 アッシュも否定しない。

 

 水湊は建物の正面――本来なら入口だった場所へ目を向けた。扉はもうない。代わりに、石のアーチだけが残っている。その内側の空気が、わずかに揺れて見えた。

 

 ある。

 

 今までとは比べものにならないくらい、はっきりと。

 

 綻びというには整いすぎている。

 裂け目というにはまだ浅い。

 でも確実に、向こうへ触る“面”がそこにできかけていた。

 

「……間に合った、か?」

 

 思わず漏れる。

 

 自信はまだなかった。

 

 アッシュが短く問う。

 

「見えるか」

 

「ああ。かなり」

 

「開いてる?」

 

「まだそこまでは行ってない。でも、近い」

 

 答えながら、水湊は背筋が冷えていくのを感じていた。

 

 旧貯水路跡や祭祀路の時は、綻びを追えばよかった。

 旧神殿跡では、座標を揃えかけた芯を壊した。

 でもここは違う。

 

 ここには、もともとの“座”がある。

 向こうはそれを使って、綻びではなく“面”を作ろうとしている。

 

 ベルトラン教授が建物の外縁を見上げた。

 

「観測座の基壇そのものが残っておるな」

 

「使えるんですか、そんな昔のものが」

 

 水湊が聞くと、教授は苦い顔をした。

 

「使えるようにしたのだろうよ。向こうがな」

 

 その言い方が、ひどく嫌だった。

 

 アッシュはすぐに手を打つ。

 

「レオン、外周。逃げ道を探れ。エリシアは右。リシュアとセレニアは水湊の後ろ。教授はここから先へは出すな」

 

「そこまで年寄り扱いされると傷つくのだが」

 

「傷ついていてください」

 

 セレニアが即答した。

 

 教授はぶつぶつ言っていたが、前へ出る気はないらしい。

 

 水湊は一歩、観測座の中へ踏み込む。

 

 床は円形に削られ、中央に向かって三段ほど低くなっている。昔はそこへ観測具が置かれていたのだろう。だが、いま中央にあるのは別のものだった。

 

 東の祠跡で回収した箱と、よく似た台座。

 

 そして、その台座へ噛ませるように置かれた、円環状の器具の土台だけが残っている。

 

「……遅かった、か」

 

 水湊が呟くと、リシュアが息を呑んだ。

 

「箱を運び込む前提で組まれています」

 

「でも箱はこっちにない」

 

 エリシアがすぐに言う。

 

「なら未完成よ」

 

「未完成でも十分危ない」

 

 水湊はそう返した。

 

 土台だけなのに、中央の空気はもう薄い。今にも何かが噛み合いそうな、不安定な均衡の上にある。

 

 そして、その中央の向こう側に人影があった。

 

 今度は一人だった。

 

 黒い外套でもない。王城式でも軍式でもない。長い上衣をまとった細身の男が、崩れた観測柱の影からこちらを見ている。年は、そう高くはない。三十前後に見えた。顔立ちは整っているが、その分だけ血の気の薄さが目につく。

 

「ずいぶん早かったな」

 

 男は静かに言った。

 

 前に祠跡で見た女とも、祭祀路の連中とも違う。焦りを隠してはいないが、末端の顔でもない。

 

 水湊は少しだけ目を細める。

 

「おまえが仕切ってるのか」

 

「仕切る、か」

 

 男は薄く笑った。

 

「そこまで偉くはない。ただ、ここの手順を任されていただけだ」

 

 その口ぶりだけでわかる。

 

 こいつは“運ぶだけ”の駒じゃない。

 自分が何をしているか、かなりわかった上でここにいる。

 

 アッシュが一歩前へ出る。

 

「その時点で十分だ。動くな」

 

「動かないよ」

 

 男は素直にそう言った。だが、従う気がないのも同時にわかる。

 

「もう遅いからな」

 

 その一言で、空気がわずかに張った。

 

 水湊は中央の台座を見る。

 

 たしかに箱はない。

 だが、土台は組まれている。

 箱がなくても、ここまで来ているなら――

 

「何をした」

 

 思わず声が低くなる。

 

 男は観測座の中央へ視線を落とした。

 

「代わりを置いただけだ」

 

 次の瞬間、床下で鈍い音がした。

 

 観測座の中央、台座のさらに下。そこから薄い青白い光がにじみ始める。

 

「下だ!」

 

 水湊が叫ぶ。

 

 箱を失った向こうは、別の何かをもうここへ噛ませていたのだ。

 

 リシュアが即座に術式糸を走らせる。エリシアの光が男へ向かう。だが男は避けるでもなく、片手を上げて中央の台座を示した。

 

「止められるなら止めてみろ」

 

 その挑発と同時に、中央の面がふっと波打った。

 

 綻びではない。

 裂け目でもない。

 円形の水面みたいな揺れが、空中に一瞬だけ生まれる。

 

 水湊の背筋が粟立つ。

 

 向こう側がある。

 

 まだ完全には開いていない。

 けれど、その“面”の向こうに、何か別の位相が確かに触れてきている。

 

 胸の奥へ、強い意志が落ちる。

 

 壊せ。

 

 ヴェネフィスだった。

 

 迷っている暇はなかった。

 

「同調《シンク》――中位接続!」

 

 白銀の光輪が開く。

 

 ヴェネフィルディアの上半身と背部フレームの一部が観測座の内側へ噛み合い、部屋そのものが低く震える。

 

 水湊は中央の面へ白銀の腕を向けた。狙うのは面そのものじゃない。その下で噛み合っている土台だ。そこを壊さなければ、この揺れは何度でも立ち上がる。

 

 男がそこで初めて顔色を変えた。

 

「その精霊機……っ」

 

 言い終わる前に、エリシアの光が男の足元を払う。レオンが横から回り込み、逃げ道を切る。アッシュは一歩で間合いを詰め、観測座の縁から男を中央へ近づけない。

 

「水湊!」

 

 アッシュの声が飛ぶ。

 

「中央だけ見ろ!」

 

「わかってる!」

 

 白銀の指先を、床下の噛み合わせへ沈める。

 

 重い。

 

 今まででいちばん重い。

 

 古い観測座の基壇。

 向こうが差し込んだ代替核。

 綻びから引いてきた細い筋。

 それら全部が、ここで一つに揃おうとしている。

 

『右下!』

 

 ナインが叫ぶ。

 

『そこが噛み合わせの芯!』

 

 水湊は白銀の腕をわずかにずらし、台座の右下へ指先を突き込んだ。

 

 その瞬間、中央の面が大きく揺れる。

 

 波紋の向こうに、一瞬だけ何かが見えた。

 

 風景ではない。

 形でもない。

 ただ、こちらとは違う密度の暗さ。

 

 それだけで十分、ぞっとする。

 

「見てる場合じゃない!」

 

 自分に言い聞かせるように吐き出し、白銀の指先をさらに深く押し込む。

 

 ぶつり、と嫌な音がした。

 

 床下の何かが割れる。

 

 中央の面が歪み、青白い光が一気に濁る。周囲の観測柱が連鎖するようにひび割れ、床に走っていた細い術式線も黒く焼けた。

 

「まだ!」

 

 リシュアが叫ぶ。

 

 たしかに終わっていない。揺れは弱まったが、まだ残っている。

 

 男がその隙に何かを取り出しかけ、レオンの短剣がそれを弾き飛ばした。

 

「余計なことをするな」

 

 その声には珍しく、はっきりした怒気があった。

 

 アッシュが男の腕をねじり上げる。

 

「水湊、決めろ!」

 

 胸の奥へ、もう一度意志が落ちる。

 

 深く。

 

 ヴェネフィス。

 

 水湊は息を詰めた。

 

 もう一段だけ踏み込む。

 向こう側を覗くためじゃない。

 ここを“面”として保っている芯を、完全に砕くために。

 

 白銀の腕が、床下のさらに奥へ届く。

 

 次の瞬間、観測座全体が大きくきしんだ。

 

 中央の面が内側から折れ、ガラスのように無数の光片へ砕け散る。散った光は床へ落ちる前に消え、その場には乾いた静けさだけが残った。

 

 遅れて、建物全体が一度だけ大きく揺れる。

 

「下がれ!」

 

 アッシュの声で全員が一歩引く。だが崩落は起きない。ひび割れた観測柱の破片が少し落ちただけで、揺れはすぐに止まった。

 

 静かになる。

 

 本当に、急に。

 

 水湊はその場で浅く息をついた。中位接続を解くと、白銀の輪郭が薄れていく。途端に、全身が少し重くなった。

 

 エリシアが顔をしかめる。

 

「……毎回思うけど、やりすぎなのよ」

 

「そこまで加減できる余裕がないんだよ」

 

「それが心配だって言ってるの」

 

 その返しに、少しだけ笑いそうになる。笑っている場合じゃないが、いつもの調子が戻るだけで少し助かる。

 

 アッシュは男を押さえたまま、中央の割れた台座を見た。

 

「止まったな」

 

 リシュアが術式板を確認し、強く頷く。

 

「はい。観測座としての機能も、向こうが組んだ術も、両方とも落ちています」

 

 ベルトラン教授が、壊れた中央を見下ろした。

 

「完全に潰したな」

 

「そのつもりでやった」

 

 水湊が答えると、教授は一度だけ頷く。

 

 それで十分だった。

 

 男はアッシュに押さえられたまま、中央の割れた床を見ていた。さっきまでの薄い笑みはもうない。ただ、悔しさとも焦りともつかない色が、その目の奥に沈んでいる。

 

「終わりじゃない」

 

 男がぽつりと言った。

 

 誰もすぐには返さない。

 

「それは知ってる」

 

 やがて水湊が言うと、男は初めてこちらを見た。

 

「でも、ここは終わらせた」

 

 その一言だけで十分だと思えた。

 

 綻びを作り、輪を断ち、箱を押さえ、最後の座を潰した。

 これで全部終わりではない。

 それでも、向こうが今夜やろうとしていたことは、ここで止めた。

 

 その事実は消えない。

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