転位観測座跡へ向かったのは、その日のうちだった。
別働隊にいま必要なのは休息より先に先手だった。旧神殿跡を潰し、東の祠跡で箱を押さえたとはいえ、向こうがそれで止まるとは誰も思っていない。むしろ、最後の座が見えかけた今こそ急ぐべきだと、全員がわかっていた。
北東外れへ向かう道は、これまででいちばん人気がなかった。
街道から外れ、古い監視路を抜け、半ば埋もれた石段を上る。王都の外縁に近いはずなのに、景色から人の暮らしの匂いがすっと消えていく。残っているのは、風に削られた石と、長いあいだ放っておかれた施設だけだ。
「ほんとにこんな場所にあるの?」
エリシアが前を見たまま言う。
「昔の観測施設って、だいたいこういうところにあるわよ」
セレニアが答える。
「静かで、余計な干渉が少なくて、でも街から完全に切れてはいない場所」
「便利なんだか、不便なんだか」
「用途次第ね」
それはそうだろう。
水湊は足場の悪い石段を上りながら、胸の奥へ意識を向けた。
冷たい灯は静かだった。けれど静かなだけで、無関心ではない。近づくほど、ヴェネフィスの気配が少しずつ前に出てきているのがわかる。
『ここ、嫌だね』
ナインが影の中で言う。
「まだ見えてないのにか」
『見えてないからだよ。隠れてる感じがする』
その表現は、妙にしっくりきた。
やがて石段が終わり、開けた場所へ出る。
そこにあったのは、塔でも神殿でもなかった。
円形の石造建築だった。
半分は地面に沈み、半分だけが外へ出ている。屋根は落ちているが、壁の輪郭は残っていた。中央部に向かって床がゆるく下がる構造になっていて、その形だけで“観測座”という名前に少し納得がいく。
「……あれか」
水湊が小さく言うと、教授が短く頷いた。
「おそらくな」
建物の周囲には、草木の代わりに白っぽい苔のようなものが広がっている。だが近づいてみると、それは自然物ではなかった。砕けた術式石の粉だ。ずっと前に崩れた観測具の残骸が風化して、そのまま地面に混じっているらしい。
レオンが周囲を一周し、戻ってくる。
「見張りは見えん」
「見えないだけ、かもしれないわよ」
エリシアが言う。
「そうだな」
アッシュも否定しない。
水湊は建物の正面――本来なら入口だった場所へ目を向けた。扉はもうない。代わりに、石のアーチだけが残っている。その内側の空気が、わずかに揺れて見えた。
ある。
今までとは比べものにならないくらい、はっきりと。
綻びというには整いすぎている。
裂け目というにはまだ浅い。
でも確実に、向こうへ触る“面”がそこにできかけていた。
「……間に合った、か?」
思わず漏れる。
自信はまだなかった。
アッシュが短く問う。
「見えるか」
「ああ。かなり」
「開いてる?」
「まだそこまでは行ってない。でも、近い」
答えながら、水湊は背筋が冷えていくのを感じていた。
旧貯水路跡や祭祀路の時は、綻びを追えばよかった。
旧神殿跡では、座標を揃えかけた芯を壊した。
でもここは違う。
ここには、もともとの“座”がある。
向こうはそれを使って、綻びではなく“面”を作ろうとしている。
ベルトラン教授が建物の外縁を見上げた。
「観測座の基壇そのものが残っておるな」
「使えるんですか、そんな昔のものが」
水湊が聞くと、教授は苦い顔をした。
「使えるようにしたのだろうよ。向こうがな」
その言い方が、ひどく嫌だった。
アッシュはすぐに手を打つ。
「レオン、外周。逃げ道を探れ。エリシアは右。リシュアとセレニアは水湊の後ろ。教授はここから先へは出すな」
「そこまで年寄り扱いされると傷つくのだが」
「傷ついていてください」
セレニアが即答した。
教授はぶつぶつ言っていたが、前へ出る気はないらしい。
水湊は一歩、観測座の中へ踏み込む。
床は円形に削られ、中央に向かって三段ほど低くなっている。昔はそこへ観測具が置かれていたのだろう。だが、いま中央にあるのは別のものだった。
東の祠跡で回収した箱と、よく似た台座。
そして、その台座へ噛ませるように置かれた、円環状の器具の土台だけが残っている。
「……遅かった、か」
水湊が呟くと、リシュアが息を呑んだ。
「箱を運び込む前提で組まれています」
「でも箱はこっちにない」
エリシアがすぐに言う。
「なら未完成よ」
「未完成でも十分危ない」
水湊はそう返した。
土台だけなのに、中央の空気はもう薄い。今にも何かが噛み合いそうな、不安定な均衡の上にある。
そして、その中央の向こう側に人影があった。
今度は一人だった。
黒い外套でもない。王城式でも軍式でもない。長い上衣をまとった細身の男が、崩れた観測柱の影からこちらを見ている。年は、そう高くはない。三十前後に見えた。顔立ちは整っているが、その分だけ血の気の薄さが目につく。
「ずいぶん早かったな」
男は静かに言った。
前に祠跡で見た女とも、祭祀路の連中とも違う。焦りを隠してはいないが、末端の顔でもない。
水湊は少しだけ目を細める。
「おまえが仕切ってるのか」
「仕切る、か」
男は薄く笑った。
「そこまで偉くはない。ただ、ここの手順を任されていただけだ」
その口ぶりだけでわかる。
こいつは“運ぶだけ”の駒じゃない。
自分が何をしているか、かなりわかった上でここにいる。
アッシュが一歩前へ出る。
「その時点で十分だ。動くな」
「動かないよ」
男は素直にそう言った。だが、従う気がないのも同時にわかる。
「もう遅いからな」
その一言で、空気がわずかに張った。
水湊は中央の台座を見る。
たしかに箱はない。
だが、土台は組まれている。
箱がなくても、ここまで来ているなら――
「何をした」
思わず声が低くなる。
男は観測座の中央へ視線を落とした。
「代わりを置いただけだ」
次の瞬間、床下で鈍い音がした。
観測座の中央、台座のさらに下。そこから薄い青白い光がにじみ始める。
「下だ!」
水湊が叫ぶ。
箱を失った向こうは、別の何かをもうここへ噛ませていたのだ。
リシュアが即座に術式糸を走らせる。エリシアの光が男へ向かう。だが男は避けるでもなく、片手を上げて中央の台座を示した。
「止められるなら止めてみろ」
その挑発と同時に、中央の面がふっと波打った。
綻びではない。
裂け目でもない。
円形の水面みたいな揺れが、空中に一瞬だけ生まれる。
水湊の背筋が粟立つ。
向こう側がある。
まだ完全には開いていない。
けれど、その“面”の向こうに、何か別の位相が確かに触れてきている。
胸の奥へ、強い意志が落ちる。
壊せ。
ヴェネフィスだった。
迷っている暇はなかった。
「同調《シンク》――中位接続!」
白銀の光輪が開く。
ヴェネフィルディアの上半身と背部フレームの一部が観測座の内側へ噛み合い、部屋そのものが低く震える。
水湊は中央の面へ白銀の腕を向けた。狙うのは面そのものじゃない。その下で噛み合っている土台だ。そこを壊さなければ、この揺れは何度でも立ち上がる。
男がそこで初めて顔色を変えた。
「その精霊機……っ」
言い終わる前に、エリシアの光が男の足元を払う。レオンが横から回り込み、逃げ道を切る。アッシュは一歩で間合いを詰め、観測座の縁から男を中央へ近づけない。
「水湊!」
アッシュの声が飛ぶ。
「中央だけ見ろ!」
「わかってる!」
白銀の指先を、床下の噛み合わせへ沈める。
重い。
今まででいちばん重い。
古い観測座の基壇。
向こうが差し込んだ代替核。
綻びから引いてきた細い筋。
それら全部が、ここで一つに揃おうとしている。
『右下!』
ナインが叫ぶ。
『そこが噛み合わせの芯!』
水湊は白銀の腕をわずかにずらし、台座の右下へ指先を突き込んだ。
その瞬間、中央の面が大きく揺れる。
波紋の向こうに、一瞬だけ何かが見えた。
風景ではない。
形でもない。
ただ、こちらとは違う密度の暗さ。
それだけで十分、ぞっとする。
「見てる場合じゃない!」
自分に言い聞かせるように吐き出し、白銀の指先をさらに深く押し込む。
ぶつり、と嫌な音がした。
床下の何かが割れる。
中央の面が歪み、青白い光が一気に濁る。周囲の観測柱が連鎖するようにひび割れ、床に走っていた細い術式線も黒く焼けた。
「まだ!」
リシュアが叫ぶ。
たしかに終わっていない。揺れは弱まったが、まだ残っている。
男がその隙に何かを取り出しかけ、レオンの短剣がそれを弾き飛ばした。
「余計なことをするな」
その声には珍しく、はっきりした怒気があった。
アッシュが男の腕をねじり上げる。
「水湊、決めろ!」
胸の奥へ、もう一度意志が落ちる。
深く。
ヴェネフィス。
水湊は息を詰めた。
もう一段だけ踏み込む。
向こう側を覗くためじゃない。
ここを“面”として保っている芯を、完全に砕くために。
白銀の腕が、床下のさらに奥へ届く。
次の瞬間、観測座全体が大きくきしんだ。
中央の面が内側から折れ、ガラスのように無数の光片へ砕け散る。散った光は床へ落ちる前に消え、その場には乾いた静けさだけが残った。
遅れて、建物全体が一度だけ大きく揺れる。
「下がれ!」
アッシュの声で全員が一歩引く。だが崩落は起きない。ひび割れた観測柱の破片が少し落ちただけで、揺れはすぐに止まった。
静かになる。
本当に、急に。
水湊はその場で浅く息をついた。中位接続を解くと、白銀の輪郭が薄れていく。途端に、全身が少し重くなった。
エリシアが顔をしかめる。
「……毎回思うけど、やりすぎなのよ」
「そこまで加減できる余裕がないんだよ」
「それが心配だって言ってるの」
その返しに、少しだけ笑いそうになる。笑っている場合じゃないが、いつもの調子が戻るだけで少し助かる。
アッシュは男を押さえたまま、中央の割れた台座を見た。
「止まったな」
リシュアが術式板を確認し、強く頷く。
「はい。観測座としての機能も、向こうが組んだ術も、両方とも落ちています」
ベルトラン教授が、壊れた中央を見下ろした。
「完全に潰したな」
「そのつもりでやった」
水湊が答えると、教授は一度だけ頷く。
それで十分だった。
男はアッシュに押さえられたまま、中央の割れた床を見ていた。さっきまでの薄い笑みはもうない。ただ、悔しさとも焦りともつかない色が、その目の奥に沈んでいる。
「終わりじゃない」
男がぽつりと言った。
誰もすぐには返さない。
「それは知ってる」
やがて水湊が言うと、男は初めてこちらを見た。
「でも、ここは終わらせた」
その一言だけで十分だと思えた。
綻びを作り、輪を断ち、箱を押さえ、最後の座を潰した。
これで全部終わりではない。
それでも、向こうが今夜やろうとしていたことは、ここで止めた。
その事実は消えない。