異世界不倫理教育講座 作:はい。
「返せェ!」
夜のスラム街に、フェンの絶叫が響いた。
路地を歩く男たちが、ぎょっとして振り返る。 酔っ払いが酒瓶を抱えたまま固まる。 道端で眠っていた野良犬が、面倒くさそうに片目を開ける。
その中心で、フェンは片手を差し出していた。
「リィリ。今すぐ。優しく。丁寧に。オレの白金貨を返しなさい」 「…………」
リィリは無表情だった。 小さな手の中には、フェンの白金貨がある。 月明かりを受けて、きらきらと輝いていた。
「お前なァ、さっき教えただろ? 欲しいモンは欲しいって顔した瞬間に負けだって。なのに何で三歩で実践してんの? 吸収早すぎない? 先生ちょっと怖いんだけど」 「…………」
リィリは白金貨をじっと見た。 それからフェンを見た。 そして、ゆっくりと白金貨を自分の外套の中へしまおうとした。
「しまうなァ!」
フェンは慌てて白金貨を取り返した。 リィリは抵抗しなかった。 ただ、取られた白金貨を名残惜しそうに見つめている。
「チッ。いいか、弟子一号。盗みの腕は悪くねェ。だが盗む相手が最悪だ。師匠から盗む弟子がどこにいる」 「…………」 「いや、いるな。むしろ物語的には結構いるわ。師匠の技を盗んで成長するヤツ。けどなァ、金を盗むのは違うだろ。技を盗め、技を」 「…………」
リィリは少し考えるように瞬きをした。 そして、フェンの袖をつまんだ。
「ア?」 「…………」
リィリはフェンの指先を見ていた。 先ほど白金貨を取り返した手つき。 無駄がなく、素早く、けれどリィリの手首を痛めないように力が抜かれていた。
「……お前、今のを見てたのか」
リィリはこくりと頷いた。
「へェ」
フェンの口角が上がる。
「いいねェ。観察眼がある。悪党に必要なのは腕力じゃねェ。まず目だ。相手がどこを見るか、何を隠すか、何を欲しがるか。それが分かれば、半分勝ったようなモンだ」
フェンはそう言ってから、リィリの頭をわしわし撫でた。
「ただし、師匠の金は盗むな」 「…………」 「そこは頷けよ」
リィリは頷かなかった。
「前途多難すぎる」
フェンは深いため息をついた。 だが、顔は少し笑っていた。
リィリを拾った。 弟子にした。 立派な悪党に育てると宣言した。
自分で言っておいてなんだが、意味が分からない。 フェンは基本的に面倒事が嫌いだった。 特に子供など、うるさい、弱い、よく転ぶ、そして勝手に懐く。 最低の生き物である。
しかし、リィリはうるさくない。 泣かない。 転んでもたぶん黙って立つ。 それでいて、白金貨を三度盗もうとした。
素材としては悪くない。 善性が腐るほど邪魔だが、そこは教育でどうにかするしかない。
「よし」
フェンはリィリの手を引いた。
「第二講義だ」 「…………」 「不倫理教育その二。悪党は、まず身だしなみから」
リィリは首をかしげた。
「その顔は『悪党と身だしなみに何の関係が?』って顔だな。甘い。甘すぎる。三日前の粥くらい甘い」
フェンは鼻を鳴らす。
「臭ェヤツは警戒される。汚ェヤツは見下される。見下されるのは利用できるが、常に見下される必要はない。悪党ってのはなァ、必要な時だけ弱そうに見せるんだ。普段から汚いと、ただの貧乏人だろうが」 「…………」 「だから風呂だ。まずお前を洗う」
リィリは自分の腕を見下ろした。
泥。 煤。 乾いた血。 どこからどこまでが肌なのか、よく分からない。
「…………」
リィリはフェンを見上げた。 その顔には、わずかながら警戒があった。
「おいおい、今さら警戒すんの? チンピラ相手に無表情だったくせに、風呂で警戒すんの? 基準どうなってんだよ」
フェンは肩をすくめた。
「安心しろ。オレは悪党だが、趣味は悪くねェ。女児の風呂を覗くほど落ちぶれてない。洗うのは婆さんに頼む」 「…………」
リィリは少しだけ力を抜いた。
「今ので安心したのか? ならお前、結構ちゃんとした感性してるな。よし。そこは伸ばさない方向でいこう」
そんなことを言いながら、フェンはスラムの外れへ向かった。
スラムには、何でもある。酒場、賭場、娼館、闇市、質屋、薬屋、祈祷師、偽祈祷師、偽祈祷師を騙す本物の詐欺師。そして、風呂屋もある。
ただし綺麗な風呂屋ではない。看板は半分割れているし、入口の布は薄汚れている。湯気と一緒に、薬草と獣脂と怪しい香油の匂いが混ざって漂っていた。
店の名は、灰猫湯。スラムの住人がたまに身ぎれいになるための場所であり、同時に、盗品の受け渡しや密談にもよく使われる。湯気がある場所では、声も顔もぼやける。悪党にとって風呂とは、体を洗う場所であると同時に、嘘を洗い流さない場所でもあった。
「おやおや、誰かと思えばフェンじゃないか」
番台に座っていた老婆が、しわだらけの顔を上げた。 片目に白い濁りがあり、指には古い火傷の跡がある。
名をマルタという。 昔は王都の貴族相手に湯屋を仕切っていたらしいが、今はスラムで安酒を飲みながら余生を燃やしている。
「よう、婆さん。相変わらず死に損なってんなァ」 「お前も相変わらず口が腐ってるね」 「口だけで済んでるなら上等だろ」 「で、その泥人形は何だい」
マルタの視線がリィリへ向く。 リィリはフェンの後ろに隠れなかった。 ただ、じっとマルタを見上げている。
「拾った」 「犬か猫みたいに言うんじゃないよ」 「犬猫の方がまだ自分で毛づくろいする」 「ひどい師匠だね」 「まだ師匠って言ってねェだろ」 「顔に書いてあるよ。面倒なのを拾って、ちょっと嬉しいってね」 「目玉腐ってんのか?」
マルタはけらけら笑った。
「その子を洗えばいいのかい」 「あァ。全身。髪も。服は燃やせ」 「服まで燃やしたら着るものがないだろ」 「そこらの布でも巻いとけ」 「女の子に?」 「……じゃあ適当に買う」 「最初からそう言いな」
マルタは番台の下から木札を二枚取り出した。
「子供ひとり、洗い賃込み。銀貨二枚」 「高ェよ」 「髪に虫がいたら銀貨三枚」 「足元見すぎだろ」 「お前の足元には金が落ちてそうだからね」 「落ちてねェよ。落としてたまるか」
フェンは舌打ちし、銀貨を一枚だけ弾いた。 マルタはそれを空中で掴む。
「足りないね」 「今ので十分だろ」 「洗い賃が入ってない」 「弟子が自分で洗う」 「この子が?」 「あァ。教育だ」
フェンはリィリの肩に手を置いた。
「いいか、リィリ。悪党は自分の始末を自分でする。汚れたら洗う。血がついたら落とす。証拠が残るなら燃やす。全部他人任せにするヤツは、最後に他人に売られる」 「…………」
リィリはこくりと頷いた。
「ただし、髪だけは婆さんに任せろ。絡まった髪を無理に解くと痛ェからな」 「…………」
リィリはフェンを見上げた。 その瞳に、ほんの少しだけ不思議そうな色が浮かぶ。
「何だよ」 「…………」 「優しい? 違ェよ馬鹿。痛いと暴れるだろ。暴れると洗いにくい。洗いにくいと時間がかかる。時間がかかるとオレが暇になる。つまり合理性」 「…………」
リィリは納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
マルタがまた笑う。
「はいはい。合理性ね。じゃあ、合理的に服も買ってやりな」 「分かってるよ」
フェンは懐から銀貨をもう一枚取り出し、番台に置いた。 マルタはそれを拾いながら、目を細めた。
「お前さんが子供を連れてくる日が来るとはね」 「連れてきたんじゃねェ。拉致に近い」 「なお悪いよ」 「悪党だからな」 「悪党はそんな顔で子供の手を握らないもんだ」
フェンは自分の手を見た。 リィリの小さな手が、まだそこにあった。 いつの間にか、ぎゅっと握られている。
「……逃げないようにだ」 「へえ」 「本当だぞ」 「へええ」 「その顔やめろ。殴るぞ」 「年寄りを殴る悪党は三流だよ」 「チッ」
フェンはリィリの手を離した。
「行ってこい。婆さんの言うことを聞け。金目の物を見つけても盗むな」 「…………」
リィリは首をかしげた。
「いや、盗むな。今は盗むな。場所と相手を選べって教えただろ。ここで盗むと出禁になる。風呂屋を敵に回す悪党は寿命が短い」 「…………」
リィリはこくりと頷いた。 そしてマルタに連れられ、女湯の方へ消えていった。
フェンはその背中を見送る。
「……さて」
彼は番台の横に置かれた長椅子に腰を下ろした。 静かになった。 リィリが喋らないのに、いなくなると妙に静かに感じる。 変な話である。
「弟子ねえ」
マルタが湯場へ向かいながら言った。
「手を出すんじゃないよ」 「出さねェよ」 「売るんじゃないよ」 「売らねェよ」 「飢えさせるんじゃないよ」 「……うるせェな。分かってる」 「分かってるならいいさ」
マルタは暖簾の向こうへ消えた。
フェンは長椅子に寝そべり、天井を見上げた。
煤けた木板。 隙間から湯気。 どこかで水音。 遠くでリィリが何かに驚いた気配がした。
声はない。 だが、桶が転がる音がした。
「……大丈夫かよ」
フェンは身を起こしかけた。 そして止まる。
「いや、行かねェよ。女湯だぞ。オレは節度ある悪党だからな。そう、節度。これ大事。悪党にも守るラインがある。ラインのないヤツはただの獣だ」
誰に言うでもなく呟き、また寝転がる。
その時、入口の布が乱暴に開いた。
「おう、マルタ婆! 金を出しな!」
三人の男が入ってきた。 いや、三人ではない。 正確には、二人の男と、一人の大男だった。
大男は背が高く、腕が太く、顔が残念だった。 薄い顎髭を生やし、鼻には銀の輪を通している。 いかにも自分のことを怖いと思っていそうな顔だった。
フェンは長椅子に寝たまま、目だけ向けた。
「……また教材かよ」
男たちはフェンに気づいていない。 大男が番台を蹴った。
「聞いてんのか! 今月のショバ代、払ってもらうぜ!」 「ショバ代?」
フェンが呟く。
男の一人がようやくフェンに気づいた。
「あ? 何だテメェ」 「客」 「客なら寝てろ」 「寝てたら起こしたのはお前らだろ」 「うるせェな。痛い目見たくなきゃ黙って――」
男の言葉が止まった。 フェンが起き上がったからだ。
それだけで、空気が変わった。
フェンは笑っていた。 いつもの軽薄な笑みだ。 だが目が笑っていない。
「なァ、ショバ代って何?」 「……あ?」 「この風呂屋、お前らの場所なの?」 「そ、そうだよ。俺ら灰鼠団の縄張りだ」 「へェ。いつから?」 「先週からだ」
フェンはゆっくり立ち上がった。
「先週ねェ。じゃあ知らねェのも無理ないか」
大男が眉をひそめる。
「何がだ」 「このスラムで場所代って言葉を使っていいのは、二種類だけだ」 「二種類?」 「本当に場所を持ってるヤツと」
フェンの姿が消えた。
次の瞬間、大男の顔が番台にめり込んだ。
「ぶごッ!?」
「――フェン様に許可取ったヤツだけだ」
残りの二人が硬直する。
フェンは大男の後頭部を片手で押さえつけながら、にっこり笑った。
「で? お前ら、どっち?」 「え、あ、いや」 「なァ、どっち?」 「し、知らなかったんです!」 「だよなァ。知らないって怖いよなァ。勉強って大事だよなァ」
フェンは大男の頭を番台から引き抜いた。 大男は鼻血を垂らしながら震えている。
「ちょうどいい。今日からオレ、講師になったんだわ」 「こ、講師?」 「そう。だから教材が必要だった」
フェンは大男の肩に手を置いた。
「おめでとう。採用だ」
その時、女湯の暖簾が少しだけ開いた。 マルタが顔を出す。 その横から、湯気に包まれたリィリも顔を出した。 髪はまだ濡れており、石鹸の泡が頭に乗っている。 無表情のまま、フェンと男たちを見ていた。
「見るな見るな。授業中だ」 「…………」
リィリはじっと見ている。
フェンはため息をついた。
「仕方ねェな。特別に見学を許可する。いいか、リィリ」
フェンは震えている三人を指さした。
「不倫理教育その二。悪党は、善人から奪うより、悪党から奪った方が儲かる」 「…………」
リィリは泡を頭に乗せたまま頷いた。
「なぜなら、悪党は後ろ暗い金を持ってる。盗まれても役人に言えねェ。泣き寝入りするしかない。つまり最高の財布だ」 「…………」 「ただし、勘違いすんなよ。弱い悪党だけ狙え。強い悪党に手を出す時は、後ろから、遠くから、寝てる時に、できれば自分の手は汚さずにやれ」
マルタが呆れたように言う。
「子供に何を教えてるんだい」 「生きる知恵」 「地獄の知恵だね」 「スラムは地獄だろ」
フェンは男たちの懐を探り始めた。
銀貨。 銅貨。 安物の短剣。 妙に高そうな指輪。 小袋に入った香辛料。
「お、いいの持ってんじゃん」
フェンは指輪を摘まみ上げた。
「これはどこで?」 「ひ、拾った」 「指ごと?」 「盗りました……」 「正直でよろしい」
フェンは指輪をリィリへ見せた。
「見ろ、リィリ。盗品は足がつく。売る時は一度形を変えるか、遠い場所に流す。近場で売ると元の持ち主に見つかる」 「…………」
リィリは泡の下で真剣に頷いた。
「あと、こういう指輪を見つけた時はな」
フェンは指輪を光にかざす。
「内側を見る」 「…………」
リィリが目を凝らす。 指輪の内側には、小さな文字が刻まれていた。
「贈り物には名前がある。名前がある物は、金より感情が乗ってる。感情が乗ってる物は、高く売れる相手がいる」 「…………」
リィリの表情が、ほんの少し曇った。 フェンはそれに気づいた。
「何だ。その顔」 「…………」
リィリはフェンを見た。 そして、指輪を指さす。 次に、外を指さした。
「持ち主に返したいってか?」
リィリはこくりと頷いた。
フェンは頭を抱えた。
「あァ~……出た。出ましたよ。善性。もう泡より善性が出てる」 「…………」 「いいか、リィリ。盗まれた物を持ち主に返すのは善行だ。善行は癖になる。癖になると、悪党として終わる」 「…………」
リィリはじっとフェンを見ている。 灰色の瞳は、まっすぐだった。 フェンは数秒その目を見返し、やがて舌打ちした。
「……ただし」
リィリが瞬きする。
「返し方によっては、悪事になる」
フェンはにやりと笑った。
「タダで返すな。恩を売れ。泣かせろ。感謝させろ。相手の心に借金を作れ。金の借金は返せるが、心の借金はなかなか返せねェ。そこにつけ込むのが一流の悪党だ」 「…………」
リィリは少し考えた。 それから、深く頷いた。
「よし。分かったなら風呂に戻れ。泡が目に入るぞ」 「…………」
リィリは素直に暖簾の向こうへ引っ込んだ。 直後、桶がまた転がる音がした。
「大丈夫かよ……」
フェンは思わず呟いた。
マルタが笑う。
「心配なら見に来るかい?」 「行かねェって言ってんだろ!」
フェンは顔をしかめ、男たちへ向き直る。
「で、お前ら」 「は、はい」 「二度とこの風呂屋に場所代を取りに来るな」 「はい!」 「ついでに、灰鼠団の頭に伝えろ。フェンの許可なしに縄張りごっこするなら、次は尻尾じゃなくて頭から潰すってな」 「はいッ!」
三人は転がるように逃げていった。 フェンはその背中に短剣を一本投げた。 短剣は大男の足元に突き刺さる。
「忘れ物」 「ひいッ!」
大男は短剣を置いたまま逃げた。
「いらねェのかよ」
フェンは短剣を拾い、鼻で笑った。
しばらくして、リィリが戻ってきた。フェンは一瞬、誰だか分からなかった。銀色の髪は湯気を含んでふわりと広がり、絡まりはすっかり消えている。白い肌は本当に白く、頬には湯上がりの赤みが差していた。マルタが用意した古着のワンピースは少し大きいが、腰に紐を巻けば何とか形になっている。先ほどまでの泥だらけの子供ではない。そこに立っているのは、静かな灰色の瞳をした、小さな少女だった。
「……へェ」
フェンは目を細める。
「素材はいいじゃねェか」 「…………」
リィリは自分の服の裾をつまんだ。 少し落ち着かないらしい。
「何だ。気に入らねェのか」 「…………」
リィリは首を横に振った。 そして、小さく頭を下げた。
「礼か?」 「…………」
こくり。
「やめろやめろ。弟子が師匠に礼なんか言うな。師匠は弟子に投資するもんだ。将来回収するためにな」 「…………」
リィリはまた頷いた。 そして、フェンへ近づいた。
「ア?」
リィリは小さな手を伸ばした。 フェンの袖をつまむ。 そのまま、ちょんちょんと引いた。
「何だよ」 「…………」
リィリはフェンの手を指さす。 そこには、さっき奪った指輪があった。
「あァ、これか。返しに行くぞ」 「…………」
リィリの目が少しだけ明るくなる。
「勘違いすんなよ。善行じゃねェ。恩を売るんだ。分かるな?」 「…………」
頷く。
「本当に分かってんだろうなァ」
フェンは怪しんだが、リィリは真剣な顔をしていた。 無表情なので分かりにくいが、たぶん真剣だった。
マルタが古い布袋を投げて寄越す。
「その子の元の服は燃やしとくよ」 「虫いた?」 「いたね」 「何匹?」 「数えたくないくらい」 「燃やせ燃やせ。灰も燃やせ」
フェンは布袋を受け取り、中身を確認した。 リィリの黒パンの残りと、男たちから奪った銅貨が入っている。
「おい、婆さん。酒瓶は?」 「洗い賃の追加だよ」 「勝手に取るな」 「お前も勝手に取ってただろ」 「オレは悪党だからいいんだよ」 「じゃあ私も悪党ってことで」 「チッ。油断ならねェ婆さんだ」
フェンはリィリへ視線を向ける。
「見たか、リィリ。年寄りは強い。特にスラムの年寄りは、生き残ってる時点でだいたい化け物だ。舐めるな」 「…………」
リィリはマルタを見た。 そして深々と頭を下げた。
「だから礼をするなって言ってんだろ!」 「いい子だねェ」 「いい子にするな! オレの弟子だぞ!」
マルタは笑いながら手を振った。
「またおいで」 「来るかよ」 「その子はまた来た方がいいよ。髪、ちゃんと梳かさないと絡まるからね」 「…………」
リィリは自分の髪を触った。 それからフェンを見上げる。
「……分かったよ。櫛くらい買ってやる」 「…………」
リィリの口角が、ほんの少しだけ上がった。
「笑うな。投資だ」
フェンは顔をそむけた。
風呂屋を出ると、スラムの夜は少しだけ深くなっていた。酒場の明かりは赤く、路地の影は黒い。遠くで喧嘩の声がする。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが騙されている。フェンは指輪を指先で弄びながら歩いた。
「さて。持ち主探しだ」 「…………」 「内側の名前は、エナ。で、たぶん女物。さっきの連中が盗った場所を考えると、この辺りの表通りに近い店か家だな」
リィリはフェンを見上げた。 その顔は、少し不思議そうだった。
「何だ。何で分かるのかって?」 「…………」
頷く。
「簡単だ。指輪に煤がついてない。つまり鍛冶場や炉の近くの物じゃない。香油の匂いがする。娼館か服飾店か香具屋。けど石の削れ方を見るに、毎日つけてた指輪だ。客商売の女が大事につけるには傷が多い。となると、裏方か店主の妻あたりだな」 「…………」
リィリは目を丸くした。 本当にわずかに、だが。
「驚いたか?」 「…………」
頷く。
「フフン。師匠を敬え」 「…………」
リィリは小さく拍手した。
「それはそれで腹立つな」
フェンは鼻を鳴らし、細い路地へ入った。
やがて二人は、小さな仕立屋の前に立った。
看板には、針と糸の絵。 窓の奥には、布の束。 扉の隙間から、すすり泣く声が聞こえた。
「当たりだな」
フェンは扉を叩いた。
「閉店だよ……今日はもう……」
中から女の声がした。 疲れきった声だった。
「落とし物を届けに来た」 「落とし物?」
扉が少し開く。 顔を出したのは、中年の女だった。 目が赤い。 その手には、何度も探し物をしたのだろう、糸くずと埃がついていた。
フェンは指輪を見せた。
「これだ」 「…………!」
女の顔が変わった。
「それ、私の……! 夫が、亡くなる前に……!」
女は震える手で指輪を受け取ろうとした。 フェンはひょいと手を引く。
「待て待て」 「え……?」 「タダで返すわけねェだろ」 「なっ……!」
リィリがフェンを見上げる。 フェンは小声で言った。
「見とけ。恩の売り方だ」
そして女へ向き直る。
「こいつは灰鼠団の連中が持ってた。取り返すのに苦労した。オレは怪我ひとつしてないが、精神的には大変だった」 「精神的に……?」 「だから礼が欲しい」 「お金なら、そんなには……」 「金じゃねェ」
フェンはリィリの背中を軽く押した。
「この子の服を何着か作れ。安物でいい。動きやすくて、目立たなくて、ポケットが多いヤツ」 「服……?」 「あと櫛」 「櫛?」 「髪が絡まるらしい」 「…………」
リィリはフェンを見た。 フェンは見ないふりをした。
「できるか?」 「もちろん、できるけど……それだけでいいの?」 「いいわけねェだろ。追加で情報だ。灰鼠団が最近どこに出入りしてるか知ってること全部話せ」 「……あなた、あの連中と揉める気?」 「もう揉めた」 「それなら早く逃げた方がいい。あいつら、昨日から黒犬横丁の空き倉庫に集まってる。頭の男が、どこかの大物から金をもらったって噂があるわ」 「へェ」
フェンの笑みが深くなる。
「面白そうじゃねェか」
女は指輪を見つめ、涙をこぼした。
「ありがとう……本当に、ありがとう」 「礼を言う相手が違う」
フェンはリィリを指さした。
「こいつが返したがった。オレは売る気満々だったがな」 「…………」
リィリは驚いたようにフェンを見た。 女はしゃがみ込み、リィリの手を包む。
「ありがとうね」 「…………」
リィリは困ったように瞬きをした。 そして、フェンを見上げる。
「困るな。受け取れ。恩を売る練習だ」 「…………」
リィリは少し考えた。 それから、女の手を小さく握り返した。
女はまた泣いた。 リィリはもっと困った顔をした。
「よし、今日はここまで」
フェンは満足げに頷いた。
「リィリ。不倫理教育その二のまとめだ」 「…………」
リィリはフェンを見る。
「善行は、そのままやると善人になる。だが、見返りを設定し、感謝を負債に変え、情報と利益を引き出せば、それは立派な悪事だ」 「…………」
リィリは真剣に頷いた。 そして、地面にしゃがんで指で文字を書いた。
――よいことも、わるいことにできる。
フェンはその文字を見て、にやりと笑った。
「そうだ。分かってきたじゃねェか」
リィリは少しだけ口角を上げた。その笑みは、まだ善良だった。誰かの涙に胸を痛める、どうしようもなく優しい子供の笑みだった。だがフェンは、そこに未来を見た。
白金貨を盗んだ小さな手。 恐怖を知らない灰色の瞳。 善意を悪事に変える余地。
「いいぜ、リィリ」
フェンはリィリの頭に手を置いた。
「お前、やっぱり才能ある」
その時だった。
リィリがフェンの手を取った。 そして、何かを握らせる。
「ア?」
フェンが手のひらを開く。 そこには、銀貨が一枚あった。
「……これ、どこから」 「…………」
リィリは仕立屋の女を指さした。 女は首をかしげている。 どうやら気づいていない。
フェンはゆっくりとリィリを見た。
「お前……礼を受け取りながら、相手の袖口から銀貨抜いたのか?」 「…………」
こくり。
フェンは黙った。 長い沈黙だった。
それから、肩を震わせた。
「ク……クク……ハハハハハ!」
スラムの夜に、フェンの笑い声が響く。
「最高だ、馬鹿弟子! 善意の握手を隠れ蓑にするとはなァ! お前、今のは八十点だ!」 「…………」
リィリは少し嬉しそうにした。 ほんの少しだけ。
フェンは銀貨をリィリの手に戻した。
「だがな」 「…………」 「これは返せ」 「…………?」
リィリが首をかしげる。 フェンはにやりと笑った。
「相手に気づかれずに返すまでが課題だ。奪うだけなら三流。返しても気づかれねェなら二流。奪われたことすら相手の得になったと思わせて一流だ」 「…………」
リィリは銀貨を見た。 そして女の袖口を見た。
次の瞬間、リィリはとてとてと女へ近づいた。 服の採寸をするふりで、女の手元に触れる。
ほんの一瞬。 銀貨は女のポケットへ戻っていた。
女は気づかない。
フェンは満足げに腕を組んだ。
「合格だ」
リィリは振り返った。 その顔には、やはりほとんど表情がない。
けれどフェンには分かった。
リィリは、少しだけ誇らしげだった。
「行くぞ、弟子一号。次は飯だ。風呂に入った後は食わせねェと倒れるからな」 「…………」 「投資だ投資。いちいち嬉しそうにするな」 「…………」
リィリはフェンの袖をつまんだ。 今度は、白金貨を盗むためではなかった。 ただ、離れないようにするためだった。
フェンはそれに気づいて、顔をそむける。
「……不倫理教育その二」
歩き出しながら、フェンは言った。
「恩は売れ。礼は値切れ。善行は、悪事に加工しろ」
リィリは小さく頷いた。
そして歩きながら、そっとフェンの懐へ手を伸ばした。
「だからオレから盗るなって言ってんだろうが!」
第二講義もまた、前途多難であった。