異世界不倫理教育講座   作:はい。

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第二話

「返せェ!」

 

 夜のスラム街に、フェンの絶叫が響いた。

 路地を歩く男たちが、ぎょっとして振り返る。
 酔っ払いが酒瓶を抱えたまま固まる。
 道端で眠っていた野良犬が、面倒くさそうに片目を開ける。

 その中心で、フェンは片手を差し出していた。

 

「リィリ。今すぐ。優しく。丁寧に。オレの白金貨を返しなさい」
「…………」

 

 リィリは無表情だった。
 小さな手の中には、フェンの白金貨がある。
 月明かりを受けて、きらきらと輝いていた。

 

「お前なァ、さっき教えただろ? 欲しいモンは欲しいって顔した瞬間に負けだって。なのに何で三歩で実践してんの? 吸収早すぎない? 先生ちょっと怖いんだけど」
「…………」

 

 リィリは白金貨をじっと見た。
 それからフェンを見た。
 そして、ゆっくりと白金貨を自分の外套の中へしまおうとした。

 

「しまうなァ!」

 

 フェンは慌てて白金貨を取り返した。
 リィリは抵抗しなかった。
 ただ、取られた白金貨を名残惜しそうに見つめている。

 

「チッ。いいか、弟子一号。盗みの腕は悪くねェ。だが盗む相手が最悪だ。師匠から盗む弟子がどこにいる」
「…………」
「いや、いるな。むしろ物語的には結構いるわ。師匠の技を盗んで成長するヤツ。けどなァ、金を盗むのは違うだろ。技を盗め、技を」
「…………」

 

 リィリは少し考えるように瞬きをした。
 そして、フェンの袖をつまんだ。

 

「ア?」
「…………」

 

 リィリはフェンの指先を見ていた。
 先ほど白金貨を取り返した手つき。
 無駄がなく、素早く、けれどリィリの手首を痛めないように力が抜かれていた。

 

「……お前、今のを見てたのか」

 

 リィリはこくりと頷いた。

 

「へェ」

 

 フェンの口角が上がる。

 

「いいねェ。観察眼がある。悪党に必要なのは腕力じゃねェ。まず目だ。相手がどこを見るか、何を隠すか、何を欲しがるか。それが分かれば、半分勝ったようなモンだ」

 

 フェンはそう言ってから、リィリの頭をわしわし撫でた。

 

「ただし、師匠の金は盗むな」
「…………」
「そこは頷けよ」

 

 リィリは頷かなかった。

 

「前途多難すぎる」

 

 フェンは深いため息をついた。
 だが、顔は少し笑っていた。

 

 リィリを拾った。
 弟子にした。
 立派な悪党に育てると宣言した。

 

 自分で言っておいてなんだが、意味が分からない。
 フェンは基本的に面倒事が嫌いだった。
 特に子供など、うるさい、弱い、よく転ぶ、そして勝手に懐く。
 最低の生き物である。

 

 しかし、リィリはうるさくない。
 泣かない。
 転んでもたぶん黙って立つ。
 それでいて、白金貨を三度盗もうとした。

 

 素材としては悪くない。
 善性が腐るほど邪魔だが、そこは教育でどうにかするしかない。

 

「よし」

 

 フェンはリィリの手を引いた。

 

「第二講義だ」
「…………」
「不倫理教育その二。悪党は、まず身だしなみから」

 

 リィリは首をかしげた。

 

「その顔は『悪党と身だしなみに何の関係が?』って顔だな。甘い。甘すぎる。三日前の粥くらい甘い」

 

 フェンは鼻を鳴らす。

 

「臭ェヤツは警戒される。汚ェヤツは見下される。見下されるのは利用できるが、常に見下される必要はない。悪党ってのはなァ、必要な時だけ弱そうに見せるんだ。普段から汚いと、ただの貧乏人だろうが」
「…………」
「だから風呂だ。まずお前を洗う」

 

 リィリは自分の腕を見下ろした。


 泥。
 煤。
 乾いた血。
 どこからどこまでが肌なのか、よく分からない。

 

「…………」

 

 リィリはフェンを見上げた。
 その顔には、わずかながら警戒があった。

 

「おいおい、今さら警戒すんの? チンピラ相手に無表情だったくせに、風呂で警戒すんの? 基準どうなってんだよ」

 

 フェンは肩をすくめた。

 

「安心しろ。オレは悪党だが、趣味は悪くねェ。女児の風呂を覗くほど落ちぶれてない。洗うのは婆さんに頼む」
「…………」

 

 リィリは少しだけ力を抜いた。

 

「今ので安心したのか? ならお前、結構ちゃんとした感性してるな。よし。そこは伸ばさない方向でいこう」

 

 そんなことを言いながら、フェンはスラムの外れへ向かった。

 

 スラムには、何でもある。酒場、賭場、娼館、闇市、質屋、薬屋、祈祷師、偽祈祷師、偽祈祷師を騙す本物の詐欺師。そして、風呂屋もある。

 

 ただし綺麗な風呂屋ではない。看板は半分割れているし、入口の布は薄汚れている。湯気と一緒に、薬草と獣脂と怪しい香油の匂いが混ざって漂っていた。

 

 店の名は、灰猫湯。スラムの住人がたまに身ぎれいになるための場所であり、同時に、盗品の受け渡しや密談にもよく使われる。湯気がある場所では、声も顔もぼやける。悪党にとって風呂とは、体を洗う場所であると同時に、嘘を洗い流さない場所でもあった。

 

「おやおや、誰かと思えばフェンじゃないか」

 

 番台に座っていた老婆が、しわだらけの顔を上げた。
 片目に白い濁りがあり、指には古い火傷の跡がある。


 名をマルタという。
 昔は王都の貴族相手に湯屋を仕切っていたらしいが、今はスラムで安酒を飲みながら余生を燃やしている。

 

「よう、婆さん。相変わらず死に損なってんなァ」
「お前も相変わらず口が腐ってるね」
「口だけで済んでるなら上等だろ」
「で、その泥人形は何だい」

 

 マルタの視線がリィリへ向く。
 リィリはフェンの後ろに隠れなかった。
 ただ、じっとマルタを見上げている。

 

「拾った」
「犬か猫みたいに言うんじゃないよ」
「犬猫の方がまだ自分で毛づくろいする」
「ひどい師匠だね」
「まだ師匠って言ってねェだろ」
「顔に書いてあるよ。面倒なのを拾って、ちょっと嬉しいってね」
「目玉腐ってんのか?」

 

 マルタはけらけら笑った。

 

「その子を洗えばいいのかい」
「あァ。全身。髪も。服は燃やせ」
「服まで燃やしたら着るものがないだろ」
「そこらの布でも巻いとけ」
「女の子に?」
「……じゃあ適当に買う」
「最初からそう言いな」

 

 マルタは番台の下から木札を二枚取り出した。

 

「子供ひとり、洗い賃込み。銀貨二枚」
「高ェよ」
「髪に虫がいたら銀貨三枚」
「足元見すぎだろ」
「お前の足元には金が落ちてそうだからね」
「落ちてねェよ。落としてたまるか」

 

 フェンは舌打ちし、銀貨を一枚だけ弾いた。
 マルタはそれを空中で掴む。

 

「足りないね」
「今ので十分だろ」
「洗い賃が入ってない」
「弟子が自分で洗う」
「この子が?」
「あァ。教育だ」

 

 フェンはリィリの肩に手を置いた。

 

「いいか、リィリ。悪党は自分の始末を自分でする。汚れたら洗う。血がついたら落とす。証拠が残るなら燃やす。全部他人任せにするヤツは、最後に他人に売られる」
「…………」

 

 リィリはこくりと頷いた。

 

「ただし、髪だけは婆さんに任せろ。絡まった髪を無理に解くと痛ェからな」
「…………」

 

 リィリはフェンを見上げた。
 その瞳に、ほんの少しだけ不思議そうな色が浮かぶ。

 

「何だよ」
「…………」
「優しい? 違ェよ馬鹿。痛いと暴れるだろ。暴れると洗いにくい。洗いにくいと時間がかかる。時間がかかるとオレが暇になる。つまり合理性」
「…………」

 

 リィリは納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。

 マルタがまた笑う。

 

「はいはい。合理性ね。じゃあ、合理的に服も買ってやりな」
「分かってるよ」

 

 フェンは懐から銀貨をもう一枚取り出し、番台に置いた。
 マルタはそれを拾いながら、目を細めた。

 

「お前さんが子供を連れてくる日が来るとはね」
「連れてきたんじゃねェ。拉致に近い」
「なお悪いよ」
「悪党だからな」
「悪党はそんな顔で子供の手を握らないもんだ」

 

 フェンは自分の手を見た。
 リィリの小さな手が、まだそこにあった。
 いつの間にか、ぎゅっと握られている。

 

「……逃げないようにだ」
「へえ」
「本当だぞ」
「へええ」
「その顔やめろ。殴るぞ」
「年寄りを殴る悪党は三流だよ」
「チッ」

 

 フェンはリィリの手を離した。

 

「行ってこい。婆さんの言うことを聞け。金目の物を見つけても盗むな」
「…………」

 

 リィリは首をかしげた。

 

「いや、盗むな。今は盗むな。場所と相手を選べって教えただろ。ここで盗むと出禁になる。風呂屋を敵に回す悪党は寿命が短い」
「…………」

 

 リィリはこくりと頷いた。
 そしてマルタに連れられ、女湯の方へ消えていった。

 フェンはその背中を見送る。

 

「……さて」

 

 彼は番台の横に置かれた長椅子に腰を下ろした。
 静かになった。
 リィリが喋らないのに、いなくなると妙に静かに感じる。
 変な話である。

 

「弟子ねえ」

 

 マルタが湯場へ向かいながら言った。

 

「手を出すんじゃないよ」
「出さねェよ」
「売るんじゃないよ」
「売らねェよ」
「飢えさせるんじゃないよ」
「……うるせェな。分かってる」
「分かってるならいいさ」

 

 マルタは暖簾の向こうへ消えた。

 フェンは長椅子に寝そべり、天井を見上げた。


 煤けた木板。
 隙間から湯気。
 どこかで水音。
 遠くでリィリが何かに驚いた気配がした。


 声はない。
 だが、桶が転がる音がした。

 

「……大丈夫かよ」

 

 フェンは身を起こしかけた。
 そして止まる。

 

「いや、行かねェよ。女湯だぞ。オレは節度ある悪党だからな。そう、節度。これ大事。悪党にも守るラインがある。ラインのないヤツはただの獣だ」

 

 誰に言うでもなく呟き、また寝転がる。

 その時、入口の布が乱暴に開いた。

 

「おう、マルタ婆! 金を出しな!」

 

 三人の男が入ってきた。
 いや、三人ではない。
 正確には、二人の男と、一人の大男だった。


 大男は背が高く、腕が太く、顔が残念だった。
 薄い顎髭を生やし、鼻には銀の輪を通している。
 いかにも自分のことを怖いと思っていそうな顔だった。

 フェンは長椅子に寝たまま、目だけ向けた。

 

「……また教材かよ」

 

 男たちはフェンに気づいていない。
 大男が番台を蹴った。

 

「聞いてんのか! 今月のショバ代、払ってもらうぜ!」
「ショバ代?」

 

 フェンが呟く。

 男の一人がようやくフェンに気づいた。

 

「あ? 何だテメェ」
「客」
「客なら寝てろ」
「寝てたら起こしたのはお前らだろ」
「うるせェな。痛い目見たくなきゃ黙って――」

 

 男の言葉が止まった。
 フェンが起き上がったからだ。

 

 それだけで、空気が変わった。

 フェンは笑っていた。
 いつもの軽薄な笑みだ。
 だが目が笑っていない。

 

「なァ、ショバ代って何?」
「……あ?」
「この風呂屋、お前らの場所なの?」
「そ、そうだよ。俺ら灰鼠団の縄張りだ」
「へェ。いつから?」
「先週からだ」

 

 フェンはゆっくり立ち上がった。

 

「先週ねェ。じゃあ知らねェのも無理ないか」

 

 大男が眉をひそめる。

 

「何がだ」
「このスラムで場所代って言葉を使っていいのは、二種類だけだ」
「二種類?」
「本当に場所を持ってるヤツと」

 

 フェンの姿が消えた。

 次の瞬間、大男の顔が番台にめり込んだ。

 

「ぶごッ!?」

「――フェン様に許可取ったヤツだけだ」

 

 残りの二人が硬直する。

 フェンは大男の後頭部を片手で押さえつけながら、にっこり笑った。

 

「で? お前ら、どっち?」
「え、あ、いや」
「なァ、どっち?」
「し、知らなかったんです!」
「だよなァ。知らないって怖いよなァ。勉強って大事だよなァ」

 

 フェンは大男の頭を番台から引き抜いた。
 大男は鼻血を垂らしながら震えている。

 

「ちょうどいい。今日からオレ、講師になったんだわ」
「こ、講師?」
「そう。だから教材が必要だった」

 

 フェンは大男の肩に手を置いた。

 

「おめでとう。採用だ」

 

 その時、女湯の暖簾が少しだけ開いた。
 マルタが顔を出す。
 その横から、湯気に包まれたリィリも顔を出した。
 髪はまだ濡れており、石鹸の泡が頭に乗っている。
 無表情のまま、フェンと男たちを見ていた。

 

「見るな見るな。授業中だ」
「…………」

 

 リィリはじっと見ている。

 フェンはため息をついた。

 

「仕方ねェな。特別に見学を許可する。いいか、リィリ」

 

 フェンは震えている三人を指さした。

 

「不倫理教育その二。悪党は、善人から奪うより、悪党から奪った方が儲かる」
「…………」

 

 リィリは泡を頭に乗せたまま頷いた。

 

「なぜなら、悪党は後ろ暗い金を持ってる。盗まれても役人に言えねェ。泣き寝入りするしかない。つまり最高の財布だ」
「…………」
「ただし、勘違いすんなよ。弱い悪党だけ狙え。強い悪党に手を出す時は、後ろから、遠くから、寝てる時に、できれば自分の手は汚さずにやれ」

 

 マルタが呆れたように言う。

 

「子供に何を教えてるんだい」
「生きる知恵」
「地獄の知恵だね」
「スラムは地獄だろ」

 

 フェンは男たちの懐を探り始めた。


 銀貨。
 銅貨。
 安物の短剣。
 妙に高そうな指輪。
 小袋に入った香辛料。

 

「お、いいの持ってんじゃん」

 

 フェンは指輪を摘まみ上げた。

 

「これはどこで?」
「ひ、拾った」
「指ごと?」
「盗りました……」
「正直でよろしい」

 

 フェンは指輪をリィリへ見せた。

 

「見ろ、リィリ。盗品は足がつく。売る時は一度形を変えるか、遠い場所に流す。近場で売ると元の持ち主に見つかる」
「…………」

 

 リィリは泡の下で真剣に頷いた。

 

「あと、こういう指輪を見つけた時はな」

 

 フェンは指輪を光にかざす。

 

「内側を見る」
「…………」

 

 リィリが目を凝らす。
 指輪の内側には、小さな文字が刻まれていた。

 

「贈り物には名前がある。名前がある物は、金より感情が乗ってる。感情が乗ってる物は、高く売れる相手がいる」
「…………」

 

 リィリの表情が、ほんの少し曇った。
 フェンはそれに気づいた。

 

「何だ。その顔」
「…………」

 

 リィリはフェンを見た。
 そして、指輪を指さす。
 次に、外を指さした。

 

「持ち主に返したいってか?」

 

 リィリはこくりと頷いた。

 フェンは頭を抱えた。

 

「あァ~……出た。出ましたよ。善性。もう泡より善性が出てる」
「…………」
「いいか、リィリ。盗まれた物を持ち主に返すのは善行だ。善行は癖になる。癖になると、悪党として終わる」
「…………」

 

 リィリはじっとフェンを見ている。
 灰色の瞳は、まっすぐだった。
 フェンは数秒その目を見返し、やがて舌打ちした。

 

「……ただし」

 

 リィリが瞬きする。

 

「返し方によっては、悪事になる」

 

 フェンはにやりと笑った。

 

「タダで返すな。恩を売れ。泣かせろ。感謝させろ。相手の心に借金を作れ。金の借金は返せるが、心の借金はなかなか返せねェ。そこにつけ込むのが一流の悪党だ」
「…………」

 

 リィリは少し考えた。
 それから、深く頷いた。

 

「よし。分かったなら風呂に戻れ。泡が目に入るぞ」
「…………」

 

 リィリは素直に暖簾の向こうへ引っ込んだ。
 直後、桶がまた転がる音がした。

 

「大丈夫かよ……」

 

 フェンは思わず呟いた。

 マルタが笑う。

 

「心配なら見に来るかい?」
「行かねェって言ってんだろ!」

 

 フェンは顔をしかめ、男たちへ向き直る。

 

「で、お前ら」
「は、はい」
「二度とこの風呂屋に場所代を取りに来るな」
「はい!」
「ついでに、灰鼠団の頭に伝えろ。フェンの許可なしに縄張りごっこするなら、次は尻尾じゃなくて頭から潰すってな」
「はいッ!」

 

 三人は転がるように逃げていった。
 フェンはその背中に短剣を一本投げた。
 短剣は大男の足元に突き刺さる。

 

「忘れ物」
「ひいッ!」

 

 大男は短剣を置いたまま逃げた。

 

「いらねェのかよ」

 

 フェンは短剣を拾い、鼻で笑った。

 

 しばらくして、リィリが戻ってきた。フェンは一瞬、誰だか分からなかった。銀色の髪は湯気を含んでふわりと広がり、絡まりはすっかり消えている。白い肌は本当に白く、頬には湯上がりの赤みが差していた。マルタが用意した古着のワンピースは少し大きいが、腰に紐を巻けば何とか形になっている。先ほどまでの泥だらけの子供ではない。そこに立っているのは、静かな灰色の瞳をした、小さな少女だった。

 

「……へェ」

 

 フェンは目を細める。

 

「素材はいいじゃねェか」
「…………」

 

 リィリは自分の服の裾をつまんだ。
 少し落ち着かないらしい。

 

「何だ。気に入らねェのか」
「…………」

 

 リィリは首を横に振った。
 そして、小さく頭を下げた。

 

「礼か?」
「…………」

 

 こくり。

 

「やめろやめろ。弟子が師匠に礼なんか言うな。師匠は弟子に投資するもんだ。将来回収するためにな」
「…………」

 

 リィリはまた頷いた。
 そして、フェンへ近づいた。

 

「ア?」

 

 リィリは小さな手を伸ばした。
 フェンの袖をつまむ。
 そのまま、ちょんちょんと引いた。

 

「何だよ」
「…………」

 

 リィリはフェンの手を指さす。
 そこには、さっき奪った指輪があった。

 

「あァ、これか。返しに行くぞ」
「…………」

 

 リィリの目が少しだけ明るくなる。

 

「勘違いすんなよ。善行じゃねェ。恩を売るんだ。分かるな?」
「…………」

 

 頷く。

 

「本当に分かってんだろうなァ」

 

 フェンは怪しんだが、リィリは真剣な顔をしていた。
 無表情なので分かりにくいが、たぶん真剣だった。

 

 マルタが古い布袋を投げて寄越す。

 

「その子の元の服は燃やしとくよ」
「虫いた?」
「いたね」
「何匹?」
「数えたくないくらい」
「燃やせ燃やせ。灰も燃やせ」

 

 フェンは布袋を受け取り、中身を確認した。
 リィリの黒パンの残りと、男たちから奪った銅貨が入っている。

 

「おい、婆さん。酒瓶は?」
「洗い賃の追加だよ」
「勝手に取るな」
「お前も勝手に取ってただろ」
「オレは悪党だからいいんだよ」
「じゃあ私も悪党ってことで」
「チッ。油断ならねェ婆さんだ」

 

 フェンはリィリへ視線を向ける。

 

「見たか、リィリ。年寄りは強い。特にスラムの年寄りは、生き残ってる時点でだいたい化け物だ。舐めるな」
「…………」

 

 リィリはマルタを見た。
 そして深々と頭を下げた。

 

「だから礼をするなって言ってんだろ!」
「いい子だねェ」
「いい子にするな! オレの弟子だぞ!」

 

 マルタは笑いながら手を振った。

 

「またおいで」
「来るかよ」
「その子はまた来た方がいいよ。髪、ちゃんと梳かさないと絡まるからね」
「…………」

 

 リィリは自分の髪を触った。
 それからフェンを見上げる。

 

「……分かったよ。櫛くらい買ってやる」
「…………」

 

 リィリの口角が、ほんの少しだけ上がった。

 

「笑うな。投資だ」

 

 フェンは顔をそむけた。

 

 風呂屋を出ると、スラムの夜は少しだけ深くなっていた。酒場の明かりは赤く、路地の影は黒い。遠くで喧嘩の声がする。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが騙されている。フェンは指輪を指先で弄びながら歩いた。

 

「さて。持ち主探しだ」
「…………」
「内側の名前は、エナ。で、たぶん女物。さっきの連中が盗った場所を考えると、この辺りの表通りに近い店か家だな」

 

 リィリはフェンを見上げた。
 その顔は、少し不思議そうだった。

 

「何だ。何で分かるのかって?」
「…………」

 

 頷く。

 

「簡単だ。指輪に煤がついてない。つまり鍛冶場や炉の近くの物じゃない。香油の匂いがする。娼館か服飾店か香具屋。けど石の削れ方を見るに、毎日つけてた指輪だ。客商売の女が大事につけるには傷が多い。となると、裏方か店主の妻あたりだな」
「…………」

 

 リィリは目を丸くした。
 本当にわずかに、だが。

 

「驚いたか?」
「…………」

 

 頷く。

 

「フフン。師匠を敬え」
「…………」

 

 リィリは小さく拍手した。

 

「それはそれで腹立つな」

 

 フェンは鼻を鳴らし、細い路地へ入った。

 

 やがて二人は、小さな仕立屋の前に立った。


 看板には、針と糸の絵。
 窓の奥には、布の束。
 扉の隙間から、すすり泣く声が聞こえた。

 

「当たりだな」

 

 フェンは扉を叩いた。

 

「閉店だよ……今日はもう……」

 

 中から女の声がした。
 疲れきった声だった。

 

「落とし物を届けに来た」
「落とし物?」

 

 扉が少し開く。
 顔を出したのは、中年の女だった。
 目が赤い。
 その手には、何度も探し物をしたのだろう、糸くずと埃がついていた。

 

 フェンは指輪を見せた。

 

「これだ」
「…………!」

 

 女の顔が変わった。

 

「それ、私の……! 夫が、亡くなる前に……!」

 

 女は震える手で指輪を受け取ろうとした。
 フェンはひょいと手を引く。

 

「待て待て」
「え……?」
「タダで返すわけねェだろ」
「なっ……!」

 

 リィリがフェンを見上げる。
 フェンは小声で言った。

 

「見とけ。恩の売り方だ」

 

 そして女へ向き直る。

 

「こいつは灰鼠団の連中が持ってた。取り返すのに苦労した。オレは怪我ひとつしてないが、精神的には大変だった」
「精神的に……?」
「だから礼が欲しい」
「お金なら、そんなには……」
「金じゃねェ」

 

 フェンはリィリの背中を軽く押した。

 

「この子の服を何着か作れ。安物でいい。動きやすくて、目立たなくて、ポケットが多いヤツ」
「服……?」
「あと櫛」
「櫛?」
「髪が絡まるらしい」
「…………」

 

 リィリはフェンを見た。
 フェンは見ないふりをした。

 

「できるか?」
「もちろん、できるけど……それだけでいいの?」
「いいわけねェだろ。追加で情報だ。灰鼠団が最近どこに出入りしてるか知ってること全部話せ」
「……あなた、あの連中と揉める気?」
「もう揉めた」
「それなら早く逃げた方がいい。あいつら、昨日から黒犬横丁の空き倉庫に集まってる。頭の男が、どこかの大物から金をもらったって噂があるわ」
「へェ」

 

 フェンの笑みが深くなる。

 

「面白そうじゃねェか」

 

 女は指輪を見つめ、涙をこぼした。

 

「ありがとう……本当に、ありがとう」
「礼を言う相手が違う」

 

 フェンはリィリを指さした。

 

「こいつが返したがった。オレは売る気満々だったがな」
「…………」

 

 リィリは驚いたようにフェンを見た。
 女はしゃがみ込み、リィリの手を包む。

 

「ありがとうね」
「…………」

 

 リィリは困ったように瞬きをした。
 そして、フェンを見上げる。

 

「困るな。受け取れ。恩を売る練習だ」
「…………」

 

 リィリは少し考えた。
 それから、女の手を小さく握り返した。

 女はまた泣いた。
 リィリはもっと困った顔をした。

 

「よし、今日はここまで」

 

 フェンは満足げに頷いた。

 

「リィリ。不倫理教育その二のまとめだ」
「…………」

 

 リィリはフェンを見る。

 

「善行は、そのままやると善人になる。だが、見返りを設定し、感謝を負債に変え、情報と利益を引き出せば、それは立派な悪事だ」
「…………」

 

 リィリは真剣に頷いた。
 そして、地面にしゃがんで指で文字を書いた。

 

 ――よいことも、わるいことにできる。

 

 フェンはその文字を見て、にやりと笑った。

 

「そうだ。分かってきたじゃねェか」

 

 リィリは少しだけ口角を上げた。その笑みは、まだ善良だった。誰かの涙に胸を痛める、どうしようもなく優しい子供の笑みだった。だがフェンは、そこに未来を見た。


 白金貨を盗んだ小さな手。
 恐怖を知らない灰色の瞳。
 善意を悪事に変える余地。

 

「いいぜ、リィリ」

 

 フェンはリィリの頭に手を置いた。

 

「お前、やっぱり才能ある」

 

 その時だった。

 リィリがフェンの手を取った。
 そして、何かを握らせる。

 

「ア?」

 

 フェンが手のひらを開く。
 そこには、銀貨が一枚あった。

 

「……これ、どこから」
「…………」

 

 リィリは仕立屋の女を指さした。
 女は首をかしげている。
 どうやら気づいていない。

 フェンはゆっくりとリィリを見た。

 

「お前……礼を受け取りながら、相手の袖口から銀貨抜いたのか?」
「…………」

 

 こくり。

 

 フェンは黙った。
 長い沈黙だった。

 それから、肩を震わせた。

 

「ク……クク……ハハハハハ!」

 

 スラムの夜に、フェンの笑い声が響く。

 

「最高だ、馬鹿弟子! 善意の握手を隠れ蓑にするとはなァ! お前、今のは八十点だ!」
「…………」

 

 リィリは少し嬉しそうにした。
 ほんの少しだけ。

 フェンは銀貨をリィリの手に戻した。

 

「だがな」
「…………」
「これは返せ」
「…………?」

 

 リィリが首をかしげる。
 フェンはにやりと笑った。

 

「相手に気づかれずに返すまでが課題だ。奪うだけなら三流。返しても気づかれねェなら二流。奪われたことすら相手の得になったと思わせて一流だ」
「…………」

 

 リィリは銀貨を見た。
 そして女の袖口を見た。

 

 次の瞬間、リィリはとてとてと女へ近づいた。
 服の採寸をするふりで、女の手元に触れる。


 ほんの一瞬。
 銀貨は女のポケットへ戻っていた。

 

 女は気づかない。

 フェンは満足げに腕を組んだ。

 

「合格だ」

 

 リィリは振り返った。
 その顔には、やはりほとんど表情がない。


 けれどフェンには分かった。

 リィリは、少しだけ誇らしげだった。

 

「行くぞ、弟子一号。次は飯だ。風呂に入った後は食わせねェと倒れるからな」
「…………」
「投資だ投資。いちいち嬉しそうにするな」
「…………」

 

 リィリはフェンの袖をつまんだ。
 今度は、白金貨を盗むためではなかった。
 ただ、離れないようにするためだった。

 フェンはそれに気づいて、顔をそむける。

 

「……不倫理教育その二」

 

 歩き出しながら、フェンは言った。

 

「恩は売れ。礼は値切れ。善行は、悪事に加工しろ」

 

 リィリは小さく頷いた。

 そして歩きながら、そっとフェンの懐へ手を伸ばした。

 

「だからオレから盗るなって言ってんだろうが!」

 

 第二講義もまた、前途多難であった。

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