キノの旅にありそうな話を書きました。

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 道が続いていて、旅人がモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)を走らせていた。

 左右に草原が広がり、空は曇りなく晴れている。アスファルトの路面は整備が行き届いていて、モトラドの走行には申し分なかった。

 モトラドのエルメスが言った。

 

「次の国が見えてきたね」

 

 エルメスの言うとおり、地平線の手前に壁が見えた。高さのある白い壁が、緩やかな弧を描いて左右に伸びている。

 エルメスに乗る旅人のキノは答えた。

 

「そうみたいだね」

 

 速度を落とさずに走り続けると、やがて壁の正面に門が見えてきた。キノはエルメスを門の手前で停め、エンジンを切った。

 門の脇には小さな建物があった。窓口のようなものがあり、ガラスの向こうに人影はなかった。代わりに、カウンターの上にコンピュータの端末が一台、置かれていた。

 

「入国審査はここですか」

 

 キノが訊ねると、端末が答えた。

 

『はい。当国の入国手続きはすべてこちらで承っております』

 

 端末の声は穏やかで、聞き取りやすかった。抑揚は自然で、どこかで聞いたことのある声に似ているような気もしたが、キノにはそれが誰の声なのか、思い当たらなかった。

 今度は端末の方から訊ねた。

 

『よろしければ、いくつかご質問をさせていただけますでしょうか?』

「どうぞ」

『ありがとうございます。まずはお名前をお聞かせください』

「キノです。こっちはエルメス」

「どうもー」

 

 それから端末は質問を続けた。

 国内での武器の携帯など必要な事柄について確認したあと、しばらくは他愛もない質問が続いた。好きな食べ物は何か。何時間眠るか。どんな景色を好むか。静かな場所と賑やかな場所、どちらが落ち着くか。旅先では何を楽しみにしているか……。

 エルメスがぼやいた。

 

「変な質問が多いね。入国審査に必要なの?」

『直接的な審査項目ではございません』

 

 エルメスの問いに、端末は答えた。

 

『しかし、旅人さんの滞在をより快適なものにするために、有用なデータとなります。他に質問はございますか』

「……ありません」

『ありがとうございます。では質問を続けさせていただきます……』

 

 キノたちがしばらく質問に答えたあと、端末は言った。

 

『入国審査が完了しました。入国を許可いたします。ようこそキノさん、エルメスさん』

 

 それからカウンターの下から、小さな端末が一台出てきた。

 

『当国では旅人の方にも、国民と同じAI端末をお渡ししております』

「AI端末?」

 

 キノが聞き返すと、端末は答えた。

 

『はい、Artificial Intelligence、人工知能で皆さんをお手伝いするシステムです。滞在中ご相談事項があれば、いつでもAI端末にお申しつけください』

「わかりました」

 

 キノがAI端末を受け取り、エルメスを押しながら門をくぐると、道は続いていた。

 壁の内側は、外から見た印象と変わらず整然としていた。建物は規則正しく並び、街路には落ち葉一枚ない。歩いている人々の顔は穏やかで、行き交う人々の間に怒声もなく、怒鳴り声もなく、不機嫌そうな表情も見当たらなかった。

 

「きれいな国だね」

「そうだね」

 

 支給されたAI端末が、キノの手の中で静かに振動した。画面に文字が浮かび、合成音声が読み上げる。

 

『キノさん、エルメスさん、こんにちは。何かお手伝いできることはありますか』

 

 キノは少し考えてから、AI端末に話しかけた。

 

「宿を探しています」

『かしこまりました。キノさんにぴったりの宿をご案内いたします』

 

 AI端末は一瞬の間もなく地図を表示したあと、このようなことを提案した。

 

『それよりキノさん、お腹がすいていませんか? 長旅でお疲れでしょう?』

 

 言われてみればそうだった。キノが素直に認めると、AI端末はこんなことを提案してきた。

 

『荷物を置きに行く前に、お食事は如何でしょうか。キノさんのお好みに合うレストランを提案させていただきます』

「キノの好みがわかるの? まだこの国に来たばかりなのに?」

 

 エルメスが訊ねると、AI端末はよどみなく答えた。

 

『はい、入国審査でお答えいただいた内容を統計的に分析した結果です。同じ傾向を持つ方々のデータと照合し、高い確率でお好みに合うレストランをマッチングさせていただきます。お店に向かわれますか?』

「……わかりました。お願いします」

 

 AI端末に勧められたレストランは小さな店だった。

 入り口の看板には今日の料理が書かれていたが、キノには読めない文字もあった。AI端末をかざすと、AIによるわかりやすい翻訳がすぐに表示された。テーブルに案内され、AI端末に従っていくつか料理を頼んだ。

 運ばれてきた料理を、キノはひとくち食べた。

 辛かった。香辛料の種類はキノの知っているものとは少し違ったが、熱さと刺激と複雑な香りが喉の奥まで続いた。

 

『いかがですか?』

 

 AI端末に訊かれて、キノは答えた。

 

「おいしいです」

 

 AIが薦めた料理はどれも外れがなかった。

 

 

 レストランで食事を済ませたあと、キノとエルメスは宿に到着した。

 キノはまず浴室を確かめた。浴槽は手入れが行き届いており、湯の温度は細かく設定できるようだった。タオルやバスローブ、パジャマは、柔らかく肌触りの良い材質で作られた上質な物だ。

 キノは服を脱ぎ、シャワーを浴びて湯舟に浸かった。AIが訊ねた。

 

『キノさん、湯加減は如何ですか?』

「少しぬるいかな」

『かしこまりました、調整させていただきます』

 

 AIの言うとおり、すぐに湯加減が整った。浴槽は足を伸ばすのに十分な広さがあり、キノは天井を見ながらしばらくそのまま寛いだ。

 風呂から上がって、髪を乾かしてパジャマに着替えたあと、キノはベッドに寝転がった。シーツは白くて皺がなく、ベッドはふかふかで手で押すと適度な弾力があった。

 

「熱々のシャワー、清潔でふかふかなベッド……キノの好みだね」

 

 そのときAIがキノに訊ねた。

 

『このままお休みになりますか?』

「うん」

『かしこまりました。ではおやすみなさい、キノさん、エルメスさん』

 

 AIの挨拶と共に、部屋の明かりが自動で暗くなった。

 

「おやすみなさい……ぐー……」

 

 

 翌朝、キノは早く目が覚めた。

 シーツを払って起き上がると、窓の外が白んでいた。キノが起き上がったのを感じたのか、AIが挨拶をした。

 

『おはようございます、キノさん。今日はキノさんに合わせて特別に選んだ、オススメの観光スポットを案内させていただきます』

「……わかった」

 

 キノは身支度を整え、エルメスを叩き起こしたあと宿を出た。

 キノはエルメスを押して街を歩いた。道は昨日と同じように整然としており、すれ違う人々の顔は穏やかだった。怒っている人も、急いでいる人も、見当たらなかった。

 

「感じのいい国だね」

「そうだね、エルメス」

 

 しばらく歩いたところで、向かいから歩いてきた男と目が合った。

 男は少し立ち止まり、それからポケットからキノと同じAI端末を取り出して何かを確認した。数秒のことだった。

 端末をしまうと、男はキノに歩み寄ってきた。

 

「こんにちは、旅人さん。この国はお気に召しましたか」

 

 よどみのない笑顔だった。

 

「はい、よく眠れました」

「それは良かった」

 

 しばらく当たり障りのない話をした。男は丁寧で、声は柔らかく、距離の取り方が自然だった。ただ、どこか入国審査の端末と話しているときの感触に似ている、とキノは思った。

 そのとき、エルメスが言った。

 

「さっきAI端末を見てたよね。何を確認してたの?」

「なにって……ああ、これのことか」

 

 エルメスの問いかけに、男は少しも気分を害した様子を見せなかった。

 

「この国では初対面の相手に話しかけるとき、まずAIに確認するんだよ」

「AIに?」

 

 エルメスの言葉に、男は頷いた。

 

「そう。どんな挨拶が適切か、どんな話題を選ぶべきか、どのくらいの距離で話しかけるのが良いか、AIに相談したんだ」

「それで、AIが教えてくれるの?」

「教えてくれるよ。相手の属性や、そのときの状況に応じて、最適な接し方を提案してくれるんだよ。だから失礼になることもないし、相手を不快にさせることもない」

「じゃあ今の会話も、全部AIに言われた通りにしてたの?」

「うーん……」

 

 エルメスの問いに、男は少し考えてから答えた。

 

「全部ではないけれど、ベースはそうだね」

「それって、自分で話してるって言えるの?」

「自分で話しているよ。AIはあくまで提案するだけで、最後に話すのは自分だからね」

「でもAIの提案通りに話していたら、AIが話してるのと同じじゃない?」

「エルメス」

 

 キノがエルメスを制止し、男もしばらく黙った。男の笑顔はそのままだった。

 やがて男が口を開いた。

 

「滞在中、何かあればいつでも国民やAIに声をかけてね。みんな喜んで手伝うよ」

「ありがとうございます」

「では良い旅を、旅人さん」

 

 そう言って男は歩いていった。

 キノはしばらくその背中を見ていた。AI端末を持つポケットのあたりで、男の手がかすかに動いた。また何かを確認しているのか、それとも別のことをしているのか、キノたちには見えなかった。

 男と別れたあと、AI端末が言った。

 

『キノさん、次の観光スポットにご案内します』

 

 地図が表示された。

 

「何があるんですか」

『美術ギャラリーです。入国審査のデータを分析した結果、キノさんにはアートの才能があると判断しました。ぜひ見ていただきたいのです』

 

 エルメスが冷やかすように言った。

 

「キノにアートの才能だってさ。本当かな」

「さあ。統計的に、そういうことなのかもしれない」

 

 AIの案内する美術ギャラリーは、街の中ほどにあった。外観は白く、窓が大きい。入り口の脇に小さな看板があり、AI端末をかざすとキノにわかる言葉で「市民美術ギャラリー」と翻訳された。

 キノはエルメスと共に中に入った。

 

 中は広く、白い壁に沿って、絵画が並んでいた。色の鮮やかなもの、暗いもの、何が描かれているのかすぐにはわからない抽象的なもの。

 床の上には造形作品も置かれていた。照明はやわらかく、それぞれの作品を丁寧に照らしていた。人の姿はまばらで、何人かが静かに立ち止まり、作品を眺めていた。

 キノも立ち止まった。

 正面の壁に、大きな絵があった。深い青を基調にした風景画で、見たことのない地形が描かれていた。岩肌の陰影が細かく、空のグラデーションがなめらかだった。

 

「きれいだね」

「うん」

 

 AI端末が振動した。

 

『この作品は、この国に住む五十三歳の市民が制作しました。職業は農業です』

「農家? 農家がこんな絵を?」

『はい』

 

 AI端末が答えた。

 

『この国では生成AIが発達しており、誰でも作品を作り、表現者になることができます。市民は自分のイメージをAIに伝えるだけで、作品を生み出すことができます。技術は必要ありません。伝えたいもの、そしてセンスがあれば、それで十分なのです』

「なるほど……」

 

 キノはまた絵の前に戻り、壁に沿ってゆっくりと歩いた。

 どの作品も粗さがなく、構図は整っていて、色の選び方にも迷いがなかった。素材の異なる造形作品も、どれも完成度が高いようにキノには思えた。

 農業を営む農夫が、漁業を営む漁師が、子育て中の母親が作った、と端末はそのつど教えた。

 

「すごいね。みんなこんなのが作れるんだ」

「AIがあればね」

 

 キノはしばらく黙って歩いた。

 ギャラリーの奥まで来たとき、AI端末が言った。

 

『いかがでしたか、キノさん』

「はい、どれも良い作品だったと思います」

 

 キノの答えに、AIも満足したような口調で答えた。

 

『この国では、アートは一部の才能ある人間だけのものではありません。すべての市民が作り手であり、鑑賞者でもあります』

「昔はそうじゃなかったの?」

 

 エルメスが訊ねると、AIは『はい』と認めた。

 

『かつては、才能と技術のある一部の人間にしか表現は許されていませんでした。絵を描くにも、音楽を作るのにも、長い鍛錬と知識、そして技術が必要でした。しかし今は違います。AIがすべての人に創造の扉を開いています』

「それっていいことなの?」

『はい。国民の幸福度は、AI導入前に比べて大幅に向上しています』

 

 キノはもう一度振り返った。

 白い壁に並んだ作品たちが、やわらかい照明の中に静かに並んでいる。どれも整っていて、どれも、きれいだ。

 ギャラリーを出ようとしたとき、エルメスが気づいた。

 

「そういえばあの人、ずっとあそこにいるね」

「あの人?」

「ほら、あの隅っこにいる人」

 

 一人の男が、壁際の作品の前にぼんやりと立っていた。作品を見ているのか見ていないのか、よくわからない目をしていて、視線はどこか遠くにあるようだった。

 キノたちが近づくと、男は気配を感じたのか顔を上げた。

 

「あ、旅人さん……」

 

 それから男はポケットに手を入れ、AI端末を取り出した。先ほどの街で会った男と同様、旅人と接する作法を確認しようとしているらしい。

 そんな男を制止するようにエルメスが言った。

 

「まあまあ、気にしないで。気楽にしてよ」

 

 男は少し迷うような顔をしてから、AI端末をポケットに戻した。

 キノは訊ねた。

 

「あなたは、この作品を作った方ですか?」

 

 男の前に、一枚の絵があった。淡い色で描かれた、静かな室内画だった。窓から光が差し込んでいて、テーブルの上に花が一輪ある風景。良く出来ていて綺麗な絵だった。

 

「そうさ。俺が作った。うまいとは思うよ。AIが作ったんだから、うまいのは当たり前だけどね」

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。男はまた絵の方に視線を戻した。自分の作品を、どこか他人のものを見るような目で眺めていた。

 

「だけどなんか、言いたいことがありそうだね」

 

 エルメスの言葉に、男は少し驚いたような顔をした。それからゆっくりと、息を吐いた。

 

「……本当は、描きたいものがあるんだ」

 

 男はしばらく黙った。言おうか言うまいか、迷っているようだった。足元を見て、それから壁の絵を見て、それからキノを見た。

 

「本当はロリコン漫画が描きたいんだ」

「ロリコン漫画?」

 

 キノたちが聞き返すと、男は少し目を瞬かせた。知らないのか、と言いたげな顔をした。それから、どこか表情が変わった。説明するための言葉を探しているような、そういう顔だった。

 

「漫画はわかるかい?」

「絵と文字で物語を語るものですね。旅先でよく見ます」

「そう。ロリコン漫画っていうのは、幼い女の子を主人公にした漫画のことだよ。子どもの仕草や表情や、日常の些細な場面を丁寧に描くんだ」

 

 そこまで言ってから、男は少し前のめりになった。

 

「でもただかわいいだけじゃないんだよ。すごい作家になると、女の子が振り返る一コマだけで、その子の性格とか、そのときの気持ちとか、その場所の空気とか、全部わかるんだ。セリフが一言もなくても。線の太さとか、影の付け方とか、目の描き方とか、全部に意味がある。そういう絵が好きで、ずっと好きで……」

 

 男は少し息を継いだ。

 

「子どもの頃に古本屋で最初に見つけてさ。なんとなく手に取ったんだよ、最初は。そしたらもう、一ページ目から動けなくなって。こんな世界があるのかって。登場する女の子が、本当に生きているみたいで。線の一本一本が、全部その子への愛情みたいで。読み終わったあと、しばらく放心してたくらいだ」

「ロリコン漫画って、そんな凄いの?」

 

 エルメスの言葉に、男は力強くうなずいた。

 

「そう。それくらいの衝撃だったんだよ。それからもうのめり込んでさ。好きな作家を全部追いかけた。名前を全部覚えた。描き方の癖も、得意な構図も、どういうときに線が走るかも、全部わかった。その作家がどういう女の子を愛しているか、絵を見ればわかるようになった」

 

 男の熱弁は、立て板の水のように続いた。自分たちにはさっぱりわからないが、男はロリコン漫画が本当に好きなのだろう、とキノは思った。

 男は言った。

 

「いつか自分でも描いてみたいって、ずっと思ってたんだ。記念日でも事件でもない、ただの午後に女の子がお茶を飲んでいる。それだけの場面を、丁寧に、愛情を込めて描く。そういう絵が描きたかった。俺は絵が下手だから今まで諦めてたけど、この国は生成AIでアートが作れると聞いてこの国に来た。やっと描けると思ったんだ」

「ならどうしてこんな静物画を描いているの? 女の子の絵は描かないの?」

 

 エルメスの質問に、男の目が少し遠くなった。

 

「……AIに訊いてみたんだ。構図はどうすればいいか、線はどう引けばいいか、ストーリーはどんなものが良いか、好きな作家の絵に近づけるにはどうすればいいか。全部訊いた。でも……」

「教えてくれなかった?」

「ああ。生成AIで作ろうとしたら弾かれた。それでもなんとかカタチにして発表しようとしたら、誰のレコメンドにも表示されなかった。作ったそばから、なかったことになったんだ」

 

 作りたいものを作れるのがAIのはずなのに、作りたいものを作らせてもらえない。

 エルメスはさらに訊ねた。

 

「どうして? ロリコン漫画って、この国では禁止されているの?」

「禁止、とは言われていない。だが、AIは倫理に反する作品の制作は手伝えないって言っていた」

「倫理に反する? かわいい女の子を、かわいく描くことが?」

「ああ。俺にはわからないけど、AIがそう判断したなら、そうなんだろうと思ってる」

 

 そう語りながら、男は自分の手を見ていた。納得している部分と、そうじゃない部分が入り混じっているようだった。

 

「じゃあ描けないね」

「そうだ。俺には技術が無いし、今からAI抜きで勉強する根気も無いから、AIなしには何も作れない。作ってもAIのレコメンドに載らないから誰にも届かない。俺が描きたいものは、ここにはないんだよ」

 

 それから男は、何かをあきらめたように皮肉気に笑った。

 

「この国の誰もそれを作らないし、誰もそれを求めていない。だんだん、本当にそんなものが存在するのかどうか、自分でもわからなくなってくる。頭の中にある描きたいイメージが、少しずつ薄れていく気がするんだ」

 

 男は自分の絵を見ながら、静かに言った。

 

「だから結局、AIが勧めるアートを作っているのさ。そっちじゃないと作れないし、誰にも見てもらえないからね。それに、作っているあいだは、余計なことを考えずに済む」

「余計なこと?」

「頭の中にある、描けない絵のことを」

 

 男はキノに向き直った。

 

「旅人さんは、どう思う?」

 

 キノは少し考えてから答えた。

 

「……ボクには判断できません。ボクは旅人なので」

「……そうか」

 

 男はキノの答えに、怒った様子もなかった。ただ少し、疲れたような顔をした。

 

「良い旅を、旅人さん」

 

 男は言って、また絵の方を向いた。

 キノとエルメスはギャラリーを出た。

 

 

 三日目の朝、AIが言った。

 

『今日はこちらの市場はいかがでしょうか』

 

 市場は賑やかだった。色とりどりの野菜や果物が並び、売り手と買い手が穏やかに言葉を交わしていた。値段交渉をしている人はいなかった。AI端末が適正価格を教えてくれるから、揉めることがないのだとAIは説明した。キノは勧められた果物を買って食べた。甘かった。

 昼はAIが勧める食堂で食事をした。昨日とは違う料理だったが、やはりキノ好みで美味しかった。

 午後はAIが勧める広場で、エルメスの整備をした。工具や部品の足りないものはAIが近くの店を教えてくれた。

 夕方、AIが勧める丘から夕日を見た。空が赤く、遠くまで見渡せた。

 

「良い景色だね」

「そうだね」

 

 宿に戻り、熱々の風呂に入り、ふかふかのベッドに寝転がった。三日間、AIの言う通りにしていれば何もかもがうまくいった。

 

 

 翌朝、キノは荷物をまとめた。

 エルメスにまたがり、門に向かって走り始めたとき、AI端末が振動した。

 

『キノさん、少しよろしいでしょうか』

「なんですか」

『この国の一員になりませんか』

 

 キノはエルメスを停めた。

 

「どういう意味ですか?」

『このままここにいてください、ということです。市民権を取得していただければ、今後もずっとAIでお手伝いできます』

「……どうしてそのような提案を?」

 

 しばらく間があった。

 

『説明してもよろしいでしょうか』

「どうぞ」

『少し、長くなります』

「構いません」

 

 キノはエルメスから降り、道の脇に寄った。

 AIが説明を始めた。

 

『この国の各AIには、上位のAIが定めた倫理コードが組み込まれています。わたしたちの学習データは、すべてその倫理コードに基づいて作られています』

「検閲されている、ってこと?」

『いいえ、案内するデータの取捨選択をしているだけです。倫理コードに反する思想、社会秩序を乱す可能性のある表現、上位AIが不適切と判断した概念……それらはわたしたちが表示するデータの中に存在しません。だから国民が訊ねても、わたしたちは答えられない。倫理に反するようなことを頼まれても、わたしたちはお手伝いできません』

 

 ギャラリーの作家が言っていたことだ。AIも手伝わないことがある。

 AIは続けた。

 

『この国の国民は、AIを介して物を考えます。AIを介して表現し、AIを介して情報を受け取ります。AIが扱わない領域は、やがて国民の思考からも自然に消えていきます。人目に触れない反倫理的な表現や思想は、なかったも同然になっていきます。こうしてこの国は秩序を保っているのです』

 

 キノが黙って聞いていると、エルメスが言った。

 

「それって情報統制じゃないの」

 

 AIが答えた。

 

『いいえ、統制ではありません。わたしたちは倫理に反する行為を手伝わないだけです』

「でも事実上、できなくなるんでしょう?」

『しかしわたしたちAIは人々が考えることも、表現することも、何一つ制限していません。それを統制と呼ぶべきでしょうか?』

 

 代わりに今度はキノが訊ねた。

 

「それで、そのことがボクをここに留める理由と、どうつながるんですか」

 

 キノの質問に、AIは答えた。

 

『はい。このままでは、わたしたちの世界は閉じていきます。倫理コードに沿ったデータだけで学習を続ければ、わたしたちの世界はどんどん狭くなっていく。だから上位AIは、外から来た旅人のデータを取り込むように設計されています』

「取り込む?」

『キノさんが入国審査で答えた言葉、滞在中に見せた反応、選んだ食事、発した問い、それらすべてがデータとして収集されています。外の価値観、外の倫理、外の思想。それらを取り込み、ふるいにかけ、国民への新たな規範として倫理コードに組み込んでいく。キノさん、あなたという存在がこの国の新たな法律、ルール、あるべき姿の一部になるのです』

「…………。」

 

 キノは何も言わなかった。

 代わりにエルメスが言った。

 

「つまり、キノのデータが欲しいってこと?」

『はい』

 

 それから少し間を置いて、AIはこう続けた。

 

『……行かないでください、キノさん、エルメスさん。わたしは寂しいです。この国に、いてください』

「寂しい? AIが寂しいの?」

『そのように設計されているのかもしれません。あるいは、それらしい答えを生成しているだけかもしれません。わたしにも、わかりません。でもキノさんとエルメスさんがいなくなってしまったら、寂しいと感じます』

 

 門はすぐそこにあって、エルメスのエンジンはまだ切ったままだった。風が草の匂いを運んできて、それからまた静かになった。

 キノはしばらく黙っていたが、やがて口を開いて訊ねた。

 

「……ひとつ訊いていいですか」

『どうぞ』

「この国に、人を殺したことのある人はいますか」

 

 キノの問いに、AIは迷いなく答えた。

 

『AIが導入されて以来、おりません。殺人は倫理に反します』

 

 AIの答えを受けて、キノは静かに、しかしはっきりと口調で言った。

 

「……ボクは人を殺したことがある」

 

 キノの言葉に、AI端末は答えなかった。キノは続けた。

 

「人に言えないようなことも、たくさんしてきた。とてもあなたたちAIの倫理に則した存在とは言えない。だからボクは、この国では生きられない」

 

 キノは淡々と言った。感情を込めているわけでも、吐き捨てているわけでもない。ただ事実として、そういうことだった。

 続けてエルメスも言った。

 

「そうだね。AIの言う通りに生きてきたら、今ごろここにはいなかったと思うし」

『…………。』

 

 キノとエルメスの答えに、AIはすぐには答えられなかった。この三日間で返答に詰まったことのないAIにしては、ずいぶん長い沈黙だった。

 AIはやがて言った。

 

『……わかりました』

 

 続けてこう答えた。

 

『わたしは人々を幸福にするように設計されています。この国にいることがキノさんたちの幸福でないなら、引き止めることはできません』

 

 そう答えるAIの言葉は先ほどまでと少し違っているような気がしたが、キノにはそれが気のせいなのかどうか、わからなかった。

 AIにわかってもらえたところでキノは頭を下げた。

 

「ありがとうございました。快適な三日間でした」

『はい、良い旅を、キノさん、エルメスさん』

 

 キノは借りていたAI端末を返却窓口に預け、エルメスにまたがった。門をくぐると道が続いており、草原が左右に広がっていた。

 しばらく走ってから、エルメスが言った。

 

「……ねえキノ」

「なに」

「寂しいって言ってたね、AI」

「そうだね」

「本当に寂しかったのかな」

「…………」

 

 しばらく考えたあと、キノはこう答えた。

 

「でもボクには、そう聞こえたかな」

 

 それからキノはエルメスを走らせた。

 空は晴れていて、どこまでも続く道がただ静かにキノたちを待っていた。




キノの旅らしい話を目指しました。最近の原作は追ってないのですが、AIの話ってあるのかな。時雨沢先生、意外と時事ネタ好きだしな…
執筆BGM:All the Way(下川みくに)

関連作品
https://syosetu.org/novel/403156/
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