最下層の腐臭が立ち込める泥濘の中を、その男は音もなく進んでいた。全身を覆うのは、無数の鋭い鉄棘が突き出した不気味な赤褐色の鎧。人々は彼を「トゲの騎士カーク」と呼び、死を振りまく侵入者として忌み嫌った。
だが、兜の奥にある瞳が求めているのは、名誉でも富でもない。ただ一つ、血の混じった温かな「人間性」だけだった。

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棘の騎士カーク

混沌の棘:静かなる献身

最下層の腐臭が立ち込める泥濘の中を、その男は音もなく進んでいた。全身を覆うのは、無数の鋭い鉄棘が突き出した不気味な赤褐色の鎧。人々は彼を「トゲの騎士カーク」と呼び、死を振りまく侵入者として忌み嫌った。

だが、兜の奥にある瞳が求めているのは、名誉でも富でもない。ただ一つ、血の混じった温かな「人間性」だけだった。

「……また、一つ」

足元に転がった亡者の死体から、黒く揺らめく霧のような塊をすくい上げる。それは呪われた不死が唯一、人間としての尊厳を繋ぎ止めるための糧。カークはそれを、まるで壊れ物を扱うように大切に懐へと収めた。

彼が向かうのは、灼熱の溶岩が煮えたぎるクラーグの住処のさらに奥。そこには、言葉を失い、視力を失い、ただ苦痛の中で卵を産み続ける「彼女」がいた。

「姫様……」

カークは膝をつき、蜘蛛の体を持つ白い少女――混沌の娘の前に人間性を差し出す。彼女の白い肌は病に侵され、絶え間ない震えが止まることはない。彼女がすする人間性の輝きこそが、彼女の命を繋ぐ唯一の薬だった。

彼女は何も言わない。かつて大火の災厄から妹たちを救おうとして毒を飲み干し、その代償としてこの哀れな姿になった聖女。カークはかつて、彼女の慈愛に触れた騎士の一人だった。

「……あなたの苦しみを、私が肩代わりできれば良いのですが」

カークは立ち上がり、再び暗闇へと背を向ける。

次に狙う獲物は、祭祀場に集う不死か、あるいは運命を切り拓こうとする「選ばれし不死」か。

棘だらけの鎧は、彼女に触れることを許さない。抱きしめることさえできない。

しかし、この棘があるからこそ、彼は誰よりも深く敵の懐に飛び込み、その血を浴びることができる。この呪われた武装こそが、彼女に捧げる愛の証だった。

「侵入します……」

霧の彼方から聞こえる鐘の音を合図に、カークの姿は赤い影となって消えていった。

誰に理解されることもなく、ただ一人の少女のために、トゲの騎士は今日もまた地獄を彷徨い続ける。

 

【赤褐色の手記:ある侵入者の独白】

〇月×日

今日もまた、最下層の泥を這いずり回った。

この鎧は重い。無数の棘は、敵を切り刻むには都合が良いが、歩くたびに自分自身の肉をも苛む。だが、この痛みこそが、私がまだ「人間」であることを思い出させてくれる唯一の刺激だ。

手に入れた人間性は三つ。どれも濁っており、質は良くない。

だが、あの方の苦痛を少しでも和らげられるのなら、泥を啜ってでも集めねばならない。

〇月△日

デーモン遺跡の入り口で、一人の不死と剣を交えた。

手強い相手だった。私の棘を恐れず、真っ向から打ち込んできた。

最後の一撃を叩き込んだ瞬間、兜の隙間から見えた相手の瞳に、かつての自分を見た気がした。使命を持ち、正気を保とうともがく者の瞳だ。

私はその男から「人間性」を奪った。

あの方に捧げるためだ。すまぬとは言わない。私は既に、人の道を外れたトゲの騎士なのだから。

×月□日

あの方の御前へ。

彼女の肌は、日に日に白さを失っていく。私の捧げた人間性を飲み干す時、ほんの一瞬だけ、彼女の震えが止まる。

「……ありがとう、私の卵守よ」

彼女の掠れた声が、私の乾いた心に染み渡る。彼女は私を、かつて彼女を支えた「卵背負いたち」の仲間だと思っているのかもしれない。あるいは、もっと別の……。

私は何も答えず、ただ静かに一礼して立ち去った。

この棘だらけの手では、彼女の頬を拭うことすら叶わない。

 

日付はかすれて読めない

姫様。あなたの白い髪が、今日もまた数本、床に落ちていました。

かつてイザリスの地を歩んでいた頃のあなたの姿を、私は夢に見ます。美しく、誇り高く、そして誰よりも慈悲深かった。

毒に苦しむ哀れな者たちを救うため、あなたは自らの体を器にされた。その報いが、この暗く湿った卵の部屋での幽閉だというのですか。

世界は残酷だ。ならば、私はそれ以上に残酷な獣にならねばなりません。

日付不明

今日、あなたが私に話しかけてくれました。

「クラーグ、あなたなの? また私のために、何か持ってきてくれたのね」

……私は声を出せません。私の声は、もはや鉄錆の混じった不気味な唸りでしかない。

あなたは私を、あなたの姉上だと思っている。目の見えぬあなたは、私から漂う返り血の臭いを、クラーグ殿の戦いの残り香だと勘違いされている。

私はあえて否定しませんでした。あなたが、自分を護る者がまだ傍にいると信じて微笑むのなら、私は喜んで影となり、死んだ姉君の代わりを演じましょう。

深い夜

私の棘は、あなたを傷つけるためにあるのではない。

あなたを汚そうとする者、あなたの静寂を乱す者、そのすべてを遠ざけるための檻なのです。

あなたの肌はあまりに白く、脆い。

私の鎧はあまりに赤く、醜い。

一度でいい。この棘をすべて引き抜き、血みどろの素肌のままで、あなたの震える手を握ることができたなら。

……そんな妄想は、私には許されない。

日付不明

人間性が足りない。

あなたの震えがまた激しくなっている。

私はこれから、火継ぎの祭祀場へ向かう。そこには新鮮な人間性を持った亡者どもが溢れている。

もし、私が戻らなければ……。

いいえ。私は必ず戻ります。

あなたの痛み、あなたの嘆き。そのすべてを私がこの棘で受け止め、代わりに泣きましょう。

我が愛しき、混沌の娘よ。

トゲの騎士カークが「不死人狩り」として、冷酷に、しかし狂気的なまでの使命感を持って獲物を追い詰める様子を、手記の形式で綴ります。

 

【赤褐色の手記:狩りの記録】

〇月×日 最下層にて

今日の獲物は、見窄らしい旅人の装束を着た若者だった。

彼は逃げ場のない水路の角で、震えながら剣を構えていた。私が影から現れると、彼は絶望したように叫んだ。

「なぜだ! 私は何もしていない!」

……その通りだ。お前は何もしていない。ただ、その内に「人間性」という名の輝きを宿しているだけだ。それが、お前が私に殺される唯一にして最大の理由だ。

私は言葉を返さず、ただ前へ出た。

彼が放った矢は、私の棘に弾かれ、空しく水面に落ちた。私はわざと距離を詰め、体ごとぶつかっていく。

棘が彼の柔らかな皮膚を引き裂き、悲鳴が水路に反響する。肉が削れる感触、返り血の熱さ。

この不快な感触こそが、姫様を生かす糧になる。

〇月△日 城下不死街の最下層付近

二人組の不死を狩った。

一人は魔法を使う女、もう一人は大盾を持った騎士。

彼らは「火を継ぐ」という大義を口にしていた。滑稽だ。そんな遠い希望のために命を散らすなら、今ここで私の姫の苦痛を和らげる一滴(ひとしずく)となったほうが、よほど救いがある。

盾の隙間に剣を差し込み、トゲの付いた盾で顔面を打つ。

女が泣き叫びながら許しを請うたが、私の心は動かない。

私の心は、あの日、姫様の震える背中を見た時に死んだのだ。

私は彼女たちの死体から、黒い温もり――人間性を引き抜いた。

これで、あと数日は彼女の呼吸が楽になるはずだ。

日付不明

狩れば狩るほど、私の鎧は赤黒く染まっていく。

染み付いた血の臭いは、どれだけ泥水で洗っても落ちない。

最近は、夢を見る。

私が狩った無数の不死たちの指先が、私の鎧の棘に引っかかり、私を奈落へ引きずり込もうとする夢だ。

それでも構わない。

私が地獄へ落ちることで、彼女のいる場所が少しでも天国に近づくのなら。

狩りを続けよう。

次なる獲物は、鐘を鳴らしにやってくるあの「選ばれし不死」か。

その首に宿る濃い人間性……必ずや、我が姫の祭壇へ。

 

【赤褐色の手記:最後の侵入と、帰還の祈り】

一、宿敵との死闘

日付:不明(もはや筆を執る指も震えている)

ついに現れた。二つの鐘を鳴らし、運命を切り拓こうとする「選ばれし不死」が。

デーモン遺跡の灼熱の風が吹く橋の上で、私はその者と対峙した。

その者の瞳には、私がこれまで狩ってきた亡者どもとは違う、消えることのない火が宿っている。

私は無言で直剣を抜き、盾を構えた。

言葉など不要。私が欲しいのはお前の人間性であり、お前が欲しいのは先へ進むための私の死だ。

私は自らトゲの塊となり、その者の懐へと転がり込む。鎧の棘が相手の甲冑を削り、火花が散る。だが、その者は退かない。鋭い刺突が私の脇腹を貫き、熱い血が溢れ出した。

痛みは心地よい。この痛みが強ければ強いほど、私は「彼女を護る盾」であることを実感できるからだ。

「……おおおおお!」

私は吼えた。鉄錆の混じった、獣のような咆哮だ。

死力を尽くし、棘の盾で相手を押し潰そうとしたその瞬間――

視界が反転した。

私の胸に、その者の大剣が深く、深く突き立てられていた。

意識が遠のく中、私は見た。

その者が私から溢れ出す人間性を奪わず、ただ悲しげに私の骸を見下ろしているのを。

……勝てなかった。姫様、申し訳ございません。私は、これ以上……。

二、束の間の安らぎ

……最期の記憶

私は這っていた。

選ばれし不死に敗れ、赤い霊体としての形を失い、ボロボロになった実体をクラーグの住処の隅へと引きずっていった。

鎧の棘は折れ、もはや立ち上がる力もない。

辿り着いたのは、彼女の部屋の隅。

そこは、彼女の姿を最も近くで、しかし彼女に触れずに見守れる場所。

「……クラーグ? お帰りなさい、お姉様」

彼女の、鈴を転がすような声が聞こえる。

私は返事ができない。血を吐き出しながら、ただ静かに彼女を見上げた。

彼女は、私が捧げた人間性の残り香を感じているのか、穏やかな表情を浮かべている。

私は折れた剣を置き、その場に崩れ落ちた。

全身を苛んでいた棘の痛みが、不思議と消えていく。

ここには溶岩の熱気も、不死人の叫びも、侵入の義務もない。

ただ、彼女の静かな呼吸音だけが満ちている。

姫様。

私はあなたを護るために多くの命を奪い、自らもトゲの獣となりました。

世の人々は私を呪い、あなたは私を姉だと思い込んでいる。

それでいいのです。

あなたの夢の中で、私は優しい姉のままでいられるのなら。

私は、彼女の足元に広がる白い糸に寄り添うようにして、ゆっくりと瞳を閉じた。

これが、トゲの騎士に許された唯一の、そして最高の安らぎだった。

(手記はここで途切れている。ページには乾いた血痕と、小さな涙の跡のようなシミが残っているだけだ)

最期の瞬間を看取った者、そしてもしもの救い――二つの結末を綴ります。

 

【エピローグ:二つの終着点】

終章一:遺された者の視点

カークが息絶えたその場所を、一人の旅人が訪れた。

かつて彼と死闘を繰り広げた「選ばれし不死」である。

姫様の部屋の隅、誰にも気づかれないような暗がりに、その骸はあった。

誇り高き騎士の面影はなく、ただ赤黒く錆びついたトゲだらけの塊が、壁に寄りかかるようにして静止している。

旅人は、その骸の傍らに落ちていた「手記」を拾い上げる。

血に濡れ、判読不能な文字の隙間から、ただ一つの単語だけが浮き上がっていた。

「――姫様」

旅人は、静かに寝息を立てる混沌の娘を振り返り、次に目の前の骸を見た。

この男がどれほど忌み嫌われ、どれほどの罪を重ねてきたか、旅人は知っている。

だが、その骸からは不思議と邪悪さは感じられなかった。

あるのは、役割を終えた道具のような、空虚で、それでいて純粋な静寂だけだった。

旅人は、手に入れた貴重な「人間性」を一つ、黙って姫様の祭壇に供えた。

それが、言葉を交わすことのなかった宿敵への、せめてもの弔いであるかのように。

 


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