『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第34話

第三十四話 貴様という(いかり)

 

 

事件の煤の匂いが薄れて、瀞霊廷が事務の顔を取り戻しはじめた頃、僕はやたらと隠密機動の人を見かけるようになった。

 

任務の行き帰り。五番隊舎の渡り廊下。流魂街へ降りる道。視界の隅を漆黒の装束がよぎっては、消える。最初は気のせいだと思った。けれど数えるうちに、気のせいで済む回数ではなくなった。

 

(……この三日で、四回。多いよね?)

 

一度だけ、振り向いた先の屋根の稜線で、影が夜に溶けた気がした。確かめには行かなかった。触らぬ神に、なんとやらだ。

 

事件のあとの瀞霊廷が張り詰めているのは分かる。中隊がまるごと消えて、隊長が三人いなくなったのだ。警備が厚くなるのは当たり前だった。当たり前だと、思うことにしていた。

 

そこへ、呼び出し状が来た。

 

差出は二番隊。用件は書かれていない。指定の刻限に二番隊舎へ出頭せよ、とだけ。僕はその薄い書付を、意味もなく二度持ち直した。

 

(二番隊。隠密機動。……なんで、僕)

 

◆ ◆ ◆

 

二番隊舎の奥の一室は、火の気がなくて冷えていた。

 

通されて、少し驚いた。文机の向こうにいたのは砕蜂さんだった。夜一さんの一番弟子だった人。今は二番隊隊長で、隠密機動総司令官。事件で空いた頂に立った人だ。文机の脇には決裁待ちらしい書類が膝の高さまで積まれていて、僕が敷居を跨いでも、筆の音はしばらく止まらなかった。

 

「遺玉院詩織」

 

「は、はいッ」

 

「貴様の霊圧には、不自然な歪みがある。前から目をつけていた」

 

僕は袖の中で、帯の端を握り込んだ。

 

(——歪み。歪みって言った。絞りのことか、膜のことか、どこまで見えて——)

 

「事件以来、あらゆる不審な気配を洗い直している。貴様もその対象に入った。本日付で、貴様の動向は二番隊が把握する。任務の前後に報告を上げろ。何処で、誰と、何をしたか。一つ残らずだ」

 

砕蜂さんは帳面を開くと、僕の見ている前で一行、筆を走らせた。遺玉院詩織。僕の名前が監視対象の名簿に載った。墨が黒々と光っていた。

 

帳面は厚かった。僕より前にも、大勢の名前が綴じられているらしい。それで少しだけ、息がしやすくなった。

 

絞りの内側で霊圧が波立たないように、僕は息を細くした。

 

(落ち着け。網だ。ただの網。事件のあとの、大きくなった網。僕は端に引っかかった雑魚。名指しじゃない。名指しじゃない、はず)

 

考えてみれば、当たり前のことではあった。あれだけの事件が起きたのだ。不審な霊圧を片端から洗うのは当然で、長年かけて「中の下」を装ってきた僕の霊圧が網に掛かるのも、当然といえば当然だった。監査が厳しくなったんだ。それだけだ。だったら、いつも通りにすればいい。報告を求められれば丁寧に上げる。隠すことは隠したまま、見せていいものだけを見せて。

 

「……承知、しました」

 

僕は深く頭を下げた。

 

「流魂街へ降りる時は、事前に届けを出せ。私の目の届かぬ所を、作るな」

 

「はい」

 

「事件のあとだ。狙う側だけでなく、狙われる側に回る者も出る。監視は、貴様の身の安全のためでもある。心得ておけ」

 

見張るついでに、守ってもくれるらしい。監査と護衛が一緒に来たようなものだ。

 

(見張られながら守られる。器用な立場になっちゃったな、僕)

 

「報告を怠るな。……怠るな。私の知らぬ所で。貴様が。何かをするな。それが規律だ」

 

同じ言葉を、砕蜂さんは二度言った。二度目は区切り方が少し変だった。それだけ念を押したい規律なんだろうと思って、僕はもう一度頭を下げた。

 

「ご迷惑を、おかけして。気をつけます」

 

砕蜂さんは何も言わなかった。筆の尻で帳面を一度だけ叩いて、視線を書類の山へ戻した。話は終わりらしい。僕は退がりかけて、それから、つい余計なことを言った。積み上がった決裁の山と火の気のない部屋、筆を持ちっぱなしの細い手が目に入ってしまったからだ。夜一さんが消えて、その穴をこの人がひとりで埋めている。

 

「あの。砕蜂さん……じゃ、なくて。そ、総司令官。お体に、気をつけてください。お忙しいでしょうから」

 

言ってから、しまった、と思った。

 

(監視されてる側が、監視する側の体調を気遣うって、何)

 

砕蜂さんは一瞬、瞬きを止めた。何か言いかけて、飲み込んだように見えた。それから、低い声が落ちた。

 

「……余計なことを言うな。下がれ」

 

◆ ◆ ◆

 

廊下に出てから、やっぱり気を悪くさせたかな、と思った。

 

あの人を怒らせると後が厄介だ。次からは余計なことは言うまい。報告だけを、淡々と。そう心に決めて、僕は冷えた渡り廊下を急いだ。

 

報告の書き方も、その晩のうちに決めた。何処で、誰と、何をしたか。書いていいことだけを、丁寧な字で並べる。嘘は書かない。嘘は、照合された時に終わる。本当のことを薄く並べて、その薄さで隠す。いつもの綱渡りの、紙の上の版だ。

 

変なの、と自分でも思う。瀞霊廷でいちばん目の鋭い人に見張られることになって、怯えているくせに、同じ口でその人の体の心配をしている。怯えと心配は、同じ胸に並べて置けるものらしい。僕はそれを、いつもの綱渡りの荷物にひとつ足した。

 

その夜、内界で、僕は砕蜂さんのことを口にした。

 

「砕蜂さんが、僕の監視の担当になったんだ。名簿にも正式に載った。……夜一さんがいなくなって、あの人、ずいぶん無理をしてると思う」

 

琥珀姫は、しばらく黙っていた。

 

灯篭の灯が、いつもより硬い色をしていた。

 

「主様は」

 

やがて、静かな声がした。

 

「あのお方のことも、ずいぶん気にかけられるのですね」

 

「うん。心配なんだ。置いていかれた人だから」

 

「……さようでございますか」

 

琥珀姫の声は凪いでいた。その静けさを、僕は自分の身を案じる気持ちなのだと思った。監視がきつくなったことを、心配してくれているのだと。

 

「大丈夫。うまくやるよ。綱渡りの綱が、一本増えただけだから」

 

琥珀姫は、もう何も言わなかった。

 

ただ、ベールの裾が、音もなく一度だけ揺れた。

 

◆ ◆ ◆

 

夜一様が去って、数ヶ月になる。

 

総司令官の執務室は、椅子が広すぎる。私は毎朝その端に浅く座って、決裁の山を右から左へ崩す。隊首会は形ばかりの承認をよこした。頂が空いたとき、立てる者がほかにいなかった。それだけのことだ。執務机の抽斗は、いちばん奥のひとつだけ、まだ開けていない。あの方が使っていた頃のままだ。

 

羽織に袖を通すとき、裏地の琥珀色が目の端をよぎる。二番隊の羽裏(はうら)は、古くからこの色と決まっている。意味は、何も求めぬ。……今朝は、袖を通すのに一拍かかった。

 

報告書を検める。九番隊の補充人事。四番隊の救護記録。次の頁。五番隊の隊士名簿——その一行で、指が止まる。

 

遺玉院詩織。中の下の霊圧。可もなく不可もない勤務評定。何の変哲もない一行だ。新しい綴りだというのに、この頁だけ、角が柔らかくなっている。

 

あれは不審者だ。霊圧に歪みがある。装いが滑らかすぎる。何かを隠している。事件のあとの瀞霊廷で、洗わぬ理由がない。監視対象の帳面にあの者の名を記したのは、この手だ。あの者が退がったあと、墨が乾くまで、私はその頁を見ていた。誰に咎められることもない。総司令官の職掌の内だ。これは任務だ。

 

報告の日を定めた。あの者は、一度も欠かさず来る。

 

「三日、西の二十四地区にて魂葬任務。同行は六席以下の三名。往路は白道橋、復路も同じ道を。途中、橋の袂で……え、と。子供に道を訊かれて、少し話しました。それだけ、です」

 

読み上げる声を、私は文机の向こうで聞く。中身は、聞く前からあらかた知っている。往路も、復路も、橋の袂の童のことも。裏は、取ってあるからだ。あの者はそれを知らない。知らぬまま、俯いて、正直に読み上げていく。言い淀む前に、息を半分呑む癖がある。困ると、袖の中で帯の端を握る癖がある。帳面には書かぬ。書かずとも、覚えている。

 

「以上か」

 

「は、はい」

 

「……次は三日後だ。行け」

 

足音が渡り廊下の向こうへ消えるまで、私は筆を持ったまま動かずにいた。

 

言い訳を並べると思っていた。

 

誰しも監視を(いと)う。問い返す。渋る。逃げ道を探す。監視を告げたあの日、あの者はただ頭を下げた。怯えた目をして、それでも逃げずに。承知しました、と。あの従順さに、喉の奥が固く詰まった。

 

ご迷惑を、おかけして——迷惑。

 

違う。そうではない。言いかけた先を、あの日、私は飲み込んだ。代わりに規律を言い直した。二度。自分の耳に確かめさせるように。

 

誰もが、一夜で私の呼び方を変えた。

 

総司令官。砕蜂隊長。呼び名が改まるたび頭の下げ方が深くなり、目が合わなくなり、廊下の端が空くようになった。行き合う席官は三歩手前で壁際に寄って、目を伏せたまま私が通り過ぎるのを待つ。それでいい。頂とはそういう場所だ。夜一様も、そこに立っていた。

 

なのに、あの者だけが変わらなかった。

 

昔のままの呼び方でつまずいて、慌てて言い直して、結局どちらつかずのまま深々と頭を下げた。それから、下げた頭のままで言った。お体に気をつけてください、と。お忙しいでしょうから、と。

 

監視されている側が。監視する側の。体の、心配をした。

 

三つ数えるほどの間、私は瞬きを忘れていたらしい。余計なことを言うな、と返した自分の声は、聞き覚えのない音をしていた。低すぎたのではない。掠れたのでもない。ただ、知らぬ音だった。

 

あの者は、誰にでも頭を下げる。誰にでも、丁寧に礼を言う。そういう男だと、監視の記録が言っている。……だが、私の呼び方だけは、変えなかった。

 

あれから、決裁の途中で筆が止まる。お体に気をつけて。……貴様に、何が分かる。私の体の何を知って、誰に向かって、あんな——

 

規律だ。任務だ。問題ない。何も問題ない。

 

私は筆を取り直す。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、あの者は遅い任務明けだった。

 

詰所の灯が落ちて、あの者がひとりで隊舎への夜道を戻りはじめる。私は屋根の上にいた。日暮れ前から、そこにいた。

 

影を継いで、追う。

 

隠形。瞬歩。瓦から瓦へ。足音は立てぬ。気配は殺してある。月のない夜で、辻の常夜灯だけが道の輪郭を浮かべている。あの者は提灯を持たない。夜道を、覚えた足で歩く。灯がないほうが、こちらは追いやすい。歩幅は変わらない。狭い、用心深い歩幅。二十歩の間合いを十歩に詰める。十歩を、五歩に。

 

呼吸が数えられる距離まで、寄った。

 

数えられると思った時には、数えはじめていた。四つ。五つ。浅い息だ。今日の疲れの分だけ、浅い。

 

襟元から、汗と埃の匂いがする。今日の任務は西の外れの魂葬だった。埃の質でそれと分かる。歩調に合わせて肩が上下する。首筋の産毛が、常夜灯の明かりで淡く光る。ここまで寄っても、あの者は気づかない。中の下の、凡庸な霊圧。その膜の内側で、何が眠っているのか。

 

角を曲がった、その一瞬だった。

 

膜が、ほつれた。

 

中の下の底から、別の何かが糸のように覗いた。私は間合いを殺して踏み込んだ。見る。ほつれの奥を。

 

何もない。

 

ほつれは塞がっていた。初めから何もなかったかのように、凡庸な霊圧だけが夜道を歩いていく。幻か。いや。確かに見た。何かはある。何かは、分からぬ。何度追っても、同じところで霧が降りる。隠密機動で磨いたこの目をもってしても、届かぬ。

 

舌の奥に、鉄気に似た味が湧いた。奥歯を、噛んでいたらしい。

 

……逃がさぬ。解くまでは目を離さぬ。それが任務だ。

 

あの者が、立ち止まった。

 

夜空を見上げている。何を見ているのかは分からない。星のない、墨を流したような空だ。無防備な首筋と、無防備な背中が、手を伸ばせば届く先にある。昨日までの間合いより、一歩内側に私はいた。いつ詰めたのかは、覚えていない。

 

手が、伸びかけた。

 

指先が夜気に触れて——止めた。

 

触れて、どうする。捕らえるのか。確かめるのか。私は今、何をしようとした。

 

答えが出る前に、あの者が歩き出した。私は瓦の上で三つ数えてから、また影を継いだ。

 

◆ ◆ ◆

 

五番隊舎の見える屋根に、私は残った。

 

あの者が門をくぐり、渡り廊下を渡って、棟の奥へ消えていく。しばらくして、東の端から三つ目の窓に灯が点った。見届けてからも、私は降りなかった。

 

首筋に、ふと冷たいものが触れた。

 

視線に似ていた。振り向く。誰もいない。夜と、瓦の連なりがあるだけだ。このごろ、時折これが来る。夜半、決まって、あの者を見ている時に。隠密機動の総司令官を見張る者など、この瀞霊廷にいるはずもないが。

 

気のせいだ。

 

夜風が羽織の裾を鳴らして、何も求めぬ色の裏地が、闇の中で一度だけ(ひるがえ)った。

 

五番隊舎の灯が、一つ、また一つと落ちていく。

 

私は瓦の上に片膝を突いたまま、灯を数える。十。九。八。あの者の窓の灯が消えるのは、いつも、最後から二番目だ。

 

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