締切で月に吐いた嘘が、王国予算になりました ~三流記者の適当な新大陸予言を、月蝕の魔女だけが嘘だと知っている~   作:喧々鰐々

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第21話 商人組合の金貨袋

表口の鈴が鳴った。

俺はペン先を紙から浮かせた。白い教会の出頭要請、王女の封書、投書袋、訂正案。机の上はもう紙の墓地みたいになっている。

そこへ新しい来客である。

 

「本日は客が多いな、増刷決定か?」

 

バスティアン編集長が、丸眼鏡の奥で目を輝かせた。

 

「来客を部数で数えないでください」

 

バスティアンが扉を開けると、そこに立っていたのは教会の白ではなかった。

濃い葡萄色の上着。磨かれた靴。革の書類鞄。胸元には小さな帆船の徽章。その横に、帳面を抱えた若い書記が一人。

ヴェルヌ商会だ。

しかし、今日は広告前金の番頭ではなく、もっと柔らかい笑顔をした男だった。

 

「月桂冠通信、バスティアン・ベルナール編集長。ならびにユーリ・ミクラ様でいらっしゃいますね」

 

「編集長は私です。筆者はこの青い顔です」

 

「紹介の仕方」

 

男は室内へ入り、帽子を胸に当てた。

 

「ヴェルヌ商会、商人組合連絡役のジェラール・フォッセと申します。本日は、ランベール会長の名代として参りました」

 

ヴェルヌ・ランベール。

昨日カードを置いていった、利権と物流を握る大商人だ。

モルガーヌが窓際で目だけを向けた。

 

「朝から金の匂いがするわね」

 

ジェラールは笑顔を崩さなかった。

 

「恐縮です。実物もございます」

 

書記が革鞄を机に置いた。

どすん、と音がした。

紙の音ではない。インク壺でもない。俺の薄給生活では聞き慣れない、密度のある音だった。

 

「開けても?」

 

バスティアンの声が少し上ずった。

 

「どうぞ」

 

金貨袋が出てきた。

革袋が三つ。紐で締められ、赤い封蝋に商人組合の印が押されている。書記が一つだけ紐を解くと、中の金貨が朝の光を受けた。

金は怖い。怖いが、惹かれる。万年貧乏にはまぶしすぎる。

 

「これは」

 

「前渡金です」

 

ジェラールは帳面を開いた。

 

「ユーリ・ミクラ様が保持される西海関連情報、すなわち記事の根拠、地図の断片、作物名、航路上の注意について、ヴェルヌ商会が優先確認権を得たいのです」

「今後思い出される可能性も」

 

セレスタンが眼鏡の位置を直した。

 

「まだ存在しない情報まで買うおつもりですか」

 

「商いは、荷が港に着く前から始まります」

 

ジェラールは自然に答えた。

 

「噂の段階が一番よく売れる。確定した事実は、皆が同じ値で買います。未確認の可能性は、先に押さえた者だけが値を決められる」

 

商人の理屈は、嫌になるほど分かりやすかった。

嘘か本当かではない。

誰も持っていないことが価値なのだ。

 

バスティアンが金貨袋を見た。

 

「前渡金はいくらで?」

 

「金貨五十枚」

 

室内が一瞬、静かになった。

俺の頭の中で、下宿代、食費、古い靴、滞納しかけた洗濯代が行列を作った。

三流新聞社の雑文係に見せていい光ではない。

 

「ただし条件がございます」

 

来た。

 

ジェラールは紙を一枚、机へ滑らせた。

 

「第一に、西海関連情報はまず当商会へ提供すること。第二に、他商会への提供を禁ずること。第三に、必要があればミクラ様には当商会の倉庫または別邸で一時的にお過ごしいただくこと」

 

「お過ごし」

 

俺はその語を繰り返した。

 

「保護です」

 

「監禁、ではなく?」

 

「保護です」

 

「王女殿下から王都待機命令が出ている人間を商会の倉庫に移すのは、保護ですか」

 

セレスタンの声が冷たくなった。

 

「王都内です。命令には反しません」

 

「教会への出頭要請もあります」

 

「出頭には馬車を出します。商会の印があれば、道中の混乱を避けられます」

 

全部から逃げたい俺には、商会の別邸という言葉が、鍵付きの監獄でも少し寝台が柔らかそうに聞こえた。

 

「ユーリ」

 

モルガーヌの声がした。

短い。名前だけ。

それだけで、金貨の光が少し鈍くなった。

 

「はい」

 

「その袋を見る目をやめなさい。飢えた犬より涎が垂れているわよ」

 

ジェラールは俺へ向き直った。

 

「ミクラ様。商会は、貴殿を責めるために参ったのではありません。世間は貴殿を月の言葉の筆者として見ています。王宮も教会も学士院も、それぞれ別の名で貴殿を囲おうとするでしょう。ならば、我々は明確な対価を出します」

 

「対価」

 

「はい。金貨五十枚、身辺の保護、必要であれば専属書記を一名。貴殿は思い出したこと、推測したこと、記事にしなかった言葉を、まず当商会へお伝えくださればよい」

 

俺は紙を見た。

記事にしなかった言葉。

それが一番まずい。

そこには、月の民はいない、オンドワナという名は作った、白い根の作物も記憶の底の怪しい影、という値段のつけようがない泥が入っている。

 

「俺には、売れるほど確かな情報はありません」

 

言うと、喉が痛かった。

金貨五十枚が遠ざかる音がした。俺の財布が泣いた。

 

ジェラールは困ったように笑った。

 

「確かでなくてよろしいのです。可能性で結構です」

 

「その可能性が、どこまで俺の勘違いか分からないんです」

 

「勘違いも、早く掴めば商品になります」

 

「人の胃痛を商品にしないでください」

 

バスティアンが小さく咳払いした。

 

「ユーリ、胃痛記事は需要がある」

 

「編集長」

 

セレスタンが契約書を指先で押さえた。

 

「この文面では、ミクラ氏の発言が商会の独占資料になります。王宮書記局と教会の確認を控えている現状では不適切です」

 

「学士院としてのご意見ですか」

 

「まともな文字を読む人間としての意見です」

 

ジェラールの笑顔が少し薄くなった。

モルガーヌが窓際から歩いてきた。黒いドレスの裾が、床の影を撫でる。

 

「商人組合は、珍獣を檻に入れて入場料を取るつもり?」

 

「保護です、ノクテール卿」

 

ジェラールは帽子を持つ指に力を入れた。

 

俺は契約書を見た。

金貨五十枚。身辺保護。専属書記。

欲しいが、受け取ると俺の嘘は新聞の失敗ではなく、商売の契約になる。

教会に「神の声ではありません」と言った直後に、商会へ「秘密情報です」と売る。

そんな綱渡りは、俺の足腰では無理だ。

 

「すみません」

 

声が震えた。

金貨に謝ったのか、ジェラールに謝ったのか分からない。

 

「この契約は受けられません。俺が言えるのは、今のところ新聞向けの仮説と、調べる価値があるかもしれない、という程度です。独占されるような地図も、航路も、作物名もありません」

 

ジェラールは俺を見た。

 

「本当に何も?」

 

「何も、と言い切る勇気もありません。でも売るほどのものはない」

 

モルガーヌが少しだけ目を細めた。

褒められてはいない。観察記録の欄に何か書かれた顔だ。

 

ジェラールは契約書を畳んだ。

 

「承知しました。本日は、正式なご返答をいただけなかったものとして戻ります」

 

「正式な拒否ではなく?」

 

「商人は、しつこい生き物です」

 

怖いことを穏やかに言う。

 

書記が金貨袋を鞄へ戻した。光が消える。俺の財布に屑以外が詰まる日はあるのだろうか。

 

ジェラールは帰り際、帆船印の封書を一通、机に置いた。

 

「ランベール会長は、ミクラ様と直接お話しする用意がございます。王宮ご出頭の前でも後でも。商人組合会館は、教会より椅子が柔らかいですよ」

 

「処刑台も柔らかくなりますか」

 

「処刑は損です。生きている筆者の方が値が上がる」

 

ジェラールたちは丁寧に一礼し、表口から出ていった。

鈴がまた小さく鳴る。

机の上には金貨袋の跡だけが残った。

金は密度が高く重いと聞いたことがあったが、あれだけ袋に詰めてどすんと置くと机がへこむらしい。

丸いへこみが、白い訂正案の横で妙に生々しい。

俺はペンを取り直した。神が言っていないことを、人間の言葉で書く。その横に、商人が買いたがった空白がある。

 

セレスタンが封書を見た。

 

「次は会長本人ですか」

 

モルガーヌが答えた。

 

「ええ。金貨袋で揺れない珍獣と会長は二人で話したがるでしょうね」

 

 

 

表口の向こうで馬車の車輪が止まる音がした。

 

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