シンタが「ござる」をやめた。
最初に気付いたのは私だったと思う。
「お疲れさま、ティアーユ」
いつもの日常。
いつもの食卓。
いつもの笑顔。
だけど、たった一言で違和感に気付いた。
ござる、がない。
聞き間違いかと思った。
けれど昼になっても、夜になっても。
次の日になってもシンタは普通の口調で話していた。
「ねえ、シンタ。口調変えたの?」
「うん。少し考えてね」
それだけだった。
理由は語らない。
ヤミも不思議そうに首を傾げていた。
「違和感がありますね」
「やっぱりそう思う?」
「ええ。別人みたいです」
けれど研究所の怪人たちは意外なほどあっさり受け入れた。
「まあどうでもいいだろ」
「シンタはシンタだしな」
「飯作ってくれるなら問題ねぇ」
そんな反応ばかりだった。
むしろ私やヤミの方が戸惑っていた。
何故なのだろう。
そう考えていて気付いた。
怪人たちは知っていたのだ。
シンタのことを私たちよりずっと近くで。
ずっと長く、あの口調が少し無理をしていることを。
明るく振る舞うための鎧だったことを。
だから変わっても驚かなかった。
中身は何も変わっていないと知っていたから。
実際、その通りだった。
研究所の修理を手伝い。
子供たちの宿題を見て。
怪人たちの喧嘩を仲裁して。
私の研究を手伝って。
ヤミにお菓子を差し入れる。
何も変わらない。
本当に何も。
だから私は安心していた。
少しだけ、本当に少しだけ。
その時だった。
『緊急ニュースです!』
研究室のテレビからアナウンサーの切迫した声が響いた。
作業していた手が止まる。
『A市上空に巨大飛行物体が出現!』
映像が切り替わる。
巨大な宇宙船。
空を覆い尽くすほどの異様な影。
煙。
炎。
崩壊する街。
『避難勧告が発令されています! ヒーロー協会は――』
その先は聞いていなかった。
シンタが立ち上がったからだ。
静かに、当たり前のように、まるで買い物にでも行くみたいに。
「行ってくる」
そう言って玄関へ向かう。
嫌な予感がして私は反射的に立ち上がっていた。
「待って!」
気付けば彼の服を掴んでいた。
シンタが振り返る。
優しい目だった。いつもと同じ。
だけど私は震えていた。
「ダメよ……」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「ティアーユ?」
「行かないで」
胸の奥が痛む。
言葉にならない不安が溢れてくる。
シンタは戦うたびに傷付く。
身体だけじゃない。心も。
少しずつ。
少しずつ。
何かが削られている。
そんな気がしていた。
「このままじゃ……」
言葉が詰まる。
何がどうなるのか説明できない。けれど確信だけはあった。
このまま戦い続ければ、シンタはどんどん遠くへ行ってしまう。
私たちの知らない場所へ。
私たちの届かない場所へ。
そんな気がした。
「シンタが、変わっちゃう……」
ようやく絞り出した言葉。
彼は少しだけ目を見開いた。そして困ったように笑う。本当に困った時の笑顔だった。
「心配してくれてありがとう」
「だったら――」
「でも」
私の言葉を遮るように。
シンタはそっと私の手に触れた。
温かかった。
「行かなきゃ」
その声は静かだった。
決して強い口調ではない。けれど揺るがない。
私の指を一本ずつ優しく解いていく。
振り払うわけじゃない。
傷付けるわけでもない。
ただ前へ進むために。
そっと、ゆっくりと、私の手は離れた。
「シンタ……」
「大丈夫」
彼は笑った。
「また帰ってくるから」
簡単に言う。
まるで夕飯までには戻ると言うみたいに。
だけど私は知っている。
その約束がどれだけ危ういものなのか。
ヒーローの世界では、怪人の世界では、戦場では、帰ってくるという約束ほど脆いものはない。
それでもシンタは笑っていた。
「待ってて」
玄関の扉が開く。
朝の光が差し込む。
そして閉まる。
静寂。
研究所から彼の気配が消えた。
私はしばらく動けなかった。ただ閉じられた扉を見つめ続ける。
ヤミも何も言わない。
研究所の怪人たちも。
誰も。
誰一人として。
「また帰ってくる……か」
呟いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
帰ってくる。
きっと彼は本気でそう思っている。
だから余計に怖かった。約束を守れない人間ではない。
守ろうとしてしまう人間だから。
私はそっと胸元を押さえる。
願わずにはいられなかった。
どうか。
どうか帰ってきて。
変わらないまま、私たちの知っているシンタのままで。
◇
斬った。確かに斬った。
腕を。
脚を。
胴を。
頭すらも一瞬、確かに断ち切った。
なのに、そいつはまた繋がっている。
「……何だ、これは」
イアイアンの喉が乾く。
目の前の異形は、崩れたそばから“元に戻る”。
再生という言葉では軽い。修復というには速すぎる。まるで、最初から壊れてなどいなかったかのように。
「効いていないのか……?」
背後で刃が唸る。
アトミック侍の斬撃は、空気すら裂いていた。
一撃ごとに、敵の身体は無数の断面に分かれる。だが次の瞬間には、それらが“元の形”を思い出したように戻っていく。
理解が追いつかない。
「斬れている。だが……意味がない」
誰かが呟いた。
バングの拳もまた、確かに命中していた。
骨を砕く音はした。肉を潰す感触もあった。だが相手は、痛みを“無視している”のではない。
そもそも“損傷という概念”が通用していない。そして、さらに悪い事実に気付く。
「こいつ……まだ一体目だぞ」
誰かの声が震えた。
一体目。
その言葉が戦場の空気を重くする。
全力を出している。S級ヒーロー達が揃ってだ。それでも押し切れない。
むしろ消耗しているのはこちらだ。
呼吸が乱れる。腕が重い。太刀筋が鈍る。
その瞬間、巨大な火炎が視界を焼いた。
「焼き払う!!」
ジェノスの焼却砲。
空間ごと蒸発させるような熱量。
面で押し潰す戦い方――これなら。
イアイアンは一瞬だけそう思った。
だが炎が消えたあと、そこには“まだ立っている”影があった。
「……冗談だろ」
思わず笑った。乾いた声だった。
希望が折れる音に近い。
再生、再構築、そして無傷。それが現実だった。
「こいつ不死身……か?」
言葉にしてしまった瞬間、それが確信に変わる。
斬撃が通らないのではない。
打撃が弱いのでもない。
“倒すための理屈”が欠けている。
戦い方の問題ではない。存在の問題だ。
(このままでは……)
誰かが倒れる。
間違いなく先にこちらが尽きる。
それだけは分かる。勝利の形が見えない。
だからこそ、イアイアンは判断した。
「一度、退くべきです!」
声を張り上げる。
理屈ではなく、生存本能の結論。
「ここは態勢を立て直すべきだ! この敵は……通常戦闘では——」
しかし返ってくるのは、沈黙ではない。
さらに鋭くなる殺意。
「退く? 冗談だろ」
アトミック侍の刃が加速する。
「ここで斬れぬものなどない」
バングが踏み込む。
「ワシらが退く理由はない」
ジェノスが再装填する。
「解析中……だが撤退は非効率」
言葉が届かない。
届く以前に、彼らは“戦うこと”そのものを止めない。
イアイアンは理解する。
(駄目だ……! この人達は、人の言う事を聞くタイプじゃない!)
強い。
圧倒的に。
そして厄介だ。
強さが、そのまま意志の強さに直結している。
止められない、止まらない。
だからこそS級なのだと、頭では分かる。
しかし今はそれが致命的だ。
このままでは——全滅する。
その思考に沈みかけた瞬間、
風が抜けた。
視界が一瞬だけ、置き去りになる。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
ただ、気配だけが通り過ぎた。
戦場の重力が、ほんの一瞬だけ歪む。
次の瞬間、声が響く。
「龍巣閃!」
斬撃でも拳でもない。“線”のような速度。
視界の端で、敵の構造が崩れる。今までの破壊とは違う。
“核”に届いたような崩壊。
イアイアンは息を呑む。
(今のは……誰だ)
戦場の中心に、新しい軸が生まれる気配。
それまでとは別の“答え”を持った存在。
イアイアンは初めて思う。
(この戦い……まだ終わっていない)
そして同時に、別の確信も芽生える。
(だが……さっきまでの戦い方のままでは、確実に負ける)
それだけは、理解できてしまった。