傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
組み直せ──そう、自分に命じる。
砕けた思考を。へし折れた理性を。何度も死に、引き裂かれ、周囲を疑い、果てには殺意まで抱いた自分を、もう一度人間の形へ押し戻す。
「────」
漆黒の地竜の硬く温かな首筋に額を押しつけ、スバルは荒い呼吸を数えていた。一つ吸い、一つ吐く。その繰り返しのたび、自分がまだ生きていること、あの暗闇から戻ってきたことを確かめる。
まだ頭は働いている。なら、考えろ。
どれだけ泣き喚き、逃げ惑い、無惨に殺されたところで、この世界は答えを教えてくれなかった。こちらから奪い取るしかない。自分を奈落へ突き落としたのは誰だ。フランが俺を偽物だと判断した理由はなんだ。この塔を死体の山で埋めたのは誰だ。最後に、自分の首を刎ねた黒幕は誰なのか。
そして、記憶を失う前の『ナツキ・スバル』は何を知り、何を隠していたのか。真実に辿り着くまで、壊れている暇はなかった。
「スバル、もう大丈夫かしら?」
背後からかけられた声に、スバルはぎこちなく振り返った。蔦の這う寝台に腰掛け、小さな眉を寄せているベアトリス。その隣には、心配そうなエミリアが立っていた。二人の視線を受けただけで、心臓が跳ねる。
善意が恐怖に変わる。
否定される。疑われる。心の中まで覗き込まれる。三周目に受けたフランダースの冷たい拒絶。四周目の惨劇。そして、心臓を撫でて握り締めた黒い女の指先。記憶が一瞬で重なり、目の前の少女たちまで、自分の皮を剥ごうとする怪物に見えかける。
スバルは奥歯を噛み、その妄想を押し殺した。
違う。今はまだ違うだろう。
違わなければならない。
「悪い、悪い。ちょっと寝ぼけてただけだから。ほら、パトラッシュの母性に癒やされてたっていうかさ」
震えを悟られないよう、いつもの調子でおどけてみせる。
エミリアはほっと表情を緩めた。
「ふふ、パトラッシュに抱きつきたくなる気持ちは分かるわ。すごーく頼もしいものね」
「むぅ。ベティーだって十分に頼もしいかしら。地竜だけ特別扱いするのは不公平なのよ」
「おいおい、その競争に参加すんなって。そもそも土俵が違うだろ。パトラッシュは最初からシード枠なんだからさ」
「ますます納得がいかないのよ」
頬を膨らませるベアトリスと、困ったように笑うエミリア。何気ない光景だった。何も起きていない。誰も死んでいない。自分は誰の首も絞めようとしていないし、パトラッシュを剣で傷つけてもいない。
「……ホント、お前だけは特別枠だよな」
手の届く漆黒の鱗に触れて呟くと、パトラッシュは静かに喉を鳴らした。その低い音だけが、今のスバルには唯一確かなものに思えた。
五度目の朝、スバルは嘘を突き通すことにした。
記憶がないことを明かさない。昨日までの自分を何一つ知らないと悟らせない。彼女たちの知る『ナツキ・スバル』を、中身の空っぽな自分に被せる。自分自身に成り済ますという、奇妙な芝居だ。
だが、今のスバルにはそれ以外の道がなかった。
正直に話せば、彼女たちは心配し、自分を囲むだろう。誰かの優しい手がまた背中に触れるかもしれない。それだけは耐えられなかった。だから笑う。形だけの謝罪を口にして、軽口を叩き、相手の言葉に反射で応じる。
記憶の中にいない『ナツキ・スバル』を模倣しながら、スバルはエミリアとベアトリスに挟まれて広間へ向かった。
その道すがら、会話に紛れさせていくつかの確認を挟む。
自分がどこで倒れていたのか。誰がここまで運んだのか。どれほどの間、意識を失っていたのか。 エミリアは疑う様子もなく、記憶通りの事実を答えた。ベアトリスも呆れながら補足を加える。あまりに自然なやり取りが、かえってスバルを不安にさせる。二人が嘘をついているようには見えない。だが、嘘をついていないからといって、ここが安全だとは限らない。
エミリアの指が何気なく肩に触れた瞬間、背中を押されて奈落へ落ちる感覚が蘇った。スバルは笑顔を崩さないまま、歯を食いしばった。
広間での朝食は、喉を通らない食事を無理に飲み込むだけの時間だった。ラムが淡々と保存食を食卓へ並べる。その背中に、前周で胴体を抉られていた姿が重なる。
生きている。
だが、あのときは死んでいた。その落差に、胃の中がひっくり返りそうになる。
──吐くな。耐えろ。
ここで異変を見せれば、全員の視線が集まる。見られれば、化けの皮を剥がされる。スバルは口元を押さえ、せり上がった胃液を飲み込んだ。
やがて、シャウラがいつもの軽い足取りで広間へ現れた。
頭がある。顔がある。笑っている。前周で潰れていたはずの頭部が、今は何事もなかったように揺れている。
「お師様! おはようッス! 今日もあーしのお師様はすこぶる顔がいいッスね!」
満面の笑顔で抱きついてくるシャウラを、スバルは反射的に突き放しかけた。柔らかな身体の温もりと、無惨な死体の記憶が重なり、喉の奥が引きつる。
「……っ、元気そうで、何よりだよ」
「むふふ、あーしはいつでもお師様に無限の元気をお届けする最高の女ッスからね!」
何も知らない顔で笑っている。信じたいという誘惑と、信じた先で裏切られることへの恐怖が、胸の中で軋んだ。
続いて現れたのはメィリィだった。
欠伸を噛み殺し、眠たげな目をしている。その幼い姿に、前周で見た穏やかな死に顔が重なり、スバルは視線を逸らした。
死んだはずの者たちが、一人ずつ生きた姿で部屋に入ってくる。
本来なら救いであるはずの光景が、今のスバルには、死体が人の皮を被って歩き回る悪夢のように映った。狂っているのは世界か。それとも自分か。
最後に、エキドナとユリウスが並んで広間へ入ってきた。エキドナはいつも通り、柔らかな声音で淀みなく挨拶をする。その一歩後ろに控えるユリウスの端正な顔には、疲労が刻まれていた。黄色い瞳がスバルを捉える。
「────」
スバルの目からもわかるほど、その表情が強張った。ユリウスはすぐに視線を伏せた。ユリウス以外は誰も見せなかったスバルへの明確な反応。昨夜、何があったのだろうか。
スバルは気づかれないよう息を吸い込む。
「……シャウラ」
「はいッス!」
「あとで、ちょっと頼みたいことがある」
「お師様の頼みなら、火の中水の中、お布団の中まで喜んで付き従うッス!」
「最後は来るなよ!?」
シャウラがけらけらと笑う。だが、スバルの表情は緩まなかった。
ユリウスは何かを知っている。スバルが昨夜何をしていたのか。記憶を失った原因か。あるいは──『フリューゲル』という名についてか。
その名前を思い浮かべると、胸の奥が冷えた。
朝食の席では、エキドナの主導で塔の現状が整理された。プレアデス監視塔の構造。試験の規則。番人であるシャウラの性質。周囲を囲む砂漠。そして、アナスタシアの肉体に宿る人工精霊の存在。それらをすでに知っていた人間の顔で聞き流しながら、スバルは必死に要点を頭へ刻み込む。記憶喪失を隠しただけで、会話は驚くほど滑らかに進んだ。これまでの混乱は、自分という不確定要素が中心にいたからこそ起きていたのかもしれない。
なら、今回は黙って潜伏する。もしかしたら、スバルが殺されたのは記憶を無くしたことがきっかけかもしれないのだから。
朝食が終わり、皆が席を立ち始めた頃合いを見計らって、スバルはユリウスに声をかけた。
「ユリウス。ちょっと話がある」
ユリウスの足が止まる。振り返った顔には騎士らしい平静があったが、瞳の奥の疲労と警戒までは隠せていない。
「何かな」
「昨日あったことについてだ」
あえて主語をぼかす。昨日あったこと。それが密談を指すのか、自分が倒れていたというタイゲタでの出来事か、エキドナの存在か、それとも他の何かか。
スバル自身にも正解は分からない。だから確実に知っているであろう相手に選ばせる。
「────」
ユリウスの瞳が揺れた。当たりだ。昨夜、この男と『ナツキ・スバル』の間には何かがあった。
「場所を変えようぜ。ここでする話じゃないだろ」
「……分かった」
ユリウスは短く答えた。人気のない小部屋に入り、スバルは扉を閉める。隣室には、あらかじめシャウラを待機させてある。万一、ユリウスが剣を抜いても、すぐに飛び込める位置だ。そこまで警戒する自分に嫌悪を覚えたが、やめるつもりはなかった。
──生き延びるためだ。
自分を殺した者の手掛かりを得るためなら、どれほど卑怯でも構わない。部屋の中央で、二人は向かい合った。
「それで」
ユリウスが口を開く。
「昨日のこと、というのは?」
あくまでとぼけるというのか。しかし、スバルには提示できる記憶がない。ならば、すべてを知っているふりをして相手の反応を引き出すしかない。
「お前だって、納得してねぇだろ」
スバルは声を低くする。
「昨日あったことに。俺に。エキドナに。あの場で聞いた話にさ。全部を飲み込めたって顔じゃなかったぜ」
ユリウスの顔が強張る。スバルはそのまま畳みかけた。
「だから聞いてんだよ。お前自身は、どう思ってるんだ」
「……どう、とは」
「とぼけんなよ」
噛みつくように言う。
実際には、スバルの方こそ暗闇の中で牙を振り回しているだけだ。だが、無知を悟られれば、このやり取り──このスバルの信頼は地に落ちるだろう。昨夜、何があったのか。前の自分が何を話し、ユリウスが何を知って傷ついたのか。すべてを、この男の口から引き出さなければ安心できない。
「納得してねぇくせに、何事もなかったみたいな顔で朝飯の席に座ってた。それが気持ち悪くて仕方ねぇんだよ」
「……君は、本当にそう言うのか」
ユリウスの声が重く沈んだ。そこにあったのは、単純な怒りではないようにスバルには聞こえた。
「昨夜、君とエキドナが秘匿していた事実を知った私に向かって……君は平然と、それを口にするのか」
スバルは内心で息を呑む。エキドナ。そして、秘匿していた事実。昨夜の亀裂は、そこにあるのだ。だが、過剰に反応してはならない。
「隠してた事実そのものを問題にしてんじゃねぇ」
必死に頭を回し、言葉を繋ぐ。
「それを知ったお前が、これからどう動くつもりなのか聞いてるんだよ」
ユリウスは苦しげに息を漏らした。
「どうするつもりか、か。……簡単に言ってくれるものだね」
「簡単じゃないから聞いてんだろ」
「ならば答えよう。私にできることも、成すべきことも変わらない」
静かな声だった。
「アナスタシア様を救う。そのためには、今はエキドナを信じるほかに道がない」
スバルは表情を動かさないよう努めた。アナスタシア。エキドナ。そして、彼女を信じるしかない状況。
「……昨日も、同じことを言ってたか?」
「君は、その言葉をすぐ側で聞いていたはずだ」
ユリウスが目を細める。
踏み込みすぎた、いや迂闊だった。しかし彼はそれ以上追及せず、拳を固く握った。
「あの方の肉体を今はエキドナが動かしている。だが、それは無償の奇跡ではない。肉体に宿るオドを削り、かろうじて保たれている状態だ。長く続けていいはずがない」
オドを削りながら、アナスタシアの身体は動かされている。だから早く肉体を返さなければならない。今朝告白されたその事実を以前から『ナツキ・スバル』は知っていた。そして、その事実を『ナツキ・スバル』とエキドナはユリウスに隠していた。
冷たい塊が胸に沈む。
記憶を失う前の自分は、何を思っていたのか。
「それを、俺とエキドナが黙ってたのが気に入らないってわけか?」
「気に入る、気に入らないという話ではない」
ユリウスの声に怒りが混じった。
「私はアナスタシア様の騎士だ。あの方の命に関わる危機を知らされず、君とエキドナだけが共有していた。それを何も感じずに受け入れられるほど、私はできた人間ではない」
「……だろうな」
「だが」
ユリウスは睫毛を伏せた。
「ここでエキドナを責めれば、アナスタシア様を救う手段を失う。君を責めれば、この塔で必要な協力関係を壊すことになる。何より……君に悪意がなかったことくらいは、分かっているつもりだ」
「────」
「私は今、自分自身の判断すら信じきれない。世界から存在を奪われ、忠誠を誓った主にすら忘れられているかもしれない。その私が、主の身体を動かす別の存在を信じ、秘密を隠していた君とも肩を並べなければならない」
ユリウスの唇が僅かに歪む。
「これを滑稽と言わずして、何と言えばいいのだろうね」
スバルは言葉を失った。
自分はこの男にカマをかけている。傷口を探り、突き、情報を引きずり出している。だが、その傷は想像以上に深かった。アナスタシアを救いたい。しかし、救った彼女は自分を覚えていないかもしれない。その身体はエキドナに使われ、しかも重大な事実を、信頼していたスバルに隠されていた。
それでも、まだ何かある。
「……もう一つ、あるだろ」
スバルは声を落とした。ここで引けば、手掛かりは途切れる。卑怯だと分かっていても、踏み込むしかない。
「お前が納得してねぇのは、エキドナのことだけじゃないはずだ」
ユリウスの瞳に鋭い光が宿る。
「俺についてだ」
小部屋の空気が重くなる。やはり、ある。エキドナの秘密とは別に、『ナツキ・スバル』という存在そのものに関わる疑念が。フランが俺が俺でないと判断したナニカにつながるものが。
「君は」
ユリウスが冷静に言った。
「その話を、今ここで私としたいのか」
「ああ」
「本当に?」
「しつけぇな」
「しつこくもなるさ」
ユリウスの声は硬かった。
「昨夜の君は、その疑念を受け入れられる状態には見えなかった。激しく拒絶していた。当然だ。あれは、君という存在を根底から揺るがす問いだったのだから」
「何を疑ったんだ」
知らないふりではない。本当に知らない。だが、その無知を悟られないよう、怒りを装う。
「俺の何を、そこまで疑ったんだよ」
「君が」
ユリウスは一拍置き、黄色い瞳でスバルを射抜いた。
「──賢者フリューゲルなのではないか、という疑いだ」
また、その名前だ。
シャウラが自分を「お師様」と呼ぶ理由。フランが「フーちゃん」と呼ぶ理由。プレアデス監視塔に残る、四百年前の影。自分の知らない過去の名前が、何度も目の前に現れては、自分自身を脅かしてくる。
「……俺が、そのフリューゲルだって?」
「少なくとも、エキドナはその可能性を疑っていた」
「お前自身は、どうなんだよ」
「分からない」
ユリウスは即答した。
「分からないからこそ、ただの妄想として聞き流せなかった」
「何が根拠だって言うんだよ」
「君の出自に残る空白。シャウラの態度。フランダースの呼び方。この塔の試練との奇妙な噛み合い。そして、君が時折見せる、この世界の常識から外れた知識と判断だ」
「そんなもんで、俺が四百年前の死人だって言うのかよ!」
「切り捨てるには、状況証拠が集まりすぎているという話だということは君も承知だろう」
ユリウスの言葉が胸にのしかかる。
「だが、私個人としては、君がフリューゲルだとは思えない」
「……なんでだよ」
「君が、あまりにも『君』だからだ」
意味が分からない。それでも、その言葉は妙に胸の奥へ残った。
「君はナツキ・スバルだ。少なくとも、私の知る君はそうだ。無謀で、無礼で、腹立たしくて、片時も目を離せない。こちらの誇りを無遠慮に踏み越えてくる。それでも、誰かのために膝をつくことを恐れない男だった」
「────」
「だからこそ、怖いのだよ」
「怖い?」
「ああ」
ユリウスは目を細める。
「もし君が本当にフリューゲルなら、私が共に戦ってきたナツキ・スバルという男は何だったのか。逆に君がフリューゲルでないのなら、なぜこれほど多くの因縁が君に集まるのか。どちらにしても、君という存在は不自然だ」
不自然。
その言葉は胸に刺さった。知っている。そんなことは、スバル自身が誰より知っている。菜月昴。ナツキ・スバル。お師様。フーちゃん。フリューゲル。名前ばかりが他人の都合で増えていくのに、自分の中身だけが空白のまま取り残されている。
「昨夜、君は激しく否定した」
ユリウスが続ける。
「自分はフリューゲルではない、と。だが、君自身も自分の過去を説明できなかった。王都に現れる以前の空白。特異な知識。君の周囲に集まる異常。エキドナの問いは、荒唐無稽と切り捨てられるものではなかった」
「じゃあ、お前はやっぱり俺を疑ってるんだな」
「疑っている」
逃げ道のない返答だった。
スバルの喉が詰まる。
「だが、信じたいとも思っている。君の、友として」
「都合のいい話だな」
「その通りだ。自分でも嫌になるほどにね」
ユリウスは否定しなかった。
「私は君を疑い、同時に信じようとしている。アナスタシア様を救うため、エキドナを疑いながら信じようとしている。その矛盾は、自分が一番分かっている」
「────」
ユリウスは静かに答えた。
「君がスバルなのか、フリューゲルなのか、あるいはそのどちらでもないのか。分からないからこそ、安易に断じたくはない」
「随分と……優しいんだな、お前は」
「優しさではないよ。ただの臆病だ」
ユリウスは小さく笑う。
「私はもう、多くを失った。名も、記憶も、主との繋がりさえも。だから、目の前に残ったものを簡単に切り捨てられないだけだ。……私を覚えていてくれる君のことを」
その枯れた声に、スバルは何も言えなくなった。この男は、自分を殺した犯人ではない。少なくとも今、スバルを罠にかけようとする者には見えなかった。むしろユリウス自身が崖際に立ち、崩れかけた足場を必死に踏み締めている。
主を救いたい。しかし、主に忘れられているかもしれない。信じたい相手を疑い、疑いたくない相手にも疑いを向けなければならない。
「……もういい」
スバルは掠れた声で言った。
「話は終わりだ。もう行けよ」
「そうか」
ユリウスは頷き、扉へ向かう。
だが、部屋を出る直前、一度だけ足を止めた。
「スバル」
ユリウスは背を向けたまま言った。
「これ以上、君の前で惨めになりたくなかった」
「────」
「それでも、君が何か大切なものを失って苦しんでいるのなら、独りで抱え込むべきではない。たとえ君がフリューゲルであろうとなかろうと、今ここにいる君が傷ついていることまで、なかったことにはできないのだから」
それだけを言い残し、ユリウスは部屋を出た。扉が閉まり、静寂が戻る。スバルはしばらく動けなかった。肺に溜まった空気を吐き出すと、全身から汗が噴き出した。両手が震えている。犯人を追い詰めるつもりだった。
だが突きつけられたのは犯人の影ではない。ナツキ・スバルという存在そのものが抱える、不自然さであった。
「……なんなんだよ、フリューゲルって」
誰もいない部屋で呟く。
「なんなんだよ、ナツキ・スバルって男は……」
当然、答えは返ってこない。沈黙の中、扉の隙間からシャウラが顔を覗かせた。
「お師様ぁ、今の騎士さん、ぶっ放して殺っていい相手だったッスか?」
「物騒すぎる確認から入るな。殺らなくていいし、敵じゃない」
「そッスか! じゃあ、あーしの待機任務はばっちり大成功ッスね!」
「ああ。……助かったよ」
シャウラの顔がぱっと明るくなる。
「じゃ、じゃあ! ご褒美にお師様からぎゅーってしてほしいッス!」
「それはだめだ」
「即答!? 相変わらず手厳しいッス!」
「お前の要求はな、基本的に俺の純情のキャパシティを超えてくるんだよ」
「純情って奴はなかなかの強敵ッスね……!」
いつもの調子で騒ぐシャウラを見て、スバルは僅かに肩の力を抜いた。だが、続く言葉が胸に刺さる。
「でも、あーしはお師様に便利に使われるの、全然イヤじゃないッスよ? お師様の役に立つために、あーしはここに存在してるんスから」
「────」
息が止まった。スバルは彼女の好意を利用していた。危険な密談の保険として、万一のときの盾として、何の説明もせず隣室に置いた。彼女の盲信を自分のために使った。それをシャウラは嬉しそうに受け入れている。
自分がひどく卑劣な人間に思えた。
「……違う」
──それでも、ここで彼女の言葉を笑って流せば、本当に取り返しがつかない気がした。
「お師様?」
「そういうのじゃ、ないんだ」
スバルはシャウラへ歩み寄った。彼女が首を傾げるより先に両腕を広げ、その細い身体を抱きしめる。
「──っ」
シャウラが息を詰めた。
「都合よく使って、守らせて、終わったら突き放す。……そんなのは違う。今のは俺が悪かった」
「お師、様……?」
「お前がそこにいてくれて助かった。……それだけは、ちゃんと言わせてくれ」
腕の中の身体は、驚くほど軽かった。彼女は人の領域を超えた力を持っている。それでも、抱きしめれば一人の少女だった。スバルはしばらくその身体を抱き、それから静かに腕を解いた。
シャウラは顔を真っ赤にし、固まっていた。
「お師様……あーし、今なら結婚式場までノンストップで音速で走れる気がするッス……」
「そこは全力で立ち止まれ」
「じゃあ、せめてちゅーだけでも!」
「だから純情のキャパ超えだっての」
「純情の壁が高すぎるッスー!」
悔しそうに身悶えするシャウラを見て、スバルは少しだけ笑った。引きつった、頼りない笑いだった。それでも、先ほどまでより呼吸がしやすくなっている。
自分を殺した犯人は分からない。
フリューゲルの正体も、記憶を失う前の『ナツキ・スバル』が何者なのかも、まだ闇の中だ。けれど、自分が恐怖に負けて誰かを道具として扱い、使い潰すようになれば、もう二度と父と母に顔向けできる人間には戻れない。そのことだけは、壊れかけた頭でも理解できた。