傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
「────ぁ、え?」
爪痕が刻まれた両腕を持ち上げ、目の前に横たわるメィリィを見る。
──メィリィは死んでいた。
少女の命は事故でなく、間違いなく強固な殺意の痕跡があった。人間の指の形をなぞった青黒い絞殺痕が。
「なん、なんだよ……なんなんだよ、『ナツキ・スバル』!!」
そして、掲げられた己の左腕にはくっきりと、『ナツキスバル参上』と刻まれていた。
黒い斑の紋様が蠢くように走る右腕の先から、痛々しく生々しい赤い雫がぽたり、ぽたりと音を立てて石床へ落ちていく。
ずいぶん悍ましく変異してしまった腕であっても、肉体としての脆さは人間のそれと何も変わらないようだった。爪の先端を強く立てれば皮膚が裂け、内側から容赦なく血が溢れ出す。
「────」
スバルは溢れ出る血を乱暴に掌で拭い取り、掠れた赤黒い痕跡を黒い肌に残したまま、這い上がらんとする恐怖ごと右腕を袖の奥へ押し込んだ。ただ見つめているだけで、自分の身体が自分のものではないという残酷な現実に精神を呑まれそうになる。
ましてや、変異のない左腕には、自らの爪で肉を抉って刻み込まれた『ナツキ・スバル参上』の血文字が隠されているのだ。内なる怪物から突きつけられた犯行署名がそこにある。スバルは恐れるように袖の奥深くへと厳重に閉じ込め、必死に隠蔽した。
「とにかく、ここに長居はできねぇ……。誰かに見られたら、その時点で終わりだ」
すでに、どれほどの時間をこの閉ざされた無人部屋で浪費してしまっただろうか。
部屋の中央には変わらず、力なく口を開けたまま光を失った瞳で虚空を見つめるメィリィの亡骸が横倒しになって転がっている。もはや、中身のからっぽな今のスバルの手から、息絶えてしまった少女にしてやれる救いなど何一つ残されていなかった。
彼女のために祈りを捧げるような殊更な弔いも、死後を無残に辱めるような真似も、本当なら今すぐにでも放り出してこの場から逃げ出したかった。
──だが、生き延びるためにこれから自分が手を染める隠蔽工作こそが、死者を最も冒涜し、辱める行為に他ならないのだ。
「────」
悲しいほどに軽い少女の身体。その両脇の下に恐る恐る自分の腕を差し入れ、スバルはメィリィの亡骸を床に引きずりながら、ゆっくりと部屋の隅へと位置をずらしていく。
そこにあったのは、長い年月の間に打ち捨てられ、風化した部屋の元調度品──切り出しただけの歪な四角い石材だった。その冷たい石塊の裏側へと、泥棒が盗品を隠すかのような卑しい手つきで、メィリィの死体を滑り込ませ、古びた布をかぶせて視界から遮った。
「……悪い。ホントに、ごめん、メィリィ」
声にならない謝罪を心の底から死者へと詫びるが、今のスバルには、彼女の死を世界から隠蔽する以外の選択肢が存在しない。
包み隠さずすべてを打ち明けて、いったい誰がこの狂った状況の自分を信じ、弁護してくれるというのだ。スバル自身が、自分の肉体を動かしている『ナツキ・スバル』の真意や狂気すら推し量れないというのに、他人にそれを理解しろと求める方がどうかしている。
「弁護も何も、あるわけねぇだろ……。メィリィを殺したのが俺の精神じゃないとしても、あの子の命を奪った物理的な凶器は、間違いなく俺のこの両手なんだから」
メィリィの手の爪に詰まった皮膚と血。スバルの手首に生々しく刻まれた抵抗の痕跡。これだけの確実な物証が揃っていれば、どんな裁判にかけられようとも、満場一致でナツキ・スバルに縛り首の有罪判決が下るだろう。だからこそ、スバルに今できることは、罪過の隠滅と時間の引き伸ばしだけであった。これが正しい判断だとも、破滅を免れる最善の選択だとも思わない。しかし、誰を信用し、誰を疑えばいいのかが完全に破綻してしまった以上、スバルは自分だけの孤独な泥縄に縋るしかなかった。
ただ、一つだけ、胸の奥底で確かに断言できる事実があるとするならば──。
「もし、次があるなら……次にメィリィと会えたら、お前だけは、俺を殺そうとする容疑者から外してやるよ」
4周目の世界での全滅の光景。そして、この5周目の世界での、自分の手による絞殺。二度も彼女の亡骸をこの目で確認したのだ。皮肉なことに、この不気味な塔の全関係者の中で、死者となったメィリィだけが、最もスバルを裏切る疑惑から遠い存在となった。だが、それを理解したところで、すでに死んでしまった彼女から、昨夜の真実を聞き出す手段は永遠に失われてしまっている。
探偵役の別人格が真犯人。クローズド・サークル系のミステリーでは度々目にするひねくれた最悪の結末だ。いかに『死に戻り』という超常の力があろうとも、真犯人が自分自身である以上、この惨劇は何度でも引き起こされ、未然に防ぐことなど不可能な螺旋の迷宮と化す。
「弱音を吐いてる、場合じゃねぇだろ……! とにかく今は、一分一秒でも時間を稼ぐんだ」
時間が解決するような生易しい問題ではないが、時間を稼ぐことでしか見出せない綻びが必ずあると信じるしかなかった。
スバルは袋小路の絶望から無理やり身体を引き剥がすように、その場に立ち上がる。去り際、スバルは一度だけ、もう二度と動かないメィリィの額へと触れた。触れた皮膚は悲しくなるほどに冷え切っており、まるでスバルの不誠実な手のひらを拒絶するように固く沈黙していた。
心ならずも凄惨な殺害現場の隠蔽を完了し、スバルは無人部屋の重い扉をそっと閉じた。
通路の左右に誰の影もないかを入念に確かめ、何食わぬ顔でその場を離れようと足早に歩き出した、まさにその瞬間だった。
「──あ、スバル! よかった、ここにいたのね」
「──っ!?」
背後から突き刺さった不意の鈴を転がすような声音に、スバルは全身の血が逆流するほどの衝撃を受け、肩を激しく跳ね上げさせた。恐る恐る振り返ったスバルの視界に飛び込んできたのは、小走りにこちらへ近付いてくるエミリアの姿だった。彼女は、恐怖で限界まで頬の筋肉を硬直させているスバルの様子に小首を傾げ、純粋な眼差しを向けてくる。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
「──。お、どろいた。驚いたけど、それは、まぁ、なんだ、あれだ。急に後ろから声をかけられたからってだけで、全然平気。エミリアちゃんは、どうしたの?」
「──? 私は、お昼までの間、何かできることないかなって塔の中を歩き回ってたの。それより、スバル」
「うん?」
「今の、また何かの悪ふざけ?」
エミリアの無邪気で不思議そうな問いかけに、スバルは肺の空気が完全にロックされたかのように息を詰めた。
一点の曇りもない紫紺の瞳が真っ直ぐに自分を射抜いているが、スバルには彼女の言葉の意図が分からず、ただただ背中に冷や汗が流れる。会話自体は自分の延長線上にあるはずのナツキ・スバルをなぞったのに、やはり声の震えや不自然な動揺が隠せていなかったのだろうか。
すぐ背後の部屋の、冷たい石塊の裏側には、たった今自分が首を絞め殺したメィリィの遺体が転がっているのだ。ちょっと扉を開けて詳しく調べられれば、あっさりと自分の凶行が白日の下に晒される。とにかく今は、この不吉な部屋の前からエミリアを連れて離れることが最優先だった。
「悪い、ちょっとトイレ。急に腹が痛くなってさ」
「あ、うん、わかった」
いかにも場当たり的な誤魔化しの言葉を投げ捨て、スバルは素早くその場から逃れるように歩き出す。一刻も早く一人になり、脳内のパニックを冷却できる場所に引きこもりたかった。だが、スバルがどれだけ歩調を速めても、エミリアは何の疑いも持たずにその長い足を弾ませ、当然のように隣に並んで歩いてくる。
「って、エミリアちゃん? 俺、トイレだってば。なんでついてくんの?」
「え? だって、あとちょっとしたらみんなで集まってお昼にするんだし、一緒にいた方がいいと思わない? 大丈夫、ちゃんと扉の外で待ってるから」
離れたがるスバルの顔を、エミリアはからかう風でもなく真剣に覗き込んでくる。その無垢な正論に返す言葉が見つからず、スバルは内側から胃がじりじりと焼けるような感覚に教われる。
エミリアは、いったい何のつもりで自分に同行しようとしているのか。まさか、すべてを察した上で、自分を監視するために笑顔で張り付いているのだろうか。
じっと、怯えを孕んだ横目で自分を窺ってくるスバルの視線に、エミリアはただきょとんとした顔を返すだけだ。
何も企んでいないように見える、恐ろしく整った美しい顔。だが、3周目と4周目の地獄を経験した今のスバルにとって、彼女は自分を後ろから突き落としたかもしれない容疑者の一人に他ならなかった。あの全滅の夜、自分はエミリアとベアトリスの遺体だけは目撃していないのだ。
もしも、目の前で可憐に微笑むこの少女が、その気になれば自分の首の骨など一瞬で圧し潰せる暴力を秘めた化け物なのだとしたら──。
「スバル、大丈夫? やっぱり、まだ調子が戻ってないんじゃない?」
「──っ、だ、大丈夫。ちょっと、下らない考え事をしてただけだから」
「ホントに? でも、すごく顔色が悪いと思うの」
そっと、エミリアが躊躇いなく手を伸ばし、スバルの頬へと優しく触れてきた。
とっさにその手を払いのけることもできず、されるがままに頬を撫でられる。そのすべらかな指先の心地よさに、スバルは激しい嫌悪と恐怖が混ざり合った眉を顰めた。
「……よく見てるね」
「ん、そうよ、よく見てるの。なんだか、最近、気付くとスバルを目で追ってることが多くて……なんでかよくわからないんだけど、不思議ね」
微笑むエミリアの手が、今も自分の顔に触れている。瞬きをしたほんの一瞬の間に、その指先が自分の喉笛を掻き切らないとも限らない。あるいは、衣服の奥に隠された血文字の署名を見つけられた瞬間、あの魔女のように、自分を肉塊へと解体するのではないかという妄想が頭を侵食する。
だが、彼女の手つきから伝わってくるのは、どこまでも純粋で、温かな親愛の情だけであり、スバルは底の抜けたような無力感に囚われる。平和な日本しか知らない自分には、彼女のこの感情が本物か偽物か、見分ける術など最初から備わっていなかった。
もしも、何もかもをこの場でぶちまけてやったら、彼女はいったいどんな顔をするのだろう。
お前が心配しているナツキ・スバルは、中身の抜け落ちたニセモノなのだと。いいや、それどころか、お前が今から未来を語ろうとしているメィリィの首を絞め殺したのは、他ならぬこの俺の身体なのだと突きつけてやったら、その綺麗な顔はどれほど絶望に歪むだろうか。
「──そういえば、メィリィのことなんだけど」
「──っ」
スバルの黒瞳が大きく見開かれ──そうになるが、それはあまりに不自然な態度だ。辛うじてこらえた。あまりにもタイミングの悪すぎる名前に、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がる。不意打ちの動揺を隠せなかったスバルだったが、幸いにもエミリアはスバルから視線を逸らし、その紫紺の瞳を床へと落としていた。
「気が早いって怒るかしら。この塔から無事に戻ったら、メィリィのことをどうしたらいいかなって、相談するの」
「────」
「もちろん、あの子が一年前にしたことは悪いことだし、簡単に信じちゃいけないってオットーくんの言い分もわかるんだけど……砂丘を越えられたのはメィリィのおかげだし、まだ悪さするつもりなら、塔にくる前に色々できたと思うの。だから、もっと別の、それこそ自由にしてあげるのは難しくても、座敷牢の外で暮らすくらいは、ね?」
自分の服の裾を小さく摘まみながら、エミリアはつらつらと、胸の内にあった優しい展望を述べていく。
この塔にいる一行の中でも、メィリィはかつてエミリア陣営の命を狙った暗殺者という特殊な立場だった。その彼女の未来を、反論を想定して手直しした形跡が伺えるほど、エミリアは必死に一人で考えてくれていたのだ。
──だが、そのメィリィの未来は、たった今、自分の肉体によって永遠に断たれた。
「……馬鹿馬鹿しい」
「え?」
「くだらねぇって、そう言ったんだよ! 自分でもわかってたはずだろ! 気が早い? その通りだよ! こんな……こんな最悪な状況で、先の展望の話なんか、できるもんかよ……っ!」
四方八方が手詰まりで、他人のことを気遣う余裕など塵ほどもない。ましてやそれが、すでに死体となって石塊の裏に転がっている少女の未来の話など、とんだ皮肉でしかなかった。あまりの焦燥感と罪悪感の暴発に任せて、スバルはエミリアに癇癪を叩きつけてしまった。
「スバル!」
感情的に罵り、怪しまれるだけの暴言を吐いた己の愚かさにすぐさま唇を噛んだが、もう遅い。傷ついたエミリアが涙を流すのではないかと身構えたスバルの顔面を、エミリアは勢いよく両手で挟み込んできた。真っ直ぐな、力強い目が、スバルの怯える黒瞳を真っ正面から覗き込んでくる。
「不貞腐れて、辛い気持ちならちゃんと話すの! 私でも、ベアトリスでもいいわ。スバルが困ってるなら、私だって一緒に困ってあげる。でも、一人で抱え込んで、一人でむしゃくしゃして、一人で終わりにしちゃうのはやめて。そんなの、真似しちゃダメよ」
一生懸命にまくしたてたエミリアは、呆気に取られるスバルの顔からそっと手を離すと、今度はぐいっと彼の頭を引き寄せた。そして、自らの胸の中にスバルの頭をそっと抱き入れ、慈しむように優しく撫で始める。
「わかってくれる? 私の心臓、全然怒ってないでしょ。幻滅もしないから、話して」
押し付けられた柔らかな感触、その温かな境界線の向こう側に、確かに生命を刻むリズムがあった。それが、まるで赤子に聞かせる子守歌のようにどこまでも優しくて、スバルの胸の奥底から何かが溢れそうになる。これほど醜く八つ当たりした自分を、彼女はまだ無条件に信じて、抱きしめてくれている。
強烈な恥と、それ以上の圧倒的な救いに、スバルはもう嘘を突き通す気力を失いかけていた。もはや打ち明けてしまおう。記憶を失ったことも、メィリィを自分の手が殺してしまったことも、死ぬたびに時を遡っていることも、すべてを──。
「──エミリア様! バルス!」
ぐしゃぐしゃの頭から真実を絞り出そうとしたまさにその瞬間、スバルの苦悩を切り裂くように、鋭く切迫した声が横合いから飛び込んできた。エミリアがおずおずとスバルを解放し、温もりの遠ざかる感覚に襲われながら、スバルは強引に袖で涙の滲む顔を拭った。
通路の向こうから、息を切らせたラムが血相を変えて立っていた。そこに二人をからかうような軽薄な余裕は微塵も存在しない。
「ラム、どうしたの?」
「……火急の、用件です。すぐに三層の、書庫へお越しください。ベアトリス様が、大変なものを」
「ベアトリスが?」
驚くエミリアに、ラムは「ええ」と短く頷く。彼女は有無を言わせぬ冷徹な態度で、スバルたちに背を向けた。
「アナスタシア様……いえ、エキドナでしょうか。とにかく、あの方とユリウスを探すわ。バルス、エミリア様とご一緒して」
「あ、ああ、わかった……」
ラムはそのまま、颯爽と石床を蹴って二人の前から駆け去っていった。
一人になって証拠を隠滅しようと考えていたスバルの目算は、ここですべて完全に頓挫した。
スバルはエミリアと連れ立って、三層『タイゲタ』へと急ぎ足で階段を駆け上がった。
出迎えられたのは、膨大な蔵書が静まり返る『死者』の書庫。無数の『死者の書』が収まる書棚を背に、階段の前に佇むベアトリスが短い腕を組み、特徴的な紋様のある瞳を伏せて疲れた吐息をこぼしていた。
「上から三段目、一番右にある本なのよ」
ベアトリスの重苦しい指摘に従い、スバルとエミリアは書棚へと歩み寄った。ぎっしりと詰まった書架。背表紙に書かれた異世界文字は、今のスバルには全く読み取れない。
だが、すぐ隣でその文字を視認したエミリアの唇が、見たこともないほど愕然と震え、消え入りそうな声を漏らした。
「嘘……──メィリィ・ポートルート」
エミリアの震えた声が、書庫の静寂に落ちた。
その名前が響いた瞬間、スバルの全身の毛穴から嫌な脂汗が噴き出してくる。
何故、こんなにも早く。
何故、こんなにも的確に。
「……あれ?」
絶望的な自問自答を繰り返すスバルの耳に、書架の奥から気の抜けた声が届いた。
灰色のローブを小さく揺らしながら、フランがひょいと棚の陰から顔を覗かせる。彼女の片手には何者かの本が握られており、もう片方の手は、隣の本の背表紙をなぞる途中でピタリと止まっていた。
「その本、さっきまでなかったよ。そこ、私もさっき見たもん」
「フラン……」
エミリアがすがるように彼女の名を呼んだ瞬間、スバルの背筋に鋭い悪寒が走り抜けた。
ローブ、怪しく煌めく紅い瞳、そして脳天気な明るい声。
ほんの少し前の世界において、自分を冷酷に偽物と断じ、何も分からないまま一方的に肉体を破壊し尽くした時の魔女の姿が、鮮烈に脳裏へ蘇る。
喉の奥には、あのときに張り上げた悲鳴の残響がまだこびりついているような錯覚さえ覚える。首を強引に掴まれた硬い感触、魂の奥底まで覗き込まれるような逃げ場のない視線、そして、あの決定的な言葉。
『お前、誰だ?』
違う、今のフランは、あのときのフランではないのだと、理性では必死に言い聞かせる。
この世界の彼女は、まだ自分を壊してなどいない。まだ、あの底知れない紅い瞳で自分の正体を見破ってはいないし、いつも通りに「フーちゃん」と呼んでくれる。
それなのに、身体は本能的な恐怖に逆らえず、勝手に小さく戦慄していた。
見られたら終わる。この肉体の奥に潜む『本物の怪物』も、左腕に隠した血文字も、メィリィの死も、全部まとめて暴かれる。そうなれば、彼女はきっと、あの周回と同じように自分を壊すだろう。
肉体も、精神も、魂の奥底に眠る記憶まで。
「うん。だから、たぶんさっき増えたんだと思う。先生ってばやっぱり変わらず趣味悪いよね。死んだら即入荷だなんて、いったい誰向けの新刊案内なのさ」
フランの口調は、あまりにも場に似つかわしくないほどに軽かった。いつも通りに余裕ぶったような、少し芝居がかった調子で、けれど、その言葉の毒を聞いたエミリアの顔からは完全に血の気が引き、ベアトリスは悔しげに薄い唇を噛みしめる。
対するスバルは、ただ棚に収まったその不吉な一冊から、どうしても目を離すことができなかった。
「中を見れば、何が起きたのか分かるかもしれない」
誰かがそう呟いた。あるいは、焦燥のあまり自分自身が口走ったのかもしれない。
スバルの思考はすでに、その本を他の誰にも読ませないための、欺瞞に満ちた言い訳を必死に探し始めていた。読まれたら終わりなのだ。メィリィが最期に迎えた死の瞬間を見られたら、自分の破滅は確定するだろう。
「読むの?」
フランが小さく首を傾げると、その紅い瞳が、真っ直ぐにスバルを射抜いた。
「────」
心臓が、嫌な音を立てて激しく跳ね上がる。
何もかもを見透かすようで、実際に見透かしてしまいそうなあの両眸。三周目の自分を偽物と呼んで切り捨てた、赤い断罪の色彩がそこにはあった。
だが、現在のフランの瞳には、あのときの凍りつくような冷徹さは宿っていなかった。責めるでも疑うでもなく、ただ、少しだけ心配そうにスバルの顔を覗き込んでいる。その向けられる純粋な善意が、今のスバルにはかえって耐え難いほどに苦しかった。
「……俺が、見る」
「ふうん」
フランは目を細める。スバルの喉はひくりと小さく鳴る。見抜かれただろうか。
衣服の奥に隠した、あの自傷の血文字を。メィリィの細い首に残してしまった、自分の指の形をしたあの痣を。今、自分が必死に取り繕っている嘘の匂いを。
しかしフランはそれ以上、何も言及しなかった。
責めることも、止めることもしない。けれど、その声音は、普段のそれよりも少しだけ柔らかく響いた。
「フーちゃんがそうしたいなら、私は止めないよ」
「────」
痛みが走る。果たしてその名前──『フリューゲル』を呼ばれる資格などあるのだろうか。そもそもが自分の名前とも思えない名前だが、その声音には間違いなく親しみとメィリィの冷たい死体を石塊の裏に放り込んできた自分が、左腕に『ナツキ・スバル参上』を刻まれた大罪人が、今もなお、彼女たちの前で無恥厚顔にナツキ・スバルのふりを続けているというのに。
それでも、フランは何も知らないまま自分をその愛称で呼んだ。
「基本的に死んだ子の記憶って生きてる人間にはちょっと重いからさ。気をつけてね、フーちゃんってば、すぐ無茶しちゃうんだから」
そう言って、フランはどこか後ろめたそうに唇を綻ばせた。
「もし倒れたら、私が拾ってあげる。前に一回背負ってあげたことあったし、大丈夫だよ」
この緊迫した場には似つかわしくないほどに軽い冗談だったが、その浮薄さに、ほんの一瞬だけ救われそうになる自分を自覚する。救われたいと、この温もりに縋ってしまいたいと思ってしまった。
現在のフランの声は確かに温かかった。
だからこそ、スバルはそれ以上に甘えることを拒むように、すぐさま視線を床へと落とした。自分が救われていいはずがないのだ。その本に刻まれているであろう死の真実を、世界中の誰よりも知っているのは他ならぬ自分なのだから。そして、もしもフランがその真実に到達してしまったならば。
「なーんか騒がしく呼ばれたッスけど、どーしちまったんスか?」
そこへ、騒々しい声を響かせながらシャウラが暢気に姿を現した。エミリアから事情を聞いた彼女は、痛ましげな配慮など塵ほども持ち合わせていないあっけらかんとした死生観で、「さっさと中身見たら、二号がどこでどんな風に死んじまったかわかるかもしんねッスよ」と読書を促してくる。
「怒んないでくださいッス、お師様。あーしに悪気はないッス! でもでも、実際、本があるんだからそうするべきじゃないッスか? 読んで、何が起こるかわかんないってのが一号の心配なら……お師様が、本を読んでみたらいいんスよ」
「……っ」
シャウラの放ったその容赦のない提案は、打算を巡らせていたスバルにとって、まさに絶好の渡りに船となった。
「大丈夫だ、安心しろ。シャウラの言う通り、読むなら俺が一番いいはずだ」
スバルは真剣に見えるよう頬を引き締め、ベアトリスたちの純粋な心配を裏切るように強く頷いた。
エミリアやベアトリスは、スバルがメィリィの死を追体験することで負う精神的ダメージを本気で案じてくれていたが、今の自分にとっては数回朝食を共にしただけの、ほとんど見知らぬ少女に過ぎない。受ける心の傷など、最初から存在しないのだ。この歪んだ本心を隠し、スバルは第一の検閲官となるために書棚へと手を伸ばした。
「──俺が、見るよ」
心配の色の消えないエミリアを軽口で宥めながら、分厚い本の表紙に手をかけ、自らに言い聞かせるように呟く。
「──いく」
本を一気に開いた瞬間、スバルの意識は猛烈な勢いで暗転していった。
──その幼子の始まりを意識したとき、世界には何もなかった。
暗い黒い森で一人、冷たい土の湿り気を感じ、獣の生臭い臭いを嗅ぎ、腹の底を削るような飢えに耐えるだけの日々。言葉も、歩き方も、生きる方法も知らず、ただ魔獣の気まぐれによって巣へと持ち帰られた欠陥品。それが彼女の始まりだった。
やがて、黒い少女──エルザによって全てを奪われ、連れ去られた先で待ち受けていたのは、地獄のような『母親』の躾。
言葉と歩き方を無理やり思い出す代わりに、抗う術を徹底的に塗り潰される悪夢の日々。
そんな歪んだ世界の中で、だらしなくて手のかかるエルザを模倣し、彼女を手伝っている時間だけが、刻み込まれた恐怖を忘れさせてくれる唯一の救いだった。
しかし、そのエルザが死んだ。灰になっていなくなった。
一人に逆戻りした彼女は、自分の意志を持たない人の真似をする人型の生き物として、ただ他人の真似事をする人形であり続けた。
──あの子も、俺と同じ、中身のない空っぽの人形だったんだ。
せめて、答えが知りたい。
──エルザを殺された自分がどうしたらいいのか、その答えが。
そんなメィリィの記憶の終盤、情景は昨夜の書庫へと移り変わる。
本を探しにこっそり書庫へやってきたメィリィは、後ろから黒髪の青年に声をかけられた。
普段通りを取り繕う彼女の前に、青年がゆっくりと振り返る。その黒瞳は、底冷えするような冷酷さで彼女を見据えていた。
『薄っぺらいなァ、お前』
『気持ち悪く媚びるなよ。誰も、お前にそんなこと望んじゃいない』
『すまし顔するなよ、言いなりのお人形。自分の胸の奥の、望みも聞こえねぇか?』
青年の冷え切った手が、彼女の三つ編みを掴み、ひどく愉しげに見つめてくる。
けれど、その笑みの奥には、奇妙な濁りがあった。
何かを思い出したくない。
何かを認めたくない。
そんな苛立ちを、目の前のメィリィで塗り潰そうとしているような顔だった。
『……あの魔女も、余計なことしてくれたよなァ』
ぽつりと零れた言葉の意味はメィリィには分からない。ただ、その声に宿った屈辱だけは、妙に生々しかった。
『お前の退屈な悩みも、つまらない苦しみも、俺が覚えててやる』
一晩が明け、今朝の通路。
昨夜の真意を問おうと、メィリィが青年に声をかける。少年は「場所を変えよう」と提案し、適当な無人部屋へと彼女を連れ込んだ。
『悪いな、メィリィ』
耳元で囁かれた直後、彼女の身体は冷たい石床へと激しく突き飛ばされた。
明滅する視界の向こう、馬乗りになってきたのは、青年──ナツキ・スバルだった。
その顔は、見たこともないほど凶悪な笑みに歪んでいた。
『それを、直接聞くのはルール違反だ』
容赦のない力が、彼女の細い首を絞め上げる。
空気を求めてもがき、足掻き、少年の手首に死に物狂いで爪を立てるメィリィの五感。だが、馬乗りになった怪物には通じない。
『今回はルール違反で脱落だが、次はもっと大胆な活躍を期待してるぜ。これまでみたいに、どしどし頑張ってくれ』
男は、完全に楽しんでいた。
薄れゆく彼女の視界の中で、怪物は満面の笑みを浮かべ、愉悦に声を震わせる。
『これはこれで、面白い話になる。──ナツキ・スバルの、殺人事件だ』
「う、ぁぁぁぁぁ──ッ!?」
瞬間、弾かれたように頭を後ろへ跳ねさせて、スバルはその場にひっくり返る。
手に持っていた本を取り落として、視界がぐるりと激しく回った。メィリィの最期の苦しみが泥のように頭へ流れ込み、呼吸困難に陥った肺がパニックを起こして痙攣する。
「ちょっ、スバル!?」
「深呼吸! 深呼吸するのよ! エミリア、本に触っちゃいけないのよ!」
ぐるぐると目が回り、パニックを起こすスバルにベアトリスが必死に呼びかけてくる。
エミリアがさっと飛びつき、スバルの頬を両手で掴んで、無理やり自分の瞳と向き合わせた。
「スバル、思い出して。大丈夫、あなたはナツキ・スバル、私の騎士様……」
エミリアが自分の記憶を手探りに、必死に彼を呼び戻そうと言葉を並べる。それを聞きながら、スバルは激しく頭を振り、自己の輪郭をどうにか呼び戻した。
「お、れ……あ、エミリア、ベアトリス……俺は、俺、だよな?」
あの本物の怪物の笑顔が、網膜の裏に焼き付いて離れない。あいつは『次はもっと大胆な活躍を期待してる』と言い残したのだ。あいつは、この地獄をすべて知っている。知った上で、ゲームとして遊んでいる。何より悍ましいのは、あいつがフランに暴かれた屈辱を明確に記憶していたことだ。見抜かれた歪みを屈辱として抱えたまま、それでも平然と笑ってメィリィの息の根を止めてみせた。
次は俺のこの身体を使って、いったい誰を殺す気だ。自分自身という時限爆弾を抱えた恐怖に、五体がガタガタと震え出す。
「エミリア様、お待たせしました。道中、ラム女史に話を聞いて──」
「あの少女の名前の本が見つかったのは事実なのかい?」
そこへ、階段を駆け上がり、合流の遅れていたユリウスたちがやってきた。
ユリウスと、エキドナと、最後尾のラムが追いつき、書庫の中へ深刻な緊張感が満ちていく。その三人へと、エミリアとベアトリスが現状の説明を始めた。
「────」
スバルは溢れ出る恐怖を必死に圧し殺し、左腕の血文字を隠しながら取り返しのつかない悪手を打つ。
「──悪い、メィリィの最期の瞬間は、真っ暗で何も見えなかった」
誰もがメィリィの安否を気遣い、焦燥に顔を歪めている。
その様子を足下に落ちた本には目もくれず、シャウラだけが静かに眺めていた。星の瞳を細め、一切の感情の窺えない静謐な眼差しで、ただただスバルの姿を凝視していた。
(´;ω;`) ←円盤一巻特典の情報量の多さにむせび泣く顔
皆さん良ければ特典付き円盤をぜひ買ってみてください。魂消るとはまさにこのことでしたよ。
『偽りの希望で理想を塗り替えられた』とか『聖女連』ってパンドラ様関係ですか!?!? 本編でももっと登場してお願い……きっと彼女が敵になる章がこの先あるんでしょうけど早く見たいです…………。てかファルセイルめっちゃ喋りましたね! だいたいフーリエ殿下みたいな感じかなと思ってましたが、それともまた違った雰囲気アリ。ファルセイル×シャウラがてえてえ、ぐわああああああああああ猫先生ありがとう!!!!!!!!!仕事の疲れもすべて吹っ飛んだよ!!!!!ついでにこの二次の12話の『こぼれ落ちたエルピス』の時系列も(多分)矛盾して吹っ飛んじゃったけどそんなの些事だよ大些事!!!!猫先生心の底から愛してるっス~(*´з`)