傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
冷たい声が暗がりに落ちた瞬間、スバルの呼吸が止まった。
「────」
おそるおそる振り返った先、薄暗い部屋の入口にラムが立っていた。
薄紅の瞳には、波一つ立っていなかった。
不自然なほどに。
けれど、その奥底では、普段の皮肉や冷淡さでは到底覆い隠せないほどの怒りが、白く燃えていた。
「こんな夜更けに、ずいぶん熱心ね。何を探していたの、バルス」
「な、にって……俺は、ただ……」
「ただ?」
言葉が出ない。喉は凍りついたまま動かない。
なにより、さっき目の前で見た光景が、スバルの思考を狂わせていた。
自分の手で隠したはずのメィリィの遺体が、ない。
あの小さな身体が、どこにもない。
その事実だけで脳の内側がひっくり返りそうだった。
「答えられないのね」
ラムの声が、一段低くなる。
「なら、ラムが代わりに言ってあげる。あなたはここへ戻ってきたのは、確認するため。自分が隠したものが、まだそこにあるかどうかを」
「────」
──嵌められた。
その理解が、冷たい汗と一緒に背筋を伝った。
夕食の席では、メィリィは見つからなかったと淡々と語られた。その報告にスバルは安堵した。あの隠蔽が、まだ暴かれていないのだと信じた。
だが、違う。
とっくに見つけられていた。
そのうえで、あえてスバルには伏せられていたのだ。
そして犯人が現場へ戻るのを、待たれていた。
「──偽物」
静かな一言が、胸の奥を貫いた。
スバルの唇が震える。
「図星なのね。反論もできない。演技が雑すぎるもの。姿形だけ借りても、中身の下調べが足りていなければ、すぐに綻びる」
「……黙って聞いてりゃ、好き勝手言ってくれるじゃねぇか」
虚勢だった。自分でも分かるほど薄っぺらい虚勢でも、認めるわけにはいかなかった。
「偽物だの出来損ないだの、言い掛かりにもほどがあるだろ。俺が夜中に歩いてただけで、そこまで言われる筋合いはねぇよ」
「誰にも見られていないと思っていたの?」
その言葉に、スバルの喉が詰まる。
ラムは、自分の唇へそっと人差し指を当てた。
それは、スバルが部屋を抜け出す直前、パトラッシュへ見せた仕草と同じだった。
「あの地竜は、ちゃんと見ていたわ。ラムもあの子を通して、あなたを視ていた」
「……何を、言って」
「──そう。知らないのね。やっぱり、あなたはバルスではない」
言い訳はもう届かない。
そこまで悟った瞬間、スバルの思考は冷たく切り替わった。
逃げ道がない。なら、この場を突破するしかない。目の前のラムを排除する。その結論へ辿り着くまでの抵抗は恐ろしいほど薄かった。メィリィを殺したのが自分なら、もう一人増えたところで何が変わるというのか。一人も二人も、変わらない。
その最低の思考を、頭の奥の少女が楽しげに後押しする。
『あのお姉さん、今は調子が悪いみたいねえ』
メィリィの声。
『左側。重心がちょっとおかしいわあ。そこから入れば、倒せるんじゃなあい?』
それは、明確な殺しの助言だった。
ラムの弱点。
踏み込み方。
壁に叩きつける角度。
人を殺すための、自分ではない知識が、スバルの脳に流れ込んでくる。
「──っ!」
気づけば、スバルは床を蹴っていた。
ラムの左側へ踏み込み、その細い身体を掴み、石壁へ叩きつける。
そうするつもりだった。
「追い詰められたら暴力。ずいぶん分かりやすい結論ね」
ラムの声は、冷たかった。
「そんな相手の前に、ラムが一人で立つと思ったの?」
空気が凍った。
比喩ではなく、文字通りに。
スバルの足元から白い氷柱が突き上がり、前進を乱暴に止める。続けざま、床から氷の格子が伸び上がり、瞬く間にスバルの周囲を囲い込んだ。
「なっ、氷……!?」
殴っても蹴っても、びくともしない。
硬い。冷たい。スバルの力ではどうにもならない。
そして、その氷の檻の向こうに、銀髪の少女が立っていた。
「……全部、ラムの思い違いだったらよかったのに」
エミリアだった。
悲しげな紫紺の瞳が、檻の中のスバルを見つめている。
「スバル、どうして? どうして、ちゃんと部屋で休んでいてくれなかったの?」
「それ、は……」
「無駄です、エミリア様」
ラムが冷たく遮る。
「それはもう、バルスとして扱うには違和感が多すぎる。見た目だけ同じ、粗悪な別物です」
「でも、スバルはスバルよ。私は、そう簡単に切り捨てたくない」
「甘いわ」
ラムの声には容赦がない。
「姿を好きに変える大罪司教までいたのでしょう。なら、同じ顔をしていることなんて何の保証にもならない。あまりに不自然な言動があるのに、それを疑わない方がおかしいわ」
姿を変える。
その言葉に、頭の奥のメィリィが激しく震えた。
自分のものではない記憶が、唐突に脳裏へ雪崩れ込む。
母。
躾。
肉体をぐずぐずに崩され、何匹もの蛙へ変えられた感覚。
自分が自分でなくなっていく恐怖。
元に戻された瞬間、あの母へ感謝してしまう、吐き気のするほど歪んだ安心。
「──ぅ」
スバルは氷格子を掴んだまま、視界を明滅させた。
自分の形を、他人の都合で変えられる。
それは、存在そのものを踏みにじられるのと同じだった。
「本物のバルスと、メィリィの居場所を吐かせるべきです」
「──ぁ?」
その一言で、スバルの意識が引き戻される。
本物のバルス。
メィリィの居場所。
つまり、ラムたちはメィリィの遺体を見つけていない。
この場で疑われているのは、メィリィ殺害ではない。
ただ、スバルが『ナツキ・スバル』を演じきれていないこと。
それだけだ。
なら、死体を持ち去ったのは誰だ。
あの部屋から、メィリィを消したのは。
「スバルは、ちゃんと理由を話して。私は聞くわ」
「話を聞く必要などありません」
「あるわ!」
エミリアが声を張り上げる。
その声に押されるように、スバルの喉から、ずっと隠してきた言葉が飛び出した。
「──俺は、記憶喪失だ!!」
氷の部屋に、叫びが響いた。
ラムが目を見開く。
スバル自身にも、なぜ今それを言ったのか分からなかった。
この周回では隠し通すつもりだった。
そうすればうまくいくと思っていた。
だが、隠した結果、何もかもが歪んだ。
メィリィは死に、自分は疑われ、誰からも信じられなくなった。
「ふざけたことを……!」
「ラム、聞いて! スバルはこう言ってるのよ!」
「信じるのですか、エミリア様。本気で?」
「信じる価値はあるわ。それが、これまで私たちが積み重ねてきた時間でしょう!」
エミリアの叫びに、ラムの瞳が揺れた。だが、次の瞬間、ラムの声が震えるほど低くなる。
「なら、レムはどうなるの」
「──ぁ」
「その顔で、その声で、妹を忘れたと言うの?」
ラムが動いた。
エミリアが制止するより早く、ラムは一瞬で踏み込み、エミリアの腕を取って体勢を崩す。銀髪が宙に舞い、その身体が床へ投げ出された。
その一瞬で、ラムは氷格子の前に立った。杖の先がスバルの鼻先に突きつけられる。
「もう一度言いなさい」
「ち、が……」
「レムを忘れたと、その口で言いなさい。言えるものなら」
白い光が、杖先に集まる。
スバルは何も言えなかった。
本物のナツキ・スバルなら。
この場で、ラムを止める言葉を持っていたのだろうか。
「ラム、やめて!」
エミリアの声が届くより早く、衝撃が炸裂した。
スバルの身体は氷の檻の内側で弾き飛ばされ、背中から氷壁へ叩きつけられる。
視界が真っ白に潰れた。
言い訳も、謝罪も、何一つ届かないまま、意識はそこで途切れた。
「──ぅ……?」
次に浮上した意識は、泥の底から引きずり上げられるようだった。
「づ、ぁ……痛ッ!?」
左肩に、焼けるような激痛が走る。
スバルは冷たい床に転がっていた。
左腕がまるで動かない。
肩の関節が、本来あるべき位置から外れていた。
脂汗を流しながら周囲を見回すと、そこはメィリィを隠したはずの薄暗い部屋だった。
エミリアの作った氷の檻は、壊れずにそのまま残っている。
だが、スバルは檻の外にいた。
格子に、人が通れる隙間などない。
檻は壊れていない。
それなのに、自分は外にいる。
「……まさか」
肩を外し、身体を無理やり細く畳み、皮膚を削りながら格子の隙間を抜けた。
そんな狂気じみた可能性が頭に浮かぶ。
問題は、意識を失っていたはずの自分が、どうやってそれをやったのかということだった。
「エミリアと、ラムは……?」
二人の姿はない。
部屋は、不気味なほど静かだった。
そして、スバルは壁を見た。
『ナツキ・スバル参上』
石壁に、文字が刻まれていた。
腕に刻まれていたのと同じ文言。
荒々しく、執拗に、石を削って書き殴られた文字。
それだけではない。
『ナツキ・スバル参上』
『ナツキ・スバル参上』
『ナツキ・スバル参上』
壁一面。
床近くから天井際まで。
同じ文字が、びっしりと部屋を埋め尽くしていた。
あまりにも密集しすぎて、もはや幾何学模様に見えるほどだった。
「……なん、だよ、これ」
自分が眠っている間に。
自分の身体で。
誰が──俺の体を使って。
「──気味の悪ぃ部屋だな」
背後から、粗い声がした。
血が凍る。
振り返る前から、その声の主を知っていた。
「こんなとこで縮こまって何してやがる、小僧」
赤毛。
はだけた着流しから覗く、鍛え上げられた上半身。
そして、片目を覆う眼帯。
プレアデス監視塔二層の番人。
レイド・アストレアが、そこにいた。
「なんで、あんたが……」
「俺がどこにいようが、てめえに説明する義理はねえよ」
レイドは鼻で笑い、部屋を見渡す。
「肩、外れてんな」
「──ッ!?」
言い終わるより早く、レイドの手がスバルの左肩を掴んだ。
骨が鳴った。
外れていた関節が、強引に元の位置へ押し戻される。
次の瞬間、遅れて激痛が爆発し、スバルは声にならない悲鳴を漏らした。
「騒ぐな。直してやったんだろうが」
「乱暴すぎんだよ……!」
「丁寧に扱われるほど上等な身体してねえだろ」
レイドは興味なさげに氷の檻へ歩み寄る。
氷格子を草履の爪先で軽く蹴った。
それだけで、エミリアの氷は一瞬にして砕け散った。
スバルがいくら殴っても蹴っても壊せなかった檻が、ただの氷屑になる。
「……化け物かよ」
「今さらだな」
レイドは肩を回し、身体の感触を確かめるように首を鳴らした。
「そこそこ動く。悪くねえ」
「待て。あんた、二層から出られないんじゃなかったのか?」
「前提は間違ってねえ。今は出られる。それだけだ」
「だから、その理由を聞いてんだろ!」
「答えが勝手に降ってくると思ってんなら、口開けて空でも見てろ。俺はてめえの先生じゃねえ」
レイドはそのまま部屋を出ていく。
スバルは痛む身体を引きずって後を追った。
途中、塔全体が低く震えた。
床を伝わる振動。
遠くから響く、獣じみた絶叫。
レイドが楽しげに口の端を上げる。
「来てるな」
「何がだよ」
「見りゃ分かる」
たどり着いたのは、吹き抜けの螺旋階段だった。
スバルが二度、突き落とされて死んだ場所。
本能的に足が竦む。
それでも、隣へ立つ。
眼下を見下ろした瞬間、息が止まった。
五層が、炎に埋まっていた。
赤々と燃える魔獣の群れ。
赤子の泣き声にも似た絶叫。
馬めいた下半身に、人型の上半身。
裂けた腹から炎を吐き散らす異形が、五層を埋め尽くしていた。
その群れの中を、一つの影が駆け抜けている。
紫髪。
騎士剣。
血を流しながら、四方から迫る炎と魔獣を紙一重で捌き続ける男。
「ユリウス!」
叫びが漏れた。
生きている。
その事実に胸が詰まる。
だが、数が多すぎる。
どれほどユリウスの剣が優れていても、このままでは押し潰される。
その瞬間、胸の奥に最低の考えが浮かんだ。
ユリウスが死ねば、死者の書が現れる。
そうすれば、彼が何を考え、何を隠していたのか分かるかもしれない。
「────」
自分の思考に、スバルは息を詰める。
その横で、レイドが笑った。
「身内が下で食われかけてるってのに、突っ立ってるだけか。弱ぇ奴は選択肢が少ねえな」
「俺に、何ができるってんだよ」
「知らねえよ。だが、できねえ理由を数えてるうちは、何もできねえだろうな」
レイドは、何のためらいもなく縁に足をかけた。
「おい、待て──!」
止める間もなく、赤毛の剣士は宙へ身を投げた。
恐怖など欠片もない。
かつてスバルを殺した落下を、レイドはただの近道みたいに使った。
五層の魔獣の背へ、草履の一撃が叩き込まれた。
爆音。
千切れ飛ぶ四肢。
撒き散らされるどす黒い血。
レイドは何事もなかったように立ち上がった。
魔獣たちの絶叫が止まる。
ユリウスもまた、驚愕に目を見開いている。
「あなたは……なぜ、ここに」
「どいつもこいつも同じこと聞きやがる。もっと面白い質問はねえのかよ。強さの秘訣とか、うまい酒とか、女にモテる方法とかよ」
レイドは草履の裏の肉片を払う。
手には、二本の箸が握られていた。
「女にモテんのは顔がいいから。うまい酒は火酒グランヒルテ。強さの理由は、俺が俺だからだ」
箸が軽く動く。
次の瞬間、近くの魔獣の全身に無数の裂け目が走り、血が噴き上がった。
魔獣は遅れて自分の死を理解したように絶叫し、崩れ落ちる。
レイドは血の一滴も浴びていない箸を、ユリウスへ向けた。
「ほら、続きだ。飽きる前に、何か一つでも奪ってみろよ、オメエ」
五層に、再び炎と殺気が満ちた。