傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
──自切、という仕組みがある。
外敵から逃れるため、トカゲが尾を、カニが鋏を自ら切り離す生存戦略だ。切り捨てられた部位へ敵の注意を引きつけ、その隙に本体だけが生き延びる。ごく単純で合理的な、命を繋ぐための生存戦略だ。だが、あの大サソリが残した尾は、そんな生易しいものではなかった。
切り離された尾そのものに莫大なマナを蓄え、獲物が不用意に近づいた瞬間、蓄えたマナを一息に炸裂させる。つまり、あれは囮などではない。
地雷だった。
そして、スバルたちはそれをまともに踏み抜いた。
「うぅ、ぐ……ッ」
崩れかけた四層の通路に、血の混じった呻き声が細く引きずられていく。
スバルは左足をほとんど使えないまま、右足と両腕だけで身体を前へ運んでいた。脛から腿にかけて裂けた傷は身体を引きずるたびに開き、足を床へ触れさせるだけで傷の奥を焼けた鉄で抉られるような痛みが突き抜ける。それでも止まるわけにはいかなかった。
何しろ、両腕にはさらに一人分の重みがある。
「……もう、いい。置いていけ、ナツキくん」
「黙れ……!」
エキドナだった。
スバルは彼女の両脇へ腕を差し入れ、背後から抱えるようにして石床を引きずっている。ただし、その姿をもはや一人の人間の身体と呼んでいいのかさえためらわれるほど損傷は甚大だった。
両脚は、腿の付け根に近い位置から失われている。
光に焼き潰された断面からの出血はすでに少なかった。出血が少ないのは、止血できているからではない。流す血そのものが、もうあまり残っていないのだ。
スバル自身も重傷だった。そして、それ以上に――ベアトリスはもういない。
大サソリの尾が弾けた瞬間、スバルは本能的に小さな身体を引き寄せた。自分が盾になればいい。そう考えた。だが、同じ瞬間、ベアトリスもまたスバルを庇おうと小さな腕を伸ばしていた。
互いに互いを守ろうとした結果、光の猛威をよりまともに浴びたのは、ベアトリスの方だった。
最後までスバルの記憶に焼きついたのは、こちらを見つめる穏やかな瞳だった。
責めてもいない。恨んでもいない。ただ、スバルが生き残ったことに安堵するような、あまりにも優しい顔だった。
それから彼女は、光の粒となって消えた。──以前の周回で死体が見つからなかったのも、あるいはそういうことだったか。
声すら、残らなかった。
「……あの子は、本当に損な子だね」
途切れ途切れのエキドナの声に、スバルは何も返せない。
もう少しだけ遠くへ行かなければならない。サソリが戻ってくるかもしれない。このままここに転がっていれば、今度こそ二人とも確実に殺される。そんな切迫した理屈だけを頭の中で繰り返し、スバルは痛む左足を引きずった。
だが、その足が瓦礫を踏み損ねた。
「う、ぁっ!」
身体が派手に傾き、そのまま床へ転がる。腕から抜け落ちたエキドナの身体も冷たい石床へ投げ出され、二人分の呻きがほとんど同時に薄暗い通路へ響いた。
「悪い……! ごめん、俺……!」
「律儀だな、君は……」
エキドナは青白い顔で苦しげに呼吸しながら、それでもほんの少しだけ口元を緩めた。
「痛いよ。……本当に、人の身体というのは痛い」
「────」
「だけど、今ここでアナへ身体を返したら……この痛みも、死ぬ恐怖も、全部あの子が受けることになる」
呼吸は浅く、息を吸うだけでも顔が苦痛に歪んだ。それでも彼女は目を閉じたまま、自分に言い聞かせるように続ける。
「健康な身体を返すこともできなかった。ユリウスの力にもなれなかった。それならせめて、これぐらいは……ボクが持っていくよ」
「エキドナ……」
「楽にしてやろう、なんて考えなくていい」
まるでスバルの思考を先回りしたような言葉だった。
だが、その一言によって逆に、スバルはその選択肢をはっきりと意識してしまう。
足元には、拳ほどの瓦礫が転がっていた。スバルはそれを拾い上げ、掌の中で強く握る。あとは、これを振り下ろせばいい。
そうすれば、あと何分、あるいは何十秒続くかも分からない苦しみを終わらせられる。死者の書が欲しいからではない。何かを知りたいからでもない。これは介錯だ。苦しみの中で死にゆく相手を少しでも早く解放するための、せめてもの行為だ。
『石で頭を割るなんて、わたしもやったことないわあ』
頭の奥でメィリィの声が笑った。
「……違う」
スバルは低く否定し、瓦礫を握り直す。
エキドナは目を閉じている。
高く持ち上げて、そのまま振り下ろす。
必要なのは、ただそれだけのことだった。
それなのに。
「────」
腕が、動かない。
指が震え、肩が固まり、息だけが無様に浅くなる。脳では何度も命令しているはずなのに、全身の筋肉がそれを拒絶しているようだった。
やがて力の抜けた指から瓦礫が滑り落ち、乾いた音を立てて床を転がった。
「……くそ」
膝から崩れ落ちる。
これすらできない。
誰かを苦痛から解放するための一撃さえ、自分には振るえない。
「……ナツキくん」
「俺は……」
「介錯のためでも……人を殺せないんだ」
責められたのだと思い、スバルは身を竦ませた。けれど、その次に聞こえてきた声は、あまりにも穏やかだった。
「……疑って、悪かったよ」
「え……?」
顔を上げる。エキドナは、ごく薄く笑っていた。その言葉が何を意味するのか、問い返す時間は残されていなかった。浅葱色の瞳から静かに光が消え、胸の上下も止まった。
「……エキドナ?」
返事はない。
「おい……」
もう、何も返ってこなかった。
メィリィを殺した。
死体を隠した。
ユリウスを置いて逃げてしまった。
ベアトリスを守れなかった。
エキドナも救えなかった。──ユリウスに、託されたのに。
それなのに、最後の最後で謝ったのはエキドナの方だった。
死にたかった。
今すぐ何もかも放り出し、ここで倒れて目を閉じてしまいたかった。自分の名前も、ここまでに起きたことも、ベアトリスの最期の顔も、エキドナの最後の言葉も、全部忘れてしまえればどれだけ楽だろう。
それでも、まだ一人だけ残っている。三層『タイゲタ』には、フランがいるはずだった。
階段を上るのに、どれほど時間がかかったのか分からない。
手すりに縋りつき、右足で身体を押し上げ、役に立たない左足を一段ずつ引きずっていく。裂けた傷から落ちる血は、通ってきた階段へ細長い痕跡を残していた。
三周目にフランへ捕まった記憶は、いまだ鮮明だった。
首を掴まれたことも怖い。殺されたことも怖い。
だが、それ以上に、肉体よりさらに奥、自分という存在の核へ直接指を差し込まれたような、あの感覚が忘れられない。
思い出すだけで胃が縮む。
あの紅い瞳に見られるだけでも、身体は勝手に警戒するだろう。それでも、今頼れる可能性が残っているとすれば、フランしかいなかった。
もともとはベアトリスとエキドナを彼女へ預けるつもりだった。今の自分ではない、本物の『ナツキ・スバル』をフランは深く慕っているらしい。ならば、今の自分が嫌われても構わない。殺されることになったとしても、二人だけでも託せればいい。無力な自分と一緒にいるよりは生存率も上がるはずだ。
そう考えていた。けれど──
「……預ける奴が、もういねぇよ」
乾いた自嘲が、荒い呼吸に混じる。結局一人になったスバルは、それでも三層を目指して階段を上り続けた。
やがて、『タイゲタ』へ続く最後の段を越える。書庫へ足を踏み入れた瞬間、スバルはその異様な光景に立ち尽くした。
「……なんだよ、これ」
白かった。
三層『タイゲタ』は、本来なら死者たちの人生を収めた無数の本が並ぶ空間だ。高く伸びる書架と、その奥に沈殿する黒い影。紙と少しの埃の匂い。静寂そのものが蓄積しているような場所。
その書庫が今は、異様な白に侵食されている。
床一面に、羽根が散っていた。
通路の途中で一度見かけた、不気味な白い鳥。その同類らしい死骸が、羽根に埋もれるようにして十数羽も転がっている。一羽は翼を根元から千切られ、一羽は細い胴を握り潰され、別の一羽は首を本来あり得ない方向へ捻じ曲げられている。
まるで突然現れた見えない巨人が、片端から素手で握り潰していったような死に方だった。
奇妙なのは、血が見えないことだ。
だからこそ、むしろ気味が悪い。
真っ白な羽毛の隙間から、黒い嘴や細い脚だけが突き出している。踏み込んだスバルの靴が羽根を押し潰し、傷ついた足から滴る血が白へ滲むと、ようやくそこへ生々しい色が加わった。
そして、その白い死骸の海の中心に、一人の少女がいた。
「────」
最初、スバルはそれがフランだと分からなかった。
いつも彼女の全身を覆っている灰色のローブがなかったからだ。
ローブは少し離れた床に落ち、脱ぎ捨てた外皮のように白い羽根へ半ば埋もれている。その代わり、普段は隠されていた本来の衣装と、彼女の異形の翼が露わになっていた。彼女が演じるフランドール・スカーレットの象徴が。
赤を基調とした少女らしい服。
柔らかく流れる金色の髪。
そして、背中から左右へ広がる異形の器官。普段のローブ越しには存在すら分からなかったそれは、黒い枝を思わせる細い骨格に、赤、青、緑、紫――色とりどりの結晶を吊り下げていた。
七色に煌めくそれは本来なら華やかなはずなのに、薄暗い書庫と鳥の死骸に囲まれた今は、壊れたステンドグラスの欠片を背負っているようにしか見えなかった。
そのフランが、床に膝をついていた。
背中は深く丸まり、乱れた金髪が頬へ張りついている。普段であれば自信たっぷりに持ち上げられている顔も、今は一冊の本へ落とされていた。
『死者の書』。
フランはそれを、胸の中へ押し込んでしまおうとするほど強く抱きしめていた。
細い指が表紙へ食い込み、関節が白くなる。
少しでも腕の力を緩めれば、その本まで奪われてしまうと怯えているように見えた。
「ファル義兄様……」
掠れた声だった。
「にい、さま……ごめんね……私、間に合わなかった……」
頬が、本の表紙へ触れる。
そこへ涙が一滴落ちた。
「嘘……こんなの、嘘よ……」
「フラン……?」
スバルは思わず名前を呼んだ。
けれど、反応はない。
紅い瞳は開いているのに、何も映していないように見えた。本を見ているのか、その向こう側にいる誰かを見ているのか、それすら分からない。
遠くで魔獣が吠えた。
塔全体が低く震え、天井から細かな砂と石粉が落ちてくる。書棚も軋み、いくつかの本が傾いたが、フランはそのどれにも反応しなかった。
「おい」
スバルは一歩近づく。
靴の下で、白い羽根が擦れる。
「フラン」
さらに一歩。
怖くないわけではない。
近づくほど、身体の奥で警鐘は強くなる。
三周目に自分を殺した魔女と、目の前で本を抱えて震える少女が同じ存在だと、頭では分かっている。自分を偽物だと断じ、言葉を尽くす余地もなく、その奥底まで破壊した魔女。
なのに今、あのときスバルを壊したのと同じ細い指は、一冊の本を離すまいと震えている。
その姿は、ひどく小さく見えた。
「おい、フラン!」
スバルはとうとう肩へ手を伸ばした。
触れる直前に、指が一度止まる。
それでも覚悟を決め、肩を掴んだ。
「────」
肩は柔らかく、掌には確かな体温が返ってきた。
あの時も触れていたはずなのに、そんな当たり前のことが、妙に意外だった。
「聞け! ここにいたら危ねぇ! 俺だ、スバルだ!」
フランの身体が、ごくわずかに揺れる。
「俺だよ。フーちゃんだ!」
その呼び名に。
初めて、反応があった。
俯いていた顔が、ひどくゆっくりと持ち上がる。
「……フー、ちゃん……?」
スバルは一瞬、息を詰めた。
ひどい顔だった。
目元は腫れ、睫毛は涙で束になり、普段なら白いながらも血色を感じさせる頬まで色を失っている。紅い瞳にもいつもの鋭さはなく、目の前のスバルが本当にそこに存在しているのかを確かめるように、焦点が僅かに揺れていた。
「ああ、そうだ。俺だ」
スバルは大きく頷く。
「記憶はねぇ。何にも分かってねぇし、本当にお前の知ってる奴なのかも、俺自身には分からない。でも、今はそれどころじゃねぇ。ここを出るぞ。立てるか?」
フランは答えず、ただ紅い目を少しずつ下へ動かした。
その視線が、スバルの顔から首、胸元へとゆっくり下がり、最後に裂けた左足で止まった。
「……血」
「あ?」
「フーちゃん……血が……」
そこでようやくスバルは、自分の手がフランの肩を汚していることに気づいた。血に濡れた指先が赤い衣服へ濃い染みを残している。
「俺はいい」
スバルは即答した。
「こんなの後だ。それより、お前が──」
フランが不意に手を伸ばした。
「────」
スバルの肩が、大きく跳ねた。
反射だった。
三周目の記憶に、身体が勝手に怯えた。
伸ばされたフランの指が、空中で止まる。
彼女の紅い瞳が、スバルの顔を見た。
「……ごめん」
小さな声だった。
フランは結局そのまま触れず、伸ばした手をゆっくりと引き戻す。
「いや、違……今のは」
スバルの胸に、別種の居心地の悪さが広がった。
怖いのは事実である。だが、今の彼女にそんな顔をさせたかったわけではない。謝るべきなのはどちらなのか、そんなことさえ分からなくなりかけた、そのとき。
轟音が書庫を揺らした。
「──ッ!」
分厚い石壁が、内側へ向かって爆ぜた。
大小の石材が飛び散り、巻き込まれた書棚から何十冊もの死者の書が宙を舞う。砂煙が濁流のように書庫へ流れ込み、その灰色の向こうで、赤い六つの光がぎらりと瞬いた。
「……来やがった」
大サソリ。
四層から執拗にスバルたちを追い続けてきた怪物が、崩れた壁を巨大な鋏で押し広げながら三層へ侵入してくる。
黒い甲殻同士が擦れ、硬質な音が響く。巨大な尾が、ゆっくりと持ち上がっていく。その先端に、白い光が集まり始める。
「フラン!」
スバルは反射的に前へ出ようとしたけれど、左足がその命令に応えない。
「っ、ぐ!」
膝をつく。庇えない。間に合わない。
そして白い光が放たれた。
「────」
その瞬間、フランの顔が大サソリへ向いた。
ついさっきまで世界の全てから切り離されたように泣き崩れていた、その同じ少女の紅い瞳が、真っ直ぐに怪物を捉える。
表情は変わっていない。
頬には涙の筋も残ったままだ。
そして、閃光が少女の頭部を撃ち抜いた。
「──フラン!!」
金色の髪が舞い、赤い飛沫が白い羽根へ散った。
頭部の半分を失い、フランの身体が大きく仰け反る。
スバルの喉から悲鳴が迸った。
明らかな致命傷であるが、倒れない。
フランは片膝をついたまま、左腕で死者の書を胸に抱き続けていた。そして、頭を半分失った身体の右腕だけが、ゆっくりと持ち上がる。
フランは掌を上に向け、大サソリへ右手を差し出した。そこから何かを握り潰すように、小指、薬指、中指、人差し指、最後に親指をゆっくりと折り込んでいく。
魔法の詠唱はない。
光もない。
何かが飛んだわけでもない。
ただ、空間が悲鳴を上げた。
ギィィィィィィッ──!
耳障りな金属音が書庫を震わせる。
「な……」
スバルには、最初何が起きているのか分からなかった。
大サソリの巨大な鋏が、内側へ向かって歪んでいる。
甲殻もまた、あり得ない方向へ陥没していた。八本の脚がばらばらに曲がり、硬いはずの外殻に一本、二本と亀裂が走り、それが瞬く間に全身へ蜘蛛の巣状に広がっていく。
何も見えない。
それでも、何か途方もない力が全方位からサソリの巨体を握り締めているのだということだけは分かった。
巨大な尾が途中から折れ曲がり、鋏がひしゃげ、脚がまとめて砕ける。
怪物は抵抗するように巨体を暴れさせ、そのたびに石床が揺れ、書棚が次々と倒れる。それでも見えない圧力は少しも緩まなかった。
そして最後には、大サソリの全身が、ぐしゃり、と内側へ圧縮された。
巨大な手の中で虫を握り潰すような、あまりにも一方的な破壊だった。黒い甲殻、赤黒い肉、濁った体液が一斉に弾け、三層の床を汚す。遅れて静寂が戻った。
崩れた書棚から、一冊の本が床へ落ちる音だけが妙に大きく響いた。
「────」
そして、スバルはフランを見る。
欠けた頭部の断面から、赤い何かが蠢いていた。
「……う」
思わず息を止める。
細い肉の線が伸び、失われた部分をなぞるように骨が組み上がる。その骨を赤い肉が覆い、さらに白い皮膚が張り直され、最後には金色の髪が肩へ流れ落ちた。
そこには何事もなかったように、元通りの少女の顔があった。
それでも涙だけは、いまだ溢れだしていた。
「……フーちゃん」
再生した唇が、スバルを呼ぶ。
「フラン、お前……」
フランはゆっくり立ち上がったが、一歩目でわずかに身体をよろめかせた。それが再生の影響なのか、兄の死の詳細を知った衝撃がまだ抜けていないからなのか、スバルには判断がつかない。
死者の書を胸へ押しつけたまま、フランはスバルの前まで歩いてくる。
「ごめんね」
「は?」
「私……見てなかった」
フランの視線が、スバルの全身を辿る。
裂けた服。乾きかけた血。深く傷ついた左足。疲労と痛みで青ざめた顔。
それを一つ見つけるたび、少女の眉が少しずつ歪んでいくようにスバルには見えた。
「フーちゃんが、こんなになるまで……私、何も見てなかった」
「そんなの、お前のせいじゃ」
「サテラもいない。先生もいない。アレクもいない」
一人ずつ、数えるように口にする。
そして、最後に腕の中の本へ目を落とした。
「ファル義兄様も……もう、いない」
「────」
「なのに私……」
声が掠れる。
「私だけ、ここにいたのに」
何を責めているのか。
誰を責めているのか。
スバルには分からなかった。
ただ、その顔を見ている限り、フランが一番強く責めているのは他の誰でもなく、自分自身なのではないかと思えた。
「ごめんね。お姉さん失格だ」
手の甲で涙を拭う。
「魔女失格でもあるのかな。……まあ、それは別にいいや」
「よくねぇだろ」
「いいの」
すぐに返された。
フランは笑おうとした。
けれど、持ち上がったのは口角だけで、紅い瞳は全く笑っていない。
「そんな肩書きより……フーちゃんの味方でいられなかった方が、ずっと嫌」
「────」
スバルは、思わず目を逸らした。
肉体よりもっと奥まで壊された記憶のせいで、今でも彼女に触れられることを本能が恐れている。なのに、今の彼女を見ていると、その記憶と目の前の姿がどうしても綺麗に重ならない。スバルを見下ろし、偽物だと断じた冷酷な魔女。兄の死者の書を胸に抱き、泣き腫らした目でスバルの傷を見ている少女。
同じ顔なのに、ひどく遠く感じられた。
「……その本」
スバルは彼女の胸元を見る。
「ファルセイルの、なのか」
フランの腕へ、僅かに力が入った。
「読んだのか」
「……少しだけ」
答えるまでに、長い沈黙があった。
「全部じゃないよ」
フランは抱いた本へ視線を落とす。
「全部なんて……読めなかった」
「────」
「見つけたときは、読まなきゃって思ったの。ずっと知りたかったから。ずっと探してたから」
そこで声が途切れる。
一度喉を鳴らしてから、フランは続けた。
「でも、途中で読まなきゃよかったって思った。馬鹿だよね。四百年も経ってるんだよ? 分かってたはずなのに」
「フラン……」
「分かってるのと、見るのは……違うね」
その一言だけはスバルにも、嫌というほど理解できた。
知っていることと、目の前へ突きつけられることは、全く違う。
「……かっこ悪いところ見せちゃったなぁ」
フランが鼻をすすり、力なく笑う。
「いつもなら、もう少し美少女魔女らしく綺麗に泣くんだけど」
「泣き方に美少女もクソもあるかよ」
「あは」
今度の笑いは、ほんの僅かだけ本物だった。
それを見て、スバルの胸から何かが少しだけ抜けた気がする。
「立てる?」
「……たぶん」
「嘘」
「即答すんな」
フランはスバルの前へしゃがみ込んだ。
そして、手を伸ばそうとして。
一度、止めた。
「触っても平気?」
「────」
スバルは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
だがすぐに、さっき自分が怯えたのをフランが覚えているのだと気づく。
胸の奥に、鈍いものが刺さった。
「……ああ」
「そっか」
今度こそ、フランの腕がそっとスバルの背中へ回った。
壊れ物でも扱うような手つきだった。
スバルはフランの肩を借りる形になり、自然と二人の距離が縮まった。
金色の髪が頬へ触れ、血と埃と紙の匂いが充満する書庫の中で、彼女の身体からだけ微かな甘い香りがした。そして何より、その身体は温かかった。
その体温を確かに感じていると、かつて同じ身体に殺された記憶の方が、かえって現実味を失っていく。
「逃げよう、フーちゃん」
「ああ」
「今度こそ、私がちゃんと──」
その言葉は、最後まで続かなかった。
床の影が動いた。
「────」
最初は、書棚の影が揺れただけに見えた。
けれど、違う。
黒が増えている。
石床の隙間から。
壁際から。
書棚の下から。
液体より濃い闇が音もなく滲み出し、床へ散った白い羽根を一枚ずつ呑み込みながら広がっていく。
壊れた書棚が沈む。
大サソリの残骸が黒へ呑まれる。
床へ散乱した死者の書までも、何冊も影の底へ引きずり込まれていった。
「……最悪」
フランが小さく呟いた。
それだけで、スバルにも正体が分かる。
あの心臓を掴みに来る黒い女の、魔手。
あらゆるものを呑み込む影が、とうとう三層へまで上がってきたのだ。
「フラン」
「うん」
フランは、スバルを庇うように一歩前へ出た。
ついさっきまで泣き崩れていた同じ少女とは思えないほど、その動きだけは自然だった。
けれど、よく見れば無理をしているのは分かる。
背筋は伸びている。
紅い瞳も、迫る影を捉えている。
それでも目の縁は赤いままで、頬には乾ききらない涙の筋が残っていた。
「もういい」
「何が?」
「俺のことだよ。こんなんでお前まで巻き込まれたら──」
「よくないよ」
フランは即答した。
「フーちゃん」
振り返る。
七色の宝石が、背後で迫る黒を受けて鈍く輝いていた。
「フーちゃんを置いて逃げるなんて、私のロールじゃない」
「……こんなときまで役の話かよ」
「こんなときだからなんじゃない」
フランは笑った。
泣き腫らした顔に浮かんだ、不恰好な笑みだった。
「私にとってフーちゃんは──」
パタリ。
小さな音がした。
床に散乱した白い羽根の中。
そこでは一羽だけ、死んでいたはずの白い鳥がゆっくりと首を持ち上げていた。
「フラン!」
「──!」
紅い瞳がそちらを向く。
遅い。
白い鳥が翼を広げた。
羽ばたいたのは、たった一度。
『フランダース・スカーレットがプレアデス監視塔にいるはずがない。彼女は自分の館でアフタヌーンティーを楽しんでいるのだから』
空間が歪んだ。
「な──フラン!」
スバルは手を伸ばした。
フランもまた、とっさにこちらへ腕を伸ばす。
「フーち──」
指先が触れたのは、ほんの一瞬だった。その温度を確かめるより早く――フランの姿が消えた。
「────」
何もない。
フランも。
抱えていたファルセイルの死者の書も。
白い鳥も。
周囲に積もっていた羽根の一部まで。
まるで最初から、その空間だけが切り取られていたかのように綺麗に消えている。
「……フラン?」
返事はなかった。
「おい」
何もない。
「フラン!」
声だけが、空っぽの書庫へ響いていく。返事は返ってこない。スバルは伸ばした手を、そのまま虚空へ残した。
「────」
まただ。
結局誰一人残せない。
誰一人、救えない。
ただ。
フランだけは。
今のあれが死ではなく、どこかへ飛ばされたのだとしたら。
あの拷問の記憶があっても。
偽物と断じられた恐怖があっても。
最後に自分を見て泣いて、自分へ手を伸ばしてくれた少女だけでも、この場所から逃れられたのなら。
「……それで、いいか」
そう思ってしまった。
本当に。
心の底から。
「もう、いい」
スバルは力を抜いた。
支えてくれる肩は、もうない。
傷ついた左足が支えきれず、白い羽根の残骸の中へ膝をつく。
目の前では、あの女の影が迫っている。
冷たい黒が床を満たす。
足先へ触れる。
這い上がる。
これで全部終わる。
全部消えてしまえばいい。
スバルは目を閉じた。
そして、黒が全身を呑み込もうとした、まさにその瞬間。
「──そこまでよ」
銀鈴を転がしたような声が暗黒の中で世界を、引き止めた。