傲慢の魔女『フラン』 作:オド・ラグナの対義語
――世界は、黒く滲んでいた。
床へへたり込んだスバルを囲むように、影が四方から這い寄ってくる。
人の腕を真似た黒が、指だけを人間らしく形作りながら四方から伸びてくる。それらが肩や足へ触れるたび、皮膚と影の境界が曖昧になり、自分という存在の輪郭そのものが少しずつ溶かされていく。
不思議なことに、痛みはなかった。
熱くもない。冷たくもない。ただ、自分を自分として世界へ繋ぎ止めている何かが、一枚ずつ剥がされていくような感覚だけがあった。
「────」
本当なら、恐ろしいはずだった。
このまま呑み込まれれば、おそらく二度と戻れない。頭で理解するより先に、本能の奥底がそう告げている。
なのに、心は妙に静かだった。
ユリウスを置き去りにした。
ベアトリスは、自分を庇って消えた。
エキドナは、何一つ救えなかったスバルへ最後に謝罪を残して死んだ。
フランもまた、泣き腫らした目でこちらへ手を伸ばした直後、跡形もなく消えた。
結局、誰一人として救えていない。
それどころか、自分を助けようとする人間から順番に、いなくなっているようにすら思えた。
ならば、最後にスバルが消えるのは、むしろ帳尻が合っている。
死にたい。
消えたい。
今度こそ誰にも見つけられず、誰にも期待されず、誰にも手を伸ばされないところまで、跡形もなくなくなってしまいたい。
そんな願いだけは、この影なら正しく叶えてくれる気がした。
――愛してる。
だから、その声だけが邪魔だった。
耳から聞こえてくるわけではない。頭の奥へ、もっと正確に言えば魂へ直接擦り込まれてくるような声音が、甘く濁った愛情を延々と繰り返している。
――愛してる。愛してる。
やめろ。
知っている。
愛されていることぐらい、知っている。
元の世界でもそうだった。父も母も、ナツキ・スバルを疑いようもなく愛していた。だからこそ、苦しかった。
何もできない自分を、何者にもなれなかった自分を、どうしてそんな顔で愛せるのか理解できなかった。愛される価値がないと自分で信じ込んでいる人間にとって、無条件の愛情が、いつだって救いになるとは限らない。
時には、それそのものが重荷になる。
――愛してる。愛してる。愛してる。
その黒い声の隙間へ、一瞬だけ別の声が混じった。
『フーちゃん』
泣き腫らした紅い目で、フランが呼んだ名前。
偽物かもしれない。
中身が違うかもしれない。
三周目には、それを誰より早く見抜いて殺した女だ。
それでも最後には、彼女はもう一度スバルをそう呼んだ。
だが、その小さな声も、すぐさま押し寄せる黒い愛情に呑み込まれていく。
――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。
もういい。
分かった。
分かっている。
この一方的な愛を聞き続けていれば、やがて全部終わるのだろう。
砕いて、潰して、自分というものを完全に消してくれるのだろう。
誰かに望まれることもない。
誰かの期待を裏切ることもない。
誰かが自分を守って死ぬこともない。
だったら。
もう、それでいい。
ナツキ・スバルなんて、消えてしまえば――。
「――そこまでよ」
声がした。
黒い声ではない。
耳の奥へ粘つく愛でもない。
もっと真っ直ぐで、もっと澄んでいて、ほんの一瞬だけ、この黒一色になった世界へ別の色があることを思い出させる声。
次の瞬間、白い閃光が薄暗い書庫を横切った。
スバルへ伸びていた影の腕が一本、飛来した氷槍に撃ち抜かれて砕け散り、その向こうから銀色の髪が飛び込んでくる。
「――スバル!」
名前を呼ばれた。
力なく垂れていた右手を、強く掴まれた。
「────」
温かかった。
その温度が、ひどく腹立たしかった。
どうして来たんだ。
どうしてそんな顔で自分の名前を呼ぶ。
どうして、自分なんかの手をまだ握れる。
スバルがそんな問いを言葉にするより早く、エミリアは腕へ力を込め、半ば強引にスバルの身体を引き起こした。
影もまた、二人を逃がすまいと蠢いた。
前からも、後ろからも、頭上からも黒い腕が伸び、通路を塞ぎ、二人の足元を絡め取ろうとする。
それでもエミリアは止まらない。
「り、やぁっ!」
スバルを握っていない方の手を振るい、氷の魔法を放つ。
少し前にはスバル自身を閉じ込めるために作られた氷が、今度は彼を助けるための刃となって黒い壁を切り開いた。
砕けた影の隙間を、エミリアが走る。
銀色の長い髪が荒れ狂う空気を受けて翻り、その後ろをスバルはほとんど引きずられるようについていった。走っているというより、連れていかれている。
左足はまともに動かず、身体は重く、意識さえところどころ霞んでいる。
それでも、エミリアの手だけは離れない。
その事実が、どうしようもなく苦しかった。
彼女が生きていた。
本来なら喜ぶべきなのだろう。
なのに、スバルの胸に湧き上がったのは安堵ではなく、今にも頭蓋の奥がひび割れそうな焦燥だった。
ユリウスの生存を確認した。
ベアトリスも、自分の隣にいた。
エキドナも、少し前まで話をしていた。
フランに至っては、ほんの少し前まで、その肩の温度を感じていた。
その全員が、自分を助けようとした。
そして、今はいない。
自分の『死』だけを何度もなかったことにする代わりに、周囲へ不幸を撒き散らす存在なのではないか。荒唐無稽な妄想のはずなのに、今のスバルには不気味なほど説得力があった。
「……もう、十分だ」
「え?」
「これ以上、足掻いたって仕方ねぇって言ってんだ」
引かれていた腕へ力を込め、スバルは抵抗した。
足は痛い。
身体もまともに踏ん張れない。
本気でエミリアが引けば、スバルなど荷物同然に運べるはずだった。
けれど、彼女はそうしなかった。
スバルが抵抗したと気づいた瞬間、エミリアは足を止め、振り返った。
そして、こちらを見る。
その優しさまで腹が立つ。
「なんで助けに来た?」
「スバル……?」
「おかしいだろ。お前だって俺を疑ったから、氷の檻に閉じ込めたんじゃねぇか。偽物かもしれないって、そう思ったんだろ」
わざと傷つける言葉を選んだ。
嫌ってほしかった。
失望してほしかった。
もう二度と、こんな男の手を取ろうとは思わないでほしかった。
それなのに、エミリアが見せた反応は、怯えでも失望でもなかった。
怒ったのだ。
「違うわ! スバルを傷つけたかったわけじゃない。あのときのスバルが、すごーくおかしかったから……ちゃんと話を聞きたかったの。だからラムのやり方に乗っただけよ」
そして、そこでスバルは記憶がないことを明かした。
その事実を、彼女は信じようとしている。
「そんなの、苦し紛れの嘘かもしれねぇだろ! なんで簡単に信じるんだよ! 馬鹿じゃねぇのか! お前も、ユリウスも、ベアトリスも!」
ラムやエキドナの方がよほど正しかった。
あんな怪しい状況で、あんな怪しい男の言葉など信じる方がおかしい。
信用しなければいい。
手を伸ばさなければいい。
「みんな馬鹿だ……最後には、エキドナまで……」
「エキドナ?」
エミリアの表情が強張る。
「最後って……スバル、何があったの?」
その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。
けれど、もう止まれなかった。
「死んだよ」
「────」
「エキドナは死んだ。両脚を失って、それでもアナスタシアにこの痛みを渡したくないとか言って……最後には俺なんかに、疑って悪かったって謝りやがった」
言葉にするたび、光景が戻ってくる。
冷たい床。
拳ほどの瓦礫。
振り下ろせなかった腕。
最後に消えた浅葱色の瞳。
「ベアトリスもだ。俺を庇った。俺があいつを守らなくちゃいけなかったのに、あいつの方が俺を守って……消えた」
スバルが忘れても、ベアトリスは忘れない。
必ず思い出させる。
そんなことを言ってくれた少女は、その直後にいなくなった。
「あんなことになるぐらいなら……俺なんかが、あいつをどこかから連れ出さなきゃよかったんだ」
何が正しいのか分からない。
記憶がない以上、過去の自分が何をしたのかも分からない。
それでも、ベアトリスが自分と一緒にいなければ、あんな顔をして消えることもなかったのではないか。
「それに、フランだって……」
エミリアの紫紺の瞳が僅かに見開かれた。
「あの、おっかねぇ魔女がさ……兄貴の本を抱えて、子どもみたいに泣いてたんだよ。いつも余裕ぶって、何でも知ってるみたいな顔して、俺を散々ひどい目に遭わせた奴が」
白い羽根が敷き詰められた書庫。
その中心で、『死者の書』を抱いて震えていた少女。
「大サソリに頭半分吹き飛ばされても俺を守って、自分のことをお姉さん失格だの魔女失格だの言って……それでも最後には、俺に手を伸ばしてた。それが、いきなり白い鳥に何かされて、目の前から消えた」
そこで一度、息が詰まった。
「あいつ前に俺を見て、偽物って言ったんだ」
エミリアには意味が分からないだろう。
それでも口から出た。
「誰より早く、俺が『ナツキ・スバル』じゃないって見抜いて……俺のことを壊した。それなのに、最後には血まみれの俺を見て、『フーちゃん』って呼びやがった」
どうしてなのか分からない。
あの時は違うと見抜いたはずなのに。
偽物だと断じたはずなのに。
最後は、その名前で呼んだ。
「ユリウスだってそうだ。自分はあんな魔獣の中に残って、レイドまでいるのに、俺には行けだの頼むだの……本当に馬鹿ばっかりだ」
託す。
信じる。
赦す。
守る。
そんなものを与えられるたび、重くなる。
信じられた分だけ、自分の醜さが浮き彫りになる。
期待された分だけ、何もできない自分が許せなくなる。
「俺なんかに、何を期待してんだよ……」
声が、震えた。
「俺は何にもできなかった。全員、俺を助けようとして、俺だけ生き残って……これじゃ、俺がみんなを食い潰して生きてるみたいじゃねぇか」
ここで一番弱くて。
一番愚かで。
一番どうしようもなくて。
誰より救いようがない人間。
それがナツキ・スバルだ。
「俺じゃなくても、いいだろ」
掠れた言葉が、自然とこぼれた。
「もっと強い奴がいる。頭のいい奴もいる。俺みたいなのは綺麗に切り捨てて、そういう奴に任せればいい。俺には……」
無理だと、そう言いたかった。
何も望まないでほしい。
名前を呼ばないでほしい。
そんなにまっすぐ、自分を見ないでほしい。
けれど、エミリアは目を逸らさなかった。
そして、これまでスバルが吐き出した言葉の全てを聞いたあと、彼女は静かに、自分の胸へ白い手を添えた。
「私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れる。
何を言い出したのか分からなかった。
だが、エミリアは構わなかった。
彼女の表情には、何か大事なものを一つずつ確かめるような色があった。
そして、その顔を見ているうちに、スバルは気づく。
彼女は、思い出しているのだ。
王都で出会ったこと。
ロズワール邸で過ごした穏やかな時間。
魔獣騒ぎで無茶をしたこと。
王選の王都で大喧嘩したこと。
それでも、また戻ってきたこと。
何度遠ざけても。
何度傷ついても。
馬鹿みたいに、また手を伸ばした。
「────」
スバルには、そのどれも覚えがない。
だが。
エミリアの顔を見れば分かった。
彼女の中では、それら全部が生きている。
ただの昔話ではない。
大切に、大切に仕舞われてきた記憶だった。
それを思い返すエミリアの紫紺の瞳は、ほんの少し潤み、それでも柔らかく細められている。
こんな顔をさせた男がいる。
その事実が、スバルの胸を焼いた。
焦がれる。
どうしようもなく、焦がれる。
この少女の中に、こんな温かな記憶を残した男へ。
彼女をこんな顔で笑わせることのできる男へ。
『ナツキ・スバル』という、過去の自分へ。
羨ましい。
憎らしい。
そして。
その感情とは別の場所で、目の前の少女そのものへも、胸の奥が強く引かれていくのをスバルは感じていた。
今までだって、美人だと思っていた。銀色の髪も、紫紺の瞳も、整いすぎた顔立ちも、初めて会ったときから目を奪われるものだった。けれど、それだけではない。疑わしい男を前にしても、完全に切り捨てない。傷付けるような言葉をぶつけられても、同じだけの悪意を返してこない。
それどころか、もういなくなったかもしれない仲間たちのことを案じながら、それでも目の前の一人を見捨てることを選ばない。
馬鹿みたいに真っ直ぐで。
驚くほど頑固で。
甘すぎて。
それでも、どうしようもなく綺麗だった。
「……そりゃ」
スバルの口から、誰にも聞かせるつもりのない声が漏れた。
「惚れるわ」
こんな女に。
過去の『ナツキ・スバル』が惚れた理由が、少しだけ分かった。
いや。
違う。
今、分かったのではない。
今のスバル自身も、同じ場所へ落ちかけているのだ。
記憶なんてなくても。
過去に何を言ったか知らなくても。
目の前のエミリアを見ているだけで、胸の奥が痛いぐらいに鳴っている。
ああ、畜生。
どうやら、好みまで同じらしい。
こんな状況で、そんなことに気づく自分が馬鹿馬鹿しくて、少しだけ笑いそうになった。
けれど、その小さな感情さえ、すぐに自責が押し潰す。
彼女が今見ているのは、自分ではない。
過去のナツキ・スバルだ。
そう思った。
だから、スバルは首を振った。
「覚えてない」
声が震える。
「何一つ、覚えてねぇよ」
エミリアの中にある大切な記憶のどこを探しても、今のスバルはいない。
それが苦しかった。
「お前ら、一体誰の話をしてるんだよ……!」
胸に溜まっていたものが、また爆発した。
「誰かのために命を張って! 誰かのために身体が勝手に動いて! 何度傷ついても走れて! そんな都合のいい奴が、本当にいるわけねぇだろ!」
ユリウスが託した。
ベアトリスが信じた。
エキドナが赦した。
フランが、もう一度名前を呼んだ。
エミリアは、その男との記憶を宝物のように抱えている。
そんな男が。
「そんな立派な奴が、ナツキ・スバルのわけがねぇ!」
叫ぶ。
「俺は知ってんだよ! ナツキ・スバルがどれだけ情けなくて、クズで、どうしようもなくて、腐った奴なのか! 俺が一番知ってるんだ!」
誰より知っている。
何せ自分なのだから。
「誰を見てんだよ! そんな奴、この世界のどこにもいねぇ! 全部、その場しのぎの嘘だったのかもしれねぇだろ! 信じる価値なんてねぇんだよ!」
エミリアは黙って聞いていた。
逃げなかった。
目を逸らさなかった。
「ナツキ・スバルにそんな価値があるわけねぇだろ! ただのクソ野郎なんだよ! 俺が、誰よりそれを知ってるんだ!」
そこまで吐き出すと、呼吸が続かなくなった。
肩を上下させ、血と汗に汚れたまま立つスバルの前で、エミリアはしばらく何も言わなかった。
怒ったのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
そう思った。
けれど。
「私は、エミリアよ」
「……ぁ?」
同じ言葉だった。
今度こそ、スバルは真正面から彼女を見る。
エミリアは白い手を胸へ当て、紫紺の瞳に今のスバルだけを映していた。
過去の英雄ではない。
傷だらけで、泣きそうな顔をして、散々みっともない言葉を吐いた、今のスバルを。
彼女には話したいことも、聞きたいことも山ほどあるのだろう。
なぜ記憶を失ったのか。
何が起こったのか。
誰が死んだのか。
それでも、今この瞬間に彼女が知りたいことは、もっと単純だった。
ユリウスが託した男。
ベアトリスが身を挺して守った男。
エキドナが最後に疑ったことを謝った男。
フランが消える寸前まで気にかけていた男。
そして今、エミリア自身がどうしても置いていけず、手を掴んでここまで連れてきた男。
それは誰なのか。
過去ではない。
今、目の前にいるこの男の名前を、エミリアは聞こうとしていた。
「お願い」
声が、わずかに震える。
「あなたの名前を、聞かせて」
「────」
心臓が大きく鳴った。
それは、本物を返してほしいという言葉ではなかった。
偽物はいらないという拒絶でもない。
今ここにいる自分を見た上で、その名前を問うている。
それが何より恐ろしかった。
偽物だと突き放される方が、まだ楽だった。
それはスバル自身がずっと望んできたことだからだ。
自分は本物ではない。
だから期待するな。
だから捨ててくれ。
そう逃げ続けてきた。
なのに、彼女たちは違った。
記憶がなくても。
醜態を晒しても。
弱くても。
間違えても。
それでも、ナツキ・スバルを必要としていると、言葉や行動や、時には命そのもので示した。
「……どうしてなんだよ」
スバルの声は、掠れていた。
「どうして、ここで俺なんだ? ナツキ・スバルがいたからって何が変わる。俺より強い奴なんていくらでもいる。頭のいい奴だっている。俺に何を期待してるんだよ」
この絶望の中で、スバルが一人増えたところで何が変わる。
「あんな弱くて、馬鹿で、情けなくて、意気地のない奴に……何を」
エミリアは、少しだけ目を伏せた。
そして、否定しなかった。
スバルより強い人はいる。
頭のいい人もいる。
もっと上手に問題を解決できる人間だって、きっといる。
その全部を認めた上で。
「でも、私はスバルがいい」
「────」
言葉は単純だった。あまりにも単純で、だから、逃げ道がなかった。助けてくれるなら誰でもいいわけではない。彼女が一緒にいてほしいのは、スバルなのだ。
「だって、助けてもらうなら……好きな人に助けてもらえた方が、私は嬉しいもの」
エミリアはそんな当たり前のことを口にして、ほんの僅かに白い頬を赤くした。
「────」
時間が止まったかに思えた。
心臓だけが、馬鹿みたいに大きな音を立てている。
スバルは目の前の少女を見つめた。
銀色の髪。
紫紺の瞳。
白い頬。
少しだけ恥ずかしそうに、それでも言ったことを撤回するつもりなど欠片もない顔。
「……は」
息が漏れた。
そして。
今度こそ分かった。
思い知った。
過去のナツキ・スバル。
お前。
「とんでもねぇ女に惚れたな……」
身の丈に合わないにもほどがある。あんな美少女に。あんな優しい女に。こんな絶望の真ん中でも、自分のことより他人へ手を伸ばせるような馬鹿な女に。惚れるなという方が無理だった。
これは過去の自分を理解しただけではない。胸の鼓動は、今ここで鳴っている。頬が熱いのも、彼女から目を逸らせなくなっているのも、もう一度その笑顔を見たいと思っているのも。
全部、今のナツキ・スバルだ。
記憶がなくても。
何度最初からになっても。
どうやら、自分はこの女に惚れるらしい。
「……そりゃ、勝てねぇよ」
「え?」
「なんでもねぇ」
少しだけ笑った。
いつ以来か分からない。
心の底からとは到底言えない。
それでも、確かに笑った。
ユリウスに託されて、ベアトリスに信じてもらって、エキドナに赦されて、フランに守られて――そして、エミリアが願った。
完璧だからではない。
強いからでもない。
ナツキ・スバルだから。
ならば。
「俺は……」
喉が詰まる。
これまで、何度もその名前から逃げた。
自分は違う。本物ではない。そんなものにはなれない。
だから責任も、期待も、全部別の男へ押しつけた。
でも。
今ここで。
エミリアが過去の男ではなく、この自分を見て名前を尋ねているのなら。
「――俺の名前は、ナツキ・スバル」
エミリアの瞳が僅かに揺れる。
「ユリウスに託されて、ベアトリスが信じて、エキドナに赦されて……フランがフーちゃんって呼んで。それで、お前が……エミリアが、俺がいいって言うなら」
一度、息を吸った。
「俺が、ナツキ・スバルだ」
名乗ったからといって、不安が消えたわけではない。
メィリィの死もある。
自分の内側にいる何者かへの恐怖も消えていない。
この名前を本当に自分が名乗っていいのか、その答えだって出ていない。
それでもいい。
救われたいから、この名前を名乗るのではない。
許してほしいからでもない。
ただエミリアたちを救いたい。
今度こそ。
そう思った。
過去のナツキ・スバルも、同じことを願ったのだろうか。
同じ少女を見て。
同じように胸を焦がして。
同じ人たちを助けたいと願ったのだろうか。
ならばそれで十分だ。
過去の自分がどれほど嫌いでも。
そいつと同じ場所へ行きたいのなら、一緒の船ぐらい乗ってやる。
願わくば、かつて自分が走り出したきっ掛けも、その先に思い描いた景色も、今の自分と同じであってほしい。
「ありがとう、エミリア」
「……スバル?」
「俺に、もう一回そう思わせてくれて」
助けたい。
失いたくない。
そして。
この少女に、もう一度笑ってほしい。
その直後、通路が砕けた。
「――エミリア!」
押し寄せた黒い影が壁と床をまとめて呑み込み、二人の足場が大きく崩れる。
エミリアの身体が宙へ傾いた。
スバルは残った床を蹴った。
左足が激痛を訴える。
それでも飛んだ。
落ちていく銀色へ腕を伸ばし、今度はこちらからその身体を抱き締める。
「スバル……っ」
腕の中で、エミリアが身じろぎした。
落下の中で、自分が下になろうとしている。
最後まで、そんなことをする。
本当に、どうかしている女だ。でも今は、それが少しだけ誇らしかった。眼下にあるのは床ではない。砂でもない。
すべてを呑み込む、嫉妬の黒い影。
二人は抱き合ったまま、その中へ落ちていく。
これで終わる。
――違う。
ここからだ。
ここから、もう一度始める。
今回の自分は最悪だった。
偽物だと叫び、疑って、逃げて、間違えて、失って。
なら、その全部を持って次へ行けばいい。
誰かに救われたこと。
誰かを救いたいと思えたこと。
その全部を覚えて。
たとえ呪いじみた執着でも構わない。
エミリアに。
ベアトリスに。
ユリウスに。
ラムに。
エキドナに。
フランに。
誰一人、失っていい人間じゃない。
救われる価値があることだけは、もう疑わない。
だから今度は、自分が助ける。
この終わる世界で、彼らがかけてくれた言葉を。
この終わる世界で、自分が彼らへぶつけた醜い言葉を。
たとえ向こうが忘れても。
自分が覚えている。
全部。
何一つ、忘れない。
四百年もの間、一人の名前を忘れられず、待ち続けた少女がいる。
その果てで泣き崩れても、なお手放せなかった名前がある。
ならば、たった一度世界が終わるぐらいで、自分が忘れていいはずがない。
ラムを。
パトラッシュを。
ユリウスを。
ベアトリスを。
エキドナを。
フランを。
そして。
腕の中で、自分の名前を呼んでくれたエミリアを。
「たとえ、君が忘れても――俺が、君たちを忘れない」
ずっと覚えていろ、ナツキ・スバル。
黒が二人を呑み込む。
視界が閉ざされ、音が消え、身体の感覚さえ遠のいていく。
すべてがゼロへと落ちていく。
何もかもがゼロになったその先で、もう一度始める。
本物の『ナツキ・スバル』をどこかから探し出すためではない。
偽物だと叫び続けた自分を、なかったことにするためでもない。
自分でその名前を名乗った以上、次はその名に恥じないように生きる。
そのための戦いを、始めるのだ。──またゼロから。