傲慢の魔女『フラン』   作:オド・ラグナの対義語

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『五折不撓』

 ――世界は、黒く滲んでいた。

 

 床へへたり込んだスバルを囲むように、影が四方から這い寄ってくる。

 

 人の腕を真似た黒が、指だけを人間らしく形作りながら四方から伸びてくる。それらが肩や足へ触れるたび、皮膚と影の境界が曖昧になり、自分という存在の輪郭そのものが少しずつ溶かされていく。

 

 不思議なことに、痛みはなかった。

 

 熱くもない。冷たくもない。ただ、自分を自分として世界へ繋ぎ止めている何かが、一枚ずつ剥がされていくような感覚だけがあった。

 

「────」

 

 本当なら、恐ろしいはずだった。

 

 このまま呑み込まれれば、おそらく二度と戻れない。頭で理解するより先に、本能の奥底がそう告げている。

 

 なのに、心は妙に静かだった。

 

 ユリウスを置き去りにした。

 

 ベアトリスは、自分を庇って消えた。

 

 エキドナは、何一つ救えなかったスバルへ最後に謝罪を残して死んだ。

 

 フランもまた、泣き腫らした目でこちらへ手を伸ばした直後、跡形もなく消えた。

 

 結局、誰一人として救えていない。

 

 それどころか、自分を助けようとする人間から順番に、いなくなっているようにすら思えた。

 

 ならば、最後にスバルが消えるのは、むしろ帳尻が合っている。

 

 死にたい。

 

 消えたい。

 

 今度こそ誰にも見つけられず、誰にも期待されず、誰にも手を伸ばされないところまで、跡形もなくなくなってしまいたい。

 

 そんな願いだけは、この影なら正しく叶えてくれる気がした。

 

 

 ――愛してる。

 

 

 だから、その声だけが邪魔だった。

 

 耳から聞こえてくるわけではない。頭の奥へ、もっと正確に言えば魂へ直接擦り込まれてくるような声音が、甘く濁った愛情を延々と繰り返している。

 

 

 ――愛してる。愛してる。

 

 

 やめろ。

 

 知っている。

 愛されていることぐらい、知っている。

 

 元の世界でもそうだった。父も母も、ナツキ・スバルを疑いようもなく愛していた。だからこそ、苦しかった。

 

 何もできない自分を、何者にもなれなかった自分を、どうしてそんな顔で愛せるのか理解できなかった。愛される価値がないと自分で信じ込んでいる人間にとって、無条件の愛情が、いつだって救いになるとは限らない。

 

 時には、それそのものが重荷になる。

 

 

 ――愛してる。愛してる。愛してる。

 

 

 その黒い声の隙間へ、一瞬だけ別の声が混じった。

 

 

『フーちゃん』

 

 

 泣き腫らした紅い目で、フランが呼んだ名前。

 偽物かもしれない。

 中身が違うかもしれない。

 

 三周目には、それを誰より早く見抜いて殺した女だ。

 それでも最後には、彼女はもう一度スバルをそう呼んだ。

 だが、その小さな声も、すぐさま押し寄せる黒い愛情に呑み込まれていく。

 

 

 ――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

 

 

 もういい。

 分かった。

 分かっている。

 

 この一方的な愛を聞き続けていれば、やがて全部終わるのだろう。

 砕いて、潰して、自分というものを完全に消してくれるのだろう。

 誰かに望まれることもない。

 誰かの期待を裏切ることもない。

 誰かが自分を守って死ぬこともない。

 

 だったら。

 

 もう、それでいい。

 ナツキ・スバルなんて、消えてしまえば――。

 

 

「――そこまでよ」

 

 

 声がした。

 

 黒い声ではない。

 耳の奥へ粘つく愛でもない。

 

 もっと真っ直ぐで、もっと澄んでいて、ほんの一瞬だけ、この黒一色になった世界へ別の色があることを思い出させる声。

 

 次の瞬間、白い閃光が薄暗い書庫を横切った。

 

 スバルへ伸びていた影の腕が一本、飛来した氷槍に撃ち抜かれて砕け散り、その向こうから銀色の髪が飛び込んでくる。

 

「――スバル!」

 

 名前を呼ばれた。

 力なく垂れていた右手を、強く掴まれた。

 

「────」

 

 温かかった。

 その温度が、ひどく腹立たしかった。

 

 どうして来たんだ。

 どうしてそんな顔で自分の名前を呼ぶ。

 どうして、自分なんかの手をまだ握れる。

 

 スバルがそんな問いを言葉にするより早く、エミリアは腕へ力を込め、半ば強引にスバルの身体を引き起こした。

 

 影もまた、二人を逃がすまいと蠢いた。

 前からも、後ろからも、頭上からも黒い腕が伸び、通路を塞ぎ、二人の足元を絡め取ろうとする。

 

 それでもエミリアは止まらない。

 

「り、やぁっ!」

 

 スバルを握っていない方の手を振るい、氷の魔法を放つ。

 

 少し前にはスバル自身を閉じ込めるために作られた氷が、今度は彼を助けるための刃となって黒い壁を切り開いた。

 

 砕けた影の隙間を、エミリアが走る。

 銀色の長い髪が荒れ狂う空気を受けて翻り、その後ろをスバルはほとんど引きずられるようについていった。走っているというより、連れていかれている。

 

 左足はまともに動かず、身体は重く、意識さえところどころ霞んでいる。

 それでも、エミリアの手だけは離れない。

 その事実が、どうしようもなく苦しかった。

 

 彼女が生きていた。

 

 本来なら喜ぶべきなのだろう。

 なのに、スバルの胸に湧き上がったのは安堵ではなく、今にも頭蓋の奥がひび割れそうな焦燥だった。

 

 ユリウスの生存を確認した。

 ベアトリスも、自分の隣にいた。

 エキドナも、少し前まで話をしていた。

 フランに至っては、ほんの少し前まで、その肩の温度を感じていた。

 

 その全員が、自分を助けようとした。

 

 そして、今はいない。

 

 自分の『死』だけを何度もなかったことにする代わりに、周囲へ不幸を撒き散らす存在なのではないか。荒唐無稽な妄想のはずなのに、今のスバルには不気味なほど説得力があった。

 

「……もう、十分だ」

 

「え?」

 

「これ以上、足掻いたって仕方ねぇって言ってんだ」

 

 引かれていた腕へ力を込め、スバルは抵抗した。

 足は痛い。

 身体もまともに踏ん張れない。

 

 本気でエミリアが引けば、スバルなど荷物同然に運べるはずだった。

 けれど、彼女はそうしなかった。

 スバルが抵抗したと気づいた瞬間、エミリアは足を止め、振り返った。

 

 そして、こちらを見る。

 その優しさまで腹が立つ。

 

「なんで助けに来た?」

 

「スバル……?」

 

「おかしいだろ。お前だって俺を疑ったから、氷の檻に閉じ込めたんじゃねぇか。偽物かもしれないって、そう思ったんだろ」

 

 わざと傷つける言葉を選んだ。

 嫌ってほしかった。

 失望してほしかった。

 

 もう二度と、こんな男の手を取ろうとは思わないでほしかった。

 それなのに、エミリアが見せた反応は、怯えでも失望でもなかった。

 

 怒ったのだ。

 

「違うわ! スバルを傷つけたかったわけじゃない。あのときのスバルが、すごーくおかしかったから……ちゃんと話を聞きたかったの。だからラムのやり方に乗っただけよ」

 

 そして、そこでスバルは記憶がないことを明かした。

 その事実を、彼女は信じようとしている。

 

「そんなの、苦し紛れの嘘かもしれねぇだろ! なんで簡単に信じるんだよ! 馬鹿じゃねぇのか! お前も、ユリウスも、ベアトリスも!」

 

 ラムやエキドナの方がよほど正しかった。

 

 あんな怪しい状況で、あんな怪しい男の言葉など信じる方がおかしい。

 

 信用しなければいい。

 

 手を伸ばさなければいい。

 

「みんな馬鹿だ……最後には、エキドナまで……」

 

「エキドナ?」

 

 エミリアの表情が強張る。

 

「最後って……スバル、何があったの?」

 

 その顔を見た瞬間、胸が痛んだ。

 

 けれど、もう止まれなかった。

 

「死んだよ」

 

「────」

 

「エキドナは死んだ。両脚を失って、それでもアナスタシアにこの痛みを渡したくないとか言って……最後には俺なんかに、疑って悪かったって謝りやがった」

 

 言葉にするたび、光景が戻ってくる。

 

 冷たい床。

 拳ほどの瓦礫。

 振り下ろせなかった腕。

 

 最後に消えた浅葱色の瞳。

 

「ベアトリスもだ。俺を庇った。俺があいつを守らなくちゃいけなかったのに、あいつの方が俺を守って……消えた」

 

 スバルが忘れても、ベアトリスは忘れない。

 

 必ず思い出させる。

 

 そんなことを言ってくれた少女は、その直後にいなくなった。

 

「あんなことになるぐらいなら……俺なんかが、あいつをどこかから連れ出さなきゃよかったんだ」

 

 何が正しいのか分からない。

 

 記憶がない以上、過去の自分が何をしたのかも分からない。

 

 それでも、ベアトリスが自分と一緒にいなければ、あんな顔をして消えることもなかったのではないか。

 

「それに、フランだって……」

 

 エミリアの紫紺の瞳が僅かに見開かれた。

 

「あの、おっかねぇ魔女がさ……兄貴の本を抱えて、子どもみたいに泣いてたんだよ。いつも余裕ぶって、何でも知ってるみたいな顔して、俺を散々ひどい目に遭わせた奴が」

 

 白い羽根が敷き詰められた書庫。

 その中心で、『死者の書』を抱いて震えていた少女。

 

「大サソリに頭半分吹き飛ばされても俺を守って、自分のことをお姉さん失格だの魔女失格だの言って……それでも最後には、俺に手を伸ばしてた。それが、いきなり白い鳥に何かされて、目の前から消えた」

 

 そこで一度、息が詰まった。

 

「あいつ前に俺を見て、偽物って言ったんだ」

 

 エミリアには意味が分からないだろう。

 それでも口から出た。

 

「誰より早く、俺が『ナツキ・スバル』じゃないって見抜いて……俺のことを壊した。それなのに、最後には血まみれの俺を見て、『フーちゃん』って呼びやがった」

 

 どうしてなのか分からない。

 あの時は違うと見抜いたはずなのに。

 偽物だと断じたはずなのに。

 

 最後は、その名前で呼んだ。

 

「ユリウスだってそうだ。自分はあんな魔獣の中に残って、レイドまでいるのに、俺には行けだの頼むだの……本当に馬鹿ばっかりだ」

 

 託す。

 

 信じる。

 

 赦す。

 

 守る。

 

 そんなものを与えられるたび、重くなる。

 信じられた分だけ、自分の醜さが浮き彫りになる。

 期待された分だけ、何もできない自分が許せなくなる。

 

「俺なんかに、何を期待してんだよ……」

 

 声が、震えた。

 

「俺は何にもできなかった。全員、俺を助けようとして、俺だけ生き残って……これじゃ、俺がみんなを食い潰して生きてるみたいじゃねぇか」

 

 ここで一番弱くて。

 一番愚かで。

 一番どうしようもなくて。

 

 誰より救いようがない人間。

 それがナツキ・スバルだ。

 

「俺じゃなくても、いいだろ」

 

 掠れた言葉が、自然とこぼれた。

 

「もっと強い奴がいる。頭のいい奴もいる。俺みたいなのは綺麗に切り捨てて、そういう奴に任せればいい。俺には……」

 

 無理だと、そう言いたかった。

 何も望まないでほしい。

 名前を呼ばないでほしい。

 

 そんなにまっすぐ、自分を見ないでほしい。

 けれど、エミリアは目を逸らさなかった。

 そして、これまでスバルが吐き出した言葉の全てを聞いたあと、彼女は静かに、自分の胸へ白い手を添えた。

 

「私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」

 

「……は?」

 

 思わず、間抜けな声が漏れる。

 何を言い出したのか分からなかった。

 だが、エミリアは構わなかった。

 

 彼女の表情には、何か大事なものを一つずつ確かめるような色があった。

 そして、その顔を見ているうちに、スバルは気づく。

 彼女は、思い出しているのだ。

 

 王都で出会ったこと。

 ロズワール邸で過ごした穏やかな時間。

 魔獣騒ぎで無茶をしたこと。

 王選の王都で大喧嘩したこと。

 それでも、また戻ってきたこと。

 

 何度遠ざけても。

 

 何度傷ついても。

 

 馬鹿みたいに、また手を伸ばした。

 

「────」

 

 スバルには、そのどれも覚えがない。

 

 だが。

 

 エミリアの顔を見れば分かった。

 

 彼女の中では、それら全部が生きている。

 

 ただの昔話ではない。

 

 大切に、大切に仕舞われてきた記憶だった。

 

 それを思い返すエミリアの紫紺の瞳は、ほんの少し潤み、それでも柔らかく細められている。

 

 こんな顔をさせた男がいる。

 

 その事実が、スバルの胸を焼いた。

 

 焦がれる。

 どうしようもなく、焦がれる。

 

 この少女の中に、こんな温かな記憶を残した男へ。

 彼女をこんな顔で笑わせることのできる男へ。

 『ナツキ・スバル』という、過去の自分へ。

 

 羨ましい。

 憎らしい。

 そして。

 

 その感情とは別の場所で、目の前の少女そのものへも、胸の奥が強く引かれていくのをスバルは感じていた。

 

 今までだって、美人だと思っていた。銀色の髪も、紫紺の瞳も、整いすぎた顔立ちも、初めて会ったときから目を奪われるものだった。けれど、それだけではない。疑わしい男を前にしても、完全に切り捨てない。傷付けるような言葉をぶつけられても、同じだけの悪意を返してこない。

 

 それどころか、もういなくなったかもしれない仲間たちのことを案じながら、それでも目の前の一人を見捨てることを選ばない。

 

 馬鹿みたいに真っ直ぐで。

 驚くほど頑固で。

 甘すぎて。

 

 それでも、どうしようもなく綺麗だった。

 

「……そりゃ」

 

 スバルの口から、誰にも聞かせるつもりのない声が漏れた。

 

「惚れるわ」

 

 こんな女に。

 

 過去の『ナツキ・スバル』が惚れた理由が、少しだけ分かった。

 

 いや。

 違う。

 今、分かったのではない。

 

 今のスバル自身も、同じ場所へ落ちかけているのだ。

 

 記憶なんてなくても。

 過去に何を言ったか知らなくても。

 目の前のエミリアを見ているだけで、胸の奥が痛いぐらいに鳴っている。

 

 ああ、畜生。

 

 どうやら、好みまで同じらしい。

 こんな状況で、そんなことに気づく自分が馬鹿馬鹿しくて、少しだけ笑いそうになった。

 けれど、その小さな感情さえ、すぐに自責が押し潰す。

 

 彼女が今見ているのは、自分ではない。

 過去のナツキ・スバルだ。

 そう思った。

 

 だから、スバルは首を振った。

 

「覚えてない」

 

 声が震える。

 

「何一つ、覚えてねぇよ」

 

 エミリアの中にある大切な記憶のどこを探しても、今のスバルはいない。

 それが苦しかった。

 

「お前ら、一体誰の話をしてるんだよ……!」

 

 胸に溜まっていたものが、また爆発した。

 

「誰かのために命を張って! 誰かのために身体が勝手に動いて! 何度傷ついても走れて! そんな都合のいい奴が、本当にいるわけねぇだろ!」

 

 ユリウスが託した。

 ベアトリスが信じた。

 エキドナが赦した。

 フランが、もう一度名前を呼んだ。

 エミリアは、その男との記憶を宝物のように抱えている。

 

 そんな男が。

 

「そんな立派な奴が、ナツキ・スバルのわけがねぇ!」

 

 叫ぶ。

 

「俺は知ってんだよ! ナツキ・スバルがどれだけ情けなくて、クズで、どうしようもなくて、腐った奴なのか! 俺が一番知ってるんだ!」

 

 誰より知っている。

 

 何せ自分なのだから。

 

「誰を見てんだよ! そんな奴、この世界のどこにもいねぇ! 全部、その場しのぎの嘘だったのかもしれねぇだろ! 信じる価値なんてねぇんだよ!」

 

 エミリアは黙って聞いていた。

 

 逃げなかった。

 

 目を逸らさなかった。

 

「ナツキ・スバルにそんな価値があるわけねぇだろ! ただのクソ野郎なんだよ! 俺が、誰よりそれを知ってるんだ!」

 

 そこまで吐き出すと、呼吸が続かなくなった。

 

 肩を上下させ、血と汗に汚れたまま立つスバルの前で、エミリアはしばらく何も言わなかった。

 

 怒ったのかもしれない。

 

 呆れたのかもしれない。

 

 そう思った。

 

 けれど。

 

「私は、エミリアよ」

 

「……ぁ?」

 

 同じ言葉だった。

 今度こそ、スバルは真正面から彼女を見る。

 エミリアは白い手を胸へ当て、紫紺の瞳に今のスバルだけを映していた。

 

 過去の英雄ではない。

 傷だらけで、泣きそうな顔をして、散々みっともない言葉を吐いた、今のスバルを。

 彼女には話したいことも、聞きたいことも山ほどあるのだろう。

 

 なぜ記憶を失ったのか。

 何が起こったのか。

 誰が死んだのか。

 

 それでも、今この瞬間に彼女が知りたいことは、もっと単純だった。

 

 ユリウスが託した男。

 ベアトリスが身を挺して守った男。

 エキドナが最後に疑ったことを謝った男。

 フランが消える寸前まで気にかけていた男。

 そして今、エミリア自身がどうしても置いていけず、手を掴んでここまで連れてきた男。

 

 それは誰なのか。

 

 過去ではない。

 今、目の前にいるこの男の名前を、エミリアは聞こうとしていた。

 

「お願い」

 

 声が、わずかに震える。

 

「あなたの名前を、聞かせて」

 

「────」

 

 心臓が大きく鳴った。

 それは、本物を返してほしいという言葉ではなかった。

 偽物はいらないという拒絶でもない。

 

 今ここにいる自分を見た上で、その名前を問うている。

 それが何より恐ろしかった。

 偽物だと突き放される方が、まだ楽だった。

 

 それはスバル自身がずっと望んできたことだからだ。

 

 自分は本物ではない。

 だから期待するな。

 だから捨ててくれ。

 そう逃げ続けてきた。

 

 なのに、彼女たちは違った。

 記憶がなくても。

 醜態を晒しても。

 弱くても。

 間違えても。

 

 それでも、ナツキ・スバルを必要としていると、言葉や行動や、時には命そのもので示した。

 

「……どうしてなんだよ」

 

 スバルの声は、掠れていた。

 

「どうして、ここで俺なんだ? ナツキ・スバルがいたからって何が変わる。俺より強い奴なんていくらでもいる。頭のいい奴だっている。俺に何を期待してるんだよ」

 

 この絶望の中で、スバルが一人増えたところで何が変わる。

 

「あんな弱くて、馬鹿で、情けなくて、意気地のない奴に……何を」

 

 エミリアは、少しだけ目を伏せた。

 

 そして、否定しなかった。

 

 スバルより強い人はいる。

 

 頭のいい人もいる。

 

 もっと上手に問題を解決できる人間だって、きっといる。

 

 その全部を認めた上で。

 

「でも、私はスバルがいい」

 

「────」

 

 言葉は単純だった。あまりにも単純で、だから、逃げ道がなかった。助けてくれるなら誰でもいいわけではない。彼女が一緒にいてほしいのは、スバルなのだ。

 

「だって、助けてもらうなら……好きな人に助けてもらえた方が、私は嬉しいもの」

 

 エミリアはそんな当たり前のことを口にして、ほんの僅かに白い頬を赤くした。

 

「────」

 

 時間が止まったかに思えた。

 

 心臓だけが、馬鹿みたいに大きな音を立てている。

 スバルは目の前の少女を見つめた。

 

 銀色の髪。

 紫紺の瞳。

 白い頬。

 

 少しだけ恥ずかしそうに、それでも言ったことを撤回するつもりなど欠片もない顔。

 

「……は」

 

 息が漏れた。

 そして。

 今度こそ分かった。

 思い知った。

 過去のナツキ・スバル。

 

 お前。

 

「とんでもねぇ女に惚れたな……」

 

 身の丈に合わないにもほどがある。あんな美少女に。あんな優しい女に。こんな絶望の真ん中でも、自分のことより他人へ手を伸ばせるような馬鹿な女に。惚れるなという方が無理だった。

 

 これは過去の自分を理解しただけではない。胸の鼓動は、今ここで鳴っている。頬が熱いのも、彼女から目を逸らせなくなっているのも、もう一度その笑顔を見たいと思っているのも。

 

 全部、今のナツキ・スバルだ。

 記憶がなくても。

 何度最初からになっても。

 

 どうやら、自分はこの女に惚れるらしい。

 

「……そりゃ、勝てねぇよ」

 

「え?」

 

「なんでもねぇ」

 

 少しだけ笑った。

 

 いつ以来か分からない。

 心の底からとは到底言えない。

 

 それでも、確かに笑った。

 

 ユリウスに託されて、ベアトリスに信じてもらって、エキドナに赦されて、フランに守られて――そして、エミリアが願った。

 

 完璧だからではない。

 強いからでもない。

 ナツキ・スバルだから。

 

 ならば。

 

「俺は……」

 

 喉が詰まる。

 

 これまで、何度もその名前から逃げた。

 自分は違う。本物ではない。そんなものにはなれない。

 だから責任も、期待も、全部別の男へ押しつけた。

 

 でも。

 

 今ここで。

 

 エミリアが過去の男ではなく、この自分を見て名前を尋ねているのなら。

 

「――俺の名前は、ナツキ・スバル」

 

 エミリアの瞳が僅かに揺れる。

 

「ユリウスに託されて、ベアトリスが信じて、エキドナに赦されて……フランがフーちゃんって呼んで。それで、お前が……エミリアが、俺がいいって言うなら」

 

 一度、息を吸った。

 

「俺が、ナツキ・スバルだ」

 

 名乗ったからといって、不安が消えたわけではない。

 メィリィの死もある。

 自分の内側にいる何者かへの恐怖も消えていない。

 

 この名前を本当に自分が名乗っていいのか、その答えだって出ていない。

 それでもいい。

 救われたいから、この名前を名乗るのではない。

 

 許してほしいからでもない。

 

 ただエミリアたちを救いたい。

 今度こそ。

 そう思った。

 

 過去のナツキ・スバルも、同じことを願ったのだろうか。

 同じ少女を見て。

 同じように胸を焦がして。

 同じ人たちを助けたいと願ったのだろうか。

 

 ならばそれで十分だ。

 

 過去の自分がどれほど嫌いでも。

 そいつと同じ場所へ行きたいのなら、一緒の船ぐらい乗ってやる。

 願わくば、かつて自分が走り出したきっ掛けも、その先に思い描いた景色も、今の自分と同じであってほしい。

 

「ありがとう、エミリア」

 

「……スバル?」

 

「俺に、もう一回そう思わせてくれて」

 

 助けたい。

 失いたくない。

 そして。

 

 この少女に、もう一度笑ってほしい。

 

 その直後、通路が砕けた。

 

 

「――エミリア!」

 

 押し寄せた黒い影が壁と床をまとめて呑み込み、二人の足場が大きく崩れる。

 

 エミリアの身体が宙へ傾いた。

 スバルは残った床を蹴った。

 左足が激痛を訴える。

 

 それでも飛んだ。

 落ちていく銀色へ腕を伸ばし、今度はこちらからその身体を抱き締める。

 

「スバル……っ」

 

 腕の中で、エミリアが身じろぎした。

 落下の中で、自分が下になろうとしている。

 最後まで、そんなことをする。

 

 本当に、どうかしている女だ。でも今は、それが少しだけ誇らしかった。眼下にあるのは床ではない。砂でもない。

 

 すべてを呑み込む、嫉妬の黒い影。

 二人は抱き合ったまま、その中へ落ちていく。

 

 これで終わる。

 

 ――違う。

 

 ここからだ。

 ここから、もう一度始める。

 

 今回の自分は最悪だった。

 偽物だと叫び、疑って、逃げて、間違えて、失って。

 

 なら、その全部を持って次へ行けばいい。

 

 誰かに救われたこと。

 誰かを救いたいと思えたこと。

 その全部を覚えて。

 

 たとえ呪いじみた執着でも構わない。

 

 エミリアに。

 

 ベアトリスに。

 

 ユリウスに。

 

 ラムに。

 

 エキドナに。

 

 フランに。

 

 誰一人、失っていい人間じゃない。

 救われる価値があることだけは、もう疑わない。

 

 だから今度は、自分が助ける。

 この終わる世界で、彼らがかけてくれた言葉を。

 この終わる世界で、自分が彼らへぶつけた醜い言葉を。

 

 たとえ向こうが忘れても。

 自分が覚えている。

 全部。

 

 何一つ、忘れない。

 

 四百年もの間、一人の名前を忘れられず、待ち続けた少女がいる。

 その果てで泣き崩れても、なお手放せなかった名前がある。

 ならば、たった一度世界が終わるぐらいで、自分が忘れていいはずがない。

 

 ラムを。

 

 パトラッシュを。

 

 ユリウスを。

 

 ベアトリスを。

 

 エキドナを。

 

 フランを。

 

 そして。

 

 腕の中で、自分の名前を呼んでくれたエミリアを。

 

「たとえ、君が忘れても――俺が、君たちを忘れない」

 

 ずっと覚えていろ、ナツキ・スバル。

 

 黒が二人を呑み込む。

 視界が閉ざされ、音が消え、身体の感覚さえ遠のいていく。

 すべてがゼロへと落ちていく。

 

 何もかもがゼロになったその先で、もう一度始める。

 本物の『ナツキ・スバル』をどこかから探し出すためではない。

 偽物だと叫び続けた自分を、なかったことにするためでもない。

 

 自分でその名前を名乗った以上、次はその名に恥じないように生きる。

 

 そのための戦いを、始めるのだ。──またゼロから。

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TS転生したら小鳥遊ホシノだったので青春を………Q.誰?お前?A.エーテリアスです(作者:如月トッポ)(原作:ゼンレスゾーンゼロ)

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総合評価:2902/評価:7.97/連載:11話/更新日時:2026年07月26日(日) 23:48 小説情報


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