遠坂凛は書記長を召喚してしまった   作:AYASHI

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教会へ向かう坂道は、夜の中に沈んでいた。

 

街灯の光が、石畳の上に薄く伸びている。

 

遠くで車の音がした。

それ以外は、静かだった。

 

遠坂凛は先頭を歩き、その少し後ろに衛宮士郎が続いている。

士郎の隣にはセイバー。

そして凛のさらに後ろを、アーチャーが歩いていた。

 

小柄な軍服の男。

ヨシフ・スターリン。

 

四人で歩いているだけなのに、凛はずっと胃の奥が重かった。

 

士郎は、しばらく黙っていた。

 

けれど、教会の屋根が遠くに見え始めたあたりで、ようやく口を開いた。

 

「遠坂」

 

「何?」

 

「魔術師って、結局何なんだ」

 

凛は足を止めなかった。

 

予想していた質問だった。

むしろ、今まで聞かなかった方が不思議なくらいだ。

 

「簡単に言えば、魔術を扱う一族や個人のことよ」

 

「魔術って、手品とかじゃなくて?」

 

「違うわ。普通の人間には隠されている技術体系。血筋、魔術回路、刻印、工房、儀式。そういうものを使って、普通なら起こせない現象を起こす」

 

士郎は眉をひそめた。

 

「じゃあ、遠坂もそうなのか」

 

「そう。私は魔術師の家系に生まれた魔術師」

 

「俺は違う」

 

「でしょうね」

 

凛はあっさり言った。

 

士郎は少しだけむっとした顔をした。

 

「そこまで即答しなくてもいいだろ」

 

「事実だもの。ただし、問題はそこじゃない」

 

凛は士郎を横目で見た。

 

「あなたはセイバーを召喚した。つまり、少なくとも聖杯戦争の仕組みからは、マスターとして認識されている」

 

士郎は自分の左手を見た。

 

そこにある令呪。

まだ、その意味を完全には分かっていない印。

 

「俺が魔術師じゃなくても?」

 

「関係ないわ」

 

凛は短く答えた。

 

「魔術師として未熟かどうか。家系があるかどうか。本人が望んだかどうか。そんなことは、他の参加者には関係ない」

 

士郎は黙った。

 

凛は続ける。

 

「あなたがセイバーのマスターである以上、他のマスターから見れば敵よ」

 

「そんな勝手な話があるか」

 

「あるのよ」

 

凛の声は冷たかった。

 

冷たくしないと、言えなかった。

 

「魔術師の世界は、そういうもの。普通の社会の常識で動いてない。だから今から、監督役のいる教会へ行く。そこで聖杯戦争の説明を受けなさい」

 

「監督役?」

 

「この戦争を管理している立場の人間よ。少なくとも、最低限のルールは知っている」

 

「最低限って……」

 

「知らないよりはまし」

 

凛はそこで一度、言葉を切った。

 

士郎はまだ納得していない顔をしていた。

けれど、足は止めなかった。

 

セイバーも黙っている。

ただし、その立ち位置は士郎から離れない。

彼女は周囲を警戒しつつ、凛の説明を聞いていた。

 

その青い瞳には、凛への警戒も、スターリンへの嫌悪も、まだ残っている。

 

凛は少しだけ息を吐いた。

 

問題は、士郎だけではない。

むしろ、もう一人の方が厄介だった。

 

「アーチャー」

 

背後に声をかける。

 

「何だ」

 

「教会では余計なことを言わない」

 

「聞いている」

 

「言峰にも余計なことを言わない」

 

「了解した」

 

「監督役を挑発しない」

 

「了解した」

 

「本当に?」

 

スターリンは穏やかに頷いた。

 

「言葉は慎む」

 

凛は目を細めた。

 

「言葉は、って何よ」

 

スターリンは答えなかった。

 

ただ、前方に見える教会を見ていた。

 

古びた木の扉。

高い窓。

白い壁。

夜の中に沈む建物。

 

スターリンの視線が、ほんのわずかに動く。

 

扉。

窓。

屋根。

壁。

そして、周囲の影。

 

凛はその動きだけで理解した。

 

この男はもう見ている。

 

出入口。

逃げ道。

死角。

監視に適した場所。

結界の気配。

 

それを、わざわざ口にしないだけだ。

 

凛は頭が痛くなった。

 

「……今、何を見ていたかは聞かないでおくわ」

 

「賢明だ」

 

「答えなくていいって意味だったんだけど」

 

スターリンは穏やかに微笑んだ。

 

凛はその表情を見て、余計に不安になった。

 

この男が黙っている時は、何も考えていない時ではない。

むしろ逆だ。

 

言葉にしないまま、分類し、記録し、必要な時に使える形へ整えている。

 

それを凛はもう知っていた。

 

「いい?」

 

凛は低い声で念を押した。

 

「今日は衛宮くんに説明を受けさせるだけ。教会で何かを探る必要はない。言峰を試す必要もない。余計な観察結果をその場で口にする必要もない」

 

「了解した」

 

「命令よ」

 

「了解した」

 

凛はまだ不安だった。

 

だが、これ以上言っても同じだ。

 

スターリンは命令を守る。

守った上で、何かを見る。

 

ならば、凛がやるべきことは一つ。

 

見張ることだ。

 

自分のサーヴァントを。

 

凛は教会の扉の前で足を止めた。

 

士郎が息を呑む。

セイバーが一歩前に出る。

スターリンは、何も言わない。

 

それが一番、不気味だった。

 

凛は小さく息を吐いた。

 

「行くわよ」

 

教会の扉を押す。

 

中は、静かだった。

 

冷たい空気が流れてくる。

祈りの場の静けさ。

 

だが、凛にはそれだけではないものが混じっているように感じられた。

 

教会特有の清浄さ。

その底にある、別の冷たさ。

 

士郎が周囲を見回す。

セイバーは一歩分だけ士郎の前に出た。

スターリンは何も言わない。

 

その沈黙が、妙に濃かった。

 

祭壇の方から、足音がした。

 

黒衣の男が現れる。

 

言峰綺礼。

 

聖杯戦争の監督役。

 

凛にとっては、昔から知っている男。

好きではない。

むしろ、苦手だ。

 

しかし、それでも遠坂家と関わりがあり、父とも縁のある人物であり、この儀式においては監督役という立場にある。

 

言峰は、凛を見た。

次に士郎を見た。

そして、セイバーを見る。

最後に、スターリンを見た。

 

ほんの一瞬だった。

 

言峰の目が、わずかに細くなる。

 

驚きではない。

それに近いものはあったかもしれないが、表情には出なかった。

 

興味。

観察。

 

そして、それ以上に。

 

このサーヴァントが遠坂凛に何をもたらすか。

 

それを測るような目だった。

 

スターリンもまた、言峰を見ていた。

 

聖職者。

監督役。

凛が一定の信頼を置かざるを得ない人物。

士郎へ説明する者。

そして、この教会の主。

 

スターリンは何も言わなかった。

 

凛はそれが逆に不安だった。

 

普段なら、一言くらい余計なことを言う。

相手の立ち方だの、視線だの、命令系統だの、何かしら言う。

 

だが、今は黙っている。

 

その沈黙は、服従ではなかった。

 

記録だった。

 

言峰は凛へ視線を戻した。

 

「遠坂凛。夜分に随分と珍しい客を連れてきたな」

 

「衛宮くんよ」

 

凛は短く言った。

 

「事情は分かっているでしょう。彼に説明を」

 

「彼が七人目か」

 

士郎が反応する。

 

「七人目?」

 

言峰は士郎を見た。

 

「衛宮士郎だな」

 

「あ、はい」

 

士郎はやや身構えながら答えた。

 

「あなたが、監督役……なんですか」

 

「そうだ」

 

言峰は淡々と頷いた。

 

「私は言峰綺礼。この教会で、聖杯戦争の監督役を務めている」

 

士郎は眉をひそめた。

 

「聖杯戦争……」

 

言峰は祭壇の前まで歩き、そこで足を止めた。

 

「ならば説明しよう。お前はすでに、その儀式の参加者だ」

 

「参加者って、俺はそんなものに参加するなんて――」

 

「意思の有無ではない」

 

言峰の声は静かだった。

 

「サーヴァントを召喚した時点で、お前はマスターとなった」

 

士郎は言葉に詰まった。

 

セイバーが静かに士郎の横に立つ。

 

彼女は言峰を信用していない。

スターリンも信用していない。

ただ、情報が必要であることだけは認めている。

 

凛は腕を組み、士郎の反応を見た。

 

それから、横目でスターリンを見た。

 

スターリンは言峰を見ていた。

 

士郎ではない。

 

いや、士郎も見ているのだろう。

だが、凛から見える限り、スターリンの注意は言峰に向いていた。

 

言峰の声。

間。

言葉の置き方。

どこで区切り、どこを省かず、どこをあえて冷たく言うか。

 

その全てを拾っているように見えた。

 

言峰は説明を始めた。

 

「聖杯戦争とは、七人のマスターと七騎のサーヴァントによって行われる儀式だ」

 

教会の中に、言峰の声が響いた。

 

「マスターは魔術師。サーヴァントは英霊。七つのクラスに分かれて召喚される。セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー」

 

士郎の目が一瞬セイバーへ向く。

 

「セイバー……」

 

「お前のサーヴァントだ」

 

言峰は続けた。

 

「勝者は聖杯を得る。聖杯は願望器とされる。あらゆる願いを叶える器だと信じられている」

 

「願い……?」

 

士郎の声には困惑があった。

 

「そんなもののために、戦うのか」

 

「そうだ」

 

言峰は否定しなかった。

 

「そのためにマスターたちはサーヴァントを従え、他の参加者を倒す」

 

士郎の顔色が変わる。

 

「倒すって……それは、殺し合いじゃないか」

 

「そうだ」

 

言峰は静かに言った。

 

「形式を整えれば儀式だが、実態は殺し合いだ」

 

あまりにもあっさりとした肯定だった。

 

士郎は息を呑んだ。

 

「そんなものに、俺は参加する気なんてない」

 

「それも自由だ」

 

「なら――」

 

「だが、他の参加者がお前を敵と見なすこともまた、自由だ」

 

士郎は黙った。

 

言峰の声には、脅しがなかった。

脅しがないからこそ、逃げ場がなかった。

 

「お前が戦う意思を持つかどうかは関係ない。お前はすでにセイバーのマスターだ。他のマスターにとっては、倒すべき相手であることに変わりはない」

 

「そんな勝手な――」

 

士郎は言いかけて、拳を握った。

 

凛は小さく息を吐いた。

 

「衛宮くん」

 

士郎が振り返る。

 

凛は言った。

 

「知らないまま死ぬより、知ってから選びなさい」

 

士郎は何も言わなかった。

 

凛の言い方は冷たく聞こえたかもしれない。

けれど、それ以外に言いようがなかった。

 

この戦争は、納得してから始まるものではない。

巻き込まれた時には、もう始まっている。

 

凛はもう一度、スターリンを見た。

 

スターリンは、やはり何も言わない。

 

言峰の説明が正確であることを、確認しているようだった。

 

正確。

だが、優しくはない。

 

士郎が反発する言葉を避けていない。

むしろ、避けずに置いている。

 

それをスターリンは聞いている。

 

言峰ではなく、言峰の説明の仕方を見ている。

 

そう見えた。

 

言峰は士郎の左手を見た。

 

「マスターには令呪が宿る。サーヴァントへの絶対命令権だ。三画。使い方を誤れば命取りになるが、正しく使えばサーヴァントすら従わせることができる」

 

士郎は自分の手を見る。

 

そこにある印。

 

「これが……」

 

「そうだ」

 

言峰は頷いた。

 

「お前はマスターだ。望んだかどうかではない。すでにそうなった」

 

士郎は黙った。

 

セイバーは士郎の隣にいた。

一歩分も離れない。

 

その立ち位置に、凛は少しだけ感心した。

 

スターリンは一言も発しない。

 

本当に一言も。

 

だが、凛には分かった。

 

彼は聞いている。

 

士郎の反応。

セイバーの立ち位置。

言峰の説明の順序。

どの言葉を選び、どの言葉を避けず、どこで間を置くか。

 

すべて見ている。

 

凛は横目でスターリンを見た。

 

いつもより不気味だった。

 

スターリンは言峰から視線を外さなかった。

 

言峰は正確に説明している。

嘘はない。

おそらく、意図的な誤情報もない。

 

だが、士郎がどこで傷つくかを避けようとはしていない。

 

聖杯戦争とは殺し合いだ。

お前はすでに参加者だ。

戦う意思の有無は関係ない。

他の参加者から見れば敵だ。

 

それは事実だ。

事実だからこそ、残酷だった。

 

スターリンは、その事実の置き方を見ていた。

 

凛にはそう見えた。

 

言峰が士郎へ言う。

 

「教会は監督役として、参加者に最低限の説明を行う。脱落者の保護も行う。ただし、戦争そのものを止めるものではない」

 

「止めないんですか」

 

士郎が聞いた。

 

「殺し合いだって分かってるのに」

 

「監督役は、儀式が成立するように監督する者だ。正義の味方ではない」

 

その言葉に、士郎の眉が動いた。

 

凛も気づいた。

セイバーも気づいた。

スターリンだけは、表情を変えなかった。

 

いや、変えないまま、記録していた。

 

士郎は言った。

 

「そんなの、おかしいだろ」

 

「おかしいと思うなら、そのおかしさの中で何をするかを決めることだ」

 

言峰は淡々と返した。

 

「お前のサーヴァントはすでにいる。敵もいる。戦いは始まっている」

 

士郎は何も言えなかった。

 

教会の空気が、さらに冷たくなったように感じた。

 

凛はそこで話を切った。

 

「今日はここまででいいでしょう」

 

言峰は凛を見る。

 

「遠坂凛。お前は彼を導くつもりか」

 

「説明を受けさせただけよ」

 

「それ以上は?」

 

「まだ決めていない」

 

言峰は小さく笑った。

 

その笑みが、凛には昔から苦手だった。

 

「そうか。ならば、よく考えることだ」

 

凛は答えなかった。

スターリンも答えなかった。

 

ただ、その時。

 

言峰とスターリンの視線が、もう一度だけ交わった。

 

言葉はない。

会釈もない。

敵意もない。

 

だが、互いに何かを認識した。

 

凛には、それが分かった。

 

この二人は会話していない。

けれど、何かが成立した。

 

言峰は、スターリンが遠坂凛の隣に立つ意味を測った。

スターリンは、言峰が士郎の苦痛をどこまで避けずに置くかを見た。

 

どちらも、何も言わない。

だからこそ、不気味だった。

 

教会を出る時、士郎は何度も自分の左手を見ていた。

 

セイバーは隣に立ち、視線だけで周囲を警戒している。

 

凛は扉を開け、外の夜気を吸った。

 

冷たい空気が肺に入る。

 

「衛宮くん」

 

士郎が顔を上げる。

 

「今日はここまで。帰りながら話すわ」

 

「……ああ」

 

士郎は頷いた。

 

四人は教会を出た。

 

扉が閉まる。

 

その音が、やけに大きく響いた。

 

坂道を下り始める。

 

士郎は少し前を歩いていた。

セイバーは、そのすぐ横にいる。

凛とスターリンは少し後ろ。

 

夜の風が、教会の冷たさを少しだけ薄めていく。

 

だが、凛の胸の中には、別の冷たさが残っていた。

 

言峰の説明。

士郎の反応。

そして、スターリンの沈黙。

 

凛が考えていると、背後から低い声がした。

 

「凛」

 

「何」

 

「監督役を監視すべきだ」

 

凛は足を止めかけた。

 

「……言峰を?」

 

「そうだ」

 

凛は顔をしかめた。

 

「言峰は監督役よ。昔から知ってる。少なくとも、聖杯戦争のルール上は中立の立場にいる」

 

「中立を名乗る者ほど、記録が必要だ」

 

「あなた、誰でも疑うわけ?」

 

「誰でもではない。疑う理由のある者だけだ」

 

凛は声を抑えた。

 

前を歩く士郎には聞こえない程度に。

 

「言峰に、疑う理由があるっていうの?」

 

スターリンはすぐには答えなかった。

 

教会の方を一度だけ見た。

 

「説明は正確だった」

 

「ならいいじゃない」

 

「だが、苦痛を和らげる意図は薄かった」

 

凛は黙った。

 

スターリンは続ける。

 

「彼は少年がどこで反発するかを知っていた。どの言葉で痛むかも知っていた。避けなかった。むしろ確認していたように見えた」

 

「……言峰は昔からああいう言い方をするのよ」

 

「凛への態度には親しみがある」

 

「それは、まあ……父と縁があるから」

 

「だが、保護ではない」

 

凛は奥歯を噛んだ。

 

反論しようとして、言葉が詰まった。

 

スターリンは穏やかだった。

 

穏やかな声で、言峰を解体していく。

 

「士郎が傷つく言葉を避けていなかった。凛が不快になる言葉も避けていなかった。中立の監督役としては正確だ。だが、人としては奇妙だ」

 

「あなたに人として奇妙とか言われるの、相当よ」

 

「だから記録すべきだ」

 

凛は眉を寄せた。

 

「監視って、まさか赤き書記局を――」

 

「全面開放ではない」

 

「駄目」

 

即答だった。

 

「教会への干渉は禁止。言峰本人への接触も禁止。赤き書記局の追加展開も許可しない」

 

スターリンは頷いた。

 

「ならば、既存の影が拾える範囲で異常を報告する」

 

凛は睨む。

 

「あなた、もうそこまで考えてたわね」

 

「監督役は重要だ」

 

「言峰は敵じゃない」

 

スターリンは静かに言った。

 

「トロツキーも、かつては同志だった」

 

凛は顔をしかめた。

 

「また物騒な名前を出してきたわね」

 

「近い者ほど危険になる」

 

スターリンの声は低かった。

 

「遠い敵は剣を持って来る。近い敵は、椅子と食卓と信頼の中に座る」

 

凛は反発するように言った。

 

「言峰は敵じゃない」

 

「ならば、監視しても何も出ない」

 

「そういう考え方、本当に嫌い」

 

「嫌ってよい」

 

「許可したわけじゃないわよ」

 

「では、命令を」

 

凛は前を歩く士郎とセイバーを見た。

 

士郎はまだ黙っている。

セイバーは一瞬だけこちらを見た。

 

会話の内容までは聞こえていないだろう。

だが、二人の間に緊張があることは察している。

 

凛は息を吐いた。

 

「赤き書記局の追加展開は許可しない。教会への干渉も禁止。言峰本人への接触も禁止。既存の影が偶然拾える範囲で、異常な動きがあれば報告だけ」

 

「観察と報告のみ」

 

「それ以上は私が決める」

 

「もちろんだ」

 

凛はその「もちろん」が、一番信用できないと思った。

 

「あなたのもちろんは、まったく安心材料にならないわね」

 

「命令は明確だ」

 

「明確にさせてるのは誰よ」

 

スターリンは何も答えなかった。

 

ただ、穏やかに歩いている。

 

凛は、それ以上言わなかった。

 

言峰を疑いたくない。

少なくとも、今はそうだった。

 

だが、スターリンの言葉を完全に否定することもできなかった。

 

それが嫌だった。

 

 

 

 

――

 

 

 

 

教会の扉が閉じた後、礼拝堂には静けさが戻っていた。

 

言峰綺礼は、一人で祭壇の前に立っていた。

 

しばらく、何も言わない。

 

やがて、奥の影が揺れた。

 

金色の髪。

赤い瞳。

黄金の気配。

 

ギルガメッシュが、退屈そうに姿を現した。

 

「随分と奇妙な客だったようだな、綺礼」

 

言峰は振り返らない。

 

「遠坂凛のサーヴァントだ」

 

「小柄な男だったな。武人には見えん」

 

「武人ではない」

 

言峰は淡々と言った。

 

「ヨシフ・スターリン。二十世紀の支配者だ」

 

ギルガメッシュの目がわずかに動く。

 

「どのような男だ」

 

「人類史上で、一、二を争うほど多くの人間を死に追いやった人物だ」

 

ギルガメッシュは軽く笑った。

 

「一万か。それとも十万か」

 

「千万を超える。正確な数は定まらない。二千万とも言われる」

 

一瞬。

 

ギルガメッシュは黙った。

 

次の瞬間、教会の奥に笑い声が響いた。

 

「ははははははは!」

 

それは嘲笑ではなかった。

 

退屈していた王が、思いがけないものを見つけた笑いだった。

 

「それだけ殺して、あの目か」

 

言峰が問う。

 

「あの目?」

 

「獣ではない。狂人でもない。血に酔った殺戮者でもない。理性がある目をしていた」

 

ギルガメッシュは楽しげに続けた。

 

「理性で殺した者の目だ。なるほど、面白い」

 

「君は彼を評価するのか」

 

「評価ではない。分類だ」

 

「何に分類した」

 

ギルガメッシュは笑った。

 

「王だ」

 

言峰は静かに否定した。

 

「いや、独裁者だ」

 

「同じことだ」

 

ギルガメッシュは、当然のように言った。

 

言峰がわずかに眉を動かす。

 

「同じではあるまい。王には血統がある。戴冠がある。臣民が認める秩序がある。独裁者は、それを持たぬ」

 

「だから近代の者どもはそう呼ぶのだろう」

 

ギルガメッシュは退屈そうに笑った。

 

「血を引かず、神に選ばれず、古き儀礼も持たず、玉座にも座らぬ。だが、人を従え、国を動かし、命を数え、死を命じる。ならばそれは王だ」

 

「独裁者という言葉は」

 

「王の別名だ」

 

ギルガメッシュは断じた。

 

「王であることを認めたくない時代が、王をそう呼んでいるにすぎん」

 

言峰は黙って聞いていた。

 

ギルガメッシュは続ける。

 

「民が選ぼうが、軍が担ごうが、恐怖で従わせようが、制度で縛ろうが、本質は変わらぬ。人の群れの上に立ち、その生死を己の意思で動かす者。そやつを王と呼ばずに何と呼ぶ」

 

「彼は自らの民を大量に死なせた」

 

「だから王なのだ」

 

ギルガメッシュの笑みが深くなる。

 

「自分の民をそれだけ殺せるのは王だけだ。賊ではない。将でもない。神官でもない。民を数として扱い、国の名で死なせ、なお統治者として立つ。奴は王だぞ、綺礼」

 

「君と同じ王か」

 

ギルガメッシュの表情が変わった。

 

不快そうに、わずかに目を細める。

 

「我と同じなどと言うな」

 

短い沈黙。

 

その後、ギルガメッシュは口元を歪めた。

 

「だが、王ではある。神秘の時代の王ではない。神の血を引く王でも、都市の始原に立つ王でもない」

 

彼は楽しそうに笑った。

 

「新しい王だ。人が神秘を失った後に、それでもなお人を従え、国を動かし、死を積み上げた王だ」

 

言峰は言った。

 

「近代の王か」

 

「そう呼んでもよい」

 

ギルガメッシュは、教会の天井を見上げる。

 

「神々の影が薄れた後、人間だけで王を作ると、ああなるのかもしれんな」

 

言峰は微かに笑った。

 

「遠坂凛には危険なサーヴァントだ」

 

「危険だから面白い」

 

「遠坂凛は彼を御せると思うか」

 

ギルガメッシュは即答しなかった。

 

少し考えた。

 

そして、笑った。

 

「御すのではない。あの娘は選ばされる。あの男は剣を振るわず、選択肢を並べる類の王だ」

 

「選択肢を並べる?」

 

「殺せ。疑え。守れ。見捨てろ。勝て。そのどれもを、あの男は理性の言葉で差し出すだろう」

 

言峰の目が細くなる。

 

「そして遠坂凛が選ぶ」

 

「そうだ」

 

ギルガメッシュは満足げに言った。

 

「あの娘が拒み続けるのか。それとも一度だけ手を伸ばすのか。見ものだな」

 

「君は本当に退屈を嫌う」

 

「退屈は罪だ」

 

ギルガメッシュは笑った。

 

「だが今夜は、少しばかり退屈が薄れた」

 

 

 

 

――

 

 

 

 

坂道の夜気は、さっきより冷たく感じられた。

 

凛たちはまだ坂を下りていた。

 

士郎は無言だった。

セイバーは士郎のそばを離れない。

その立ち位置は、教会に入る前よりもさらに近くなっていた。

 

凛は、言峰への監視提案が頭から離れなかった。

 

スターリンは、それ以上言峰について口にしない。

 

それがまた、嫌だった。

 

必要なことは言った。

命令は得た。

ならば黙る。

 

この男は、そういうふうに動く。

 

凛は士郎に声をかけた。

 

「衛宮くん」

 

士郎が顔を上げる。

 

「今夜はもう帰りなさい。セイバーから離れないこと」

 

「ああ……」

 

士郎は頷いたが、納得しきってはいない顔だった。

 

「遠坂はどうするんだ」

 

「私は私のやることをやる」

 

「それって」

 

「説明は後。今は自分のことを考えなさい」

 

士郎は何か言いかけた。

 

だが、その前に。

 

空気が変わった。

 

最初に反応したのは、セイバーだった。

 

彼女の足が止まる。

一瞬で、士郎の前に出た。

 

「シロウ、下がってください」

 

士郎が目を見開く。

 

「セイバー?」

 

凛も魔力の異常に気づいた。

 

重い。

大きい。

 

空気そのものが沈むような圧。

 

スターリンは視線を上げた。

 

「大きいな」

 

凛が低く言う。

 

「サーヴァント……?」

 

坂道の先に、小さな少女が立っていた。

 

白い髪。

赤い瞳。

無邪気な笑み。

 

夜の闇の中で、まるで人形のように白い。

 

少女は士郎を見ていた。

 

その背後に、巨大な影がある。

 

バーサーカー。

 

そう呼ぶしかない圧力だった。

 

人ではない。

戦士という言葉でも足りない。

 

巨大な質量。

神話そのもののような暴力。

 

ただ立っているだけで、周囲の空気が潰される。

 

凛は即座に宝石を握った。

セイバーは剣を構える。

士郎は息を呑む。

 

スターリンは、初めて少しだけ表情を引き締めた。

 

その目はバーサーカーを見ている。

 

筋力。

速度。

圧力。

魔力。

主従関係。

 

情報が足りない。

 

だが、一つだけ分かる。

 

真正面からぶつかれば、こちらは不利。

 

少女が笑った。

 

「こんばんは、お兄ちゃん」

 

士郎の顔が強張った。

 

「お兄、ちゃん……?」

 

凛は状況の異常さを理解した。

 

この少女は、ただのマスターではない。

 

この夜、この場所に、このサーヴァントを連れて現れた。

 

それだけで、十分すぎる。

 

スターリンが静かに呟いた。

 

「これは、正面戦闘になる」

 

凛は即座に言った。

 

「分かってる。余計なことはしないで」

 

「了解した」

 

スターリンはそう答えた。

 

しかし、その目はまだバーサーカーを見ていた。

 

剣も弓も、言葉も、書類も。

 

通じるかどうか分からない相手。

 

それが、坂道の先に立っている。

 

坂道の夜気が、重く沈んだ。

 

教会で聞いたばかりの「聖杯戦争」という言葉が、今度は巨大な斧の形を取って、士郎たちの前に立っていた。

 

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