第二十七話 ワタシノカミサマ
名もなき神が触れた指先から、風がほどけた。
人ひとりの前髪を揺らしただけの、小さな風だ。
湿原の葦は動かない。
切られた縄も垂れたまま。
湖面には、雨の名残のみのこし小波一つ立っていない。
それでも、風はあった。
誰の名も借りず。何の神威もまとわず。
男の願いへ、名もなき神が応えようとした。
それだけで生まれた風だった。
名もなき神の瞳には、自分の手が映る。
男の指先へ触れる手
肩の震えは収まらず、呼吸も浅い。
奪われた神威は戻っていない。
タケミナカタも八坂刀売も。
…八坂神奈子という名も。
諏訪子の瞳から垂れる黒い糸の先で、小さく揺らされている。
強かった頃のものは、何一つ残っていない。
だが、風だけは消えなかった。
男の指から離れ、頬を撫で、耳元へ細く回り込む。
「風だ」
男が言った。
「見れば分かる」
名もなき神は、すぐに手を引こうとした。
男が指を動かす。
「待ってくれ」
神の肩が跳ねた。
腕を引きかけ、男を見る。
「……命じるな」
「離れたら、消えそうだ」
「この程度の風が消えたところで、何が変わる」
「伝わる」
男は跪く民がある方に視線を向ける。
名もなき神の目が止まった。
人々は、まだ土へ伏していた。
村長も。
水守も。
縄役の老婆も。
下の田の若者も。
洩矢の奥から来た青年も。
子を抱いていた母親も。
八坂を信じていた者。
洩矢を恐れていた者。
七日間、互いの声へ腹を立て、睨み合い、それでも最後の線だけは越えずにいた者たちが、今は同じ姿で地面へ額を近づけている。
誰も隣を見ない。
誰も神を見ない。
誰も自分の名を口にしない。
湿原の中央に立つ諏訪子の姿をしたものが、ゆっくり顔を上げた。
瞳から、黒い糸とも涙ともつかないものを流している。
黒い筋は頬を伝い、顎から長く垂れ、泥へ届く。
泥へ触れた先から、無数の細い影となって湿原を這う。
「われら」
諏訪子の口が動いた。
一人の声ではなかった。
老人。
女。
男。
子供。
水の底で潰れた泡。
石と石が擦れた音。
声になりそこなった、消えた祈り。
それらが一つの口から溢れる。
「おそれよ」
黒い影が、人々の背へ重なる。
伏していた者たちの肩が、さらに低く沈む。
男の膝も折れかけた。
名もなき神の指が、男の手を強く掴んだ。
爪が食い込む。
神自身も、逃げ出しそうになる身体を、その手で留めていた。
「……嘆くのは後にするわ」
男が神を見る。
震えは消えていない。名も持っていない。
だか、男の側にいた神だった。
男の視線をよそに、名もなき神は、視線を黒い糸へ向けた。
人々の位置。石の列。
湿原の中央にいる諏訪子。
自分の指先に残った、わずかな風。
順番に確かめる。
「今、使えるものを整理しましょう」
「何か分かったのか」
「あれがしているのは、単純な威圧ではないわ」
名もなき神は、人々の伏した背へ目を向けた。
「皆が同じものを怖がり、同じ姿で伏し、同じ言葉へ従っている」
「畏れを押しつけてる」
「押しつけながら、取り込んでいるのよ」
黒い影が、村長の背から水守の背へ続いている。
境目がない。
何人もの身体を、一枚の夜のように覆っていた。
「一人ずつ違う人間なのに、あれの中では区別されていない」
「どうする」
「分ける」
「何を」
「まず、人を」
名もなき神は男を見る。
「この土地の者たちの名前は分かる?」
「大体は」
「大体では困るけれど、今はそれでいいわ」
態度が戻ってきていた。
命令することをためらわない。
目の前にある問題を小さく切り分け、相手が今すべきことだけを渡す声だった。
「一番近い村長は」
「イワネ」
「その右」
「水守のナギ」
「杖を落としてる老婆」
「トヨ。縄を預かってる」
「若い二人は」
「下の田のアラタ。反対側が、洩矢の奥のカヤ」
「母親と子供」
「ミネとアサ」
神は目を閉じた。
男の指先に触れたまま、息を吸う。
小さな風が生まれた。
風は、地面すれすれへ降りる。
黒い影の濃い場所を避けるように曲がる。
倒れた石の裏を通る。
垂れた縄の下を潜る。
村長の耳元まで進んだ。
風は、そこで止まった。
名もなき神の唇が動く。
『イワネ』
村長の指が、土をわずかに掻いた。
黒い影が、その手の甲へ集まる。
「みるな」
諏訪子の口が言った。
村長の顔が、泥へ押しつけられる。
神の声が、もう一度、風へ乗る。
『顔を上げなくていいわ』
村長の瞼が震える。
『右を見なさい。目だけでいい』
村長の右目が、ほんの少し開いた。
眼球だけが横へ動く。
隣にいる水守の姿が入る。
何年も、同じ水路を見てきた男。
雨の夜には、二人で堰を確かめた。
若者が水を巡って言い争えば、片方を村長が叱り、もう片方を水守が引きずって帰った。
昨日まで、人の争いを起こさないため、並んで声を上げていた。
『そこにいるのは誰?』
村長の口が開いた。
声は出ない。
黒いものが顎の下へ集まり、口を閉じさせる。
名もなき神の風は強くない。
影を吹き払えない。
ただ、村長の耳元から離れなかった。
『急がなくていい。息を吐いて。その息に、名前を乗せなさい』
村長の胸が動く。
浅く息を吸う。
吐く。
「……ナギ」
声は、泥の上へ落ちた。
諏訪子の顔が、村長の方へ向いた。
黒い糸が一本、瞳から勢いよく伸びる。
縄の外まで走り、村長の口元へ巻きついた。
声を取り戻すより早く、その名を引きずり込もうとする。
「なぎ」
ミジャグジが繰り返した。
老人の声で。
子供の声で。
何十人もの声で。
「なぎ。なぎ。なぎ」
名前が湿原へ溶け、ただの音へ変わっていく。
村長の目が閉じかけた。
『もう一度だけ』
神の風が囁く。
『今度は、顔を思い浮かべて』
村長が歯を食いしばる。
「ナギ!」
水守の肩が震えた。
黒い影の表面に、細い割れ目が入る。
水守の指が動く。
土を掴む。
「ナギ!」
村長が呼ぶ。
水守の顔が、ほんの少し上がった。
「……イワネ」
名前が返る。
二人の間にあった黒い影が、薄く裂けた。
別々の背中が現れる。
同じ姿で伏していた二人が、わずかに違う角度で顔を上げる。
諏訪子の姿をしたものが、一歩進んだ。
裸足が泥へ触れる。
湿原全体が沈む。
黒い水が、縄の方へ押し寄せた。
「ふせよ」
人々の身体が再び落ちる。
村長の顔も土へ近づく。
『ナギ』
風が水守の耳元へ移った。
『左にいる人を見なさい』
水守は、村長の肩しか見られない。
『もう少し向こう。杖を落とした人』
視線が動く。
トヨの白い髪が見えた。
「……トヨ」
老婆の杖が、泥の中で転がった。
「トヨ」
「聞こえてるよ……」
老婆の返事が戻る。
いつもの張りはない。
それでも、トヨ一人の声だった。
「二度も呼ぶんじゃない」
水守の口元が、わずかに緩んだ。
老婆の左側には、アラタがいる。
「アラタ」
若者の背が揺れる。
「アラタ。起きな」
「……うるせえ」
「口が利けるなら、顔も上げな」
「先に自分で上げろよ」
黒い影が、二人の間で裂れる。
人の形が、また一つ増える。
アラタは、反対側へ目を動かした。
そこにカヤがいる。
六日目、同じ籠へ土を詰めた。
互いの神を庇って怒鳴り合った。
それでも湿原の見張りでは、何も言わず水瓶を回してきた。
「カヤ」
青年の手が泥へ食い込む。
「……何だよ」
「顔を上げろ」
「もう上げてる」
「上げられてたら言わねえ」
カヤの口元が、少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
その時。
諏訪子の右腕が上がった。
人々へ向けられる。
黒い糸が、指先から扇状に広がった。
「なを」
湿原の外で、人々の名前が囁かれる。
イワネ。
ナギ。
トヨ。
アラタ。
カヤ。
呼んでいるのは、隣人ではなかった。
石の底。
井戸の水。
死んだ親。
まだ生まれていない子供。
あり得ない場所から、名が返ってくる。
アラタの顔が上がる。
遠くから母親の声がした。
「アラタ」
もう死んだはずの母親だった。
湿原の中央。
諏訪子の足元の泥へ、母親の姿が立っている。
「おいで」
アラタの手が土を離れた。
身体が湿原側へ傾く。
『アラタ』
弱い風が耳元へ飛び込んだ。
神の声だった。
『左にいる人を見なさい』
アラタの目が動く。
カヤがいた。
歯を食いしばり、こちらの腰帯を掴んでいた。
「行くな」
カヤが言う。
「あれは母ちゃんだ」
「お前の母親は、10年前におっ死んだだろ!」
「でも、そこにいるよ!」
「馬鹿野郎!川で溺れたテメェのために死んだんだぞ!」
カヤがアラタの身体を引き戻す。
泥の母親が、口を大きく開いた。
中には舌も歯もない。
黒い糸だけが詰まっている。
姿が崩れ、湿原へ落ちた。
諏訪子の顔が、次の人間へ向く。
名前を呼び合うたび。
人が一人へ戻るたび。
ミジャグジは、その者が最も振り向きやすい声で呼び返してくる。
亡くした子供。
帰らなかった夫。
幼い頃の母。
神の声。
自分自身の声。
人々の顔が湿原側へ向きかける。
小さな風が、そのたびに耳元へ届く。
『右を見て』
『その声ではなく、隣の顔を』
『名前を一度だけ』
『返事を聞いて』
神奈子だったものは、一人ひとりに違う言葉を送った。
長くは話さない。
理由も説明しない。
今、すべきことだけ。
人々は、隣の名を呼ぶ。
返事が来る。
次の者を呼ぶ。
湿原の外に、ばらばらな声が戻ってくる。
ミネ。
アサ。
サキ。
オト。
名を呼ぶ声と、呼び返す声。
一つの大きな影が、人の数だけ裂れていく。
◇
「なら」
男が言った。
名もなき神は、風を送り続けている。
額へ汗が浮いていた。
弱い風であっても、何十人へ次々に届ければ、残された力を削る。
「諏訪子の名を呼べばいいんじゃないか」
神の目が、男へ向く。
「皆で諏訪子を呼べば、戻ってこないか」
「今は駄目」
「どうして」
「諏訪子も、あの中へ沈んでいる」
ミジャグジとなった諏訪子を見た。
黒い糸を流す姿。
瞳は開いている。
そこに諏訪子はいない。
「あれは、人と神と土地の記憶を、大まかな畏れとして抱えている。その中では、諏訪子も一つの記憶にすぎない」
「でも、名前は諏訪子のものだろう?」
「今、洩矢諏訪子と呼んでも、その名が何を指すのか定まっていないのよ」
黒い糸の中へ、幾つもの姿が浮かぶ。
少女。
蛇。
古い石。
名のない神。
祈りを受け取った何か。
「大きすぎるまとまりへ諏訪子の名を投げれば、そのまとまり全部が自分として応える」
「じゃあ、どうする」
「先にほどく」
神の風が、次の人間へ移る。
「一人ひとりの畏れを、あれから取り戻す。諏訪子を探すのは、そのあと」
「畏れを取り戻すって」
「怖がらないようにするのではないわ」
神は、村長へ視線を向けた。
「何を怖がっているのか、自分の口で言わせる」
小さな風が、村長の耳元へ着く。
『イワネ』
村長が、わずかに顔を上げる。
『何が怖いの?』
村長の目が、諏訪子へ向きかける。
「……あれが」
『それでは大きすぎるわ』
声は穏やかだった。
叱らない。
急かさない。
ただ、答えを絞る。
『何を失うのが怖い?』
村長の喉が鳴った。
目の前に、景色が広がる。
火のついた家。
鍬と鉈を持って向かい合う村人。
昨日まで同じ水路をさらっていた者たちが、互いの田へ火を放っている。
老人が倒れる。
子供が泣く。
八坂の印が壊される。
洩矢の石が湖へ落とされる。
ミジャグジが、村長の中にあった景色を、先に湿原へ引き出していた。
村長の肩が震える。
『今、見えていることではないわ』
風が耳元を撫でる。
『教えて。あなたが、本当に失いたくないものを』
村長は杖を探した。
指が柄へ触れる。
「村が」
声が止まる。
もう一度、息を吸う。
「村が二つに割れて、知っている顔同士が殺し合うのが怖い!」
叫びが湿原へ走った。
諏訪子の瞳から、黒い糸が一本飛び出した。
村長の胸へ突き刺さる。
身体が大きく仰け反った。
「イワネ!」
水守が手を伸ばす。
黒い糸は、村長の胸から湿原の中央まで張り詰めた。
細い。
髪よりも細いのに、男が手を触れれば皮膚を切りそうな硬さがあった。
『両手で掴んで!!』
神の声が、村長の耳へ届く。
村長の手が糸へ触れる。
黒いものが掌へ食い込む。
離しかける。
『大丈夫』
声は変わらない。
『それは、あなたが今、自分の言葉にした畏れよ』
村長が、もう一度掴む。
黒い糸が太くなった。
細い紐へ。
さらに縄へ。
両手でも余るほどの黒い綱となり、村長と諏訪子の身体を結ぶ。
それと同時に、諏訪子の肩を覆っていた黒い神威が、ほんの少し薄くなった。
泥に汚れた衣の形が見える。
「繋がりが強くなった」
男が言う。
「いいのか」
「ええ」
名もなき神は、村長の手にある綱を見る。
「畏れが、誰のものか決まった」
次の風を送る。
『ナギ』
水守の耳元へ。
『あなたは、何を失いたくない?』
水守の前に、乾いた水路が現れる。
底へひびが入り、田の苗が倒れている。
腹を空かせた子供たちが、空の椀を抱えている。
水守が歯を食いしばる。
「水が止まるのが怖い!」
黒い糸が胸へ飛ぶ。
水守の身体が引かれた。
村長が背を支える。
『もう少しだけ、具体的に』
風の声が導く。
水守は糸を掴んだ。
「下の田へ水を送れず、子供を飢えさせるのが怖い!」
糸が太くなる。
黒い綱へ変わる。
次はトヨ。
『何を怖がっているの?』
老婆の周囲に、縄の切れた石が浮かぶ。
そこから、名もないものが這い出す。
だが、老婆はそれを見ながら首を横へ振った。
「違うね」
『何が?』
「あれが出ることより、人が人を恐れるようになる方が怖い!」
黒い糸が飛んだ。
老婆は杖を捨て、両手で掴む。
「洩矢様を怖がるより先に、隣の家を怖がる日が来ることだ!」
綱が太くなる。
アラタの耳元へ風が届く。
『あなたは?』
「八坂様が消えるのが怖い!」
糸が胸へ入る。
アラタの身体が湿原側へ滑る。
カヤがアラタの腰帯を掴んだ。
「水が回った! 祭りも変わった! それが全部、最初からなかったことになるのが怖い!」
黒い綱が、アラタの両手へ収まる。
カヤへ風が移る。
『あなたは?』
「洩矢様が忘れられるのが怖い!」
黒い糸が飛ぶ。
「石も、縄も、昔から守ってきたことも、役に立たないって笑われるのが怖い!」
綱となる。
ミネが子供を抱いたまま叫ぶ。
「この子を手放すのが怖い!」
アサが母の衣を掴む。
「母ちゃんが、俺を見なくなるのが怖い!」
声が続く。
「田を失うのが怖い!」
「山へ入れなくなるのが怖い!」
「八坂様を信じた自分が間違っていたと思うのが怖い!」
「洩矢様を恐れてきた日々が、意味のないものになるのが怖い!」
「明日もここで暮らせないことが怖い!」
叫ぶたび、黒い糸が飛んだ。
人々の胸。
肩。
腕。
掌へ。
口にした畏れが具体的になるほど、糸は太くなった。
黒い綱となる。
人々は、自分へ繋がった綱を握った。
離せば楽になる。
手を開けば、畏れはまた諏訪子の中へ戻る。
誰かのものでもない、大きな恐怖へ溶けていく。
それでも握った。
男は、諏訪子の周囲を見る。
黒いものが少しずつ薄れている。
帽子の縁。
衣の袖。
少女の指先。
まだ動かない。
それでも輪郭は見え始めていた。
諏訪子の口が開く。
「おそれは」
黒い綱が一斉に震えた。
「われらの」
引かれた。
人々の身体が、湿原側へ滑る。
石が倒れる。
杭が一本、泥から抜けた。
村長が杖ごと前へ倒れかける。
『イワネ、右足を石へ』
風が耳元へ飛ぶ。
村長が踵を、倒れた石へ掛ける。
『ナギ、イワネの腰を支えて』
水守が片腕を伸ばす。
自分も引かれながら、村長の腰帯を掴む。
『トヨ、杖を横にして、二人の前へ』
老婆が杖を地面へ横たえる。
三人の足が引っかかる。
『アラタ、左手は綱。右手でカヤの肩を』
アラタがカヤの肩を掴む。
『カヤ、反対側からアラタを支えて』
「言われなくても!」
カヤが叫び、アラタの腰を抱える。
黒い綱がさらに引かれる。
アラタの掌が裂けた。
血が綱へつく。
その途端。
湿原が変わった。
アラタの目の前に、神奈子の姿が現れる。
名も。
神威も。
風も奪われる前の神奈子。
だが、こちらへ背を向けている。
遠ざかる。
「待ってくれ!」
アラタが片手を離しかける。
『アラタ』
神の声が、耳元へ届く。
現れた神奈子の姿ではなく。
今、名も持たず、男の隣で風を送っている神の声。
『私はここにいる』
アラタの目が動く。
名もなき神がいる。
肩を震わせながら。
それでもこちらを見ている。
『綱を見なくていい。右にいるカヤを見て』
アラタはカヤを見た。
「離すなよ」
カヤが言った。
「お前もな」
二人は互いの肩を掴んだ。
神奈子の幻が、黒い水へ崩れる。
別の場所では、カヤの前から諏訪子の姿が消えていた。
石も。
縄も。
森も。
何もない平地だけが広がっている。
カヤの息が止まる。
『カヤ』
風が届く。
『あなたが覚えているなら、まだ消えていない』
カヤは唇を噛んだ。
「忘れねえ」
『なら、綱を握って』
「忘れねえぞ!」
両手へ力を込める。
幻の平地へ、石の影が一本戻った。
ミジャグジは、人々が口にした恐れを、そのまま目の前へ見せていた。
子供を失う母親。
枯れる田。
燃える家。
消える神。
隣人の刃。
黒い綱を握るほど、恐れは鮮明になる。
逃げ道のない景色となって、目の前へ現れる。
人々の指が開きかける。
そのたびに、小さな風が一人ずつへ届く。
『ミネ、子供の手を』
『アサ、母親の声を聞いて』
『ナギ、目の前ではなく、水守の手を見て』
『トヨ、杖を離さない』
風は酷く弱く儚かった。聞こえる言葉も、息が切れ掠れつつあった。
だか、消えなかった。側にいた。
今、どこを見ればよいか。
何を握ればよいか。
誰の声を聞けばよいか。
それだけを渡す。
黒い綱は太くなる。
人々の掌へ食い込む。
その分、諏訪子の身体を覆う神威は薄くなっていった。
◇
諏訪子の姿をしたものが、歩き始めた。
一歩。
泥が沈む。
黒い綱が短くなる。
人々が一斉に前へ引かれた。
二歩。
湿原の水が縄の外まで押し寄せる。
三歩。
倒れた石が、諏訪子の方へ転がり始めた。
「近づいてる」
男が言った。
「分かっているわ」
名もなき神の息が上がっていた。
一人ずつへ風を届け続け、頬から血の気が薄れている。
「このまま来たら」
「縄を越える前に、次へ進む」
「次って」
神は、黒い綱を見た。
人々の畏れを乗せた綱。
湿原の中央へ繋がっている。
「繋がりは、向こうからこちらへ引くだけのものではない」
「何を通す」
「記憶」
諏訪子が、また一歩進む。
黒い綱の一本が、地面へ叩きつけられた。
握っていた男の身体が跳ねる。
手が離れた。
綱は瞬く間に細くなり、黒い糸へ戻る。
諏訪子の肩へ吸い込まれる。
薄くなっていた黒い神威が、その分だけ濃くなった。
倒れた男の顔が、再び土へ伏す。
『サダ!』
名もなき神の風が飛ぶ。
返事がない。
『左にいる人。サダの名を』
「サダ!」
隣の者が叫ぶ。
「聞こえるか!」
倒れた男の指が動く。
『サダ。何を失うのが怖い?』
男の唇が震える。
「……妻を」
黒い糸が胸へ戻る。
「病の妻を一人残すのが怖い!」
糸が太くなる。
綱となる。
サダは両手で掴み直した。
諏訪子の歩みが、ほんの一瞬止まった。
「できる」
男が言った。
「切られても、もう一度」
「ええ。だから、止めないこと」
神は、黒い綱の一本へ風を乗せた。
人々の耳元へ、同じ問いを送り始める。
だが、声は一人ずつ違う場所へ届く。
『トヨ』
老婆が顔を上げる。
『あなたの神様は、どんな神様?』
「……何だって?」
『あなたが知っている洩矢様を教えて』
「今、それを?」
『今だからよ』
神の声は落ち着いていた。
『同じ答えはいらない。あなたが覚えていることを、一つ』
トヨは、黒い綱を握ったまま湿原を見る。
諏訪子の顔。
黒い糸に覆われている。
それでも、老婆の目に浮かんだのは、別の姿だった。
「供えた餅を、一つ多く持っていった!」
湿原の空気が揺れた。
黒い綱の途中へ、結び目が生まれる。
結び目の表面に、小さな景色が浮かんだ。
石の前。
供えられた餅。
一つを袖へ隠し、何も知らない顔をする少女の神。
諏訪子の左手の小指が、わずかに動いた。
ミジャグジの口が開く。
「われらの、きおく」
黒い綱を通り、別の景色が流れ込む。
無数の供え物。
無数の神。
餅を取る手。
穀物を奪う獣。
飢えた子供。
トヨの記憶が、何千もの似た景色に埋もれていく。
老婆の顔が曇る。
「本当に、あれは……」
『トヨ』
風が、すぐ耳元へ届いた。
『餅はいくつ供えたの?』
「六つ」
『残っていたのは?』
「五つだよ!」
『誰が数えた?』
「この私だ!」
老婆の声へ力が戻る。
「六つ供えて、五つしかなかった! あの小娘が一つ食べたんだ!」
結び目が硬くなる。
似た景色が押し流される。
餅を袖へ入れた一柱だけが残った。
諏訪子の小指が、もう一度曲がった。
神の風は、次の者へ移る。
『ナギ。あなたが知る神様は?』
水守が息を吸う。
「日照りの年、あの井戸だけは枯らさなかった!」
黒い綱へ結び目が生まれる。
ミジャグジが、無数の井戸を見せる。
枯れた井戸。
人が落ちた井戸。
血で濁った井戸。
水守の記憶が混ざりかける。
『どの井戸?』
「西の井戸だ!」
『誰と見たの?』
「妻とだ! 死ぬ前の妻と、二人で水を汲んだ!」
西の井戸。
月明かり。
水面の横へ座り、誰も見ていないと思って足を浸している諏訪子。
景色が一つへ定まる。
「礼を言ったら、知らないって顔をした! そのくせ次の夜も、同じ場所にいた!」
綱が太くなる。
諏訪子の左手の薬指が動いた。
カヤが叫ぶ。
「山で迷った兄を、朝には石の前へ返した!」
無数の迷子。
無数の山。
黒い糸が記憶を混ぜる。
『何を着ていた?』
「兄は茶色の衣だ! 右の袖が破れてた!」
『諏訪子は何を言った?』
「酒が薄いって怒った!」
「それ、助けた話の続きか?」
アラタが思わず叫ぶ。
「礼の酒に文句つけたんだよ!」
「そこ覚えてんのかよ!」
「腹が立ったからな!」
声に、笑いが混じった。
黒い綱の結び目が、さらに硬くなる。
諏訪子の人差し指が震えた。
名もなき神の風が、人から人へ移る。
『ミネ。あなたの神様は?』
「娘が熱を出した夜、屋根の上にいた!」
『何をしていた?』
「雨を止めてた! 朝まで!」
『見つけた時は?』
「舌をだして、すぐ消えた!」
『アサ』
「泥団子を供えたら、本物の団子を置いていった!」
『そのあと?』
「次の日、泥団子もなくなってた!」
人々の間に、短い笑いが起きた。
息の詰まるような笑い。
泣き声と区別のつかない笑い。
それでも、畏れだけではない声だった。
諏訪子の姿をしたものが、もう一歩進む。
笑いは途切れた。
黒い綱が強く引かれる。
人々の掌が裂れる。
ミジャグジは、歩みを止めない。
「すべて」
諏訪子の口が動く。
「われらの、きおく」
黒い糸が湿原の上へ広がった。
空へ。
湖へ。
人々の頭上へ。
無数の記憶が降ってくる。
死んだ者。
忘れられた神。
祈りの言葉。
呪い。
供え物。
泣き声。
誰が見たのか分からない景色が、重なって押し寄せる。
人々が口にしていた諏訪子の記憶が、その中へ埋もれる。
声が止まりかけた。
小さな風が黒い綱を走る。
一人ずつ。
耳元へ。
『正しかったかは、今は要らないわ』
神の声が届く。
『あなたが、どう覚えているのかを教えて』
次の人へ。
『その時、誰がいた?』
次へ。
『何を言われた?』
次へ。
『腹が立ったなら、その理由を』
次へ。
『笑ったなら、誰と笑ったの?』
人々が、また声を出す。
「子供を泣かせて、自分が悪いって言われたら三日も出てこなかった!」
「どこの子だ!」
「うちの末だ!」
「何歳の時だ!」
「五つだ!」
「縄を越えた俺を、ひと月悪夢で眠らせた!」
「どんな夢だ!」
「毎晩、枕元で『覚えた?』って聞いてきた!」
「水を汚した父を泥へ沈めた!」
「そのあと火を置いた!」
「風邪を引かせたくなかったんだ!」
「祭りの酒を飲みすぎて、石の上で寝てた!」
「誰が見た!」
「俺だ!」
「なぜ起こさなかった!」
「怖かったからだ!」
記憶は揃わない。
美しくもない。
諏訪子を正しい神へ整えようとする者もいない。
怖かった。
腹が立った。
面倒だった。
笑った。
助けられた。
礼を言えなかった。
嫌いだと思った日もある。
それでも忘れてはいない。
黒い綱に、一つずつ結び目が増える。
何十もの違う景色が浮かぶ。
すべてが同じ一柱へ繋がっている。
諏訪子の左手が、ゆっくり握られた。
まだ意識は戻っていない。
だが、黒い糸の奥で、目蓋が自分の意思を探すように動き始めた。
◇
名もなき神の膝が落ちた。
男が腕を支える。
神の身体が大きく強張る。
反射的に、男から逃れようとする。
「悪い」
男はすぐに手を離した。
「風が弱くなってる」
「分かっているわ」
神は自分で膝を立て直した。
息を整える。
黒い綱へまとわせていた風が、ところどころ途切れ始めている。
声が届かなくなった者から、記憶が無数の景色へ呑まれる。
「休めるか」
「今止めれば、戻される」
「でも」
「次を考える時間だけ、稼いで」
神が言った。
男は湿原を見る。
ミジャグジとなった諏訪子は、結んだ縄へとゆっくりと近づいている、
歩みは遅い。だが止まらない。
黒い綱を引き、人々へ近づいてくる。
男は、人々へ叫んだ。
「名前を止めるな!」
「隣が黙ったら隣の名前を呼べ! 記憶が混ざったら、何度でも話せ!」
その声に村長が応える。
「ナギ!」
「いる!」
「トヨ!」
「聞こえてる!」
「アラタ!」
「ここだ!」
「カヤ!」
「うるせえ!」
名を呼ぶ声が続く。
名もなき神は、湿原へ目を向けた。
呼吸を一度。
二度。
小さな風が、再び指先へ集まる。
「もう一度」
「次はどうする」
「あなたよ」
神がこちらを見る。
「最後に残っているのは、あなたよ」
「俺?」
「皆が知っている諏訪子は、もう随分集まった」
黒い綱の結び目を見る。
「でも、土地で生きる人々の声ではまだ、他の古い神や記憶と重なるものがある」
「俺にしかわからないことを言えって?」
「そういうこと」
「何を」
「私に聞かないで」
神の口元に、わずかな苛立ちが戻る。
「あなたと諏訪子の間の恥まで、私に整理させる気?」
「…すまん」
「はやくしなさい。縄まで、もう八歩よ」
諏訪子が歩く。
七歩。
黒い水が、縄の手前へ届く。
男は息を吸った。
「俺を」
声が止まる。
人々が男を見る。
「俺を、お前の男じゃない!」
湿原の空気が揺れた。
「今それを言うのかい!」
トヨが叫ぶ。
「違うことを言えって言われたんだ!」
「もっと他にあるだろ!」
「ない!」
名もなき神が男を睨む。
「続けて!」
「他の女神を案内しただけで、浮気ってなんだ!」
黒い糸が、男の足元へ飛んだ。
胸には刺さらない。
手前で何度も揺れる。
男の言葉が誰の畏れなのか、ミジャグジにもすぐには分からない。
「一回までなら見逃すって、俺が返事する前に勝手に決めつけるな!」
糸が男の胸へ入る。
冷たい。
肺の裏側まで貫かれたように息が止まる。
『何が怖いの?』
小さな風が、男の耳元へ届いた。
「今、それも言うのか」
『必要よ』
男は黒い糸を両手で掴む。
指が切れる。
「こいつらが」
諏訪子。
神奈子。
伏していた人々。
七日間、割れかけた村々。
全部を見る。
「諏訪子様も、神奈子様も、皆も、ここからいなくなるのが怖い!」
黒い糸が太くなった。
男の腕ほどの黒い綱となる。
身体が湿原側へ引かれる。
足を泥へ沈め、踏みとどまる。
「洩矢諏訪子!」
今度は、名が沈まなかった。
何十もの異なる畏れ。
何百もの異なる記憶。
それらが、同じ一柱の輪郭を作っている。
「話し合うって言ったくせに、一番先に喧嘩を売った!」
諏訪子の左手が震える。
「土地も男も自分のものだって、誰の返事も聞かなかった!」
左の瞼が動く。
黒い糸の中から、薄い色が覗く。
「洩矢諏訪子!」
男は綱を引いた。
「人の話を、最後まで聞け!」
ミジャグジとなった身体が止まった。
縄まで、あと六歩。
諏訪子の口元が動く。
最初は、黒い声だけが漏れた。
「われら」
その下から。
もっと小さな声が、引っかかるように出た。
「……一回」
男の目が開く。
「諏訪子様!」
「一回……だから」
左目が開いた。
黒い糸の隙間から、男を睨んでいる。
「そこ、間違えるなよ」
人々の間から、泣き声とも笑い声ともつかないものが上がった。
「諏訪子様!」
「洩矢様!」
『名だけを繰り返さないで』
名もなき神の風が、それぞれの耳元へ届く。
『手を緩めず、記憶を続けて』
「厳しい女だね……」
諏訪子の左側の口元が、わずかに持ち上がった。
『意識が戻ったなら、自分でも動きなさい』
「命令しないでよ」
『嫌なら、また沈むことになるわ』
「ほんと、腹立つ」
諏訪子の左手が上がった。
瞳から流れる黒い糸を掴む。
指へ黒が食い込む。
皮膚の下まで染みる。
それでも離さない。
「何してんのさ、あんたたち」
アラタが、黒い綱を引きながら答える。
「あんたを引っ張り出してる!」
「重いんですよ、洩矢様!」
カヤも叫ぶ。
「神様に向かって重いって言う?」
「重いものは重い!」
「あとで覚えてなよ」
諏訪子の左目に、少しだけ力が戻った。
その瞬間。
右目から流れる黒い糸が、太く膨らんだ。
諏訪子の首が大きく反る。
左手が、黒い糸から引き剥がされる。
「すべて」
ミジャグジの声が、湿原を満たす。
「われらの」
黒い綱が一斉に引かれた。
人々の身体が宙へ浮きかける。
石が転がる。
杭が抜ける。
倒れた縄が湿原へ滑っていく。
諏訪子の姿が、残り六歩を一息に進んだ。
縄の手前。
黒い右手が上がる。
人々へ向けられる。
「なを」
村長の口から、自分の名が消えた。
水守が村長を見て、呼ぼうとする。
声が出ない。
アラタがカヤを見た。
誰だったか、一瞬分からない。
人々の手が綱から離れかける。
名もなき神が立ち上がった。
膝は震えている。
それでも、両手を開く。
弱い風を、黒い綱の一本一本へ送った。
『イワネ』
村長の耳元へ。
『あなたは、ナギを知っている』
水守へ。
『ナギ。右にいるのはイワネ』
老婆へ。
『トヨ。あなたの杖は足元』
若者へ。
『アラタ。カヤの肩を掴んで』
青年へ。
『カヤ。アラタの名を呼んで』
一人ずつ。
短く。
迷う余地がない言葉だけを渡す。
「アラタ!」
カヤの声が戻る。
「カヤ!」
アラタも返す。
「ナギ!」
「イワネ!」
名が湿原の外へ戻る。
人々の手が、綱を握り直す。
諏訪子の右手が、さらに持ち上がる。
黒い影が、人々の名前をもう一度奪おうと広がる。
名もなき神の風が、その先へ入った。
押し返せない。
切ることもできない。
ただ、人の声を先に運ぶ。
「トヨ!」
「聞こえてる!」
「ミネ!」
「ここにいる!」
「アサ!」
「母ちゃん!」
名を呼ぶ声が、黒い言霊より先に隣へ届く。
ミジャグジの右手が止まった。
諏訪子の左手が、再び黒い糸を掴む。
「私の身体で」
声が掠れる。
「勝手なこと、すんな!」
左足が湿原を踏む。
泥が鳴る。
黒い右足が、さらに前へ出ようとする。
左足が止める。
少女の身体が、中央から二つに引かれる。
「引いて!」
諏訪子が叫んだ。
人々が綱へ体重を掛ける。
一斉ではない。
息の合わない引き方だった。
早い者。
遅い者。
足の強い者。
立つだけで精いっぱいの者。
それでも、全員が違う声を上げながら引いた。
「井戸を守った!」
「餅を盗った!」
「盗ってない!」
諏訪子が叫び返す。
「六つが五つになった!」
「数え間違いだ!」
「娘を山から返した!」
「通り道だっただけ!」
「雨を止めた!」
「たまたまだよ!」
「全部、言い訳するのか!」
「神様にも都合があるんだよ!」
声が溢れる。
笑い。
怒鳴り声。
泣き声。
畏れ。
記憶。
同じものは一つもない。
違うまま、すべてが諏訪子へ繋がっている。
右目の黒いものが揺らいだ。
諏訪子の右手の指が、一本だけ曲がる。
「もう少し」
男が綱を引く。
名もなき神は、諏訪子の瞳から流れる黒い糸の奥を見ていた。
タケミナカタ。
八坂刀売。
八坂神奈子。
奪われた三つの神威が、まだ玩具のように揺らされている。
諏訪子の左目も、それを見つけた。
「……あんた」
名もなき神へ顔を向ける。
「ずいぶん、みっともない格好だね」
「助けられている最中の神に言われる筋合いはないわ」
「そっちも助けられてたくせに」
「今はあなたの仕事をしなさい」
「だから名 命令しないでよ」
諏訪子の左手が、三つの神威を吊るす黒い糸へ伸びた。
指が届く。
掴む。
「われらの」
ミジャグジの声が響く。
「違う」
諏訪子が糸を引いた。
「それは、この女が拾って、盗って、勝手に名乗って」
「言い方を選びなさい」
「うるさい」
右手が、左手首を掴もうとする。
諏訪子は顔を寄せた。
黒い糸へ歯を立てる。
「でも、今はこいつのだよ」
噛み切った。
黒いものが弾けた。
三つの神威が湿原へ落ちる。
名もなき神の小さな風が走った。
すべてを受け止める力はない。
それでも、最も小さな光へ先に届く。
八坂神奈子。
男が知っていた名。
この土地の人々が呼んでいた名。
名を失ってなお、男がその人自身へ祈ったあとで、改めて選べる名。
名もなき神は、震える手で光を掴んだ。
胸へ引き寄せる。
光が沈む。
弱かった風が、一度だけ大きく膨らんだ。
神奈子の髪が持ち上がる。
衣が鳴る。
人々の黒い綱が、風に支えられる。
「最初にそれ?」
諏訪子が言う。
「順番くらい、自分で決めるわ」
次に八坂刀売を取る。
水の気配が戻る。
最後に、タケミナカタ。
荒々しい風が、神奈子の背後へ立ち上がる。
神奈子は片手を上げた。
神威を湿原の中央へ向けない。
人々の側へ流す。
黒い綱を握る手。
滑る足。
折れかけた腰。
それぞれを支える。
『イワネ。杖を立てて』
『ナギ。二人分の綱を肩へ』
『トヨ。右の杭へ縄を掛けて』
『アラタ、カヤ。今度は二人で引いて』
一人ずつ。
名前を呼び。
役割を渡す。
神奈子の風が、人々の声を混ぜずに運ぶ。
全員が、一柱の命令で同じ動きをするのではない。
違う場所で。
違う力で。
自分が担えるところを支える。
諏訪子の右目が開いた。
黒い糸の奥に、二つの瞳が戻る。
「ほんと」
諏訪子が両手で、自分の瞳から流れる黒いものを掴んだ。
「人の記憶って、ろくでもないね」
「神の行いが、ろくでもないのでしょう」
神奈子が返す。
「あとで殴るからね」
「予定に入れておくわ」
諏訪子が黒い糸を引く。
人々が外から綱を引く。
身体を覆っていた黒い神威が、濡れた皮のように浮き上がった。
肩から。
背から。
腕から。
黒いものが諏訪子の姿を離れ始める。
「われら」
ミジャグジの声が、最後に大きく鳴った。
山が震える。
湖面が膨れ上がる。
湿原の水が、人々へ壁となって押し寄せる。
『全員、綱を離さない』
神奈子の声が、風で一人ずつへ届く。
『目の前の者を支えて』
風が水の壁を受ける。
止めきれない。
勢いを左右へ分ける。
人々の足元へ水が来る。
膝まで浸かる。
それでも黒い綱を握った。
「われらの、おそれ」
「違う」
諏訪子が答える。
人々の掌にある綱を見る。
「それは、こいつらのだ」
「われらの、きおく」
「それも違う」
黒い綱へ浮かぶ、何十もの景色。
餅。
井戸。
屋根。
泥。
悪夢。
団子。
水路。
「覚えてるのは、こいつらだ」
ミジャグジの声が軋む。
「われら」
「大丈夫。お前も諏訪だよ」
諏訪子は否定しなかった。
黒いものの動きが、一瞬止まる。
「忘れない」
諏訪子の両足が湿原へつく。
今度は、土が人を伏せさせるためではなく、その身体を支えた。
「捨てない」
黒い糸を掴む。
「消せるとも思ってないしね」
人々が、また綱を引く。
「でも、表は人が立つ場所だ」
神奈子の風が、その声を人々へ運ぶ。
男が綱を握り直す。
村長が杖を立てる。
水守が肩を入れる。
老婆が縄を杭へ結ぶ。
若者たちが互いの身体を支える。
諏訪子が右手を地の底へ向けた。
「お前の場所は、もっと奥だよ」
黒いものが、諏訪子の身体から大きく剥がれた。
形はなかった。
縄。
蛇。
根。
濡れた指。
無数の記憶。
どれにも見え、どれでもないもの。
それが湿原の上へ立ち上がる。
人々の黒い綱が、その表面へ食い込んでいる。
「引け!」
村長が叫んだ。
人々が綱を引く。
揃わない力、揃わない声。
それでも、それぞれが自分の畏れを持ったまま引いた。
ミジャグジが地へ沈み始める。
鉄の輪が割れて残った穴。
七日間の雨が染み込んだ深い場所。
諏訪子が右手を向ける。
「戻れ」
言霊は、人へ向かなかった。
地の底へ。
名より古いものへ。
「沈め。沈め。沈め。」
黒いものが軋む。
「伏して、眠りについて。」
黒い綱が一本ずつ緩む。
「みんな、ちゃんと忘れないから。」
黒いものが、湿原の底へ沈んでいく。
表面から、人々へ繋がった綱が一つずつ離れる。
切れるのではない。
人々の手へ戻る。
黒い綱は細くなり、掌の中へ染み込んでいく。
恐れは消えない。
子を失うこと。
水を失うこと。
神を失うこと。
隣人を敵にすること。
それぞれの胸へ戻っていく。
人が抱えられる大きさになって。
最後の黒い糸が、諏訪子の瞳から落ちた。
泥へ触れる。
地の底へ沈む。
音が戻った。
水が湿原へ落ちる音。
葦が擦れる音。
人々の荒い息。
泣き声。
誰かが綱を握っていた手を開く。
何も残っていない。
掌へ、赤い跡だけが刻まれていた。
諏訪子の身体が前へ倒れる。
男が走った。
泥へ足を取られる。
転びかける。
間に合う。
諏訪子の肩を受け止めた。
「遅い」
諏訪子が言った。
「戻ったのか」
「見れば分かるでしょ」
「黒いのが、まだ少し」
「見るな」
「拭いた方が」
「触るな」
男の手が止まる。
諏訪子は、男の腕へ身体を預けたまま神奈子を見る。
神奈子も泥の中に立っている。
名も。
神威も。
風も戻った。
それでも、勝った顔はしていなかった。
「話がある」
諏訪子が言う。
「ええ」
「今すぐ」
「明日にしましょう」
「逃げるの?」
「今のあなたと話せば、また殴り合いになるわ」
「勝てると思ってる?」
「今日の結果を忘れたの?」
「鉄輪は、たまたま相性が悪かっただけ」
「敗者は皆、似たことを言うのよ」
「やっぱり今やろう」
諏訪子が立とうとする。
膝が崩れる。
男の腕へ戻る。
神奈子が片方の眉を上げた。
「まず、自分で立てるようになりなさい」
「明日、絶対に殴る」
「予定へ入れておくわ」
神奈子は、湿原の外を見た。
人々も立っている。
八坂を信じる若者が、洩矢の老人へ肩を貸している。
洩矢の青年が、水守の落とした杖を拾う。
母親が子供の名を呼ぶ。
子供が返事をする。
村長は、一人ずつ顔を見て、名を呼び、返事を確かめていた。
勝鬨は上がらなかった。
どちらの神が勝ったとも、誰も言わなかった。
七日目の終わり。
人々は、隣にいる者の名を呼びながら、湿原を離れていった。
神々の戦は。
人が地へ伏すことをやめた時に、ようやく終わった。