海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
田中義一は、四枚の紙を懐に収め、廊下を進んでいた。真崎はその半歩後ろを歩いた。軍務局長室から大臣室まで、歩数にすれば四十歩ほどの距離だった。だが今日のその四十歩は、これまでのどの遠征よりも長く感じられた。
郷田の姿は、なかった。局に残れと田中が言ったのだと、朝に聞かされていた。
あの日から、二日が過ぎていた。真崎にできることは、何もなかった。
あす、北京で要求が手交される。外務省はすでにその詰めの準備に入っているはずだった。省内だけが、その熱の余韻の中にあった。
約束の期日が、明日に迫っていた。この数字は要求より先に英国の卓へ載る。あの部屋で紙を並べた日、真崎はそう信じていた。だが、まだ載っていない。田中がなぜ時間を置いたのか、真崎には聞けなかった。聞ける立場でもなかった。
大臣室の扉の前で、田中は足を止めた。
「ここからは、わし一人じゃ」
真崎が一歩踏み出しかけた。田中は、振り返りもしなかった。
「大尉が入る部屋じゃない」
その一言で、足が止まった。扉が開き、閉じた。
案内に立っていた副官が、廊下の窓際を指し示した。「そちらで」とだけ言うと、すぐに戻っていった。
廊下は、大臣室の絨毯とは違う、硬い板張りだった。真崎が体重を移すたび、靴の踵が乾いた音を立てた。壁際の暖房が、ときおり小さく蒸気を吐いた。窓は結露で白く曇り、その向こうに、三宅坂の曇天がぼんやりと透けていた。床には、ワックスの匂いが薄く残っていた。
衛兵が一人、扉の脇に立ったまま動かなかった。真崎の方を見ることもなかった。声をかける相手ではない。ただそこにいる、調度のような男だった。
真崎は懐に手をやった。そこにあるのは、護身符だけだった。乃木の遺書は、もう自分のものではない。あの重みが無くなった懐は、思っていたより軽く、そして思っていたより頼りなかった。
宮本の右腕のことを思った。青島で真崎の背中を守った男は、今も恩給の等級が決まらないままだという。
神尾の葉巻の匂いを思い出した。あの人は「私の名は貸す」と言った。その一枚が、あと二枚を呼んだ。
田中の指が、乃木の遺書の上で一拍だけ止まった。二日前の光景が、まだ目に焼き付いていた。
この数日で積み上げてきたものが、今この扉の向こうにある。紙のまま、卓に載っているはずだった。積み上げること自体は、真崎にもできた。だが積んだ紙を動かす力は、この扉より先にしかない。
廊下の奥が、にわかに騒がしくなった。扉が開き、足音が交錯した。断片の声だけが真崎の耳に届いた。
「――あす、総統府で」
「
「第五号も、全部載せる気だ。加藤外相の腹は決まっている」
誰も、真崎には目を向けなかった。
陸軍次官、
どれほど待ったか、真崎自身にも分からなくなった頃、扉が開いた。
田中だった。
「否とは言われんかった」
それが、田中の第一声だった。真崎は、その意味を測りかねた。
「岡閣下は、悪い話ではないと仰った。反対はしておらん」田中は言った。「じゃが、あす、北京で要求が出る。そんな時期に、欧州へ一個師団などと閣議に出せば、列強はどう読む。支那で取って、欧州で貸しを作る国だ、とな」
「――それは」
「山縣閣下が、今月の初めに、小田原でそう仰ったそうじゃ。陸軍省の好きにやらせておけ、と」田中は言った。「今しがた、岡閣下から初めて聞かされた。裏を返せば、陸軍省の中でやれ、ということじゃ。閣議に出た瞬間、これは陸軍省の話では済まんようになる」
真崎は、二日前に聞いた話を思い出していた。田中が「内閣と議会は軍とはまったく別の壁じゃ」と言った、あの言葉。
「では、閣議には」
「出せん」田中は忌々しそうに言った。「一人でも断固と言えば否決じゃ、と岡閣下は仰った。閣議は、全員が頷かんと決まらん。否決の記録が残れば、内閣が割れたことになる。加藤が絶対に反対する以上、出せんのじゃ」
「――反対する者がいれば、まだ」
「反対する者がおれば、まだ喧嘩ができる」田中は、真崎の言葉を遮った。「喧嘩の場にすら立たせてもらえんのが、一番きつい」
「乃木大将の字は」真崎は聞いた。
「見せた」田中は言った。「岡閣下は、長いこと黙っておられた。……黙るだけじゃ。黙っても、判は押せん」
真崎は、田中の懐に目をやった。四枚の紙は、まだそこにあるはずだった。
「あれは」
「まだ預かっとく」田中は言った。「返す時は、陸軍大臣がハンコを押せる時じゃ」
真崎は、頭を下げるしかなかった。
「――お願いします」
田中は、それだけ言うと踵を返した。廊下の奥へ消えていく背中を、真崎はしばらく見送っていた。
完全に、手詰まりだった。加藤高明という壁が崩れない限り、日本陸軍は一歩も海を渡れない。真崎の描いた緻密な絵図は、閣議の分厚い扉の前で、ただの紙屑として散ろうとしていた。
*
同じ日の夜。霞が関の外務省、外務大臣室。
加藤高明は、革張りの椅子に深く腰掛け、手元の訓令書を満足げに眺めていた。
宛先は北京の駐華公使・
第一号から第四号までの中華民国の権益譲渡に加え、第五号――支那政府への日本人顧問の雇用、警察の共同管理、兵器の共同購入という、事実上の保護国化を狙う強烈な条項が含まれていた。
「これで、支那は我が国のものだ」
加藤の唇の端が上がった。陸軍が欧州へ兵を送るなどと騒いでいるらしいが、馬鹿げている。極東の覇権を握るこの歴史的瞬間に、他人の戦争に首を突っ込む必要などないのだ。この二十一箇条の手交をもって、自分は不世出の外交家として歴史に名を残す。
その時、ノックの音が響き、秘書官が慌てた様子で顔を出した。
「大臣。英国のグリーン大使が……予約無しでお見えです。至急、お耳に入れたいことがあると」
加藤は眉をひそめた。こんな夜更けに、しかも明日の手交を控えたこの絶妙な折に。
「通せ。記録係は不要だ」
駐日英国大使、ウィリアム・カニンガム・グリーンが静かに部屋に入ってきた。常に穏やかな英国紳士の笑みを浮かべているが、今夜のその目は、氷のように冷たかった。
「夜分に失礼いたします、閣下。……あす、北京にて要求を提出されると伺いましてね。手遅れになる前に、ご忠告に参りました」
グリーンの日本語を解さぬ英語は、完璧な発音で加藤の鼓膜を打った。
「――ご忠告、とは」加藤は余裕の笑みを崩さなかった。
「妙な噂を耳にしております」グリーンは、手元のステッキを床に突いた。「政治、財政、軍事顧問として日本人を雇用させる。必要地方の警察を日中合同とする。兵器の共同購買……『第五号』という名だとか。支那の内政に、いささか踏み込みすぎた条項ですね」
加藤の指先が、卓の下でわずかに動いた。加藤は足が震え始めるのを感じて力を込めた。噂にしては、条文の順序も内容も正確すぎた。
(――な、なぜ......イギリスに漏れている.....)
「……それは、単なる希望条項という体裁に過ぎません。正式な要求には、含まれておりませんよ」
「ええ、含まれていないはずでした」グリーンは微笑んだ。「ですが、我々大英帝国は、貴国があす突きつけようとしているその『起案書』を、すでに一言一句違わず把握しております」
加藤の顔から、さっと血の気が引いた。
「もし明日、この『第五号』がそのまま提出されれば……」グリーンの声が一段低くなった。「大英帝国は、貴国が支那の主権を著しく侵害したとみなし、これを全世界に向けて暴露します。宣戦布告の折、閣下は私に『日本は一切の領土的野心を有さない』と仰った。あの言葉への裏切りとして、日英同盟は根底から覆ることになるでしょう」
加藤は、息を呑んだ。額に、じわりと冷や汗がにじんだ。
「……大使。それは、脅迫ですか」
「友邦としての、率直な意見交換です」グリーンは冷徹に言い放った。「第五号を、貴国ご自身のご判断で今すぐお取り下げになること。我が国が求めたのではない。貴国がご自身でお決めになった。その形が、双方にとって最も具合がよろしい」
加藤の頭の中で、計算が激しく回った。ここで英国に背を向ければ、日本は国際社会から完全に孤立する。だが、直前で第五号を取り下げれば、自らの外交的敗北を認めることになる。完璧に組み上げたはずの外交の城が、足元から音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「もう一つ」グリーンは、とどめを刺すように続けた。「十一月に、我が国は十五個師団を求め、閣下にお断りいただいた。……あれは、我々の甘えでした。過大だったのです」
「――では」加藤の声は、かすれていた。
「一個師団で、いかがでしょう」グリーンは加藤を真っ直ぐに見据えた。「もし貴国が地中海へ一個師団を派遣してくださるなら……我々は第五号の幻など何も見なかったことにし、貴国の『
加藤は、グリーンの顔を見た。
完全に、出し抜かれた。
満蒙の権益確保と、一個師団の派兵。それは陸軍が水面下で進めていた筋書きそのものではないか。なぜ英国が、その交換条件を突きつけてくるのか。誰かが、英国に情報を流し、
「……記録には、残しませんか」加藤は、絞り出すように言った。
「ええ。記録に残らぬものは、証拠にもなりません」グリーンは深く一礼した。
扉が閉まると、部屋には加藤ひとりが残された。
屈辱と焦燥で、加藤の手は微かに震えていた。誰が漏らしたのか。支那か、それとも――自国の軍部か。どちらにせよ、英国を敵に回すことはできない。
加藤は、万年筆を乱暴に掴んだ。
そして、北京の日置公使宛ての暗号電報の用紙に、ペン先を叩きつけるように書き殴った。
『第五号ハ直チニ削除セヨ。第一号カラ第四号マデノ十四箇条トシテ、手交セヨ』
不世出の外交家となるはずだった彼のプライドは、このたった一行の電報とともに、跡形もなく砕け散った。
*
その日の深夜、加藤は小田原へ呼び出された。
古稀庵の庭は、東京よりも冷えていた。松の枝に、霜が張りついている。手入れの行き届いたその庭を、山縣は政治より長く愛していると言われていた。案内を待つまでもなかった。山縣は円卓の奥、いつもの椅子に座っていた。かたわらに、神林毅一郎が控えていた。円卓の灯りの外にいた。表情は、見えなかった。
加藤は一礼した。屈辱にまみれた顔を、上げる気になれなかった。
「……閣下。申し訳ございません。要求より、第五号を外しました」
山縣は顔を上げなかった。庭を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「なぜ、英国に漏れた」
加藤は、言葉に詰まった。グリーンとの会談、第5号の破棄と引き換えに迫られた「一個師団」の詳細について、順を追って説明し始めた。話しながら、加藤はひどい惨めさを味わっていた。
「――閣下は、既にご存じでしたか」
山縣は答えなかった。かたわらにいた神林毅一郎も、何も言わなかった。
「して」山縣は言った。「向こうの要求は」
「一個師団です。欧州への派遣を……彼らは求めてきました」
山縣は、庭の松に目をやったまま、動かなかった。松の枝から、霜が一片、音もなく落ちた。
「――一個師団か」
山縣の唇の端が、暗がりの中でわずかに吊り上がった。
「運がよかった」
それだけだった。怒りは、そこにはなかった。むしろ、すべての盤面が自分の思い通りに動いたことを喜ぶ、
山縣は、湯呑みを引き寄せた。
「わしが
唐突な言葉に、加藤は怪訝な顔を作った。山縣は窓の外を見上げた。
「あの男は常に、我々には見えん遠くの水平線を見ておった。今日のこの都合の良い風向き……ただの偶然と片付けるには......。どうも、あの男のやり口を感じるのだ。奴がまだ生きて、盤面の外からこの帝国の舵を握ろうとしておるのではないか、とな」
半世紀前に病没したはずの革命児の名。到底理解できない妄言だったが、加藤は沈黙する山縣の横顔に、亡霊の存在を確信させるだけの生々しい緊迫感を見た。
「今のは気にせんでよい」山縣は、庭に目を戻した。「もう下がってよい」
加藤は一礼し、部屋を出た。自分は外交の主役などではなかった。この老いぼれた元老たちと、姿の見えない誰かの手の上で踊らされていたに過ぎないのだ。
振り返ると、老人はまだ庭を見ていた。
庭に、風はなかった。
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