海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
軍務局長室外の窓際に、真崎は立っていた。
手にしているのは、宮本の陳情書である。もう三度読み返した。恩給の等級はまだ決まらず、書類は行き場のないまま真崎の机に留め置かれている。
部屋の奥、書きかけの起案書を三段に積んだ机の向こうで、田中が万年筆を走らせていた。紙の隙間に、湯呑みが一つ据わっている。局長室にいるのは、その二人だけだった。
田中に「大人しゅうしとけ」と言われてから、日が変わっていた。
何をもって「しばらく」とするのか、見当はつかなかった。
懐には、護身符だけがあった。乃木の遺書の重みは、まだ戻ってこない。
壁際の暖房が、ときおり小さく蒸気を吐いた。窓は結露で白く曇り、その向こうに、三宅坂の曇天がぼんやりと透けている。
廊下の奥から郷田中佐が早歩きで迫ってきた。何か書類を持っている。
郷田扉は、真崎には目もくれず、局長室にノックもなしに入っていた。封の切り口が、几帳面な性分に似合わず斜めに裂けていた。急いで開けた跡だった。
「田中閣下」
田中は万年筆を置き、湯呑みを脇へ寄せた。「なんじゃ」
「霞が関から、これが」郷田は紙を机に置いた。「内密にとの断り書き付きです。……いや、懇願と言うべきかもしれません」
田中は、それを取り上げて読んだ。目の動きが、途中で止まった。そして、ふっと鼻で笑った。
「――外務省からか」
「はい」郷田は頷いた。「イギリス大使より、欧州戦線への『一個師団』派遣の正式な要請があったとのこと。外務省としては、外交上、是が非でもこの要請に応じたい。ついては陸軍省に至急、派兵の検討と準備をお願いしたい……そういう照会です。あの傲慢な加藤外相からの、事実上の白旗です」
真崎は、陳情書を読む手を止めた。窓際から、机の上の一枚へ目を落とす。
絶対の壁だったはずの内閣が、自ら扉を開けて頭を下げてきたのだ。
「この数字を知る者が」郷田は続けた。「この部屋の外におります。閣下」
そそくさと局長室から出て行き、郷田は、窓際の真崎に向き直った。
「真崎、ちょっと中に入れ」その目は、問い詰めるというより、暗がりの底を覗き込むような色を帯びていた。
「真崎。貴様、裏で何を動かした」郷田の声が、微かに震えていた。「外相が提出の直前に第五号を引っ込めた。間髪入れずに、イギリスから一個師団の要請が来た。……順番が良すぎる」
真崎は、目を逸らさなかった。
答えられなかったのは、隠していたからではない。自分の描いた絵図が、いつの間にか、はるかに巨大で容赦ない慣性力になっていたからだった。ロンドンの秋月。上海の老人。そして、名も知らぬ誰か。同じ側にいるはずの手が、自分の頭越しに盤を組み替え、もう誰にも止められない慣性で回りはじめている。
その感触に、真崎自身が追いついていなかった。言葉にできるものが、何もなかった。
「都合がいいなんてもんじゃない」郷田は口の端を歪めた。「誰かが、国家の外交ごと、丸ごとひっくり返した」
「郷田中佐。私は、目の前にある仕事をこなしていっただけです」
「そうだろうな」郷田は言った。「貴様はいつも、仕事を淡々としているだけだ。それでいて、最後はなぜか貴様の読み通りに世の中が動く」
郷田は、そこで口を閉じた。
覗こうとした穴の底が、己の想像を絶する深さだと悟った顔だった。これ以上踏み込めば、自分も呑まれる。老練な軍人の直感が、そう告げていた。
田中は、湯呑みの縁を指先でなぞっていた。しばらく、誰も口を開かなかった。
「郷田」田中が、ようやく言った。「お前の言うことは、正しい」
郷田は、口を閉じたままだった。だが目までは伏せなかった。
「一個師団も、三十六隻も、この部屋で拵えた数字じゃ」田中は続けた。「お前も、ソロバンを弾いた側やろう」
郷田は、それには答えなかった。答えないことが、答えだった。
「じゃがな」田中は続けた。「余計なことを今言うと、この話は死ぬ」
田中は、照会の紙を持ち上げた。
「加藤が折れた。これで、陸軍省の一存ではのうなった。外務省からの要請として、正々堂々と閣議に出せる。これ以上の大義名分はない。……大義なんてものは、いつだって血生臭いもんじゃ」
田中は、万年筆を取った。
「外務省への返答は、こう書け。イギリスおよび外務省からの正式な要請であるならば、陸軍省として直ちに検討に入る。それだけじゃ」
「陸軍省として、ですか」郷田が言った。「大臣のお名前で、よろしいのですか」
「大臣には、わしから話す。今日中じゃ」田中は言った。「岡閣下は、もともと欧州派兵に乗り気じゃった。確認すれば、証跡になる。否定すれば、嘘になる。どっちも要らん」
郷田は、それ以上何も言わなかった。紙を受け取り、一礼して、逃げるように部屋を出て行った。真崎の背後にある闇を、もう覗こうとはしなかった。
田中は、真崎を見た。
「真崎」
「はい」
「お前は、まだ動くな」田中は言った。「今度こそ、本当に何もするな。よいな」
真崎は、頭を下げた。答えは、持っていなかった。
*
同日。はるか南の地、上海の仏租界。
「――外相が第五号を削除し、直後にイギリス大使から一個師団の派兵要請が為された、とのことです」黒石が、低い声で読み上げた。「霞が関も三宅坂も、完全にひっくり返りました。すべて、旦那の思惑通りです」
ソファに深く腰掛けていた高杉が、微かに喉を鳴らした。
「ロンドンの秋月も、帝都の柏木も、よく働いた」高杉は、煙管を灰皿に軽く叩きつけた。「真崎の引いた不格好な絵図も、使い道次第で極上の爆薬になるというわけじゃ」
「ようやっと……」高杉は、窓の外の淀んだ空を見上げた。「ようやっと、盤面を整えることができたようじゃな」
その目に、勝ち誇るような色はなかった。長く病んだ体で、一つずつ石を積んできた男の顔だった。積み上げたものが崩れる前に、次を積まねばならない。それだけを考えている顔だった。
「これから、いかがなされますか」
「まだじゃ」高杉は煙管に新たな葉を詰めた。「加藤が納得したところで、まだ終わらん。本番は、船が海に出た後よ。……欧州の海は、深いぞ」
高杉の口角が、不敵に吊り上がった。上海の路地裏から吹き込む生暖かい風が、男の白髪を揺らしていた。
*
同じ屋根の下、一階の配膳室では、郵便の仕分けが終わりかけていた。
東京からの船便が、午後に届いたばかりだった。アゥロラは卓の上に封筒を並べ、行き先ごとに三つの束に分けていく。上海に留め置くもの。北京へ回すもの。そして、満州へ転送するもの。
三つ目の束は、いつも薄い。今日は、一通だけだった。
「ディアナ」アゥロラは、その一通を指でつまんで持ち上げた。「これ、ユウキ様から」
「見れば分かります」
ディアナは振り返らなかった。棚の白布を、角を揃えて重ねている。
「宛名、愛玲さんだよ」
「知っています」
「ご自分で書いてる。代筆じゃなくて」アゥロラは封筒を灯りにかざした。「ねえ、これ、恋文かな」
白布を重ねる手が、止まった。
「私信を、詮索するものではありません」
「詮索してないよ。見てるだけ」アゥロラは頬を膨らませ、それからにやりとした。「だってあの二人、いい感じだったでしょう。ユウキ様がここにいた頃。愛玲さん、ユウキ様の話をする時だけ、声が半音上がるもの」
「……半音」
「半音」アゥロラは頷いた。「私、拳の構えを教えてもらった時に気づいたの。肘が外に開いてるって叱られてる最中に、ユウキ様が入ってきて。そうしたら急に、優しくなった」
ディアナは答えなかった。だが白布を重ねる手が、また動きはじめた時、その速さが少し変わっていた。
「……早く着くとよいですね」
ディアナは、それだけ言った。アゥロラの手から封筒を受け取ると、転送先の宛名を、自分の字で丁寧に書き添えた。急ぎでもないのに、一画ずつ、時間をかけて書いた。
顔を見た瞬間に断られ続けた二人が、今は、人の私信を預かる手をしている。
アゥロラは、その手元を黙って見ていた。それから、思い出したように付け足した。
「返事、来るかなあ」
「来ます」ディアナは筆を置いた。「あの方は、そういう方です」
配膳室の窓の外も、やはり星はなかった。だが灯りの中の卓の上だけは、少し暖かかった。
今回、真崎の机に残っていた陳情書について、少しだけ解説を。
当時、傷病により退役した軍人への給付は、階級と在職年数、そして傷病の等級によって額が決まりました。等級の判定は書類の上で行われ、その傷が公務によるものと認められるかどうかで、その後の暮らしが変わります。判定が下りるまでに長く待たされることも珍しくなく、その間、本人と家族には収入がありません。戦が終わったあとも、書類の上では戦が続いている。真崎の机にいつまでも留め置かれた一枚は、そういう時間の重さを表しています。
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