海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
朱肉の蓋が開く音を、真崎はその日、何度聞いたか分からなかった。
軍務局の一室である。卓の上に、田中が起案させた書類が積み上げられていた。
真崎はその末尾に、数字を書き入れる係だった。輸送船三十六隻。傭船の期間。積載の内訳。
田中が万年筆を置いた。それから、卓の隅の印を取り上げた。
「見とけ」田中は言った。「判というのはな、止まる時は一年止まる」
朱の角印が、紙に落ちた。乾いた音がした。
「走る時は、三日で走る」
*
書類は、その日のうちに次官室へ上がった。
真崎は廊下で待った。二日前、大臣室の前で立たされたのと同じ廊下だった。板張りの床も、蒸気を吐く暖房も、結露で白く曇った窓も、何ひとつ変わっていない。変わったのは、扉の開く速さだけだった。
欄が二つ、並んでいた。左に「軍務局長 田中義一」、右に「陸軍次官 大島健一」。朱の角印が二つ、肩を寄せるように並んでいる。
「三十六隻という数字は、貴官が出したものか」
「――はい」
三十六隻は、もとは郷田が弾いた数だった。真崎はそれを言わなかった。余計な情報だ。言えば、この場で紙が止まる。
「青島の実績から検算したと聞いた」大島は書類を脇に抱え直した。それから、初めて真崎の顔を見た。「貴官が、真崎勇気大尉か」
「はっ」
「上申書は読んだ。上海から、神林中将を通じて上がってきたものだ」大島は言った。
「白状するとな。あれを最初に読んだ時、私の頭の中には、欧州へ兵を出すという絵は、これっぽっちも無かった。無いところへ、いきなり打ち込まれた。……しびれたよ」
「――至極、恐縮です」
大島は、書類の角を指で揃えた。
「岡閣下にもお伝えした。閣下も、悪くないと仰った」大島は言った。「だが大臣という椅子はな、思うより重い。あの時は、そこから一寸も動かせんかった」
廊下の窓が、風で微かに鳴った。
「それが、今日はどうだ」大島は、脇に抱えた書類を軽く持ち上げてみせた。「外務省の方から、頭を下げて回ってきおった」
「自分の力では、ありません」
「そうだろうな。だが、置いた者がおらねば、動きようもない」大島は歩き出した。「大臣室へ上げる。……貴官は、副官室で待て」
真崎は敬礼した。一拍、遅れた。
大尉が立ち入れる部屋ではない。それは二日前に教えられたばかりだった。だが廊下から副官室へ、一歩だけ、近づいたことにはなる。
*
副官室の壁は薄かった。
廊下を、聞き覚えのある足音が一つ通り過ぎた。田中である。大臣室の扉が開いて、閉じた。
言葉までは聞き取れなかった。低い声が二つ、間を置いて交互に鳴り、それから長い沈黙が来た。真崎は椅子に浅く腰かけたまま、その沈黙の長さを測っていた。
やがて、乾いた音がした。
真崎はそれが何の音か、聞き分けられるようになっていた。朱が落ちる音である。三つ目だった。
扉が開き、田中が出てきた。書類を小脇に抱えている。
「陸軍大臣の判じゃ」田中は言った。「岡閣下は、冒頭の一枚と、末尾の数字しか見んかった」
「――それで、よろしいのですか」
「よい。あの御方は、読まんことで責を負う型じゃ」田中は歩きながら言った。「じゃがな、一つだけ聞かれた。外務省からの照会は本物か、と」
真崎は、田中の横顔を見た。
「本物です、と答えた」田中は言った。「イギリス大使より正式な要請があった。加藤外相の名で回ってきておる、とな。……岡閣下は、そこで妙な顔をなさった」
二日前、この同じ廊下で、田中は「加藤が絶対に反対する以上、出せんのじゃ」と言った。その加藤の名が、今日は書類を通す鍵になっている。
「陸軍が言い出した話なら、外務省が反対する。閣議は一人でも反対すれば決まらん」田中は、岡の言葉をそのまま写すように言った。「じゃが今度は、その外務省が言い出した話じゃ。潰すには、外務省が自分で自分の案を引っ込めるしかない。……そんな真似ができる大臣は、おらんよ、とな」
田中はそこで足を止め、書類を持ち替えた。その拍子に、空いた手が一瞬、自分の懐に触れた。触れて、すぐに離れた。
真崎は、その指の動きを見ていた。
あの懐には、四枚の紙がある。神尾の推薦文。ロンドンからの電報。海軍の正式回答。そして、乃木の遺書。
返す時は、陸軍大臣がハンコを押せる時じゃ。二日前、この人はそう言った。
判は、今しがた押された。
田中は何も言わなかった。歩き出す背中に、真崎も何も言えなかった。
*
参謀本部は、隣の建物にある。渡り廊下はない。三宅坂を吹き抜ける風を一度浴びて、次の建物に入る。
動員に関わる書類は、こちらの領分だった。軍政と軍令は、同じ坂の上にありながら、別の系統である。動員計画に、参謀総長・
軍の側で押せる判は、これで出揃った。あとは閣議を待つほかない。紙は、最後の一段だけ手前で止まっていた。
真崎は、その紙を見ていた。
三宅坂の地下書庫で、
あれから、まだ一年しか経っていない。一年で、こんなところまで来た。
*
だが、走る紙は、金庫番の前で止まった。
「無い袖は振れん」
大蔵大臣・
「今年度の予算に、地中海行きの船賃の欄はございません」若槻は言った。「予備金は、去年の雪害と、鉄道の穴で、もう底が見えております」
「臨時の軍事費として――」
「では、四月からのことを申し上げましょう」若槻は遮った。「議会は解散しております。昨年の暮れに、二個師団増設で衆議院を飛ばしました。総選挙は三月。次の議会は、早くて五月です」
紙をめくる音がした。
「新しい年度の予算は、審議もされずに流れました」若槻は続けた。「四月からは、憲法七十一条により、政府は前年度の予算をそのまま施行することになります。今年度の予算を、そのまま来年度も使うのです」
答える声は、なかった。
「当然、そこにも欄はありません」若槻は言った。「船が出るのは二月か三月でしょう。跨ぐのですよ、閣下。無い欄から、無い欄へ」
田中が何か言いかけた。若槻が遮った。
「鉄道の改良費を、二千九百万から千三十万まで削りました。私が、この手で削ったのです」若槻の声は、荒くならなかった。荒くならないぶん、重かった。「東北の村々からは、線路はまだかと陳情が来ております。一昨年の凶作で、娘を売った家のある土地です。それを断っておいて、地中海へ船を出す金なら有ります、とは言えません」
真崎は、襖のこちら側で、拳を握った。反論を、一つも思いつかなかった。この人の言っていることは、正しい。
部屋の中で、誰も口を開かなかった。時計の音だけがした。
「――他に、道はございませんか」
岡の声だった。若槻は答えなかった。椅子を引く音がして、それから、障子を開ける音がした。庭を見ているのだろう、と真崎は思った。
返事は、その日のうちには出なかった。
判は三日で走ると田中は言った。だが金庫番の前でだけ、紙は走らなかった。
*
翌日、同じ部屋である。若槻は、来た時から一冊の本を手にしていた。
沈黙を破ったのは、若槻自身だった。
「昨夜、調べ直しました」若槻は言った。「先に申し上げておきます。私は、この話に賛成しておりません。今も同じです」
「では、なぜ」
「賛成せぬことと、道を隠すことは、別だからです」
若槻は、その本を卓に置いた。
「金を出さぬために法を伏せた大蔵大臣がおった、と後の世に書かれるのは、私の恥です。……もっとも、法はあります」
紙を置く音がした。若槻の声が、
「――公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ
真崎は、頭の中でそれを砕いた。急ぎの金が要る。だが議会が開けない。その時は、勅令で出せ。
「憲法七十条」若槻は言った。「議会が無いから、金が出せん。その議会が無いからこそ、議会を通さずに出せる。……よくできた条文です」
その声には、法を見つけた者の喜びが、微塵もなかった。
「ただし、条件が二つ」若槻は続けた。「一つ。枢密院の
「二つ目は」岡が聞いた。
「次の会期に、議会へ出して承諾を求めねばなりません」
襖の向こうで、誰かが息を吐いた。
「三月に総選挙。五月に議会」若槻は言った。「そこで承諾が得られなんだら、内閣は保ちません。総辞職です。……そして地中海の一個師団は、金の裏づけを失う」
真崎は、その意味を、遅れて理解した。
船は出る。だが、出た後で内閣が倒れれば、その船に積まれた兵の、次の飯と次の弾を払う根拠が消える。
「片道の切符ということですな」岡が言った。
「左様」若槻は答えた。「私は、その切符を切る大蔵大臣になりましょう」
*
閣議は、三日目の午後だった。
卓を囲んだ顔ぶれの中で、最も長く喋ったのは加藤高明だった。英国大使からの要請の経緯。日英同盟の信義。要請に応じなかった場合に、極東で日本が置かれる位置。
「同盟というものは」加藤は言った。「応じるべき時に応じてこそ、同盟であります」
言い切った声に、熱があった。数日前まで、この男は陸軍の欧州派兵を鼻で笑っていたはずだった。誰も、その理由を問わなかった。
閣議書に、全閣僚の署名と捺印が揃った。
そして、陸軍大臣と参謀総長が、上奏する書類に連署した。二つの最高決裁印が、一枚の紙の上で並んだ。
*
「あの男が、あそこまで肩入れするとはのう」
軍務局に戻った田中は、湯呑みを引き寄せてそう言った。真崎は、それに答えなかった。答えられる材料を、何も持っていなかった。
郷田が、湯呑みを取りに立った。何も言わなかった。真崎の絵に、まだ穴は見つかっていないという顔だった。
「――ようやく」真崎は言った。喉が、少し詰まった。
「早いのう」田中は湯呑みに口をつけた。「まだ、門が一つ残っとる」
「枢密院、ですか」
「そうじゃ」
田中は湯呑みを置いた。
「枢密院の議長が誰か知っとるか」
真崎は思い出そうと考えた。
「――それは……」
「山縣有朋閣下じゃ」
真崎の背が、わずかに伸びた。山縣有朋は、この派兵を裁可した側のはずである。今月の初め、小田原で「陸軍省の好きにやらせておけ」と言ったと、田中自身がそう言っていた。
「では、話は早いのでは」
「早い」田中は言った。「早いが、ただではない」
湯呑みの縁を、指先が一度なぞった。
「あの御方はな。通す時に、必ず値をつけなさる」
*
同じ頃、赤坂の神林邸では、
卓の上には、封の切られた紙が扇のように広げられている。差出人はまちまちだった。学習院の同窓、士官学校の教官の細君、参謀本部の若手の恋人。どれも冴子が茶や芝居に誘い、何気ない世間話の合間に、一つだけ質問を混ぜてきた相手である。
問いは、いつも同じだった。真崎勇気という大尉を、ご存じ?
宮之下の廊下で、あの人に見抜かれてから、半月が過ぎていた。壁に手をついていただけの自分を一目見て、暖房機に押しつけられたと言い当てた男だった。
人を扱い慣れた口の利き方ではなかった、と冴子は思う。加減の仕方が、下手だった。
だから今さら、あの人がどういう男かを知るために手紙を出したのではない。世間があの人をどう見ているかを、確かめるために出した。
返事は、驚くほど揃っていた。
上海帰りの、危うい将校。上官に楯突いて左遷された男。
冴子は、その一行の上で指を止めた。
――そこまで書けとは、言っていない。
もう一つ、引っかかるものがあった。半年ほど前、軍務局の会議で上役に食ってかかり、「組織を壊す毒」と断じられた。三通のうち二通が、同じ言葉を使っていた。一字も違わずに。
冴子は、その六文字をしばらく見ていた。
あれは、あの部屋にいた者しか知らない言葉のはずだった。声に出されたという話も聞かない。それがなぜ、学習院の茶飲み話にまで下りてきているのか。
悪評というものは、放っておいても育つ。だが、ここまで揃った形には育たない。種を蒔いた者は、水をやりすぎたのだ。
冴子は手紙を揃え、封筒に戻した。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
女中の声に、冴子は表情を作り替えた。作り替える、という自覚があった。
*
神林毅一郎は、書斎の窓を背にして座っていた。逆光で、表情が見えない。
「真崎からの返事が、まだ来ん」
「あら」冴子は椅子に浅く腰かけた。「振られておしまいになるかもしれませんわね」
「そういう男ではない」
「では、よほどお忙しいのでしょう。中将のご令嬢を、半月も待たせておいて」
毅一郎は、それには答えなかった。指先で机の縁を一度なぞった。
「柏木に、繋げと言うてある」
「まあ。柏木さんに」冴子は扇を開いた。開いて、閉じた。父に、その話を盗み聞きしていたことは言わない。「わたくし、あの方には何も伺いませんことよ。伺えば、伺ったことがそのまま先方へ伝わりますもの」
毅一郎の指が、机の縁で止まった。
「――お前は、あの男をどう見る」
「悪い噂ばかりですわ」冴子は言った。「あんな殿方と一緒になったら、わたくし、明日から社交界を歩けませんことよ」
「そうか」
毅一郎は、それ以上聞かなかった。冴子も、それ以上言わなかった。
「お父様は、あの方をどこまでご存じですの」
「宮之下で、お前を助けた男だ」毅一郎は言った。「それだけだ」
嘘だ、と冴子は思った。
嘘の中身ではない。父が言ったことは、全部本当である。だが父は、知っている事実だけを並べて、知っている理由を伏せた。この人がその喋り方をする時、伏せられているものの方が、いつも大きい。
「……あれは、当分、忙しくなる」毅一郎は、独り言のように付け足した。「会える時に、会っておけ」
冴子は立ち上がり、頭を下げた。廊下へ出て、扉を閉めてから、一度だけ息を吐いた。
当分、忙しくなる。父はそう言った。
あの人が忙しくなるということは、何かが、動き出したということだ。冴子は懐に手を当てた。今日も何も持っていない。手ぶらの懐は、いつまで経っても落ち着かなかった。
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