海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
窓の少ない部屋だった。
枢密院の審査委員会である。本会議のような広さはない。長卓が一つ、その両側に椅子が並んでいるだけだった。冬の午後の光が、卓の端をわずかに照らしている。
一方に、枢密顧問官が数名。白髪と勲章の列だった。
もう一方に、大隈、若槻、加藤、岡。答える側の椅子である。
上座に、山縣有朋が座っていた。七十七歳の老人は、背筋だけを伸ばして、何も言わずにいた。
最初に口を開いたのは、
「憲法第七十条。公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ
伊東は、そこで顔を上げた。
「大蔵大臣に伺いたい。地中海へ一個師団を送ることが、いかにして我が国の公共の安全を保持することになるのか。……本土は攻められておらん。敵の兵は、我が国の海岸に一人も上がっておらん」
若槻は立ち上がった。答えるまでに、一拍あった。
「同盟国たるイギリスからの、正式な要請でございます」
「要請と、緊急の需用は違う」伊東は言った。「日英同盟のどこに、欧州へ兵を出す義務が書いてありますか。……書いてありませんな。昨年、我が国がドイツへ宣戦した折、我々が負うたのは東洋における義務のみであった。私は、その条文を読んでおります」
若槻は、答えなかった。答えられなかったのではない。答えが無いことを、この男は昨夜から知っていた。
加藤高明が引き取った。
「顧問官閣下。この戦が終わった後、講和の卓に日本の椅子が幾つ用意されるか。それは、今どれだけ血を流したかで決まります」
「なるほど」伊東は頷いた。「では伺うが、それは『公共ノ安全』ですかな。それとも『公共ノ利益』ですかな」
部屋の空気が、動かなくなった。
「条文は、利益とは書いておらん。安全と書いてある」伊東は続けた。「言葉を選んで書いたのです。その条文を起草する現場にいましたもので」
誰も、返せなかった。
山縣は、目を細めたまま動かなかった。手も、口も。ただ、そこに座っていた。
岡陸軍大臣が、一度だけ議長席の方を見た。山縣は、その視線に応じなかった。
審査は、その日は終わらなかった。
*
その夜、田中が軍務局長室へ真崎を呼んだ。
湯呑みは、卓の隅に置かれたままだった。手をつけた跡がない。
「値がついた」田中は言った。
「――枢密院、ですか」
「山縣閣下じゃ」
田中は、懐から四枚の紙を出した。卓の上に、並べはしなかった。ただ、束のまま置いた。
「乃木大将の字を、寄越せと仰せじゃ」
真崎は、その束を見た。何も言えなかった。
「わしが持って行くと申し上げた」田中は続けた。「断られた。……あの紙を見つけた大尉を連れて参れ、とな」
田中は、初めて真崎の顔を見た。
「お前の名を、閣下はご存じじゃった。階級も、原籍も。こちらが言うより先に、そちらから出てきた」
窓の外で、風が鳴っていた。
「小田原じゃ。今夜のうちに発つ」
*
案内は要らなかった。円卓の奥、いつもの椅子に、老人は座っていた。
かたわらに、
真崎は敬礼した。大尉が、この部屋に立っている。五日前、大臣室の扉の前で「大尉が入る部屋じゃない」と言われた男が、今、帝国で最も高い場所にいる老人の正面にいた。
灯りの外の肩の線に、見覚えがあった。半年前、上座から自分を「組織を壊す毒」と定め、翌日には上海への辞令を出した男である。目は、合わなかった。合わせる気もないらしかった。
山縣は、庭を見ていた。しばらく、何も言わなかった。
「持って参ったか」
真崎は、防水布の包みを解いた。四つ折りの和紙を、卓の上に置いた。角は擦り切れている。地下書庫で剥がした夜から、一年、この紙は幾つもの懐を渡ってきた。
山縣は、手を伸ばさなかった。
「読まんのですか」
真崎の口から、その一言が先に出た。
老人は、初めて真崎を見た。
「読んだ」
長い間があった。
「三年前にな」
真崎の背中を、冷たいものが走った。
「……乃木大将は」
「同じ文を、陸軍省へ出しておる」山縣は言った。「私信ではない。正式の上申書としてじゃ。書式も、判も、整うておった」
地下書庫で、和紙の冒頭を見た時のことが、真崎の頭に戻ってきた。あれは私信ではない、と自分は思った。受理されていれば、原本が公文書棚に残っているはずだ、とも思った。
その棚に手の届く階級では、なかった。だから握り潰されたのだと、そう考えて、そこで止まっていた。誰が握り潰したのかは、考えなかった。考えても、届く相手ではなかったからだ。
「乃木の字は、陸軍を叩き直せと言うておる」
老人は、庭を見たまま続けた。
「あの軍を作ったのは、ワシじゃ。徴兵の令も、参謀本部も、白兵を尊ぶ気風もな。……つまり、あれを書かせたのは、ワシということじゃ」
真崎は、息を止めた。
「そして」山縣は言った。「棚の奥へやったのも、ワシじゃ」
それだけだった。弁明も、前置きもなかった。
真崎は、動けなかった。
「――なぜ、で」
言いかけて、止めた。だが老人は、問われたものとして答えた。
「大正元年の秋じゃ。あの男が腹を切って、まだ十日と経っておらんかった」山縣は庭に目を戻した。「新聞は軍神と書いた。子供までが乃木大将と唱えた。街の者は、みな泣いておったわ」
松の枝から、霜が一片、音もなく落ちた。
「そこへ、あの字を出せばどうなる。軍神が、陸軍は間違うておると言い残した、とな。……国が揺れる」
「それだけ、ですか」
「それだけではない」
老人は、湯呑みを引き寄せた。手が、少し震えていた。年のせいなのか、そうでないのかは、分からなかった。
「ワシは、あの男ほど好かれたことは、一度もない」
真崎は、返す言葉を持たなかった。それは弁解ではなかった。ただの事実として、この老人は言っていた。
「あの時分は、まだ誰も本気にしておらんかった。機関銃がどうの、火力がどうのとな」山縣は続けた。「ワシも、そう思うた。……そう思うことに、した」
言い直した。真崎は、その一語を聞き逃さなかった。
「じゃが、今は違う」山縣は言った。「
「――ならば、なおのこと」
「正しかったから、なお悪い」
老人の声が、初めてわずかに低くなった。
「間違うておれば、あれはただの世迷い言じゃ。死んだ男の、行き過ぎた自責でよい。……正しければ、あれは告発になる」
山縣は、卓の上の和紙を指した。触れはしなかった。
「陸軍は、三年前に知らされておった。知らされて、棚へやった。その間に死んだ者の数が、そこに乗る」
真崎の頭の中で、一つの問いが立った。
原本は、どこにあるのか。焼いたのか。残っているのか。
問える。この場で問える。老人は嘘をつかないだろう。
だが問えば、この取引は壊れる。壊れれば、判は止まる。三十六隻は港に残る。一個師団は海を渡らない。
その計算が終わるまでに、真崎は三つ数えなかった。
――ここは、黙っておこう。
そう決めた自分の速さに、真崎は一瞬、背筋が寒くなった。地下書庫であの紙を懐に入れた夜、自分は握り潰した誰かに腹を立てていた。今は、その誰かと同じ側に立って、口をつぐむ計算をしている。しかも、迷わずに。
真崎は、和紙を老人の方へ、一寸だけ押し出した。
「――お渡しします」
山縣は、それを受け取った。開かなかった。開かずに、卓の下へ収めた。
「乃木の字は、乃木のものじゃ」老人は言った。「日本のものには、ならん」
真崎には、その意味が分からなかった。分からないまま、記憶した。
辞去する時、灯りの外の男は、まだそこに座っていた。
半年前、この男は自分を毒と呼んだ。今夜は、その毒が運んできた紙を、黙って見届けている。縁談の返事を、まだ書いていない相手の父でもあった。
だがそれも、今夜は数のうちに入らなかった。
神林毅一郎は、最後まで一言も発しなかった。
*
三日後、枢密院本会議。
赤絨毯は、靴音を吸い込んだ。天井は高く、灯りは卓の上にだけ集められている。
正面奥に
議長席の山縣は、審査の日と同じ姿勢で座っていた。
伊東巳代治は、同じ問いを、同じ言葉で繰り返した。条文は利益とは書いていない、安全と書いてある。政府側の説明は、前回から一歩も進んでいなかった。
玉座は、動かなかった。天皇は何も仰せにならない。この部屋では、それが
その時、議長席が動いた。
「伊東君」
山縣の声は、大きくなかった。だが部屋の音が、そこで止まった。
「貴官の申すことは、法として正しい」
顧問官の列に、わずかな動揺が走った。議長が政府案を否定した、と受け取った者がいた。
「じゃが」山縣は続けた。「法は、何のためにある」
答えを待つ気配はなかった。老人は、そのまま口を開いた。
「
誰かが、息を呑んだ。
「
老人は、そこで一拍置いた。
「ワシは、己れに存す、とは思わん。日本に存す、と思うておる」
部屋は、静まったままだった。
「今度の兵は、欧州の同盟国と、数十年の縁を作る。その縁は、出した本人には返らん。死んだ者にも返らん。……日本に存す。それだけじゃ」
伊東は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「――今のお言葉、議長のご発言として、記録に残してもよろしいか」
「残せ」
山縣は、それだけ答えた。
伊東は、着席した。反論はしなかった。だが納得した顔でもなかった。ただ、責を負う者の名が卓上に置かれた以上、法理はもう争点ではなくなった、という顔だった。
採決は、短かった。
*
勅令は、その翌日に出た。
官報に載った文面は、素っ気ないものだった。緊急の需用により、財政上必要の処分を為す。書かれていたのは、それと、金額だけである。
地中海の三文字は、どこにも無かった。
軍務局へ戻った田中は、湯呑みを引き寄せて、しばらく黙っていた。
「これで、船は出る」
「はい」
「じゃがな、真崎」田中は湯呑みを置いた。「三月に総選挙じゃ。五月に議会が開く。そこで承諾が取れなんだら、内閣は倒れる」
真崎は、頷いた。若槻の言った通りだった。
「倒れたら、地中海の兵はどうなります」
「金の裏づけが消える」田中は言った。「船は海の上じゃ。帰れとも言えん。……片道の切符じゃ、と若槻閣下は仰った。あれは、脅しではない」
真崎は、懐に手をやった。
護身符だけがあった。乃木の遺書は、もう戻ってこない。田中の懐にもない。返す時は陸軍大臣がハンコを押せる時じゃ、と言われたその期日に、判は確かに押された。そして紙は、真崎の手を離れて、小田原の棚の奥へ移っただけだった。
約束は、破られていない。
軍務局から大臣室へ。参謀本部へ。閣議へ。枢密院へ。玉座の前へ。
この十日で、幾つの判を見たか、真崎はもう数えられなかった。その最後の一つが押された時、卓の上に残ったのは、行き先の書かれていない金額と、空になった自分の懐だけだった。
*
同じ頃、ウラジオストク。
港は凍っていた。それでも荷は動いていた。連合国向けの弾薬箱と、行き先の書かれていない木箱が、埠頭に山と積まれている。荷役の男たちの吐く息が、白く固まって流れていった。
日本人町の外れ、看板のない二階の一室に、
卓に、茶が二つ。客のぶんまで頼んである。相手は、まだ来ていない。
やがて扉が開き、外套の襟を立てた男が入ってきた。シベリア鉄道の車掌をしている男だった。
「モスクワから、面白いものは」
「ありましたとも」男は椅子を引いた。「大使館の人事です。東京の」
咲夜は、茶を持たなかった。
「書記官が一人、呼び戻されるそうで。青島の件で、随分と嫌われたとか」
「お名前は」
「ヴォルコフ」
咲夜は、指を三本立てた。
男は少し考えて、頷いた。咲夜は袂から封筒を出し、卓の上を滑らせた。男はそれを内隠しに収め、代わりに薄い紙の束を置いていった。
男が出て行った後、咲夜はしばらく窓の外を見ていた。
凍った港の向こうに、汽笛が一つ鳴った。この街には、東からも西からも、人と紙が流れ込んでくる。誰かが売り、誰かが買う。それだけの街だった。
咲夜は、手帳にその名を書いた。書いてから、値を書き添えた。
まだ、買い手はついていない。だが、じきにつく。そういう類の名前だった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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