海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「左の軸、まだ回りません」
「右は」
「回りますが、回すと電池が減ります。残りは三割です」
「空気は」
機関の兵曹は、少し黙ってから答えた。
「……夜明けまで、もつかどうか」
ドイツ海軍の小型潜水艦、UB-3。全長は二十八メートルしかなく、その鉄の筒の中に十四人が詰まっている。アドリア海の軍港を出て、オスマン軍へ届ける弾薬を積んできたが、途中で機関が壊れた。昼は海の底に座り、夜だけ浮いて数ノットで這い、ようやくこの海峡の口まで辿り着いたのである。
艦長は二十七歳で、艦をもらったのはこれが初めてだった。
天井の鉄板から、水滴がひっきりなしに垂れてくる。吐いた息が冷えて、鉄に付いて、また落ちてくるのである。機械の油と、汗と、便所の桶の匂いが混ざって、もう誰も鼻をつまんでいない。
「迎えは来る」艦長は言った。「オスマンの駆逐艦が、今夜、海峡の口まで出てくる手はずだ。浮いたら、曳いてもらう」
「それまで、空気が」
「もたせろ。喋るな。動くな」
「艦長殿」いちばん若い水兵が、蚊の鳴くような声で言った。「……息をするのは、かまいませんか」
「半分にしろ」
――ゴツン。
頭の上で、鉄が鉄に触れる音がした。艇が、ほんのわずかに揺れる。
「……何だ、今のは」
「……びっくりした」若い水兵が、頭を押さえた。「艦長殿に殴られたのかと思いましたよ」
「殴っとらん。黙れ」
「索です」兵曹が囁いた。「上で誰かが、海の底を引っ掻いています」
「機雷を探す艇だろう。こんな所を掃くはずが――」
艦長は、そこで口を閉じた。
機雷を探す艇が、機雷の無い海の底を、端から順に掃いている。探しているのは、機雷ではない。
しばらくして、遠くで、水そのものを殴るような音が響いてきた。一つ、二つ。駆逐艦の小さな砲の音ではない。
「上で、何か大きいのが撃っています」
「迎えが、撃たれてるぞ!」
艦長は、天井の鉄板を見上げた。十四人が、黙って同じところを見ていた。
*
――比叡、助太刀イタス。
水平線の探照灯が打ったその文句を、金剛の艦橋で、松岡秀二艦長は窓枠を握ったまま見ていた。
「潮崎。比叡に打て」
「何と」
「飯尾に聞け。あの晩の話を、まだ覚えておるか、とな」
潮崎拓馬が信号兵に文面を渡すより早く、比叡の探照灯が瞬いた。
――覚エテイル。艦ヲ倒セ。
「……向こうのほうが、話が早いな」松岡は言った。
「艦長」潮崎は言った。「まさか……飯尾大佐と酒の席で話したという、あれを」
「あぁ。火薬を減らして、艦を倒す。弾を高く上げて、真上から落とす」
潮崎は、帳面の数字を見た。
「全速で回頭すれば、艦は外へ傾いて、そのぶん砲が立ちます。ですが、回頭の傾きだけでは、まだ足りません。あと三度」
「三度か」
「三度です」
松岡は、窓の外の闇を見た。
「比叡に、波をもらえ」
潮崎は、それを数語に畳んだ。探照灯で送れる長さは、限られている。
――装薬四分ノ一。仰角最大。面舵一杯。三度、波ヲ呉レ。
返事は、一語だった。
――諒解。先ニ、駆逐艦ヲ片付ケル。
*
「艦長。駆逐艦三隻、引き返してきます!」
比叡の艦橋で、見張りが叫んだ。
「ほう、勇ましいな」飯尾大佐は、眼鏡の無い目を細めた。「なら、全力で叩いてやれ。探照灯、全部点けェ」
向きを変えていた三隻の駆逐艦が、戻ってきた。
新しく現れた大きな艦を、左右から挟むつもりらしい。三つの影が二つと一つに割れ、そのあいだに、黒い海の縫い目が一本開いた。
比叡は、その縫い目へまっすぐ突っ込んでいった。
探照灯が、全部点いた。舷側から艦首から、白い光の棒が何本も、左右の海へ突き出される。
「……撃たれに行くつもりか」金剛の艦橋で、航海長が呻いた。
三隻の砲が、一斉に比叡へ向いた。水柱が比叡のまわりに次々と立つのに、一発も当たらない。舷側から突き出た何本もの光の棒が、まともに向こうの砲手の目を焼いているのだ。
――ズゴォォォォ――ン!!
比叡の前の二つの砲塔が、左の二隻へ。後ろの二つが、右の一隻へ。副砲も、左右の両舷で一斉に火を噴いた。一隻の艦が、すれ違いざまに、両手で左右へ殴りかかっている。
右の一隻は、光の中で真ん中から持ち上がり、二つに折れた。左の二隻のまわりに、白い柱が林のように立つ。一隻が大きく傾き、もう一隻と一緒に、海峡の奥へ逃げだした。
比叡は、速力を一度も落とさなかった。
「飯尾……」松岡が、窓枠を掴んだまま言った。「あの男は、本当に狂っておる……おいおい……」
「駆逐艦が……」信号員が、口を開けたまま言った。「駆逐されております……」
誰も、笑う余裕がなかった。
最初に燃えていた一隻も、いつのまにか海の上から消えていた。
逃げていく二隻のうち、一隻の形を、潮崎は知っていた。五月十三日の夜、一隻だけで入ってきて、戦艦を沈めて帰っていった艦と、同じ形である。
その艦は、振り返らずに闇へ消えた。
*
「掃海艇に信号。索ヲ切リ、離レヨ」松岡が言った。「真上に三十六センチを落とす。水の中で割れれば、あの艇ごとやられる」
索を持ち続けていた二番艇から、返事が来た。さっき一番艇の大破を打ってきた艇である。
――索ニ、爆薬九ツアリ。点火ノ線、先刻ノ砲撃ニテ切ラル。上カラ叩ケ。
「……爆薬?」松岡が、眉を寄せた。「潮崎、どういうことだ」
潮崎は、信号紙を二度読んでから言った。
「恩田大佐の、犬の散歩です。トライアンフが沈んだ日に見せてもらいました。イギリスから貰った潜水艦用の武器で、掃海艇が引く綱に、爆弾が九つぶら下げてある」
「……綱に、爆弾」
「はい。それを海の底に這わせて、潜水艦に引っ掛けた。引っ掛かったら、艇から電気で火を入れて、九つまとめて破裂させる。そういう仕掛けです」
「では、なぜ火を入れん」
「さっき駆逐艦に撃たれたとき、火を入れる線が切れたそうです」潮崎は言った。「だから大佐は、索を放さずにいた。放せば、爆弾が潜水艦から外れてしまいますから」
松岡は、しばらく黙っていた。
「……つまり、爆弾は、もう潜水艦の背中に置いてある」
「はい」
「火をつけるのが、うちの仕事か」
「はい。真上に一発落とせば、九つ一緒に割れます」
探照灯の中で、二番艇から斧の音が一度だけ響いた。索の手元だけを切り離して、艇はのろのろと離れていく。あとには、灯りを入れた浮標が一つ残った。
その真下の海の底で、九つの爆弾が、動けない潜水艦の背中に掛かっている。
「……恩田の犬は」松岡が言った。「飼い主が燃えても、綱を放さんかったか」
「一番、二番砲塔。装薬、四分の一」
「装薬四分ノ一ィ!」
伝声管の向こうで、装填手の間の抜けた声がした。
「し、四分の一……? 弾を、四つに割るんでありますか!」
「馬鹿もん、弾じゃない! 後ろの袋だ! 押し出す火薬の袋を、四つのうち三つ抜けェ!」
砲塔の中から、砲術長の声が伝声管を上がってきた。
「艦長! 規定外です! 腔圧が読めません!」
「読めんものは読まんでいい」松岡は言った。「撃った責任は、わしが持つ。――両舷前進、いっぱい」
「両舷前進いっぱーい!」
二万七千トンが、夜の海を蹴って走りだした。浮標の灯りが、艦首の右へ流れていく。
「面舵いっぱい!」
「オモカージ、いっぱーい!」
艦が回りはじめ、足の下の床が、左へゆっくりと傾いていく。
「傾斜、五度!」
「七度!」
「九度!」
そこで、傾きが止まった。
「……足りません」潮崎は言った。
「試しに撃つ。一門だけだ」松岡は言った。「どれだけ足りんか、この目で見ておく」
――ドォンッ!
弾は高く上がったが、上がりきらずに落ちてきた。浮標の手前の海面で白く跳ね、水切りの石のように二度三度と水を叩いて、闇の向こうへ飛んでいった。
「跳ねた……」信号員が呻いた。
「あと三度だ」松岡は、窓の外から目を離さなかった。「比叡に打て。もう一周する。今度こそ、波をくれ、と」
金剛は大きく回って、もう一度、浮標の灯りへ向かった。
比叡が来た。ありったけの石炭をくべて全速を出し、金剛のまわりをぐるりと大きく回りながら、鼻先へ回り込んでくる。二万七千トンが全速で掻き回した海が、山になって盛り上がった。
「面舵いっぱい!」
艦が回りはじめる。五度、七度、九度――そこへ、比叡の起こした波が右舷に叩きつけた。
ドォン、と艦が揺れ、床がもう一段、深く傾く。
「十度! 十一度!」
立っていられない。潮崎は海図台にしがみついた。棚の双眼鏡が転がり落ち、伝声管から、機関室の悲鳴のような声が上がってくる。
「――十二度!」
「艦長! 復原力の限界です!」航海長が叫んだ。「このままではッ!」
「
ズゴォォォォ――ン!!
前部の三門が、夜空へ向けて火を噴いた。弾は、いつもの平らな軌道ではなく、打ち上げた花火のように高く上がっていく。そして、ゆっくりと向きを変え、ほとんど真上から浮標の灯りのまわりへ落ちてきた。
今度は、跳ねなかった。
白い柱が三本、闇の中に並んだ。
一拍遅れて、その柱の根もとの海が、丸ごと持ち上がった。潜水艦の背中に掛かっていた九つの爆弾が、砲弾と一緒に割れたのである。海の底から突き上げてきた音が、金剛の腹を下から殴った。
艦が、元の傾きへ、ゆっくりと戻っていった。誰も声を出さない。
「一番砲塔、右砲!」伝声管が叫んだ。「さきほどの試し撃ちで、駐退機が割れております! この砲は、もう使えません!」
続いて、比叡から信号が来た。
――ワレ損傷ナシ。貴艦ハ如何。
「……一門やられた、と打っとけ」松岡は、帽子をかぶり直した。
しばらくして、浮標の灯りのまわりに、油が一筋浮きはじめた。
やがて、大きな泡が続けざまに湧き上がり、ねじれた鉄の切れ端らしいものが、探照灯の光の中へ浮いてきた。
*
夜が明けると、潮崎は短艇で、二番艇へ渡った。
油の上に、いくつかの物が浮いている。コルクの切れ端と、ふやけたパンと、ドイツ海軍の水兵帽が一つ。潮崎は舷側から手を伸ばして、その帽子を拾い上げた。
「……小さい帽子だな」
艇の若い信号兵が、黙って頷いた。昨夜、一番艇の大破を打ってきた男である。
「恩田大佐は」潮崎は聞いた。「一番艇から、誰か拾い上げたか」
信号兵は、答えなかった。腕に抱えていたものを、黙って差し出した。
焦げた軍帽が一つ。燃え残った一番艇のそばの海から、夜明け前に拾い上げたのだという。
一字ずつ、手探りで打たれた昨夜の信号を、潮崎は思い出していた。
――潮崎ヘ。掃海ノ重要サ、広メテクレ。
あれが、恩田の最後の言葉になった。
「沈めたのは、わしらではありません」信号兵は言った。「大佐の索です」
潮崎は、ドイツの水兵帽を、恩田の軍帽の隣に並べて置いた。捨てる気には、なれなかった。
昼過ぎ、英国の駆逐艦からウィットビー中佐が上がってきた。潮崎の手を握って、しばらく離さなかった。
「潜った潜水艦を、艦の砲で沈めたのは、この戦争で初めてかもしれません」ウィットビーは言った。「……次は、うちの艦でもやれますか」
「装薬を測り直すところからです」潮崎は言った。「それと、頭のネジの外れた艦長が、二人ほど要ります」
ウィットビーは笑って、それから真顔に戻った。
「一つだけ、先に申し上げておきます。司令部は、主力艦を戻しません」
「一隻沈めても、ですか」
「潜水艦は、まだ海峡の中にいます。一隻沈めても、戦艦は戻りません」
*
同じ日の夕方、アンザックの斜面にも報せが届いた。
真崎勇気は、臼砲の脇で、ユラノスケの残りを数えていた。
「マサキ!」ラフティ軍曹が、紙を振りながら段を下りてきた。「昨夜、あんたらの戦艦が、潜ってる潜水艦を大砲で沈めたそうだぞ!」
「……海の話ですか」
「海の話さ」ラフティは言った。「陸でも海でも、よく働くなあ、あんたらは」
真崎は、帳面の数字から目を上げなかった。潮崎が無事かどうかを先に聞きたかったが、紙には艦の名前しか書いていなかった。
ラフティと入れ違いに、井坂徹中尉が郵便の袋を提げて段を上がってきた。
「少佐殿、また女の字ですのう」井坂は、封筒を一通、指でつまんで差し出した。「今度は、上海からですけぇ」
「……上海の、知り合いの娘だ」
「娘さんが、もうおられたんですか! それも上海に!」
「違う。知り合いの、娘だ」
「少佐殿は、若い娘さんも守備範囲でしたか」
「ただの知り合いだと言っとるだろう」真崎は封筒をひったくった。「……ご苦労。給水を手伝ってやれ!」
井坂は、にやにやしながら段を下りていった。
封を切ると、便箋が四枚出てきた。細かい字が、端から端までびっしり埋まっている。高杉の家にいる、アゥロラの字である。
――お元気ですか。上海は、もう暑いです。ディアナは相変わらず無口で、先週は一日に三言しか喋りませんでした。数えたので間違いありません。
――井川さんが、そちらへ送った箱の説明書を、紙一枚で済ませてしまったそうです。ディアナが「あれでは読む人が困る」と言ったら、「読めば分かる」と言って、三日むくれていました。
「……分からんかったぞ」真崎は呟いた。
――愛玲姉さんは、近いうちに満州へお仕事に出るそうです。李河さんも一緒です。私も行きたかったのですが、留守番だそうです。
そんな調子で三枚半が続き、四枚目の終わりで、字が急に小さくなった。
――先生が、近ごろ咳をしています。夜にひどいようです。言うなと言われたので、書きます。
真崎は、その一行のところで手を止めた。
日が沈みかけたころ、浜のほうから歓声が上がった。
沖に、灰色の巨きな艦が二隻、並んで現れている。金剛と比叡だった。ムドロスへ戻る途中、わざわざ半島の沖を回ってきたらしい。
ガバ・テペの裏で、ビーチー・ビルが、いつものように浜へ一発撃った。
二隻の砲塔が、ゆっくりとそちらへ向いた。
――ズゴォォォォン!!
オリーブの林の上に、土と枝が噴き上がった。続けてもう一斉。林の奥で、何かが誘爆したらしい黒い煙が立ちのぼる。
二隻は速力を落とさず、撃ちながら北へ抜けていく。ビーチー・ビルは、それきり一発も撃ち返してこなかった。
浜じゅうが、わっと沸いた。水の缶を担いだ兵たちが、桟橋の上で足を止めて、沖の二隻に帽子を振っている。
「見たか、マサキ!」ラフティが、段の上から怒鳴った。「舐めた真似をするからだ!」
「……海軍も、やっとるなあ」
真崎は、遠ざかっていく二つの艦影を見送った。あの片方に、潮崎が乗っているはずだった。
*
その夜、金剛と比叡は、並んでムドロスの湾に錨を入れた。
湾に泊まっていた英国の艦の舷側には、水兵たちが鈴なりになっていた。
「あれがコンゴウか」
「隣がヒエイだ。……なんて格好のいい艦だ」
「コンゴウは、うちのヴィッカースで造った艦だぞ」
「なら、里帰りってわけだな」
比叡から、短艇が一隻こちらへ来た。タラップを上がってきたのは、眼鏡をかけていない痩せた大佐である。
松岡は、艦橋から下りていって、甲板でその男を迎えた。
「飯尾か」
「おぉ、松岡」
「あの晩の話だ」松岡は言った。「貴様、酔っとったのではなかったか」
「酔っとった」飯尾大佐は言った。「だから計算は、素面になってから、全部やり直した」