海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「向こうの浜に、昼も艀が着いております」
セリム大尉は、書き上げた報告を読み上げた。
「四月に連合国の兵が上がってきた、あの狭い浜です。浜の真ん中から白い煙が立って、煙が立つと、ガバ・テペの砲台からは何も見えなくなります。見えないあいだに、艀から水の缶が揚がっております」
「揚げているのは、誰だ」
「日本の兵です。煙の切れ目から、背の低い兵が缶を担いで斜面へ上がっていくのが見えました。休戦の日に見たのと、同じ軍服です」セリムは言った。「浜の水と便所と墓は、あの連中が回しているようです」
「毎日か」
「毎日ではありません。三日か四日に一度です」
七月の初め。同盟国オスマン軍、第十九師団の司令部の壕で、師団長のムスタファ・ケマル大佐は、セリムの読み上げる数を黙って聞いていた。
壕の中は、外より少しだけ涼しい。それでも机の上の紙にはハエがたかって、師団長はときどき、紙の端でそれを追い払った。
「それから、例の窪みです」セリムは続けた。「向こうの塹壕の手前の、我々が突撃の前に兵を溜めておく窪地ですが……あそこにはもう、誰も溜めておりません。五月の終わりから、窪みの真上の空で割れる弾が降ってくるようになりました。伏せても、上から当たります」
「日本の臼砲だな……あの、少し遅れて割れる、厄介なやつ……」
「おそらく」
「向こうの斜面の匂いは」
「……匂い、でありますか」
「風が向こうから吹く日がある。嗅いだか」
セリムは少し考えた。
「石灰の匂いがします。便所に撒いているのでしょう。五月には、あの斜面から来る風は、腐った肉の匂いしかしませんでしたが」
師団長は、報告の紙を机に置いた。
「向こうの兵站が、良くなった。衛生状態も、マシになっている」
「はい」
「ならば、ここは当分落ちんな」
セリムは、自分の中隊のことを考えた。四月に二百十二人いた中隊は、いま六十三人で、そのうち十九人が腹を下して壕の奥で寝ている。こちらの谷の水も、良くはない。
「では、もう一度、上から……」
「ダメだ」師団長は言った。「十九日の突撃を、二度やる気は無い」
それから胸の時計を出して、蓋を開けた。
「向こうは、水も弾も、海の向こうから船で運んでくる。こちらは、地続きで歩いて運べる。向こうが後ろを良くすればするほど、向こうはこの浜に長く居座る。長く居座るほど、冬が近づく。冬の海は荒れて、船が着かん」
蓋が、ぱちりと閉じた。
「ならば、時間をこちらの味方にすればよい」
*
「今週、弾で倒れた者が三十八名」
軍医の鵜飼稔は、救護所の天幕の柱に打ちつけた板の数字を読み上げた。
「腹痛で倒れた者が、二百十一名です」
「……先週は」真崎勇気は聞いた。
「弾が四十四、腹が百六十。六月の半ばに、腹が弾を追い越しました。それから一度も、弾が上に戻っておりません」
七月の半ばの浜は、日なたに置いた水の缶が、昼には手で触れないほど熱くなる。天幕の布の内側にも、ハエが黒い点になって並んでいた。
「便所の位置も、石灰も、水の煮沸も、やっておるな」
「やっております。やっていなければ、この倍です」鵜飼は言った。「ですが、ハエは便所の位置を知りません。両軍のあいだに転がっている死体と、便所と、兵の飯のあいだを、好きに行き来しております。ジャムの缶を開けると、蓋を取った途端に、中が黒くなるそうです」
「アンザックは」
「二週間ごとに、総攻撃を一回やったのと同じ数が、腹で船に乗っていくそうです」
鵜飼は板から目を離して、声を落とした。
「それと、少佐殿。井坂中尉です」
「井坂が、どうした」
「三日前から腹を下しております。本人が黙っていたのを、今朝、便所の前で捕まえました。熱もあります」鵜飼は言った。「今日の艀で、病院船へ出してください」
真崎は、すぐには答えなかった。
来月の頭までに浜へ揚げる水を倍にしてくれ、と英軍から言われている。何に使う水かは、言ってこない。六段目の下に据えかけの新しいポンプは、井坂が宇品から図面ごと抱えてきたもので、据え付けを知っているのは井坂しかいなかった。
「井坂には悪いが……三日、待てんか」
「待てと言うなら、待ちます」鵜飼は言った。「軍医は、命令には従います」
天幕の入口に、井坂徹中尉が立っていた。頬が削げて、目だけが光っている。
「少佐殿、わしなら大丈夫ですけぇ」井坂は言った。「三日で据えて、四日目に船に乗ります。ほいじゃけ、鵜飼さん、そがいな顔せんでください」
鵜飼は、何も言わなかった。
「それと少佐殿、郵便ですけぇ」井坂は、懐から封筒を一通出した。「浜で預かってきました。……また女の字ですのう。今度は、満州からですか」
東京の軍務局で宛名を書き足して、回してよこしたものだった。
「奥さん以外に、何人おられるんです? モテる人は違いますのう」
「……貴様は、ポンプを据えに行け」
「行きますけぇ」
井坂は、壁に手をつきながら段を下りていった。
封を切ると、紙が一枚だけ出てきた。
――水の話、試しました。少しましになりました。
――友でよいと書いてありましたが、こちらはまだ決めておりません。
――また会いたかったのに。あの日みたいに、骨が鳴るくらい強く、もう一度抱いてほしかった。
最後の二文字だけが、読めなかった。
「鵜飼。これは、何と読む」
鵜飼は紙を覗き込んで、少しだけ口もとを緩めた。
「シャーグァ、ですな。青島の病院で、中国人の看護人が、言うことを聞かん子供によく言っていました」
「意味は」
「馬鹿、です」鵜飼は言った。「ただ、叱るときの馬鹿ではありません。近しい者に言う、柔らかい馬鹿です」
真崎は手紙を畳んで、懐の奥へしまった。護身符と、満州から来た二枚の隣である。
*
「最後の一発だ」
オーストラリアの伍長が、弾の頭にユラノスケをねじ込んだ。五月の晩に腕に巻いた包帯は取れて、赤い傷の跡が残っている。
輪を回して、爪の傷に合わせた。七と半分。
――ドンッ!
ヒュルルルル――パァンッ!
窪みの上で、火の花が一つ開いて、消えた。後に続く音は無い。
「……品切れか、ニューサンスも」伍長は、空になった箱を足で押した。「あんたの帳面どおりだな。夏の半ばまで、だったか」
「七月二十二日です」真崎は言った。
「半ばだな」
伍長は砲口に布をかぶせ、しばらくその上に手を置いていた。
段の下から、足を引きずる音が上がってきた。
「少佐殿。……ポンプ、据えましたけぇ」井坂が、壁に手をついて言った。「水、上がります。一時間に、二千リットル」
「よくやった」
「約束の三日、働きましたよ……!」
井坂はそう言って笑うと、壁に背中をつけたまま、ずるずると段の上に座り込んだ。そして、そこから立てなくなった。
日が落ちてから、井坂は担架で桟橋へ運ばれた。
夏のあいだに、この桟橋から出ていった担架の数を、真崎は帳面で知っている。弾で出たものより、腹で出たもののほうが、ずっと多い。
担架の上で、井坂が薄く目を開けた。
「少佐殿……」
「喋るな」
「ユラノスケ、あと何発でしたかいね」
真崎は、帳面を持つ手に力を入れた。今夜の最後の行には、自分の字で「残リ〇」と書いてある。
「……もう少しある。心配するな」
「ほうですか」井坂は、息を吐いた。「ほいじゃあ、窪みは大丈夫ですのう」
艀が、暗い沖へ出ていく。灯りは点けていない。
その夜、真崎は封筒を一枚使った。
――ハエの多いところです。ジャムの缶は、開けたらすぐに蓋をします。
そこまで書いて、井坂のことを書こうとした。軍機というわけではなかったが、悪い話を文字にすると、それがもっと悪いほうへ転がっていく気がして、真崎はペンを置いた。
――そちらも、暑いでしょうか。
封をすると、三十三枚が残った。
*
「井坂中尉を乗せた病院船は、夜のうちにアレクサンドリアへ出たそうです」
翌朝、鵜飼稔は段を上がって、臼砲の脇に座っている真崎にそう告げた。
「……そうか」
「それと、郵便の束に、これが」
アレクサンドリアの病院からの、短い知らせである。ハリー・ケナード中尉、七月十一日死去、とだけ書いてあった。
少佐は紙を受け取って、しばらく黙っていた。
「帰るのではない、休みに行くのだと……私が、ハリーに言った」
それから帳面を開き、ケナードの名を書き入れようとした。鉛筆の先が紙の上で小さく跳ねて、字にならない。
鵜飼は、それを見ていた。何千という数を、一つも間違えずに書きつけてきた指が、震えている。
「井坂も、三日待たせた」少佐は、帳面から目を上げずに言った。「待たせたのは、私だ」
鵜飼は、何も答えなかった。それが、真崎少佐のためには最良だと思ったからだ。
黙って一礼して、鵜飼は天幕へ戻っていった。
*
八月の初め、真崎は六段目から浜まで、二十分かかる段を駆け下りた。
その朝、ムドロスから日下部保中将が駆逐艦で渡ってきている。浜の北の端に日本の師団が掘った司令部の壕へ、英軍の参謀が話をしに来るので、通訳が要るという。
「数日のうちに、大きな攻勢をかけます」
英軍の参謀の少佐は、壕の机に地図を広げた。
「北の丘へ登ります。そのために、アンザックの兵を一人でも多く攻撃に回したい」少佐は言った。「先月の末、ロンドンの陸軍省から、正式に下令がありました」
少佐は、写しを一枚、机の上に置いた。
――日本師団ノ後方支援、極メテ有効。余力アラバ、戦闘ノ支援ヲモ望ム。
「いまが、その時です。日本の師団に、前線の塹壕を受け持っていただきたい」
それから少佐は、少しだけ声の調子を変えた。
「正直に申し上げます。丘へ登るのは、オーストラリアとニュージーランドの連中です。その連中が、日本の兵と一緒に行きたいと言っている。水を運んできてくれた連中と、並んで登りたいと」
日下部は、胸の隠しから畳んだ紙を一枚出して、写しの隣に広げた。
――我ガ師団ノ後方一切ノ担当、四月十七日付ヲ以テ英陸軍省承認済。
「あー、なんだ。そちらのお国の役所は、うちに紙を二枚くださっておる」日下部は、小さな声で言った。「四月の一枚は、後ろの一切を任せる、と。先月の一枚は、余力があれば、と。……真崎、今週の数を」
「今週、弾で倒れた者が三十八。腹で倒れた者が二百十一です」真崎は言った。
「余力は、ありません」日下部は言った。「命令としては、前へは出せません」
少佐の肩が、わずかに落ちた。
「ですが」日下部は続けた。「うちの者の中にも、前へ出たいと申す者が多いのは、本当です。志願する者は、前線へ回しましょう。それと、攻勢のあいだ、水は切らしません。丘の上まで」
真崎は、それを訳す前に、一拍だけ日下部の顔を見た。日下部は、地図から目を上げなかった。
少佐は、長いこと日下部の顔を見てから、深く頭を下げた。
少佐が敬礼して出ていくと、机の上には、少佐が置いていった司令部の週報の写しが残った。
真崎は、それを手に取った。英文の中ほどに、日本の師団の名前がある。
――アンザック正面の衛生状態は、日本師団の尽力により、著しく改善された。同正面は、当分のあいだ持久可能と認む。
「褒められておるな」日下部が言った。
「褒められている、とは読めません」真崎は言った。「まだ居られる、と書いてあります」
「……うむ」
「我々が上手くやるほど、ここに居る日が延びます。向こうも、たぶん同じことを数えています」
日下部は、しばらく壕の天井を見ていた。
「真崎。あれか」
「はい。数字が立たなくなる日が、出ました」
「言え」
「九月の末です」真崎は言った。「信管は尽きました。赤痢で死ぬ者は、もう弾で死ぬ者を追い越しております。十月に入れば海が荒れて、艀が着かない日が増えます。今の減り方のまま行けば、十月の頭には、この帳面の一頁目の数の、三分の二を切ります」
それから、真崎は少しだけ声を落とした。
「閣下ですので、正直に申し上げます。空から都合のいい新兵器でも降ってこない限り、この半島は抜けません」
「降ってくる当ては」
「ありません」
日下部は、すぐには何も言わなかった。
「それを、誰に言うつもりだ」
「閣下に、と命じられました」
「私のほかには」
「……まだ、誰にも」
「では、八月が終わるまで、誰にも言うな」日下部は言った。「数日のうちに、イギリスは大きいのをやる。やる前に帰る日の話をすれば、日本は臆病者だと言われて、それで終わりだ。やって、駄目だったあとなら、同じ話が数字として読まれる」
「その間に、また死にます」
「あぁ、死ぬ」日下部は言った。「だから、ちゃんと数えておくんだ。いいな」
「はっ」
その夜、真崎は帳面の一頁目を開いた。
――一万九千六百十二。
その下に、今日この半島とムドロスにいる数を足して書いた。
――一万六千三百五。
差し引いた三千三百七の中に、井坂徹がいる。