海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「上に、水が無い」
ダウ軍曹は、それだけ言って、腰に括りつけてきた空の水筒の束を砂の上に落とした。十四本あった。どれも振っても音がしない。
八月七日の夕方。英国とアンザックに日本の志願兵も加わった、連合国の大攻勢が始まって二日目である。
浜の荷揚げを仕切っていたこの無口な軍曹は、攻勢の前に自分の大隊――ニュージーランドのウェリントン大隊へ戻っていった。その男が、昨夜のうちに北の尾根を登り、いま、担架の列と一緒に浜まで下りてきたのだった。
「どこまで登った」真崎勇気は聞いた。
「アペックス。頂上の手前、四百五十メートル――五百ヤードだ」ダウは北の空に黒く盛り上がった稜線を顎で指した。「明日の夜明けに、あの頂上を取る」
「取ったら」
「取っても、水が無ければ持たん」
ダウは、真崎の足もとに積んである灯油の缶を見た。一缶に十八リットル入る。六段目の井戸と、井坂の据えたポンプから汲んだ水である。
ダウは、それ以上は何も言わなかった。新しい水筒の束を肩に掛けると、また北へ歩いていった。
*
「命令ではない。志願だ」
日が落ちてから、郷田龍一郎中佐は、浜の北の端に並んだ兵の前で言った。
「明日、あの丘の上へ水を運ぶ。途中は、両側の丘から撃たれる。行く者は、一歩前へ出ろ」
列が、一歩ぶん前へ出た。全員だった。
「……全員は要らん」郷田は顔をしかめた。「百二十だ。年の行った者から選ぶ。若いのは、下で缶を詰めとれ」
真崎は、帳面を開いた。
「一人一缶で、十八リットル。百二十缶で、二千百六十リットル。上の大隊は七百六十人ですから、一人三リットル足らずです」
「足りるか」
「足りません。ですが、無いよりは足ります」
「貴様、来るつもりか」
「数える者が要ります。何人が登って、何人が着いたか」
郷田は、しばらく真崎の顔を見ていた。
「……勝手にしろ」
*
八月八日の朝、ウェリントン大隊が頂上を取ったという報せが浜に届いた。夜明け前に登って、ほとんど撃たれずに取ったという。
日が高くなると、報せは変わった。頂上は取ったが、両側の丘から撃ち下ろされて、動けないという。
「出るぞ」
「出まァす!」
百二十の缶が、兵の背中で揺れる。谷筋を抜け、岩だらけの尾根に取りつくと、道は一人ぶんの幅しか無くなった。右の丘からも、左の丘からも、稜線の上が丸見えである。
――ピシッ。
真崎の前を行く兵の缶に、穴が開いた。水が、背中を伝って流れ落ちる。
「止まるな! 穴は手で押さえろ!」
「押さえまァす!」
――パァンッ!
空で榴散弾が割れ、ザアッと鉄の雨が尾根を叩いた。三人が倒れ、そのうち一人は、もう缶を背負ったまま動かない。
「缶を拾え! 倒れた者の缶は、後ろの者が持て!」
「二つ持ちまァす!」
真崎は倒れた者の数を帳面に書こうとして、鉛筆を落とし、拾わずに指で数えることにした。四、五、六。
アペックスに着いたのは、昼を過ぎたころだった。そこから頂上まで、残り四百五十メートルほどの坂を、身を隠すものの無い尾根が登っていく。
「ここからは、走る」郷田が言った。「三十数えるあいだは撃たれる。数え終わったら、もう上だ。いいな」
「はいッ!」
「行けェッ!」
頂上には、塹壕と呼べるものが無かった。
岩が硬くて、膝の高さまでしか掘れていない。その浅い溝に、ニュージーランドの兵が重なるように伏せていた。生きている者と、そうでない者の区別が、すぐにはつかない。
水の缶が転がり込むと、溝の中が、ざわりと動いた。
「水だ……水だぁ!」
「日本の連中が来たぞぉ!」
浅い溝のあちこちから、かすれた歓声が上がった。さっきまで重なるように伏せていた兵が、身を起こして手を伸ばしてくる。
「……妙に、歓迎されとるな」郷田が言った。
「日ごろの行いが、良いからでしょう」真崎は言った。
「こっちが先だ!」
ダウの声だった。
溝の角に、機関銃が一挺据えてある。銃身を包んだ筒から、湯気と、嫌な匂いが上がっていた。
「冷やす水が切れた」ダウは言った。「朝から、小便を入れていた。……もう、小便も出ん」
真崎は、缶の口を開けて、筒の穴へ傾けた。ジュウッ、と音がして、白い湯気が噴き上がる。
六段目の井戸の水だった。
機関銃が、また撃ちはじめた。
「次の缶を、あの銃へ」ダウは指さした。「その次は、あの銃だ。人は、そのあとでいい」
「人は、いつ飲むのです」
「銃が撃てているうちは、人は死なん」
日本の兵たちは、溝から溝へ缶を回していった。ニュージーランドの兵は、水筒の蓋に一杯ずつを受けて、ゆっくりと飲んだ。一息に飲む者は、一人もいない。
夕方の五時ごろ、頂上に落ちてきた砲弾は、向こうの丘からではなく、後ろから飛んできたものだった。土が噴き上がり、溝の真ん中で指図をしていた大隊長の中佐が、そのまま動かなくなる。
「……味方の弾だ」ダウが言った。
郷田は、落ちていたニュージーランド兵の小銃を拾い上げていた。
「中佐殿」真崎は言った。
「分かっておる」郷田は、稜線の向こうを睨んだまま言った。「……ここを仕切っとる者に、渡すだけだ」
ダウが、郷田の前に来て、その小銃を黙って受け取った。
「あんたらの仕事は、水だ」ダウは言った。「……本当に、助かった。明日も頼む。手が余るなら、弾幕張りにも貸してくれ」
夜になって、ウェリントン大隊は交代した。頂上に上がった七百六十人のうち、自分の足で下りてこられるのは、七十人ほどしかいない。
その中に、ダウがいた。
日本の兵は、空になった缶の代わりに、ニュージーランドの負傷兵を背負って、月の無い尾根を下りていった。
八月十日の夜明け前、オスマン軍の陣地。
「急ぐな」
ムスタファ・ケマル大佐は、頂上の手前の斜面に伏せた兵たちに言った。昨日からこの北の丘々の指揮を任された男は、時計をもう一度出し、それから、東の空の明るさを見た。
頂上の連合国の兵は、昨夜の暗いうちに入れ替わっている。新しく来た者は、地面を知らない。溝がどこで途切れ、どこで岩が突き出しているのかを、まだ一度も明るいところで見ていない。
こちらは、見ている。
撃てば、向こうが起きる。だから撃たない。稜線まで、四十メートル。走れば、十秒足らずで向こうの溝に落ちる。
「ただし、諸君は急ぐな」ケマルは言った。「まず、私が前へ出る。私が鞭で合図したら、全員で一度に飛び出せ」
ケマルは立ち上がり、一人で斜面を数歩上がった。
手にした乗馬の鞭が、薄明かりの中で上がる。
――振り下ろされた。
声の無い波が、斜面を駆け上がった。銃剣が、稜線の上で一斉に光る。溝の中の連合国の兵が、跳ね起きて銃を探すあいだに、もう最初の列が溝の中へ落ちていた。
――ガンッ。
右の胸を、誰かに拳で殴られたような衝撃があった。
ケマルは、半歩よろめいて、踏みとどまった。痛みは、打たれたところに遅れてやってくる。胸の隠しに手を入れると、指先に、割れたガラスが触れた。
取り出した懐中時計は、蓋が歪み、文字盤の真ん中に、鉄の破片が一つ食い込んでいた。
針は、止まっている。
ケマルは、時計を隠しに戻した。
それから、また前を見た。頂上の向こう側の斜面を、連合国の兵が海のほうへ転げ落ちていく。
溝の底に、見慣れない形の缶が一つ転がっていた。四角い、灯油の缶である。側面に、読めない字が墨で書いてあった。
缶は、空だった。
*
「頂上、取られましたぁッ!」
昼前、北の尾根から転がるように下りてきた伝令が、浜の天幕の前で叫んだ。
交代で上がっていた英国の二個大隊は、夜明けに稜線を越えてきた銃剣の波に呑まれ、残った者は北の斜面の畑のあたりまで押し戻されて、そこでまた撃たれているという。
郷田は、灯油の缶に水を詰めさせていた。
「もう一度、上がる」郷田は言った。「今度は、水と一緒に銃も持っていく」
「なりません」真崎は言った。
「なに」
「頂上は、もうありません。上がれば、四百五十メートルの坂を、向こうの銃口に向かって走ることになります」
「では、あそこで死んだ連中の血は、どうなる」郷田は言った。「ニュージーランドの七百と、うちの十九人だ。それを、無駄にするのか」
真崎は、帳面を閉じた。
「無駄になった血を取り返すために、さらに血を流すのが」真崎は言った。「一番の無駄です」
郷田は、真崎の顔を見ていた。缶に水を注いでいた兵が、手を止めている。
郷田は、長いあいだ黙っていた。
それから、手にしていた缶の蓋を閉めた。
「……水は、下の救護所へ回せ」郷田は、兵たちに言った。「上がってこられた者の分だ」
*
その晩、アレクサンドリアからの郵便が浜に着いた。
鵜飼稔が持ってきた紙には、短い文句が一行だけ書いてあった。
――井坂徹中尉、七月二十三日、病院船上ニテ死去。
井坂の荷物の中に、あの潜望鏡銃が入っていた。上の鏡は割れたまま、ひびの入った半分が枠に残っている。国へ持って帰って、砲工学校で見せたい、と言っていた銃だった。
真崎は、それを油紙で包んで、自分のトランクの底に入れた。
帳面を開く。
出ていった百二十のうち、帰ってきたのが九十四。担架で艀へ回ったのが七。
死んだのは、十九である。
その下に、もう一行を書き足した。
――七月二十三日、井坂徹。
帳面を閉じて、真崎は立ち上がった。
「……クソッ!」
浜の砂を蹴る。白い埃が舞い上がり、夜風にさらわれて、すぐに消えた。
その夜、真崎は封筒を出さなかった。
三十三枚は、三十三枚のままである。