色々と忙しく、文を少し書いて終わり!
みたいな日々が続いてましたが、すこーしだけストックが出来たので投稿です
「おい、綾小路。残れ」
グラウンドの隅々まで染み渡るような片岡監督の低く重い声は、それだけで周囲の空気をピタリと凍りつかせた。
バッティングケージの周りで次の順番を待っていた部員たちの動きが、一斉に止まる。
フリーバッティングのネット裏で、御幸先輩は片手でマスクを押し上げ、鋭い視線をこちらに向けた。
先ほどまで汗を拭いながら熱心にスイングを確認していた降谷も、その場に立ち尽くしたまま、無機質な瞳でこちらを見つめている。
そして、少し離れた場所でバットを拭いていた倉持先輩が、不審そうに眉をひそめた。
「……マジかよ、いきなりだな」
倉持先輩の小さな呟きが聞こえたが、オレは振り返らなかった。ただ淡々とバットを地面に置き、片岡監督の背中を追ってグラウンドを離れる。
夕暮れ時の青道高校は、部員たちの掛け声とボールがミットに収まる乾いた音が遠ざかり、代わりに冷たい風が校舎の間を通り抜けていく。監督室へと続く薄暗い廊下を歩きながら、オレは頭の中で先ほどの打撃練習の感触をしっかりと覚えていた。
沢村の指先が作り出す変則的な軌道、降谷の剛速球が持つ衝撃、そして小湊亮介先輩が言った「ボールと対話する」という言葉。
それらの要素はすべて頭の中で整理されつつあったが、監督がオレを呼び止めた理由は技術論などではない。
もっと根本的な、「このチームにいる意味」を問うためだ。
重厚な木製の扉が開き、監督室の閉ざされた空間に入る。
部屋の中にはすでにクリス先輩が待機しており、机の上には明日の帝東高校戦に向けた膨大なデータファイルと、これまでの選手評価をまとめたバインダーが整然と広げられていた。
「座れ」
促されるまま、オレはパイプ椅子に腰を下ろす。
正面に座った片岡監督は、サングラスの奥から一切の感情を排した鋭い眼光をオレに向けていた。
その巨体から放たれる威圧感は、マウンドに立つどの投手よりも重い。
「綾小路。お前のその型破りな実力は、入部当初から認めている。ブルペンでの投球、そして今日のバッティング……どれをとっても、一年生離れした水準にあることは疑いようがない」
監督は低い、腹の底に響く声で言った。
言葉の端々に、指導者としての厳格な覚悟が宿っている。
「だが……今日の練習を見て、確信した。お前は自分の頭の中にある計算と効率だけを頼りに動き、チームの勝利という目的に対して、あまりにも個人主義的だ。泥を泥臭くすすり、仲間と声を枯らして勝利をもぎ取るこの青道の野球において、お前のその姿勢は最大の毒になりかねん」
監督の言葉には、チームの和を乱す未知の要素に対する明確な警戒があった。
論理や効率だけを優先する人間は、時に組織の輪を断ち切る。それを監督は危惧しているのだ。
「次回の対抗戦、帝東との一戦。お前に先発、あるいは中軸としての出場を検討していた。だが、もしそこでチームのために泥を被る覚悟を見せず、身勝手なプレーに走って結果を残さなかった場合――」
監督はわずかに間を置き、静かに、しかし逃げ場のない重さで言い放った。
「即刻、退部処分とする。……分かったな」
退部。
その二文字が、狭い監督室の空気を完全に凍りつかせた。
青道という環境を失うことは、オレにとって今後の隠れ蓑を失うことを意味する。
だが、それ以上に、監督の言葉の裏にある「チームとしての戦い」の重みが、胸の内に妙なざわつきを残した。
「……承知いたしました」
オレが表情を変えずにそう答えると、監督は満足したわけではないだろうが、小さく頷いて視線をずらした。
「クリス。明日の帝東戦のデータを、こいつに叩き込んでおけ」
「……分かりました」
監督室を出て、冷たい空気が漂う廊下に一歩足を踏み出す。
後ろからついてきたクリス先輩が、手に持っていたバインダーを差し出した。
その表情には、先ほどの厳しい指導者の姿とは違う、複雑な憂いが滲んでいた。
「監督は本気だぞ、綾小路。お前を切りたくてあんなことを言っているわけじゃない。お前がこのチームの泥臭さに耐え、本当に馴染めるのか、その限界を見極めようとしているんだ」
クリス先輩の言葉を受け取りながら、オレはバインダーをしっかりと受け取り、ページをめくる。
そこには明日の対戦相手である帝東高校の資料が綴じられていた。
「……これが、帝東のデータですか」
「ああ。エースの向井太陽。サイドスローから繰り出す制球力と、ストライクゾーンを掠めるような球筋……そして、四番でキャッチャーの乾憲剛だ。データの上では、隙の無いバッテリーと言われている」
ページをめくりながら、オレはそこに記された文字を目で追った。
向井の投球フォームの特徴、乾が組み立てる配球の傾向。相手の長所や癖が、インクの文字として淡々と並んでいる。
「馴染む、ですか……オレが必要としているのは、チームメイトとの馴れ合いではなく、勝利という結果だけです」
「ふっ……相変わらずだな」
クリス先輩は苦笑いしながら、窓の外に広がる夜のグラウンドに目をやった。
そこでは、まだ暗闇の中で懸命に走り込んでいる部員たちの影が小さく動いている。
「だがな、綾小路。野球は紙のデータ通りには動かない。あの沢村や降谷の熱量、御幸のリード、そしてチームメイトが繋ぐ泥臭い一勝の重み……それらを無視して、お前の頭の中の計算だけで帝東を叩き潰せるほど、東京の強豪は甘くないぞ」
「……やってみなければ分かりません」
オレはバインダーを閉じ、静かに言い切った。
帝東高校。向井の制球力と乾のリード。彼らが積み上げてきたものを、明日、自分の手でどこまで崩せるか。
「明日、すべての答えは、マウンドと打席の上に出ますよ」
クリス先輩はそれ以上何も言わず、ただ深く頷いた。
廊下の窓ガラスに映るオレの顔は相変わらず無機質だったが、明日の帝東戦を前にして、思考は自然と次のプレーへの準備へと切り替わっていた。
◆◆◆
夜の寮の一室。
白熱灯の明かりの下、オレは机に向かって広げたバインダーのページを一枚ずつめくっていた。
部屋の外からは、遠くで素振りを続ける部員たちの掛け声や、夜の虫の音が微かに聞こえてくる。
青道に入寮して以来、静寂という時間がどれほど貴重であるかをオレは日々痛感させられていた。
この学校にいる人間は、全員が野球に狂っている。朝から晩まで泥まみれになり、声を枯らし、限界まで身体を追い込むこと以外に関心がないように見える。
(……効率の観点から言えば、非合理的な疲労の蓄積と精神論の反復に過ぎない)
心の中でそう呟きながらも、オレはペンを走らせ、帝東高校のスタメン全員の打撃ヒートマップと過去の配球傾向をノートに書き写していく。
向井太陽。1年生ながら帝東高校のエース。
サイドスローという特殊な角度から、ストライクゾーンの隅々、特に打者が最も嫌がる「奥スミ」へ正確に投げ込むコントロール。
そして、それをリードするキャッチャーの乾憲剛は、相手打者の心理を徹底的に分析し、わずかな迷いを見逃さない配球の巧者だ。
彼らは西東京の強豪である、その組織力と練度は、個人の能力の足し算を遥かに超越した脅威として機能している。
(確かに、うちのチームに無いものを持っている良いチームだ……
しかしそれはこちらも同じ、向こうに無いものを持っている……勝算は十分あるな……)
俺はバインダーを閉じ、表表紙を見る
(まだ入部して間もない、向井の情報をこれだけ持ってくるとは……クリス先輩の分析力は素直に称賛できるな)
コン、コン。
静かな部屋に、控えめなノックの音が響いた。
返事をする前にドアがわずかに開き、見覚えのあるピンクがかった髪が覗く。
「……起きてるかい?」
小湊先輩だった。彼は練習着のまま、手には自分のバットを一本抱えて部屋に入ってきた。周囲に他の部員の気配はない。こんな時間に一年生の部屋に、それもレギュラーの先輩がこの時間に来るなど、イレギュラーな事態だ。
「……どうかしましたか、小湊先輩」
オレが椅子から振り返ると、小湊先輩はいつもの薄く穏やかな笑みを浮かべたまま、ベッドの端に腰を下ろした。その細い目が、机の上に広げられた帝東のデータファイルを一瞥する。
「ふうん、明日の帝東戦の資料かい。監督から直接言われたらしいね、お前が先発か中軸で出るって話、寮の中でも少し噂になってるよ」
「……耳が早いですね」
「当然さ。みんな君のことが気になって仕方ないんだからね。特に御幸や、あのうるさいバッテリー二人組はね」
小湊先輩はバットを立てかけ、すっと視線をオレに合わせた。その笑顔の裏に隠された、底知れない洞察力が微かに肌を伝う。
「で、どうだい? 明日の試合に向けて、お得意の分析は終わったかい?」
「おおむね、相手の配球の癖と向井のリリースポイントの偏りは把握しました。データ通りの確率来るならば、十分に攻略は可能です」
オレが即答すると、小湊先輩はふっと息をつき、小さく首を横に振った。
「やっぱり、君はそういう言い方をするね。確率、データ、効率……もちろん、それが大事なのは分かるよ。僕だって相手の守備シフトや投手のクセは徹底的に研究するからね。だけどさ、綾小路」
小湊先輩の声音から、先ほどまでの軽妙さが少しだけ消えた。
「甲子園に行くために、この青道に集まった連中が持っているものは、そんな綺麗に計算できるものばかりじゃないんだ。沢村の無茶苦茶な熱量も、降谷の底知れない執念も、そして御幸の腹黒いまでの勝利への執着も……全部、数字の枠から外れた『泥』でできている」
「……それが、青道の野球だと?」
「そうさ。そして監督は、君の中にその『泥』が混ざる瞬間を見ようとしている。君がただの冷徹な傭兵みたいに、自分の計算通りの結果だけを残して涼しい顔で帰っていくのを、あの人は一番警戒しているのさ」
小湊先輩は立ち上がり、オレの肩を軽くポンと叩いた。その手は驚くほど軽く、しかし確かな重みを持っていた。
「君のその頭の良さは武器だ。でもね、時にはその計算を自分でぶっ壊してみるのも悪くないよ。……負けたら本当に退部させられちゃうんだからさ、せいぜい泥臭くあがくことだね」
それだけ言うと、小湊先輩はヒラリと手を振って部屋を出て行っていった。
閉まったドアを見つめながら、オレは机の上のノートに目を落とす。綺麗に整理された数字の羅列。その横に、先ほどの練習で感じたボールの重みと、チームメイトたちの喧騒が妙なノイズとして頭の中に残っていた。
(……ノイズか)
それを排除することがこれまでの最適解だった。だが、この青道という環境において、そのノイズこそが勝利への必須変数なのだとしたら――。
オレはペンを置き、明日の朝に備えて静かに目を閉じた。
◆◆◆
翌日。
青道高校グラウンドには、雲ひとつない快晴の空が広がっていた。だが、グラウンドを包む空気は、通常の練習日とは比較にならないほど張り詰めている。
対抗戦の相手である帝東高校のバスがすでに到着し、三塁側ベンチ付近には、ユニフォームに身を包んだ選手たちが整然とウォーミングアップを開始していた。その佇まいには一切の無駄がなく、規律の厳しさと強豪としての自信が嫌でも伝わってくる。
「おい、綾小路! 準備はいいだろうな!」
一塁側のベンチ前で、倉持先輩がタオルを首に掛けながら声をかけてきた。その表情には、いつもの軽口の裏に隠しきれない緊張感と、試合に対する高揚感が混じっている。
「いつでも」
オレが淡々と答えると、倉持先輩はふっと笑い、ガシッと荒っぽくオレの背中を叩いた。
「いいか、今日はお前が主役だ。監督も、そして向こうのバッテリーも、お前がどんな野球をするのかジロジロ見やがる。ビビらずに自分の仕事をしろよ!」
「ビビってはいません」
「そういう生意気なところだよ!」
倉持先輩が笑いながら去っていくと、すぐ後ろから御幸先輩が歩いてきた。彼はプロテクターを脇に抱え、相変わらずの不敵な笑みを浮かべている。
ガチャリ、とマスクをいじりながら御幸先輩は言った。
「なぁ、綾小路。監督から何言われたか知らねえけどさ……今日ばかりは、お前の頭の中の計算通りにはいかねえぞ。俺もデータと映像は見たが向井のサイドは甘くないし、乾のリードはエグい。お前がどうやってアイツらを崩すのか、キャッチボールの時からしっかり見せてもらうからな」
「……御幸先輩のリード通りに打たされるつもりはありません」
「おっ、言うねえ。その生意気な態度、嫌いじゃねえよ」
御幸先輩はニヤリと笑い、そのままブルペンの方へと歩いていった。
グラウンド全体が試合開始の雰囲気に包まれていく。一塁側ベンチの前で、オレは自分のバットを手に取り、素振りを一回だけ行った。
金属が空気を切り裂く鋭い音。その感覚は昨日よりも少しだけ手に馴染んでいる。
「――整列!!」
主将・結城先輩の通るような大声がグラウンドに響き渡る。
青道高校のレギュラー陣、そしてこの試合に命運を賭けた者たちが、一斉にホームベース付近へと駆け足で集まっていく。オレもその列に混じり、静かに足を踏み出した。
ベンチの奥、ネット裏の特等席から、片岡監督が腕を組んでこちらを見据えている。
そのサングラスの奥にある視線が、オレの背中を重く捉えていた。
(退部処分、か)
条件は明確だ。計算通りの効率ではなく、このチームの中で勝利をもぎ取るための「献身」と「結果」。
それを証明しなければ、この隠れ蓑はすべて失われる。
「おねがいします!!」
両校の挨拶の声がグラウンドにこだまし、いよいよ試合の幕が上がろうとしていた。
オレは事前に決めていた開始前のルーティンを行う。
深く息を吸い込む。冷たい空気と共に、青道の泥臭い熱量が肺の奥へと流れ込んできた。
この試合、オレの演算がどう狂い、どう結実するのか。
すべての答えが、目の前のグラウンドの上に広がっている。
ここまで読んでくださりありがとうございます!!
投稿してない間も色々な方から、続きを待ってる等のお言葉をいただ気ありがたい限りです
今後も頑張りますので気長にお待ちください