暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜   作:パラレル・ゲーマー

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第141話 水神様、明の城が二つ消えたと聞かされる

 元和七年、初冬。

 あのお手軽に髪の色だけを変える御異物――《若返り石》を元の神社へ無事に返却してから、しばらく後のこと。

 

 御異物改方の俺(忠長)の机へ、久々に御異物とは全く関係のない、分厚い実務の帳面がドサリと置かれた。

 表紙には、見慣れた固い字でこう書かれている。

 

『長崎・平戸・博多・対馬 異国品値動控』

 

「……これ、まだ毎月きっちり集計して続けてたんですね」

 

 俺が少し呆れたように呟くと、本多正純が氷のような無表情で即答した。

 

「忠長様がご自身でお始めになった仕組みにございますが」

「知ってますよ。ただの確認です」

 

 それはかつて、遼東の空気が一気にきな臭くなった頃。異国で何が起きているのかという正式な報告が江戸へ着くよりもずっと早く、『長崎の港で、一部の品物の値段や入荷量が妙な動きをしている』という事実を知ったことから、俺が命じて始めさせた監視網だった。

 

 毎月、各港から『値上がりした品』『値下がりした品』『入荷量』『船の到着の遅延』『商人が口にした値動きの理由』、そして『出所不明の噂話』を厳密に書き留めさせ、江戸へ送らせているのだ。

 

 今月、その帳面の中に、いくつか不気味な印が重なっている箇所があった。

 主に、朝鮮経由で入る人参などの『北方由来の品』。毛皮。薬種の一部。そして、北方航路に関係する商人たちの取引条件が、急に不安定化している。

 

 ただし、帳面には「後金が戦に勝ったから値上がりした」などという結論めいたことは一言も書かれていない。あくまで、確認できた事実だけだ。

 

『入荷減少』

『次便の到着時期不詳』

『朝鮮商人、先約をひどく嫌う』

『遼東の道中不安との風聞あり』

『北方品、現銀取引を求むる者増加』

 

 俺は、帳面から顔を上げた。

 

「……また、ですね。正式な報せが来る前に、『値札』の方が先に、何か大きなことが起きてるぞって騒いでません?」

「……前にも、同じことがあったな」

 

 同席していた家光も、帳面を覗き込んで険しい顔をした。

 

「はい。ただ、値段が動いたからって、必ず戦争とは限りません。不作でも、船の難破でも、商人の買い占めでも、ただの噂でも値段は動きますから。……まだ、何が起きたかまでは分かりません」

 

     *

 

 ほどなく、対馬の宗氏筋から急ぎの書状が届いた。

 朝鮮側で、極めて不吉な話が急速に広がっているというのだ。

 

「……明の要衝、『瀋陽』危うし、とのことにございます」

 

 しかし、届けられた書状には、「瀋陽が陥落した」と断定する記述はどこにもない。

 理由は単純だ。朝鮮側でも情報が完全に錯綜しているからだ。遼東から逃げてきた民の証言、明側からの使者の言葉、国境を越えてきた商人、そして朝鮮の国境守備側から上がった報告。それらが全て、てんでバラバラなのだ。

 

 ある報告には、『瀋陽、なお明兵これに立て籠もり、死守す』とある。

 別の報告には、『後金兵、すでに城内へなだれ込む』とある。

 さらに別の商人からは、『瀋陽より、明軍は全て退いた』と真逆のことが書かれている。

 

「……結局、どれが本当なんですか」

 

 俺がため息をつくと、宗氏からの書状には、短く、しかし誠実な添え書きがあった。

 

『確定できず』

 

「……正直!」

 

 俺は思わず感心した。

 

「分からぬものを、分かったかのように無理に書き記すより、よほどよい」

 

 家康も、深く頷いて評価した。

 

 大彗星の騒動や、明の皇帝が相次いで死んだ政変の折に俺たちが叩き込んだ、「分からないものは、分からないまま記録する」という運用が、末端まで少しずつ浸透している証拠だった。

 

 俺たちは、届いた報告を既存の区分へ振り分けていく。

 

【確定】後金軍、瀋陽方面へ進出。

【有力】瀋陽周辺で、明軍との大規模な戦闘あり。

【未確認】後金兵、瀋陽城内へ侵入。

【風聞】瀋陽、完全陥落。

 

 そして、その横に『証言相互不一致』と注記した。

 

     *

 

 だが、長崎から届いた別便は、もっと暗い内容だった。

 長崎に滞在している明商人たちの間では、すでに「瀋陽は失われた」という悲観的な見方が、かなり強くなっているらしい。

 

 ところが、ここでも詳細は完全に食い違っている。

 ある商人は、「後金の大軍に幾重にも囲まれ、長く攻められた末に力尽きた」と言う。別の商人は、「城兵が外へ討って出たところを敵の騎兵に破られ、そのまま城へ入られた」と言う。さらに、「救援に向かった明軍が、道中で完敗したのだ」と証言する者もいる。

 

 死者の数に至っては、一万、三万、十万と、桁からしてめちゃくちゃだ。

 

「……人数は、もう絶対に信用しない方がよさそうですね」

 

 俺が言うと、秀忠が冷徹に命じた。

 

「ならば、そこは後回しにせよ。死者が一万か三万かを、今この江戸で決めても何も変わらぬ。まず分けるべきは、城が落ちたか、落ちておらぬかだ」

「……はい」

 

 そこで、もう一度整理する。

 

【確定】後金軍、瀋陽を攻撃。

【有力】明軍、瀋陽周辺で敗退。

【有力】瀋陽、後金支配下へ移った可能性高し。

【未確認】陥落の具体的経緯。

【風聞】明軍死者十万。

 

 数字の大きさに引きずられず、今の政治判断に必要な部分だけを拾う。

 いかにも秀忠らしい整理だった。

 

     *

 

 俺は、作業の合間に、内心でKAMI様へこっそりと尋ねた。

 

(……KAMI様。瀋陽、やっぱり落ちたんですか?)

 

『ええ。落ちたわ』

 

 KAMI様は、歴史の事実を淡々と説明してくれた。

 

 一六二一年。ヌルハチ率いる後金軍が、明の要衝である瀋陽を攻撃。明軍は激しく抵抗し、周辺でも救援軍との激戦が起きたが、最終的に瀋陽は後金の手へ落ちた。

 そして後金軍は、そこで止まらない。同じ年、さらに南の『遼陽』までも攻略し、遼東の支配を一気に拡大していく。

 

(……でも。俺が皆に向かって、『私の未来情報では、すでに城は落ちてます!』なんて軽々しく言えるわけがないからな)

 

『当たり前でしょう。あんた一人の予言で国が動くようになったら、誰も必死に船を見なくなる。誰も商人の話を集めなくなる。誰も原報を残さなくなる。情報網そのものが死ぬわ』

 

(……ですよね。結局、現場から必死に届いている資料の積み重ねだけで、証明するしかない)

 

『現実に届いた紙で判断しなさい。それでいいのよ』

 

 KAMI様の未来知識は、あくまで俺の中での「最悪の可能性の答え合わせ」にしか使わない。

 公儀の政治判断を支える柱は、対馬から来た紙、長崎から来た紙、平戸から来た紙。そこに書かれた、不完全で、互いに食い違っていて、ひどく泥臭い現実でなければならないのだ。

 

     *

 

 そして、ついに決定的な第二波が来た。

 博多。長崎。平戸。全く別々の経路から届いた報告の中に、同じ地名が現れ始めたのだ。

 

『遼陽』

 

「……遼陽?」

 

 俺は一瞬、反応が遅れた。サルフの戦いやヌルハチの名前は覚えているが、遼東にある城の位置関係まで、現代人の俺が全部暗記しているわけではない。

 

「地図をお願いします」

 

 巨大な異国地図を広げさせる。

 瀋陽。そして、そのさらに南側に位置する遼陽。

 

「……あ」

 

 俺の指が止まった。

 

 遼陽は、単なる国境の小城ではない。明が遼東を治めるための、軍事と行政の巨大な重要拠点だ。

 

「待ってください」

 

 俺は瀋陽を指し、そこから指を南へ滑らせた。

 

「……瀋陽だけじゃない? その後、一気にこっちまで?」

 

 家康が、地図を食い入るように見つめながら、低く腹の底に響く声で言った。

 

「忠長」

「はい」

「これは、ただ単に『城が二つ落ちた』というだけの話ではないぞ」

「……ですよね」

 

 家康の指が、明と後金の間にあった境を、ゆっくりと南へなぞる。

 

「明の『境』が、大きく下がったという話だ」

 

 俺は、息を呑んだ。

 

     *

 

 以前のサルフの戦いでは、明が大軍を送り込み、それを後金が撃破した。

 明にとって壊滅的な敗北ではあったが、あの時に失ったものの中心は『軍』だった。

 

「ですが、今回は違います。瀋陽が失われ、遼陽も失われ、周辺の拠点まで後金側へ移っている。しかも後金は、勝った後に自分たちの土地へ帰っていません」

 

 秀忠が俺を見る。

 

「何が変わる」

「土地そのものです」

 

 俺は、地図を指した。

 

「城、田畑、倉、道、そこで暮らす人、兵糧を作る農民、荷を運ぶ人夫、役人。そういうものごと、後金側の支配へ取り込まれ始めます」

 

 家光が、険しい顔で遼東を睨みつけた。

 

「ならば、その土地から集めていた兵糧も、税も、人も。これからは、明を攻める側へ使われるかもしれぬのか」

「そういうことです」

 

 もちろん、城を取った瞬間に、そこが綺麗に後金の国へ変わるわけではない。

 逃げる者もいる。従わぬ者もいる。抵抗する者もいる。後金側も、降った者を支配へ組み込み、捕えた者を働かせ、田畑から兵糧を取り、人を徴し、かなり荒っぽいやり方で新しい支配を押し広げていくことになる。

 

 だが、それでも一つだけ確かなことがあった。

 

「……彼らは、奪って帰るだけの軍じゃありません。取った土地そのものを、自分たちの国へ変え始めています」

 

     *

 

 さらに、遼陽について、もう一つ重要な情報が重なり始めた。

 

『ヌルハチ、遼陽に居を定むとの風聞』

『後金の主だった者、遼陽へ移る』

『遼陽、後金新本拠となる由』

 

 最初は、ただの風聞だった。

 だが、対馬、長崎、平戸と、別々の経路から似た内容が届くにつれ、その扱いは変わっていく。

 

【有力】後金、遼陽を新たな本拠として使用。

 

「……取った都市を、自らの本拠にするのか」

 

 家康の目が、鷹のように鋭く細められた。

 

「はい。どうやら、ヌルハチ自身も遼陽へ本拠を移すつもりのようです」

「ならば」

 

 家康は短く言った。

 

「返す気などない」

「……そういうことになります」

 

 奪った土地で一時的に休むのではない。

 奪った土地を、自分たちの都として使う。

 

 その意味は、全く違った。

 評定の間の空気が、一段と重く、冷たく沈んだ。

 

     *

 

 俺は、地図の上で指を滑らせた。

 後金。遼東。そして、朝鮮。さらに海を隔てて、日本。

 

「……で」

 

 俺の指が、朝鮮半島の付け根で止まった。

 

「朝鮮から見たら、これ。後金が、ずいぶん近くまで来ましたよね?」

 

 家光も頷く。

 

「サルフでは、朝鮮も明側として兵を出した」

「はい」

 

 朝鮮にとっても、後金にとっても、完全に無関係な相手ではない。

 

(……この時点で、『次は後金が朝鮮へ攻めてきます!』なんて、未来予知みたいな真似は絶対にしないけど)

 

「対馬の宗氏へ、追加で確認を。朝鮮側が、今回の遼東の変化をどう見ているか。国境守備を増やしたのか、明から何か要求されているのか、後金側から使者や書状が来ているのか。分かる範囲だけで構いませんから、拾わせてください」

 

     *

 

 そこで、実務的な問題が一つ浮かび上がった。

 東アジア北方の情報が、あまりにも対馬の宗氏へ集中しすぎているのだ。

 

 朝鮮との外交。平時の貿易。漂流民の処理。国境の風聞。明の話。後金の話。

 それらを全部、「朝鮮と一番近いから」という理由で対馬に拾わせている。

 

「……これ、対馬の役人たち、過労で死にません?」

 

 俺が言うと、正純も頷いた。

 

「すでに、かなりの負担となっているでしょうな」

「ですよね」

 

 情報網は、紙が勝手に動いているわけではない。

 誰かが話を聞き、誰かが書き、誰かが訳し、誰かが船に載せ、誰かが江戸まで運ぶ。便利な仕組みの裏側には、必ず働いている人間がいる。

 

「なら、対馬に全部集めさせるんじゃなくて、対馬、長崎、平戸、博多、琉球、薩摩。それぞれが拾った情報を、それぞれの形のまま江戸へ送らせましょう。そして、江戸で一冊に――」

「待て」

 

 家光が、スッと手を出して止めた。

 

「はい?」

「一冊へ写してまとめること自体はよい。だが、その話が『元はどこから来たものなのか』。出所だけは、絶対に消すな」

「あ」

 

 俺はハッとした。

 

 対馬の情報は、朝鮮官人や朝鮮商人、釜山周辺から来る話に強い。

 長崎なら、明商人や福建などの海商から入る情報。平戸なら、オランダ商人が他の港やバタヴィアで拾ってきた話。博多なら、九州の船乗りや商流。琉球なら、福建方面から入ってくる別系統の中国情報。

 

 同じ「遼陽が落ちた」という一行でも、五つの独立した道から届いたのか、一つの噂が五か所へ広まっただけなのかで、意味はまるで違う。

 

「……訂正します。原報は、絶対にそのまま別々で保存してください。江戸で作るのは、出所ごとの報告を並べて比べるための《比較控》だけです」

 

「では、後から誤りと判明した報告は、破棄いたしますか?」

 

 記録役が尋ねてきたが、俺は即座に首を振った。

 

「いや、残してください」

「誤りであっても?」

「誤りだからこそです」

 

 例えば、今日「瀋陽はまだ明が守っている」という報告が届いたとする。

 そして後日、その報告が書かれた時点ですでに瀋陽は落ちていたと分かったなら、その情報経路にはどれほどの遅れがあったのか、あるいは現地で本当に陥落が知られていなかったのかが見えてくる。

 

「間違った報告も、その日に、その場所で、誰かが『そう信じて動いていた』という記録です。捨てないでください」

「では、誤報と判明した日も追記いたしましょう」

 

 正純の提案に、俺は頷いた。

 

「お願いします」

 

     *

 

 俺は、さらに新しい項目の追加を命じた。

 

「今後の書状には、『情報を聞いた日』『誰から聞いたか』『その人物がどこで聞いたか』『書状を書いた日』、そして『江戸へ発送した日』を必ず明記させてください」

 

 遼陽が落ちる。

 その話が朝鮮国境へ入り、漢城へ伝わり、釜山へ下り、対馬へ渡り、江戸へ届く。その情報の移動には、一体どれくらいの日数がかかるのか。

 

 一方、中国の商船が長崎へ直接持ち込む情報なら、また別の速度になる。

 

「……情報にも、『道』があるんですね」

 

 俺が呟くと、秀忠が「何がだ」と眉をひそめた。

 

「荷物と同じです。通る道が違えば、届く日も変わるんです」

 

     *

 

 そして、最初に開いた『異国品値動控』へ戻る。

 瀋陽と遼陽の詳しい報告が江戸へ揃うより前に、北方品の値段、入荷量、商人の態度は、すでに変わり始めていた。

 

「……前と同じですね」

「何がだ」

 

 家康が尋ねる。

 

「戦の詳しい報せが届く前に、値札の方が先に騒いでいたんです」

 

 もちろん、値札だけで戦争を言い当てられるわけじゃない。

 それでも、何か大きな異変が起きた時に、「何かがおかしい」と気づくための目としては役に立つ。

 

「今回も、値札の監視が役に立つことは確認できました」

 

 俺が言うと、家康は短く答えた。

 

「続けよ」

「はい」

 

 これまで試験的に続けていた値動きの監視を、常設の仕組みにする。

 ただし、『値上がりしたから戦争』『船が遅れたから政変』などという決めつけは禁止だ。

 

 記録するのは、値段、入荷量、船数、遅延、商人が述べた理由、噂の出所。

 そして後から、実際に起きた事件と照らし合わせる。

 

「値札は、未来を正確に予言する魔法の道具じゃないですからね」

 

 俺が言うと、正純が冷静に返した。

 

「されど、事実を知らぬ人間よりも先に、『騒ぐ』ことはあるということにございます」

「……正純殿」

「何でございましょう」

「今、ものすごく格好いいこと言いましたね」

「通常の報告にございますが」

「そういうところですよ」

 

     *

 

 そして、最後に残った議題。

 

「……日本は、どうするのか」

 

 明へ援軍を送るのか。

 朝鮮を守るために動くのか。

 後金を敵と見なすのか。

 

 結論は、最初からほとんど決まっていた。

 

『軍事介入はしない』

 

 家康が、誰にも反論を許さない声で言った。

 

「海を越えて大軍を送り、他国の戦へ首を突っ込み、兵を死なせ、国を疲れさせる。同じ愚を、二度と繰り返すつもりはない」

 

 秀吉の朝鮮出兵。

 その地獄を、家康は間近で見ている。

 

「はい」

 

 俺も完全に同意した。

 

 日本がやるべきことは、情報収集、航路の警戒、漂流民や避難民が来た場合の備え、商人の安全、対馬や九州への負担確認。そして、日本から戦争へ流れていく物を、把握することまでだ。

 

 長崎からの報告には、『鉛』『硝石』『鉄』『火縄銃』といった品について、まとまった数を買えるか尋ねる異国商人が増えているという記載もあった。

 

 買主は、明かもしれない。

 朝鮮かもしれない。

 別の商人へ転売するつもりなのかもしれない。

 あるいは、後金側へ繋がる者かもしれない。

 

(……戦争が近くなると、武器を売って儲けようとする人間も増えますよね)

 

『そりゃあね。一番分かりやすい特需だもの』

 

(ですよね……)

 

 今すぐ全てを禁じるつもりはない。

 だが、少なくとも『誰が』『何を』『どれだけ』『どの船へ積み』『どこへ運ぶと言っているのか』くらいは、分かるようにしておく必要がある。

 

 俺は、とりあえず長崎へ、軍需に転用できる品の大量買いについて、買主、品目、数量、船名、行先を可能な限り記録するよう命じた。

 本格的な軍需品輸出の扱いについては、改めて別に制度を詰める必要があるだろう。

 

     *

 

 評定が終わった。

 江戸城の奥に広げられた、巨大な異国地図の前。

 

 以前から、明、朝鮮、後金のそれぞれの勢力圏に、色の違う小さな木札を置いて管理している。

 

 瀋陽。

 そして、遼陽。

 

 そこには今まで、明の札が置かれていた。

 

 正純が、俺を見る。

 

「忠長様。瀋陽、遼陽。明領としての表示は、いかがいたしますか」

 

 少しの沈黙。

 俺は、静かに言った。

 

「……外してください」

 

 二つの明の札が、地図から取り払われた。

 ただし、城そのものが消滅したわけではない。その同じ場所へ、後金の支配下であることを示す札が置かれる。

 

 カチ。

 カチ。

 

 乾いた小さな音が、二つ。

 静かな部屋に響いた。

 

 俺は、地図をじっと見つめた。

 

 昔遊んだ歴史ゲームや、綺麗な歴史地図なら、ただ「ここの色が変わった」だけで終わる話だ。

 でも、現実のその城の中には、民がいて、商人がいて、兵士がいて、家族がいて、田畑があり、倉があり、寺があり、先祖の墓がある。

 

「……地図の上だと。ただ、小さな札が二つ、入れ替わっただけなんですけどね」

 

 俺がぽつりと呟くと、家光が重く返した。

 

「……現地では、決してそうではない」

「はい」

 

 俺は、それ以上は言わなかった。

 

     *

 

 夜。

 俺は、自室で一人、KAMI様へ話しかけた。

 

「……KAMI様」

『なに』

「これ。……まだまだ、ほんの『始まり』なんですよね」

 

 KAMI様は、決して嘘をつかなかった。

 

『……ええ』

 

 俺には、未来の知識がある。

 後金がやがて清となり、明が滅亡することを知っている。

 

 でも、「明はあと何年で滅びますよ」なんて、誰にも言えない。

 それどころか、俺自身も、この世界の歴史が本当に前世で知っている通りに進むという確定扱いにはしていない。

 

「……私が知ってる歴史と。もう、全く同じ道筋になるとは限らない」

『そうね』

「でも。……後金が、歩みを止めていないことだけは。今届いた紙切れの束だけでも、十分に分かる」

『……それで十分よ』

 

     *

 

 翌朝。

 俺の机の上に、また真新しい分厚い帳面が置かれていた。

 

『明・朝鮮・後金 諸口原報比較控』

 

「……やっぱり、また増えるんですね」

 

 俺がげんなりして言うと、正純が平然と答えた。

 

「海の向こうで、城が二つ減りましたので」

「城が減った分、こっちの帳面まで二冊くらい減ってくれませんかね?」

「増えます」

「即答……」

 

 俺は苦笑し、筆を取った。

 

 サルフで、明の大軍が敗れた時。

 俺は、それを一つの巨大な軍事的敗北だと思っていた。

 

 だが、今度は違う。

 

 瀋陽。そして、遼陽。

 地図から明の札が二つ外され、その同じ場所に後金の札が置かれた。

 

 軍が負けたのではない。

 国の『境』が、確実に動いたのだ。

 

 そして、その恐ろしい事実に、江戸にいる俺たちが最初に気づくきっかけとなったのは。

 血なまぐさい戦場から届いた勝敗報告ではなく、長崎の港で先に騒ぎ始めた『値札』と、互いに食い違う何枚もの薄っぺらい紙切れだった。

 




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