ノーブレス・オブリージュ 作:護身用の道具
鼻腔をくすぐる茹でたてのパスタと、チーズの焦げた香ばしい匂い。
トラットリア・マルゲリータの店内には、数日前にラグーナの運命を左右する激戦があったのが嘘のような、ありふれた喧騒が満ちていた。
雲中庭園で戦った後、オレはそのまま気を失ったらしい。
目を覚ましたのは、下宿先のローズマリーの薬屋、その一室のベッドの上だった。
ずっと付き添ってくれていたというフィービーから、事の顛末は聞かされた。
ローレライが『残響組織』なる連中によって無理矢理暴走させられていたこと。
彼女がフィサリアの文献通りに歳主によって作られ、知性を与えられた存在だったこと。
そして――歳主との接続は既に断たれており、今はカルネヴァーレの最も盛り上がる時にのみ、接触できる可能性があるということ。
どうにも腑に落ちない。
断たれている、ということは既に歳主は……。
フィサリアが守る真の信仰と、それを食い荒らす鳴式。歳主の力を取り戻すために犠牲を払い続けてきた歴史。
ファミリーを蝕む毒をどうにかしたいと思ったことは一度や二度ではない。
どれだけ違う法則で生きていた記憶が残っていても、オレには何もできなかった。
歳主との接続は、既に断たれている。
なら、これまでファミリーが負ってきた疵は何だったんだ?
……カンタレラは一体オレに何を隠している?
「はぁ、考えてても埒が明かないな」
泥濘のような思考を一度リセットするべく、オレは熱いラグーナエスプレッソを喉に流し込んだ。
喉を抜ける苦みが鈍った脳を覚醒させる。
「……体調は、本当に大丈夫なのですか?」
テーブルの向かい側から、心配そうな声が届く。
運ばれてきたコーヒーに手も付けないまま、フィービーがじっとオレの顔を覗き込んできた。
「今のところは、大丈夫だ」
実際に目覚めて以降、いつもの囁きは不自然なぐらい聞こえてこない。
「お前がオレをすぐにローズマリーのとこへ運び込んで、付き添ってくれたおかげだろう。ありがとう、フィービー」
「……お礼なら、ブレノにも言ってあげてください。一人だと、難しかったですから」
「あぁ、今度会ったらお礼を言っておく」
……この幼馴染の怪力なら、一人でも運べそうな気もする。
「それより、もう昼だ。飯にしようぜ」
未だに硬い表情を崩さないフィービーを尻目に、オレは机の上のメニューに目を落とした。
様々なピザやパスタ、ステーキなどの文字が並ぶ中、オレはある一つの品に目を留める。
以前ここでザンニーと出会った時、奴が美味そうに貪っていたピザだ。
フィービーも注文を決めたようで、通りかかった給仕を呼び止める。
「すみません、この『ピザ・トロピカーレ』を――」
「ティコくん?」
脳が直感的に警告を鳴らした。
周囲の喧騒が遠のき、気温まで下がったような錯覚を覚える。
かつてのモンテリとの抗争の時に浴びた凄絶な殺意。
数日前、ローレライとの戦闘で感じた死の危機。
それらを遥かに上回る純粋な『狂気』が、目の前の幼馴染から静かに立ち上っていた。
先程までの心配そうな顔はどこへいったのか。
「存在しないピザの名前を言って、お店の人を困らせてはいけませんよ?」
「……は? メニューに書いてあるだろうが。何を言って――」
「書いてありません」
「いや、ここに」
「書いてありませんよ?」
フィービーは、にこやかに微笑んでいた。
……光彩の消えた、光の届かない深海の底のような瞳をしているが。
「最後の警告です。このままではわたしは君を罪人として扱わなければなりません」
「ざい……にん……?」
「意図して虚偽を流布し、ラグーナの食文化を混乱に陥れようとすることは重罪です。わたしは君に、罪を犯してほしくありません」
オレの背筋を、どっと冷たい汗が伝っていく。
目の前の幼馴染が、教団の最も冷酷な一面たる、狂信的な『審問官』の目をしている。
冗談には見えない。
こいつは、本気だ。
「い、いや、待てフィービー。ただの南国風のピザだ。パイナップルの甘みが――」
「ピザにパイナップルを乗せたような冒涜的な存在が、このラグーナに存在するはずがありません。仮にあるとすれば、それは伝統に対する明確な宣戦布告であり悪魔の所業です」
自慢ではないが、フィサリア当主の息子として生まれてから、多少なり様々な経験は積んできたはず。
もしかしたらここまで明確に恐怖を感じさせられるのは、初めてかもしれない。
「これ以上その不浄な単語を口にするなら、わたしは今すぐここに本職の審問官を呼びます。……今すぐに、です」
「……分かった。オレの間違いだ。忘れてくれ」
乾いた声を絞り出すのが限界だった。
ファミリーの拷問官だって、裏切り者を吊るす時でさえ多少は人間味のある目をする。
目の前でオレを見つめる瞳には、一切の交渉の余地を感じさせなかった。
「ご理解いただき何よりです。それではこの、昔ながらの窯焼きピザにいたしますね」
何事もなかったかのように微笑む幼馴染。
オレは震える手で、既に冷めかけたエスプレッソを啜るしかなかった。