兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
世界の結界が再構築され、地上から精霊の気配が消えた。
それから何度か目覚めと眠りを繰り返し、ファルイーアは焦点の合わない瞳で寝台の上に座り込んでいた。
オウセイの記憶は失われ、ケセナという名で過ごした幸福さえ、その輪郭を大きく薄れさせていた。
「……」
ふと視線を落とす。
右手の甲から腕にかけて刻まれた無数の古傷が目に入り、彼はびくりと肩を揺らした。
急いで長い袖を引っ張り、傷を隠すように強く握りしめる。
この身体は、顔以外のほとんどに同じような古傷が残っている。
誰にも見られたくない。
それは、悲しいほど身体に染みついた癖だった。
こん、こんと木扉が叩かれた。
ぼんやりと眺めていると、扉が開き、グレンが姿を見せた。
「ケセナ、ご飯持ってきたよ」
その後ろから、盆を持ったラルが声をかけた。
言ってから、ラルは小さく息を呑む。
ファルイーアが、不思議そうに首を傾げたからだ。
「…………ああ、僕のこと?」
「他に誰がいるの」
「そうだね。僕だった」
『ケセナ』の名に、すぐ反応できない。
それだけで、今の彼がどれほど自分自身の輪郭を保てていないかが、残酷なほど明らかだった。
寝台から降り、備え付けられた卓へ歩く。
ふらつく足が重たかった。
「急がなくていい」
グレンは椅子を引き、優しい黒い瞳でファルイーアを見つめ、手を差し伸べた。
それが嬉しくて、ファルイーアはふわりと笑顔を作った。けれどなぜかグレンの手が取れず、目を背けた。
「……うん」
座ると、ラルが卓に盆を置いた。
ファルイーアは、目の前に置かれた温かい汁物と麦餅を見つめたまま、微動だにできなかった。
「……っ」
かつてのケセナのように無邪気に振る舞うことも、オウセイのように飄々と手をつけることもできない。
指示がなければ、食事を摂るという行為すら始められなかった。
あまりにも静かな様子に、グレンは普段と同じ調子で声をかけてしまった。
「冷めるぞ。さっさと食べろ」
――その一言だった。
ファルイーアの身体が、石のように強張り、瞳から一切の光が消えた。
人としての感情が抜け落ちた、無機質で空ろな紅い瞳。
言葉を発することはない。
ただ、グレンの『命令』にのみ従ったあの頃のように、ファルイーアは無言で匙を手に取り、異常な速度で食事を口へ運び始めた。
「ファルイーア、なにを……」
グレンが顔を顰めた、その直後だった。
「……っ」
胃を持たない身体が、急激に流し込まれた食べ物を拒絶し、激しく痙攣した。
喉の奥から、強烈な吐き気が逆流してくる。
だが、ファルイーアは吐き出さなかった。
両手で自らの口を、息が詰まるほど強く塞ぎ込む。
せり上がってきたものを、喉を鳴らして無理やり飲み下した。
内側を焼かれるような激痛。
息ができず、瞳から生理的な涙が溢れ落ちる。
それでも彼は口を塞いだまま、虚ろな瞳で咀嚼を続けた。
兵器だった頃、グレンの命令は絶対だった。
『食わなければ死ぬ。だから食べろ』
『吐き出すな。飲み込め』
そう命じられ続けてきた。
だから、グレンの「食べろ」という言葉は、彼にとってただの食事の合図ではない。
吐き気を飲み下し、激痛に耐えてでも腹に詰め込まなければならない、絶対の命令だった。
「ファル……!? やめろ、吐き出せ!!」
グレンの顔から、一瞬で血の気が引いた。
何気なく口にした言葉が、彼をふたたび凄惨な過去へ引きずり戻してしまった。
涙を流しながら、吐き戻したものを飲み込んでまで従おうとする痛ましい姿に、グレンは弾かれたように立ち上がる。
そして、ファルイーアの手を口元から引き剥がした。
「吐け! 命令じゃない。もう戦わなくていいんだ。だから……!」
しかし。
グレンの手が触れた瞬間、ファルイーアの瞳が異常なほど見開かれた。
彼は、自分の腕に触れた大きな手を、何か恐ろしいものでも見るように凝視する。
「う、ああああああああっ!!」
吐瀉物の残る口を大きく開け、ファルイーアはかつてないほどの恐慌状態に陥った。
「!?」
「ケセナ!?」
異様な悲鳴に、固まっていたラルも慌てて駆け寄る。
ファルイーアは椅子ごと後ろへ倒れ込み、這うようにして二人から遠ざかろうとした。
「先生っ、これ……!?」
震えるラルの声に、グレンは己の手を見つめ、血を吐くような後悔に顔を歪める。
治ったはずの接触への恐怖が、最も凄惨な形で彼を襲っていた。
「……まずは、口の中の物を吐かせる!」
グレンは悲痛な決意で、暴れるファルイーアの身体を背後から強引に押さえ込み、流し台へと抱え込んだ。
触るな、と訴えるように抵抗する身体を押さえつけ、無理やり背中を擦る。
そうしてようやく、ファルイーアは口にしたものをすべて吐き出した。
熱と悪寒に震えるファルイーアは、焦点の合わない瞳をグレンへ向ける。
自分を捕まえていた大きな手が緩んだ隙に、弾かれたように流し台から走り出した。
向かったのは、光の届かぬ部屋の暗い隅。
彼はそこで膝を抱えて蹲り、グレンに掴まれた腕を、皮膚が赤く剥けるほど必死に、狂ったように擦り続けていた。
――誰も彼に触れられなかった、あの頃とまったく同じだった。
グレンとラルは、部屋の隅で震え続けるファルイーアを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
やがて、ファルイーアの身体がぐらりと崩れ落ちた。
「ファル!」
グレンが駆け寄って抱き上げると、ファルイーアは完全に気を失っていた。
「先生、ケセナ、治ってたのに……」
「ああ。記憶が抜け落ちたせいだろう。ラル、辛いと思うが、見ててやってくれ」
「うん」
グレンはファルイーアを抱き上げ、寝台へ運んだ。
ラルが、寝台の横を通り過ぎようとした刻、ふと枕元に置かれた一冊の古びた本に目が留まった。
「絵本?」
何度も何度も読まれたのだろう。
表紙はすり切れ、頁の端が丸くなっている。
「それはファルが好きだった絵本だ。そこの本棚に入れてたんだが、引っ張り出してたんだな」
グレンは表紙しか知らなかったその絵本を横目に、ファルイーアを静かに寝かせた。
ラルが何気なく絵本を手に取り、頁を捲る。
そして、ある一文に目を落とした瞬間、表情を凍らせた。
「ケセナ……?」
絵本の本文に、『ケセナ』という文字があった。
グレンもラルの肩越しに覗き込む。
そこに書かれていたのは、主人公アイダ・ローエンの友達であり、明るく正義感に溢れ、どんな刻でも主人公を助け続ける勇敢な少年ケセナ・レフィードだった。
ラルが、震える手でそっと絵本を机に戻そうとした、その刻。
「……僕、ケセナになりたかった」
寝台から、消え入りそうな声が響いた。
いつの間にか意識を取り戻していたファルイーアが、横たわったまま真っ直ぐな紅い瞳をこちらに向けていた。
「人を助けて、世界を旅して、僕は生きたいって思ってた。でも無理だった。僕は、兵器だから」
「ファルイーア、これからすればいい。できるんだ、お前はこれから……!」
縋るようなグレンの言葉に、ファルイーアは弱々しく首を振った。
「グレン、僕は……」
言葉の先は続かなかった。
再び焦点の合わぬ瞳になり、虚空を見つめたかと思うと、全てを諦めたように眠りの闇へ落ちていった。
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そんな昼夜が続き、とうとうファルイーアは高熱を出して寝込んだ。
寝台の中で、熱に浮かされた頭で静かに悟る。
自分が壊れているから。
兵器としての呪いから抜け出せず、ケセナという理想にもなれないから、自分を『人』にしてくれた人たちに、こんなにも悲しい顔をさせてしまう。
(……隠さないと)
怯えも、身体の軋みも、食べられないことも。
全部、見えないように隠してしまえばいい。
オウセイのように飄々と。
あの絵本の『ケセナ』のように無邪気に。
『笑顔の仮面』を被れば、グレンもラルも、自分を責めずに笑っていてくれる。
それが、空っぽになった彼が最後に選んだ、人としての役割だった。
ファルイーアは、重い身体をどうにか引きずり起こし、寝室の鏡の前に立った。
映っているのは、青白く血の気のない、落ち窪んだ目元の自分だった。紅い瞳が妙に目立つ。金髪の色素が抜け淡くなっているようにも感じた。
どう見ても限界を迎えているその顔を、両手でぱんっと叩く。
「……よし」
口角を上げる。
痛みを奥底へ沈め、一番彼らが安心する笑顔を顔に貼り付けた。
何度も、何度も練習する。
気を抜けば虚ろな兵器に戻ってしまいそうになる自分を、強い意志の糸で縛り上げる。
少しだけ自然に笑えるようになった気がして、ファルイーアは小さく息を吐いた。
一度だけ静かな瞬きをして、ファルイーアはふらつくことすらも隠しながら立ち上がり、部屋を出た。
隣の暖炉のある応接室へ顔を出すと、卓で茶を飲んでいたグレンとラルが、弾かれたように振り返った。
これまでの凄惨な出来事を引きずり、二人の顔は痛ましいほどに強張っている。
「ファル!? お前、まだ寝ていないと……」
「ごめん、二度寝したらすっかり遅くなっちゃった」
あっけらかんと笑って見せる。
二人は信じられないものを見るように、目を丸くした。
「身体は……もういいのか」
「うん。心配かけてごめん。熱が下がって、やっと意識がはっきりしてきたよ。魔力を失ったことも忘れて使おうとしていたから、身体が混乱してたみたい」
冗談めかして笑う。
身体はまだ痛み、立っているだけで眩暈がした。
それでも、彼は微塵も表に出さなかった。
「……本当に、大丈夫なの?」
ラルが疑うように紫の瞳を細める。
ファルイーアは、彼女の頭を軽く撫でた。
触られたことに驚き、ラルがファルイーアの手をじっと見つめる。
「平気だよ。でも……最近ちょっと疲れやすいからさ。僕はもうしばらく、部屋の中でゆっくりしようかな」
「分かった。でも無理しないで」
「ありがとう、ラル。それから……」
ファルイーアは、ほんの少しだけ躊躇った。
それでも笑顔を貼り付けたまま、静かに告げる。
「僕のこと、『ファルイーア』で呼んでもらっていい?」
「え? なんで?」
「ごめん。ケセナがちょっと遠くて。誰のことを呼ばれてるのか、認識できないことがあるみたいだから」
「……うん、頑張る」
「ごめんね」
優しく謝罪し、彼は暖炉の前の長椅子へ腰を下ろした。
傍らにあった本を開き、何でもないように頁を捲る。
「ここ、一番あったかくて落ち着くし。……いいでしょ、グレン? 僕、少し長めの『休養』をもらっても」
穏やかな笑み。
あまりにも自然な振る舞い。
グレンはちくりと胸に刺すものを感じつつ、それでも安堵している自分を受け入れた。
まだ完全に安心していいわけではないだろう。
けれど、少し前までのような空ろな残骸ではなく、ファルイーアが自分から意志を持って『休む』という選択をしてくれた。
そのことに、確かな救いを感じているようだった。
「……ああ。お前の好きにしろ」
その言葉を聞いて、ファルイーアは本に視線を落としたまま、誰にも気づかれないようにそっと息を吐いた。
(……これでいい)
心の傷も、身体の軋みも、食べられないことも。
全部、この笑顔の裏に隠してしまえばいい。
自分が『怠惰で平和な青年』を演じきれば、彼らはもう、自分を責めることなく笑っていてくれる。
そうしてファルイーアは、暖炉の前を、自分の最後の戦場と定めた。
それが命を削る選択だと、知っていた。
それでも彼は笑う。
愛する家族に、これ以上悲しい顔をさせないために。
一星霜に及ぶ、優しすぎる嘘の始まりだった。