それから、何年かが過ぎた。
間桐邸の奥の部屋は、相変わらず薄暗かったが、匂いはさらに薄くなっていた。
それでも、古い木と湿った土、それに死に損なったものの匂いは、まだ完全には消えていなかった。
だが、初めて屋敷を訪れた者が顔をしかめるほどではなくなっている。
慎二は片手に盆を持ち、もう片方の手で息子の小さな手を握ったまま、襖の前で足を止めた
「お爺ちゃん」
息子が言った。
慎二は顔をしかめた。
「まだ入ってないだろ。声がでかい」
「聞こえた方がいいでしょ」
「それはそうだけどな」
襖を開ける。
間桐臓硯は、いつもの椅子に座っていた。
慎二の視線は、膝掛けの上に置かれた細い腕から、その先の乾いた指へと移り、窓の外へ向けられた濁った目で止まった。
慎二が子どもの頃から、ずっとそこにいた老人。
昔はもっと恐ろしかった。今も、たまに恐ろしい。
だが、今日はただの老人に見えた。
「爺さん。昼だ」
臓硯は、ゆっくり顔を動かした。
「慎二か」
「他に誰がいるんだよ」
慎二はいつものように返す。
それから、少しだけ間を置いて、息子の背を軽く押した。
「ほら」
息子は一歩前に出た。
まだ小さい。
慎二に似ているようで、妻の真帆にも似ている。目元は真帆に似て穏やかで、口元は慎二に似て少し生意気そうだった。
臓硯は、長いあいだ息子を見つめていた。
「誰じゃ」
「俺の息子だ。前にも会っただろ」
「こんにちは」
息子は胸を張った。
「慎二の子」
臓硯は、確かめるように繰り返した。
その声に、ぼけた響きはあった。
だが、慎二は妙に落ち着かなくなった。
この老人は、分かっていないようで、時々だけ何もかも分かっている目をする。
臓硯の目が、息子の顔から手元へゆっくり移った。
ぼけていても、家に生まれた子を見る時だけは、昔の習慣が残るらしい。
「先週、遠坂に見てもらった」
臓硯が慎二を見る。
「魔術回路はなかった。俺と同じだ。魔術師にはならない」
部屋が静かになった。
古い時計の音だけが聞こえた。
慎二は、臓硯の反応を待った。
落胆するのか。
ぼけたまま聞き流すのか。
昔の亡霊のように、間桐は終わったと言うのか。
どれでもよかった。
どれでもよくない気もした。
臓硯は、しばらく黙っていた。
そして、ただ言った。
「そうか」
それだけだった。
怒りも、落胆もなかった。
少なくとも、慎二にはそう聞こえた。
あまりにも静かだった。
慎二はかえって腹が立った。
「そうか、だけかよ」
「そうか」
「二回言うな」
臓硯は、また子どもを見た。
息子は、不思議そうに老人を見返している。
怖がってはいない。
それが、慎二には少し意外だった。
臓硯の目が、ほんのわずかに細くなる。
「慎二」
「何だよ」
また、あの目だった。
臓硯はぼんやりしていなかった。
第五次と今を取り違えている目ではなかった。
聖杯を待つ老人の声でもなかった。
ただ、慎二を見ていた。
「魔術はない」
「……ああ」
「それでよい」
慎二は何も言えなかった。
臓硯は、ゆっくりと子どもの方へ目を向ける。
「これで、家は続く」
慎二は眉をひそめた。
「魔術がないのにか」
「魔術がないからじゃ」
臓硯の声は細い。
今にも途切れそうだったが、そこには確かに意思があった。
「間桐に魔術が残れば、また欲しがる。聖杯を。力を。家を残すために、別のものを食う。儂がそうした。間桐がそうした」
息子は、言葉の意味が分からないまま慎二の手を握った。
慎二は、その小さな手を握り返す。
「ないなら、子を子のまま残せる。あるものを、あるものとして残せる」
慎二は、臓硯を見ていた。
ぼけていることに変わりはない。
次の瞬間には、また第五次を尋ねるかもしれない。
それでも今だけは、魔術のない子を見て、家が終わったとは思っていなかった。
「慎二」
「……何だよ」
「これで、家は続く」
慎二は、顔を背けた。
「やめろよ」
声が掠れた。
「あんたがそういうこと言うと、今度こそ本当に死にそうじゃねえか」
臓硯は笑った。
湿った笑いではなかった。
ひどく小さく、乾いた笑いだった。
「死ねぬ」
「嘘つけ」
慎二は即座に言った。
臓硯が、わずかに目を動かす。
「何がじゃ」
「今のは強がりだろ」
部屋の空気が止まった。
臓硯は何も言わなかった。
慎二は続ける。
「あんた、昔みたいに本気で死ねないって言ってるんじゃない。死にたくないって顔してる」
子どもが慎二を見上げる。
「お父さん?」
「何でもない」
慎二は短く答えた。
臓硯は、窓の外へ目を向けた。
庭には、息子が生まれた年に真帆が選んで植えた若木がある。
春になると、白い花が咲く。
臓硯はそれを見ていた。
「死ねぬ」
もう一度、臓硯は言った。
だが、今度の声は弱かった。
強がりだった。
慎二にはそう聞こえた。
「そうかよ」
慎二は盆を置いた。
椀を取る。
匙で粥をすくう。
「じゃあ、長生きしろよ。お爺ちゃん」
臓硯は慎二を見た。
息子が真似をして言う。
「長生きしてね。お爺ちゃん」
慎二は顔をしかめた。
「お前は言わなくていい」
「なんで」
「なんでもだ」
臓硯は、息子を見ていた。
その目に、湿った蟲蔵の底はなかった。
聖杯への執念もなかった。
ただ、老人が自分の子孫を見る目だった。
あり得なかったはずの目だった。
「慎二」
「またかよ」
「よくやった」
慎二は、今度は否定しなかった。
泥の残った大聖杯を解体し、次の聖杯戦争を来ないものにしたのは、凛と桜と、あの外国人だ。
桜を遠坂のまま残したのは、遠坂の親父だ。
だが、間桐を魔術の家へ戻さず、表の家として残したのは自分だ。
魔術回路のない子を、悔やまずにここへ連れてきたのも自分だ。
なら、その言葉くらいは受け取っていい。
慎二は、小さく息を吐いた。
「……ああ」
粥を差し出す。
「俺は、よくやったよ」
臓硯は満足そうに目を細めた。
息子は不思議そうに二人を見比べている。
「お父さん、褒められてるの?」
「そうらしい」
「よかったね」
「うるさい」
慎二はそう言いながら、口元を緩めた。
奥の部屋は、相変わらず薄暗い。
窓の外では若い木の葉が揺れている。
第五次は来ない。
聖杯戦争は終わった。
魔術の家としての間桐は、もうない。
それでも、間桐は続く。
臓硯は口を開けた。
慎二は匙を運んだ。
その手つきは、いつもより少しだけ丁寧だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
投稿を始めてから、完結まで二か月近くかかりました。
当初の想定以上に多くの方に読んでいただき、感想や評価もいただけたことを、とてもありがたく思っています。
本作は、遠坂時臣が言峰綺礼の裏切りを生き延び、自分が残してきた問題や、見落としていたものを一つずつ回収していく話として始まりました。
そして、そんな時臣の変化をギルガメッシュが面白がり、すぐには見限らなかったことで、本来なら起こらなかった選択が積み重なっていきました。
その結末の一つが、桜が遠坂のまま育ち、慎二が自分の持っているものと向き合い、間桐が魔術の家ではなく、表の名家として続いていく未来です。
時臣が生き残ったことは、時臣一人を救っただけではありませんでした。
一つの前提が変わったことで、本来なら壊れていた人間や家が、別の形で続いていく可能性が生まれた。その先まで書けたことを、作者として嬉しく思っています。
思わぬ反響をいただきながら、最後まで書き切ることができました。
ここまでお付き合いくださった皆さまへ、改めてお礼申し上げます。
優雅ではなかった戦いの果てに、少しでも優雅な結末を迎えられていれば幸いです。
本当にありがとうございました。