Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
夜の衛宮邸には、出発前の重さがあった。
茶の間には凛が描いた簡単な森の見取り図が広げられている。道、木々の密集した場所、見通しの悪い斜面、アーチャーが狙撃に使えそうな高所。正確な地図ではないが、何もないよりはずっとましだった。
凛は宝石をいくつか並べ、最後の確認をしている。
アーチャーは姿を見せていない。
だが、屋根の上か庭の影か、近くにいることは分かった。時折、凛が何もない空間へ視線を向ける。そこに返事があるわけではないが、二人の間ではそれで十分らしい。
セイバーはいつもの服に着替えていた。
甲冑ではない。まだ完全な戦闘態勢とは言えない。だが、白いドレス姿のままではなくなったことで、彼女自身も少しだけ落ち着いたようだった。剣は見えない。だが、その手には確かに不可視の剣がある。
士郎は、玄関の方を見た。
行く。
森へ。
バーサーカーの待つ場所へ。
そう決めたのは自分だ。
それでも、体の奥には冷たいものが沈んでいた。
バーサーカーの斧剣を受けた記憶は、まだ消えていない。あの圧力。地面ごと叩き潰されるような感覚。自分の体が壊れた瞬間の、遅れてやってきた恐怖。
できれば、もう二度と近づきたくない。
だが、行かなければ向こうから来る。
この家に。
桜のいる場所に。
慎二のいる場所に。
今のライダーでは、正面から迎え撃てない。
縁側には、真っ白な大型犬が伏せていた。
紅い隈取はない。背の神鏡もない。神気も薄い。だが、ライダーは士郎たちを見ている。その目だけは、ただの犬のものではなかった。
桜はライダーの隣に座っていた。
凛に教えられた簡易術式を、何度も確認している。屋敷の結界に自分の魔力をそっと流し、ライダーの残り香をこの家に留める。その程度のことしかできない。けれど、桜はそれを「その程度」とは言わなかった。
「先輩」
桜が声をかけた。
士郎は振り返る。
「必ず、戻ってきてください」
「ああ。戻る」
「無茶はしないでください」
「分かってる」
その答えに、桜はじっと士郎を見た。
以前なら、同じ言葉でも少し違ったかもしれない。士郎自身も、口だけで返していたかもしれない。
だが、今はその言葉を軽く扱えなかった。
「本当に、分かってる」
士郎は言い直した。
桜は小さく頷く。
「信じます」
その声は震えていた。
でも、逃げるための震えではなかった。
士郎はライダーを見る。
「桜を頼む」
白い大型犬は、ふす、と鼻を鳴らした。
迫力はない。
だが、それでも士郎には、任せろと言われた気がした。
奥の部屋の障子が、少しだけ開いた。
慎二が顔を出している。
顔色は悪い。まだ体に力が入らないのだろう。柱に手をつき、こちらを見ていた。
「……馬鹿みたいに突っ込むなよ」
慎二はぼそりと言った。
士郎は少しだけ目を丸くする。
「慎二」
「勘違いするなよ。桜が面倒になるから言ってるだけだ」
慎二はすぐにそう付け足した。
それでも、士郎は小さく頷いた。
「ああ。突っ込まない」
「信用できねぇな」
「俺も、少しそう思う」
「そこは否定しろよ」
慎二は顔をしかめた。
だが、それ以上は言わなかった。
障子を閉める直前、慎二は小さく息を吐く。
「……死ぬな」
今度は、桜の名前を出さなかった。
士郎は、その言葉を背中で受け取った。
◇
森へ向かう前、凛は最後にもう一度だけ作戦を確認した。
「いい? 勝つ作戦じゃないわ」
凛の声は冷静だった。
「死なないための作戦よ」
士郎は頷く。
セイバーも表情を引き締めた。
「バーサーカーと正面から長時間打ち合うのは無理。セイバーは前衛だけど、受け続けない。止めるんじゃなくて、流す。足を止めるだけでいい」
「承知しました」
「アーチャーは高所から狙撃。隙があれば援護に入る。でも、無理に近づかないで」
空気の中から声が返る。
「了解した」
「私は宝石で罠と足止め。視界を潰す手も使う。士郎は私の近く。絶対に前に出ない」
「分かってる」
凛は士郎を見た。
「今の返事、信用していいの?」
「努力する」
「そこは断言しなさいよ」
士郎は少しだけ苦笑した。
けれど、すぐに表情を戻す。
「断言したい。でも、自分でも怖いんだ」
凛の目が変わった。
「怖い?」
「あいつを前にしたら、また体が勝手に動くかもしれない。セイバーが危なかったら、遠坂が危なかったら、考えるより先に出るかもしれない」
士郎は右手を握る。
「だから、止めてくれ。俺が変な動きをしたら」
凛は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「了解。必要なら殴ってでも止めるわ」
「ああ。頼む」
セイバーが士郎を見る。
「マスター。私の前へ出ないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる。……分かってるんだ」
その声は、自分でも思ったより苦しかった。
理解している。
それでも、体が納得しているとは限らない。
セイバーはその苦しさを感じ取ったのか、少しだけ表情を和らげた。
「ならば、私は貴方が踏みとどまれるよう戦います」
「頼む」
「はい」
士郎たちは、衛宮邸を出た。
桜とライダーが玄関先で見送る。
門が閉まる音が、夜に小さく響いた。
◇
夜の森は、昼間とは別の場所だった。
木々が密集し、枝が空を覆っている。月明かりはところどころで途切れ、足元には濃い影が落ちていた。風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。それだけで、誰かが動いたように聞こえる。
士郎は息を整えながら歩いた。
凛が前方の地面を確認し、時折、宝石を小さく埋め込む。派手な罠ではない。踏み込んだ相手の足元を乱すためのもの。視界を潰すためのもの。逃げ道を作るためのもの。
アーチャーはすでに姿を消している。
高所へ移動したのだろう。
セイバーは士郎の少し前に立っている。
背中は小さい。
だが、その背中の向こうに剣がある。
士郎はそれを見ながら、何度も自分に言い聞かせた。
前に出るな。
今の自分が出ても、邪魔になるだけだ。
守るためには、まず生き残らなければならない。
それでも、胸の奥では別の声がする。
危なくなったら走れ。
セイバーの前に出ろ。
遠坂を庇え。
自分の体が壊れることなど、後で考えればいい。
士郎は奥歯を噛んだ。
それが自分の中から出てくる声だということが、一番怖かった。
「衛宮くん」
凛が小声で言う。
「顔が固い」
「悪い」
「謝るより呼吸」
「分かった」
士郎は深く息を吸った。
夜の冷たい空気が肺に入る。
その時、森の奥に白い影が見えた。
イリヤだった。
木々の間に、まるで月明かりから切り出されたように立っている。赤い瞳がこちらを見ていた。昨日と同じように、彼女は笑っている。
「来てくれたんだ、シロウ」
声は嬉しそうだった。
「えらいね」
セイバーが一歩前に出る。
凛が宝石を握る。
士郎はその場に立ったまま、イリヤを見る。
「約束したからな」
「うん。そういうところ、嫌いじゃないよ」
イリヤは少しだけ首を傾げた。
「でも、やっぱりみんなで来るんだ。シロウはひとりで来てくれないんだね」
「一人で来る理由がない」
凛が答えた。
イリヤは凛を見て、つまらなそうに唇を尖らせる。
「遠坂凛は、邪魔ばかりするのね」
「それが仕事だから」
「ふうん。でもいいよ」
イリヤは笑った。
「その方が、壊すものが増えるから」
森の空気が重くなった。
凛が小さく舌打ちする。
セイバーは剣を構えた。
イリヤは片手を上げる。
「来て、バーサーカー」
最初に聞こえたのは、足音ではなかった。
地面が沈むような感覚だった。
次に、木々が軋んだ。
森の奥の闇が、さらに濃い影を孕む。
それは、ゆっくりと姿を現した。
巨人。
人の形をしている。
だが、人ではない。
ただ立っているだけで、森の空気が押し潰される。巨大な体。黒い皮膚。手にした斧剣。サーヴァントというより、災害そのものが人の形を取ったようだった。
士郎の体が固まる。
知っている。
あの姿を。
あの一撃を。
自分の体が覚えている。
セイバーの横顔にも緊張が走った。
「バーサーカー……」
凛が低く呟く。
「アーチャー」
返事はない。
代わりに、空気が裂けた。
一本の矢が、夜の森を一直線に走る。
狙いはバーサーカーの肩。
矢は正確に突き刺さり、巨体をわずかに揺らした。
同時に、凛が宝石を投げる。
バーサーカーの足元で光が爆ぜた。
地面が一瞬だけ沈み、魔力の鎖が巨人の足首へ絡む。
セイバーが踏み込む。
不可視の剣が横薙ぎに走った。
アーチャーの矢。
凛の罠。
セイバーの斬撃。
三つが重なり、バーサーカーの動きが止まる。
一瞬だけ。
士郎は息を呑んだ。
いけるのか。
そう思った次の瞬間だった。
バーサーカーが、力任せに足を踏み込んだ。
凛の罠が砕ける。
魔力の鎖が引き千切られ、地面に埋め込まれていた宝石がひび割れた。
巨人は止まらない。
斧剣が振り上げられる。
「下がって!」
凛が叫ぶ。
セイバーは受けなかった。
体を半歩ずらし、剣の軌道を逸らす。
それでも、衝撃は凄まじかった。
斧剣が地面を抉り、土と木片が跳ねる。直撃していないはずなのに、風圧だけで士郎の体が後ろへ押されそうになる。
「何よ、あれ……!」
凛の声に焦りが混じる。
作戦は間違っていなかった。
初手は通った。
ただ、相手の強度が想定を超えていた。
バーサーカーが吠えた。
森全体が震える。
士郎の足がすくんだ。
セイバーは再び前へ出る。
今度は斬るためではない。
バーサーカーの進路をずらすための動き。
しかし、巨人はそれを力だけで押し潰そうとする。セイバーの剣が斧剣とぶつかり、空気が悲鳴を上げた。
「くっ……!」
セイバーの足元が沈む。
士郎の胸の奥が軋んだ。
契約が揺れる。
描き足された繋がりは確かにある。だが、バーサーカーの圧力に晒されたセイバーを通じて、士郎自身にも重さが伝わってきた。
足が前へ出た。
セイバーを助けなければ。
そう思った瞬間、士郎は自分の膝を掴むようにして踏みとどまった。
今出れば邪魔になる。
それを理解することが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「衛宮くん!」
凛の声が飛ぶ。
「分かってる!」
士郎は叫んだ。
自分に言い聞かせるように。
イリヤが、それを見ていた。
「ねえ、シロウ」
少女の声が森に響く。
「見てるだけなの?」
士郎は歯を食いしばる。
「セイバーが壊れちゃうよ。守るんじゃなかったの? 誰も傷つけたくないんじゃなかったの?」
「黙れ」
「キリツグもそうだったのかな」
その名が出た瞬間、士郎の呼吸が乱れた。
「誰かを助けるって言いながら、助けられないものをたくさん作ったのかな」
「黙れ!」
士郎は叫んだ。
足が動きかける。
凛が士郎の腕を掴んだ。
「乗るな!」
その声で、士郎はぎりぎり踏みとどまった。
イリヤは笑っている。
挑発している。
士郎を前に出させようとしている。
分かっている。
分かっているのに、胸が焼ける。
その時、バーサーカーの斧剣がセイバーを押し込んだ。
セイバーの体勢が崩れる。
「セイバー!」
士郎が叫んだ瞬間、赤い外套が夜を切った。
アーチャーだった。
両手には黒と白の双剣。
干将・莫耶。
アーチャーはセイバーの横へ入り込み、バーサーカーの斧剣の軌道を双剣でずらした。
受け止めたのではない。
受ければ砕かれる。
だから、刃の角度をずらし、力を横へ逃がす。
それでも、アーチャーの体が大きく押された。
「受けるな、セイバー!」
アーチャーが叫ぶ。
「流せ! 止めようとするな!」
「承知!」
セイバーが体勢を立て直す。
二人の剣士が、巨人の前で動きを合わせた。
セイバーが前を取る。
アーチャーが横から軌道を逸らす。
凛が足元へ罠を打ち込む。
高所から放たれた矢が、バーサーカーの動きを削る。
それでも、バーサーカーは止まらない。
士郎はアーチャーの双剣を見ていた。
黒と白の剣が、夜の森を裂く。
見慣れたはずはない。
だが、何度も見た。
キャスターの工房で。
葛木との戦いで。
そして今、バーサーカーの前で。
士郎は、その剣を見ていた。
いや、見ていたのは形ではない。
刃の厚み。
重心。
柄の長さ。
左右で噛み合うように作られた曲線。
どこに力が流れ、どこで衝撃を逃がすのか。
そんな、見えるはずのないものが、一瞬だけ頭の中に浮かんだ。
気持ちが悪かった。
知るはずのないものを知っている。
見えるはずのない内側が見えている。
外にある剣を見ているはずなのに、自分の胸の奥に同じ形が沈んでいるような、ひどく不自然な感覚だった。
「……なんだ、今の」
士郎は自分の手を見る。
そこには何もない。
だが、手の中に剣の重さだけが残っているような気がした。
「士郎?」
凛が気づく。
「いや……何でもない」
「何でもない顔じゃないわよ」
「剣の中が、見えた気がした」
凛の眉が動いた。
だが、次の瞬間、バーサーカーの咆哮が会話を断ち切った。
アーチャーが跳んだ。
黒い干将を投げる。
剣は弧を描き、バーサーカーの腕へ走る。続けて白い莫耶が別の角度から放たれる。二本の剣が交差し、巨人の動きを一瞬だけ縫い止めた。
だが、それは足止めにすぎなかった。
本命は、上空にいた。
アーチャーが弓を引く。
そこに番えられていたのは、ただの矢ではない。矢という形に押し込められた、圧縮された魔力の塊だった。赤い外套が夜風に揺れ、その弓に集まった魔力が、森の空気を震わせる。
凛が同時に宝石を三つ砕いた。
赤、青、緑の光がバーサーカーの足元で重なり、巨人の動きを一瞬だけ縫い止める。足を縛り、重心を崩し、周囲の魔力の流れを乱す。凛が用意していた中でも、特に重い手札だった。
「セイバー!」
凛が叫ぶ。
セイバーは踏み込んだ。
その顔に迷いはなかった。
ただし、余裕もない。
霊基への負担を承知で、彼女は一瞬だけ風王結界を唸らせた。不可視の剣の周囲にまとわりついていた風が、切っ先へ集まる。隠すための風ではない。貫くために束ねられた風だった。
「はああああっ!」
アーチャーの矢が背後からバーサーカーの胸を穿つ。
凛の宝石が足を縛る。
セイバーの刺突が正面から霊核へ届く。
夜の森に、強烈な魔力の衝突が走った。
並のサーヴァントなら、その一撃で霊基ごと砕け散っていた。
それほどの魔力が、一点に叩き込まれた。
バーサーカーの巨体が、大きく揺れる。
斧剣を持つ腕が止まり、膝が沈む。
そして、巨人が倒れた。
森に、重い音が響く。
士郎は息を呑んだ。
倒した。
そう思った。
いや、そう思いたかった。
凛も、セイバーも、アーチャーも、誰も油断はしていない。
それでも、一瞬だけ空気が止まった。
あれだけの攻撃を重ねたのだ。
アーチャーの本命の一矢。
凛の宝石。
セイバーの渾身の刺突。
それらを全部重ねて、ようやく届いた。
イリヤが笑った。
「すごいね」
その声は、心から楽しそうだった。
「また一回、殺せた」
凛の顔が変わる。
「一回……?」
倒れていたバーサーカーの体が動いた。
傷が塞がる。
止まっていた巨体に、再び魔力が満ちていく。
セイバーが目を見開いた。
アーチャーの表情が険しくなる。
バーサーカーが立ち上がった。
何事もなかったかのように。
「そんな……今の、致命傷だったはず」
凛の声がかすれる。
イリヤは嬉しそうに微笑んだ。
「バーサーカーはね、一回殺したくらいじゃ死なないよ」
士郎の背筋が冷たくなる。
一回。
その言葉が、あまりにも重い。
「あと何回かな?」
イリヤは歌うように言った。
バーサーカーが斧剣を持ち上げる。
凛は即座に判断した。
「撤退!」
その声に、誰も反論しなかった。
反論できなかった。
士郎は一瞬だけ、「逃げるのか」と思った。
言葉になりかけた。
だが、飲み込んだ。
逃げるのではない。
生きて戻るのだ。
ここで全員が倒れれば、次はない。
「どうやって下がる」
士郎は言った。
凛が一瞬だけ士郎を見る。
驚いた顔だった。
だが、すぐに頷く。
「私が視界を潰す。アーチャー、右の高所から牽制。セイバーは最後まで受けない。流して、下がる!」
「了解した」
「はい!」
凛が宝石を投げた。
強い光が森を白く染める。
視界が一瞬だけ潰れる。
バーサーカーは構わず進んだ。
巨体が光の中を突き破ってくる。
アーチャーの矢が連続で放たれる。
セイバーが進路をずらす。
凛が次の罠を起動する。
それでも、バーサーカーは追ってくる。
士郎は後退しながら、足元の折れた枝を掴んだ。
ただの枝。
こんなもので何ができる。
それでも、凛の方へ斧剣の風圧が迫った瞬間、士郎は反射的に魔力を流そうとした。
強化しろ。
そう思ったはずだった。
けれど、頭に浮かんだのは枝を硬くする工程ではなかった。
剣の形だった。
黒と白の双剣。
アーチャーが振るっていた、あの刃。
その瞬間、頭の奥で何かがひび割れたような感覚があった。
外にあるものを補強するのではない。
自分の内側に沈んでいた何かが、形を持って世界へ漏れ出そうとしている。
気持ち悪い。
そう思うより早く、剣の記憶が濁流のように流れ込んできた。
刃の厚み。
重心。
柄の感触。
左右で噛み合う曲線。
知らないはずの情報が、最初から自分の中にあったように浮かび上がる。
「違う、今はそれじゃない……!」
士郎は歯を食いしばる。
だが、手の中の枝が一瞬だけ形を持った。
木ではない。
鉄でもない。
何かになりかけた輪郭。
剣のようなもの。
それは次の瞬間には砕けた。
士郎の手に残ったのは、焦げた木片だけだった。
だが、その一瞬だけ、魔力の歪みがバーサーカーの刃の軌道をわずかに逸らした。
凛が身を引く。
斧剣がすぐ横の地面を叩く。
「士郎、今の!」
「分からない!」
士郎は叫んだ。
「俺にも分からない!」
アーチャーが士郎の手元を一瞥した。
表情は変わらない。
だが、その目だけが、わずかに細くなった。
追撃が来る。
セイバーが割り込む。
アーチャーが双剣を投げる。
凛が最後の宝石を割った。
森の空気が揺れる。
◇
同じ頃、衛宮邸の庭で、桜は膝をついていた。
凛に教えられた通り、屋敷の結界へ細く魔力を流す。
簡単なはずの作業だった。
ただ、流れを乱さないようにするだけ。
ライダーの残り香を、この家の中に留めるだけ。
けれど、指先は震え、息は浅くなっていた。
森の方角に、何か大きなものがある。
直接見えるわけではない。
だが、分かる。
遠くで、先輩たちが戦っている。
自分にはそこへ行けない。
今のライダーも行けない。
だから、せめて帰る場所を守る。
「先輩たちが、帰ってこられるように……」
桜は小さく呟く。
隣で伏せていた白い犬が、ゆっくりと顔を上げた。
紅い隈取も、神鏡もない。
ただの白い大型犬の姿。
それでも、その瞳は森の方角を見ていた。
ほんの一瞬、桜には見えた気がした。
白い犬の背後に、巨大な白い太陽の影が揺らめくのを。
それは光ではなく、記憶の残り香のようなものだった。
けれど、桜の魔力に寄り添い、遠くへ向かう道を照らそうとしていた。
「ライダーさん……」
白い犬は、ふす、と鼻を鳴らした。
まるで、行け、と言うように。
桜は震える手を、もう一度結界へ向けた。
「お願いします。みんなが、帰ってこられるように」
白い犬は森を見つめたまま、静かに目を細めた。
◇
その時、士郎は微かな温かさを感じた。
遠く。
森の外側。
衛宮邸の方角から、ほんの小さな朝日のような気配が流れてくる。
ライダーの力ではない。
いや、ライダーの残り香だ。
それを、桜が繋いでいる。
強いものではない。
バーサーカーを止めるほどの力などない。
けれど、士郎たちが下がる方向の空気が、ほんの少しだけ澄んだ。
足が動く。
迷わず下がれる。
凛が息を呑んだ。
「桜……!」
セイバーも気づいたのか、わずかに目を細める。
「道が、開いている」
士郎は振り返らずに言った。
「戻るぞ!」
誰も反対しなかった。
撤退は、敗北ではない。
そう自分に言い聞かせる。
バーサーカーはまだ追える。
だが、イリヤの声が響いた。
「もういいよ、バーサーカー」
巨人の動きが止まった。
斧剣を下ろす。
イリヤは森の奥で笑っていた。
「今日はここまで」
「イリヤ!」
士郎が叫ぶ。
イリヤは手を振った。
「ちゃんと分かったでしょ? バーサーカーは強いんだよ」
士郎は何も言えなかった。
「次は、逃がさないから」
イリヤの声が、夜の森に溶ける。
士郎たちは、その場を離れた。
背中に巨人の気配を感じながら。
生き延びるために。
◇
衛宮邸へ戻る道は、長かった。
誰も大きな怪我はない。
だが、全員が消耗していた。
セイバーは肩で息をしている。無理をしていないと言いながらも、バーサーカーの圧力を受け流すだけで霊基に負担がかかっている。アーチャーは姿を見せていないが、気配は少し重い。凛は宝石をかなり消費したらしく、表情が険しい。
士郎の手には、焦げた木片が残っていた。
さっき、自分が何をしたのか分からない。
強化ではなかった。
少なくとも、いつもの感覚とは違った。
アーチャーの双剣。
あの構造。
あの重さ。
頭の中に一瞬浮かんだ剣。
自分の手の中で、枝が剣になりかけた。
そして砕けた。
何だったのか。
分からない。
分からないことが、気持ち悪かった。
衛宮邸の門が見えた時、桜が玄関先に立っていた。
隣には白い大型犬のライダーがいる。
桜の顔には疲れがあった。結界の補助を続けていたのだろう。額に少し汗が浮かんでいる。それでも、士郎たちを見た瞬間、ほっとしたように息を吐いた。
「先輩……!」
「ただいま」
士郎は言った。
その言葉を口にした瞬間、ようやく帰ってきたのだと実感した。
桜は泣きそうな顔になった。
だが、こらえた。
「おかえりなさい」
ライダーが士郎たちを見る。
真っ白な犬のままだ。
だが、その目は静かに細められていた。
士郎はライダーに言う。
「桜のおかげで戻れた」
桜が驚いたように顔を上げる。
「私……?」
「ああ。途中で、道が分かった。遠坂も気づいた」
凛が頷く。
「あなたが屋敷に留めたライダーの残り香が、ほんの少しだけ外へ伸びたのよ。戦闘には使えない。でも、撤退方向を整えるには十分だった」
桜は自分の手を見る。
「私が……」
「そうよ」
凛は少しだけ笑った。
「ちゃんと役に立ったわ」
桜は何か言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、ライダーの首元に手を置く。
白い犬は、ふす、と鼻を鳴らした。
奥の部屋の障子が少し開く。
慎二がこちらを見ていた。
「……帰ってきたのかよ」
「ああ」
士郎が答えると、慎二は顔を逸らした。
「しぶといな」
「おかげさまで」
「褒めてねぇ」
慎二はそう言って、障子を閉めた。
だが、その手は少しだけ震えていた。
◇
茶の間で、凛は地図の上に新しい印をつけた。
「分かったことを整理するわ」
声は疲れているが、頭は働いている。
「まず、バーサーカーは一度殺しても死なない。あの耐久力は単なる回復じゃない。何らかの宝具か、霊基そのものに仕込まれた能力と見ていい」
「あと何回かな、って言ってた」
士郎が呟く。
「ええ。つまり、一回や二回じゃ済まない可能性が高い」
セイバーの表情が険しくなる。
「一度の致命傷で倒せない相手。しかも、純粋な力量も桁外れです」
「普通に倒す相手じゃないわ」
凛は言った。
「正面からやれば負ける。セイバーとアーチャーで一度は殺せたけど、それを何度も繰り返せるほど余裕はない。今の一回だって、かなり無理をした結果よ」
セイバーは悔しそうに目を伏せる。
「私も、次に同じ動きができるとは限りません」
アーチャーの声が静かに響いた。
「こちらの手札も見られた。次は、同じ一手では通らんだろうな」
「じゃあ、倒し方を考える」
士郎が言った。
凛が士郎を見る。
士郎は焦げた木片を握ったままだった。
「逃げた」
士郎は続ける。
「でも、生きて戻った。生きて戻らなきゃ、次はない」
凛は少しだけ目を細める。
「そうよ」
「あいつはまだ立ってる。でも、何も分からなかったわけじゃない」
士郎は拳を握る。
「次は、逃げるためじゃなくて、勝つために考える」
セイバーが頷いた。
「私も、次までに可能な限り回復します」
凛は士郎の手元に目を向けた。
「その前に、衛宮くん」
「何だ」
「さっきの、何をしたの」
士郎は焦げた木片を見る。
「分からない。強化しようとした。でも、違うものが見えた」
「違うもの?」
「剣だ。アーチャーの剣」
茶の間の空気が、ほんの少しだけ変わった。
凛が眉をひそめる。
セイバーも士郎を見る。
桜は不安そうに口を開きかけ、黙った。
アーチャーは姿を見せない。
だが、沈黙していた。
その沈黙が、逆に重かった。
凛が低く言う。
「詳しく聞かせて」
「ああ」
士郎は頷いた。
自分の中で何が起きているのか、まだ分からない。
だが、それもまた、次の戦いに必要なことなのだろう。
森の巨人は、まだ立っている。
けれど士郎たちは、初めてその理不尽に触れ、生きて戻った。
次は、逃げるためではなく、勝つために考えなければならなかった。
皆様の感想をお待ちしております!