Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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The Giant in the Woods

 

 夜の衛宮邸には、出発前の重さがあった。

 

 茶の間には凛が描いた簡単な森の見取り図が広げられている。道、木々の密集した場所、見通しの悪い斜面、アーチャーが狙撃に使えそうな高所。正確な地図ではないが、何もないよりはずっとましだった。

 

 凛は宝石をいくつか並べ、最後の確認をしている。

 

 アーチャーは姿を見せていない。

 

 だが、屋根の上か庭の影か、近くにいることは分かった。時折、凛が何もない空間へ視線を向ける。そこに返事があるわけではないが、二人の間ではそれで十分らしい。

 

 セイバーはいつもの服に着替えていた。

 

 甲冑ではない。まだ完全な戦闘態勢とは言えない。だが、白いドレス姿のままではなくなったことで、彼女自身も少しだけ落ち着いたようだった。剣は見えない。だが、その手には確かに不可視の剣がある。

 

 士郎は、玄関の方を見た。

 

 行く。

 

 森へ。

 

 バーサーカーの待つ場所へ。

 

 そう決めたのは自分だ。

 

 それでも、体の奥には冷たいものが沈んでいた。

 

 バーサーカーの斧剣を受けた記憶は、まだ消えていない。あの圧力。地面ごと叩き潰されるような感覚。自分の体が壊れた瞬間の、遅れてやってきた恐怖。

 

 できれば、もう二度と近づきたくない。

 

 だが、行かなければ向こうから来る。

 

 この家に。

 

 桜のいる場所に。

 

 慎二のいる場所に。

 

 今のライダーでは、正面から迎え撃てない。

 

 縁側には、真っ白な大型犬が伏せていた。

 

 紅い隈取はない。背の神鏡もない。神気も薄い。だが、ライダーは士郎たちを見ている。その目だけは、ただの犬のものではなかった。

 

 桜はライダーの隣に座っていた。

 

 凛に教えられた簡易術式を、何度も確認している。屋敷の結界に自分の魔力をそっと流し、ライダーの残り香をこの家に留める。その程度のことしかできない。けれど、桜はそれを「その程度」とは言わなかった。

 

「先輩」

 

 桜が声をかけた。

 

 士郎は振り返る。

 

「必ず、戻ってきてください」

 

「ああ。戻る」

 

「無茶はしないでください」

 

「分かってる」

 

 その答えに、桜はじっと士郎を見た。

 

 以前なら、同じ言葉でも少し違ったかもしれない。士郎自身も、口だけで返していたかもしれない。

 

 だが、今はその言葉を軽く扱えなかった。

 

「本当に、分かってる」

 

 士郎は言い直した。

 

 桜は小さく頷く。

 

「信じます」

 

 その声は震えていた。

 

 でも、逃げるための震えではなかった。

 

 士郎はライダーを見る。

 

「桜を頼む」

 

 白い大型犬は、ふす、と鼻を鳴らした。

 

 迫力はない。

 

 だが、それでも士郎には、任せろと言われた気がした。

 

 奥の部屋の障子が、少しだけ開いた。

 

 慎二が顔を出している。

 

 顔色は悪い。まだ体に力が入らないのだろう。柱に手をつき、こちらを見ていた。

 

「……馬鹿みたいに突っ込むなよ」

 

 慎二はぼそりと言った。

 

 士郎は少しだけ目を丸くする。

 

「慎二」

 

「勘違いするなよ。桜が面倒になるから言ってるだけだ」

 

 慎二はすぐにそう付け足した。

 

 それでも、士郎は小さく頷いた。

 

「ああ。突っ込まない」

 

「信用できねぇな」

 

「俺も、少しそう思う」

 

「そこは否定しろよ」

 

 慎二は顔をしかめた。

 

 だが、それ以上は言わなかった。

 

 障子を閉める直前、慎二は小さく息を吐く。

 

「……死ぬな」

 

 今度は、桜の名前を出さなかった。

 

 士郎は、その言葉を背中で受け取った。

 

 ◇

 

 森へ向かう前、凛は最後にもう一度だけ作戦を確認した。

 

「いい? 勝つ作戦じゃないわ」

 

 凛の声は冷静だった。

 

「死なないための作戦よ」

 

 士郎は頷く。

 

 セイバーも表情を引き締めた。

 

「バーサーカーと正面から長時間打ち合うのは無理。セイバーは前衛だけど、受け続けない。止めるんじゃなくて、流す。足を止めるだけでいい」

 

「承知しました」

 

「アーチャーは高所から狙撃。隙があれば援護に入る。でも、無理に近づかないで」

 

 空気の中から声が返る。

 

「了解した」

 

「私は宝石で罠と足止め。視界を潰す手も使う。士郎は私の近く。絶対に前に出ない」

 

「分かってる」

 

 凛は士郎を見た。

 

「今の返事、信用していいの?」

 

「努力する」

 

「そこは断言しなさいよ」

 

 士郎は少しだけ苦笑した。

 

 けれど、すぐに表情を戻す。

 

「断言したい。でも、自分でも怖いんだ」

 

 凛の目が変わった。

 

「怖い?」

 

「あいつを前にしたら、また体が勝手に動くかもしれない。セイバーが危なかったら、遠坂が危なかったら、考えるより先に出るかもしれない」

 

 士郎は右手を握る。

 

「だから、止めてくれ。俺が変な動きをしたら」

 

 凛は、しばらく黙っていた。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「了解。必要なら殴ってでも止めるわ」

 

「ああ。頼む」

 

 セイバーが士郎を見る。

 

「マスター。私の前へ出ないでください」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「分かってる。……分かってるんだ」

 

 その声は、自分でも思ったより苦しかった。

 

 理解している。

 

 それでも、体が納得しているとは限らない。

 

 セイバーはその苦しさを感じ取ったのか、少しだけ表情を和らげた。

 

「ならば、私は貴方が踏みとどまれるよう戦います」

 

「頼む」

 

「はい」

 

 士郎たちは、衛宮邸を出た。

 

 桜とライダーが玄関先で見送る。

 

 門が閉まる音が、夜に小さく響いた。

 

 ◇

 

 夜の森は、昼間とは別の場所だった。

 

 木々が密集し、枝が空を覆っている。月明かりはところどころで途切れ、足元には濃い影が落ちていた。風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。それだけで、誰かが動いたように聞こえる。

 

 士郎は息を整えながら歩いた。

 

 凛が前方の地面を確認し、時折、宝石を小さく埋め込む。派手な罠ではない。踏み込んだ相手の足元を乱すためのもの。視界を潰すためのもの。逃げ道を作るためのもの。

 

 アーチャーはすでに姿を消している。

 

 高所へ移動したのだろう。

 

 セイバーは士郎の少し前に立っている。

 

 背中は小さい。

 

 だが、その背中の向こうに剣がある。

 

 士郎はそれを見ながら、何度も自分に言い聞かせた。

 

 前に出るな。

 

 今の自分が出ても、邪魔になるだけだ。

 

 守るためには、まず生き残らなければならない。

 

 それでも、胸の奥では別の声がする。

 

 危なくなったら走れ。

 

 セイバーの前に出ろ。

 

 遠坂を庇え。

 

 自分の体が壊れることなど、後で考えればいい。

 

 士郎は奥歯を噛んだ。

 

 それが自分の中から出てくる声だということが、一番怖かった。

 

「衛宮くん」

 

 凛が小声で言う。

 

「顔が固い」

 

「悪い」

 

「謝るより呼吸」

 

「分かった」

 

 士郎は深く息を吸った。

 

 夜の冷たい空気が肺に入る。

 

 その時、森の奥に白い影が見えた。

 

 イリヤだった。

 

 木々の間に、まるで月明かりから切り出されたように立っている。赤い瞳がこちらを見ていた。昨日と同じように、彼女は笑っている。

 

「来てくれたんだ、シロウ」

 

 声は嬉しそうだった。

 

「えらいね」

 

 セイバーが一歩前に出る。

 

 凛が宝石を握る。

 

 士郎はその場に立ったまま、イリヤを見る。

 

「約束したからな」

 

「うん。そういうところ、嫌いじゃないよ」

 

 イリヤは少しだけ首を傾げた。

 

「でも、やっぱりみんなで来るんだ。シロウはひとりで来てくれないんだね」

 

「一人で来る理由がない」

 

 凛が答えた。

 

 イリヤは凛を見て、つまらなそうに唇を尖らせる。

 

「遠坂凛は、邪魔ばかりするのね」

 

「それが仕事だから」

 

「ふうん。でもいいよ」

 

 イリヤは笑った。

 

「その方が、壊すものが増えるから」

 

 森の空気が重くなった。

 

 凛が小さく舌打ちする。

 

 セイバーは剣を構えた。

 

 イリヤは片手を上げる。

 

「来て、バーサーカー」

 

 最初に聞こえたのは、足音ではなかった。

 

 地面が沈むような感覚だった。

 

 次に、木々が軋んだ。

 

 森の奥の闇が、さらに濃い影を孕む。

 

 それは、ゆっくりと姿を現した。

 

 巨人。

 

 人の形をしている。

 

 だが、人ではない。

 

 ただ立っているだけで、森の空気が押し潰される。巨大な体。黒い皮膚。手にした斧剣。サーヴァントというより、災害そのものが人の形を取ったようだった。

 

 士郎の体が固まる。

 

 知っている。

 

 あの姿を。

 

 あの一撃を。

 

 自分の体が覚えている。

 

 セイバーの横顔にも緊張が走った。

 

「バーサーカー……」

 

 凛が低く呟く。

 

「アーチャー」

 

 返事はない。

 

 代わりに、空気が裂けた。

 

 一本の矢が、夜の森を一直線に走る。

 

 狙いはバーサーカーの肩。

 

 矢は正確に突き刺さり、巨体をわずかに揺らした。

 

 同時に、凛が宝石を投げる。

 

 バーサーカーの足元で光が爆ぜた。

 

 地面が一瞬だけ沈み、魔力の鎖が巨人の足首へ絡む。

 

 セイバーが踏み込む。

 

 不可視の剣が横薙ぎに走った。

 

 アーチャーの矢。

 

 凛の罠。

 

 セイバーの斬撃。

 

 三つが重なり、バーサーカーの動きが止まる。

 

 一瞬だけ。

 

 士郎は息を呑んだ。

 

 いけるのか。

 

 そう思った次の瞬間だった。

 

 バーサーカーが、力任せに足を踏み込んだ。

 

 凛の罠が砕ける。

 

 魔力の鎖が引き千切られ、地面に埋め込まれていた宝石がひび割れた。

 

 巨人は止まらない。

 

 斧剣が振り上げられる。

 

「下がって!」

 

 凛が叫ぶ。

 

 セイバーは受けなかった。

 

 体を半歩ずらし、剣の軌道を逸らす。

 

 それでも、衝撃は凄まじかった。

 

 斧剣が地面を抉り、土と木片が跳ねる。直撃していないはずなのに、風圧だけで士郎の体が後ろへ押されそうになる。

 

「何よ、あれ……!」

 

 凛の声に焦りが混じる。

 

 作戦は間違っていなかった。

 

 初手は通った。

 

 ただ、相手の強度が想定を超えていた。

 

 バーサーカーが吠えた。

 

 森全体が震える。

 

 士郎の足がすくんだ。

 

 セイバーは再び前へ出る。

 

 今度は斬るためではない。

 

 バーサーカーの進路をずらすための動き。

 

 しかし、巨人はそれを力だけで押し潰そうとする。セイバーの剣が斧剣とぶつかり、空気が悲鳴を上げた。

 

「くっ……!」

 

 セイバーの足元が沈む。

 

 士郎の胸の奥が軋んだ。

 

 契約が揺れる。

 

 描き足された繋がりは確かにある。だが、バーサーカーの圧力に晒されたセイバーを通じて、士郎自身にも重さが伝わってきた。

 

 足が前へ出た。

 

 セイバーを助けなければ。

 

 そう思った瞬間、士郎は自分の膝を掴むようにして踏みとどまった。

 

 今出れば邪魔になる。

 

 それを理解することが、こんなにも苦しいとは思わなかった。

 

「衛宮くん!」

 

 凛の声が飛ぶ。

 

「分かってる!」

 

 士郎は叫んだ。

 

 自分に言い聞かせるように。

 

 イリヤが、それを見ていた。

 

「ねえ、シロウ」

 

 少女の声が森に響く。

 

「見てるだけなの?」

 

 士郎は歯を食いしばる。

 

「セイバーが壊れちゃうよ。守るんじゃなかったの? 誰も傷つけたくないんじゃなかったの?」

 

「黙れ」

 

「キリツグもそうだったのかな」

 

 その名が出た瞬間、士郎の呼吸が乱れた。

 

「誰かを助けるって言いながら、助けられないものをたくさん作ったのかな」

 

「黙れ!」

 

 士郎は叫んだ。

 

 足が動きかける。

 

 凛が士郎の腕を掴んだ。

 

「乗るな!」

 

 その声で、士郎はぎりぎり踏みとどまった。

 

 イリヤは笑っている。

 

 挑発している。

 

 士郎を前に出させようとしている。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、胸が焼ける。

 

 その時、バーサーカーの斧剣がセイバーを押し込んだ。

 

 セイバーの体勢が崩れる。

 

「セイバー!」

 

 士郎が叫んだ瞬間、赤い外套が夜を切った。

 

 アーチャーだった。

 

 両手には黒と白の双剣。

 

 干将・莫耶。

 

 アーチャーはセイバーの横へ入り込み、バーサーカーの斧剣の軌道を双剣でずらした。

 

 受け止めたのではない。

 

 受ければ砕かれる。

 

 だから、刃の角度をずらし、力を横へ逃がす。

 

 それでも、アーチャーの体が大きく押された。

 

「受けるな、セイバー!」

 

 アーチャーが叫ぶ。

 

「流せ! 止めようとするな!」

 

「承知!」

 

 セイバーが体勢を立て直す。

 

 二人の剣士が、巨人の前で動きを合わせた。

 

 セイバーが前を取る。

 

 アーチャーが横から軌道を逸らす。

 

 凛が足元へ罠を打ち込む。

 

 高所から放たれた矢が、バーサーカーの動きを削る。

 

 それでも、バーサーカーは止まらない。

 

 士郎はアーチャーの双剣を見ていた。

 

 黒と白の剣が、夜の森を裂く。

 

 見慣れたはずはない。

 

 だが、何度も見た。

 

 キャスターの工房で。

 

 葛木との戦いで。

 

 そして今、バーサーカーの前で。

 

 士郎は、その剣を見ていた。

 

 いや、見ていたのは形ではない。

 

 刃の厚み。

 

 重心。

 

 柄の長さ。

 

 左右で噛み合うように作られた曲線。

 

 どこに力が流れ、どこで衝撃を逃がすのか。

 

 そんな、見えるはずのないものが、一瞬だけ頭の中に浮かんだ。

 

 気持ちが悪かった。

 

 知るはずのないものを知っている。

 

 見えるはずのない内側が見えている。

 

 外にある剣を見ているはずなのに、自分の胸の奥に同じ形が沈んでいるような、ひどく不自然な感覚だった。

 

「……なんだ、今の」

 

 士郎は自分の手を見る。

 

 そこには何もない。

 

 だが、手の中に剣の重さだけが残っているような気がした。

 

「士郎?」

 

 凛が気づく。

 

「いや……何でもない」

 

「何でもない顔じゃないわよ」

 

「剣の中が、見えた気がした」

 

 凛の眉が動いた。

 

 だが、次の瞬間、バーサーカーの咆哮が会話を断ち切った。

 

 アーチャーが跳んだ。

 

 黒い干将を投げる。

 

 剣は弧を描き、バーサーカーの腕へ走る。続けて白い莫耶が別の角度から放たれる。二本の剣が交差し、巨人の動きを一瞬だけ縫い止めた。

 

 だが、それは足止めにすぎなかった。

 

 本命は、上空にいた。

 

 アーチャーが弓を引く。

 

 そこに番えられていたのは、ただの矢ではない。矢という形に押し込められた、圧縮された魔力の塊だった。赤い外套が夜風に揺れ、その弓に集まった魔力が、森の空気を震わせる。

 

 凛が同時に宝石を三つ砕いた。

 

 赤、青、緑の光がバーサーカーの足元で重なり、巨人の動きを一瞬だけ縫い止める。足を縛り、重心を崩し、周囲の魔力の流れを乱す。凛が用意していた中でも、特に重い手札だった。

 

「セイバー!」

 

 凛が叫ぶ。

 

 セイバーは踏み込んだ。

 

 その顔に迷いはなかった。

 

 ただし、余裕もない。

 

 霊基への負担を承知で、彼女は一瞬だけ風王結界を唸らせた。不可視の剣の周囲にまとわりついていた風が、切っ先へ集まる。隠すための風ではない。貫くために束ねられた風だった。

 

「はああああっ!」

 

 アーチャーの矢が背後からバーサーカーの胸を穿つ。

 

 凛の宝石が足を縛る。

 

 セイバーの刺突が正面から霊核へ届く。

 

 夜の森に、強烈な魔力の衝突が走った。

 

 並のサーヴァントなら、その一撃で霊基ごと砕け散っていた。

 

 それほどの魔力が、一点に叩き込まれた。

 

 バーサーカーの巨体が、大きく揺れる。

 

 斧剣を持つ腕が止まり、膝が沈む。

 

 そして、巨人が倒れた。

 

 森に、重い音が響く。

 

 士郎は息を呑んだ。

 

 倒した。

 

 そう思った。

 

 いや、そう思いたかった。

 

 凛も、セイバーも、アーチャーも、誰も油断はしていない。

 

 それでも、一瞬だけ空気が止まった。

 

 あれだけの攻撃を重ねたのだ。

 

 アーチャーの本命の一矢。

 

 凛の宝石。

 

 セイバーの渾身の刺突。

 

 それらを全部重ねて、ようやく届いた。

 

 イリヤが笑った。

 

「すごいね」

 

 その声は、心から楽しそうだった。

 

「また一回、殺せた」

 

 凛の顔が変わる。

 

「一回……?」

 

 倒れていたバーサーカーの体が動いた。

 

 傷が塞がる。

 

 止まっていた巨体に、再び魔力が満ちていく。

 

 セイバーが目を見開いた。

 

 アーチャーの表情が険しくなる。

 

 バーサーカーが立ち上がった。

 

 何事もなかったかのように。

 

「そんな……今の、致命傷だったはず」

 

 凛の声がかすれる。

 

 イリヤは嬉しそうに微笑んだ。

 

「バーサーカーはね、一回殺したくらいじゃ死なないよ」

 

 士郎の背筋が冷たくなる。

 

 一回。

 

 その言葉が、あまりにも重い。

 

「あと何回かな?」

 

 イリヤは歌うように言った。

 

 バーサーカーが斧剣を持ち上げる。

 

 凛は即座に判断した。

 

「撤退!」

 

 その声に、誰も反論しなかった。

 

 反論できなかった。

 

 士郎は一瞬だけ、「逃げるのか」と思った。

 

 言葉になりかけた。

 

 だが、飲み込んだ。

 

 逃げるのではない。

 

 生きて戻るのだ。

 

 ここで全員が倒れれば、次はない。

 

「どうやって下がる」

 

 士郎は言った。

 

 凛が一瞬だけ士郎を見る。

 

 驚いた顔だった。

 

 だが、すぐに頷く。

 

「私が視界を潰す。アーチャー、右の高所から牽制。セイバーは最後まで受けない。流して、下がる!」

 

「了解した」

 

「はい!」

 

 凛が宝石を投げた。

 

 強い光が森を白く染める。

 

 視界が一瞬だけ潰れる。

 

 バーサーカーは構わず進んだ。

 

 巨体が光の中を突き破ってくる。

 

 アーチャーの矢が連続で放たれる。

 

 セイバーが進路をずらす。

 

 凛が次の罠を起動する。

 

 それでも、バーサーカーは追ってくる。

 

 士郎は後退しながら、足元の折れた枝を掴んだ。

 

 ただの枝。

 

 こんなもので何ができる。

 

 それでも、凛の方へ斧剣の風圧が迫った瞬間、士郎は反射的に魔力を流そうとした。

 

 強化しろ。

 

 そう思ったはずだった。

 

 けれど、頭に浮かんだのは枝を硬くする工程ではなかった。

 

 剣の形だった。

 

 黒と白の双剣。

 

 アーチャーが振るっていた、あの刃。

 

 その瞬間、頭の奥で何かがひび割れたような感覚があった。

 

 外にあるものを補強するのではない。

 

 自分の内側に沈んでいた何かが、形を持って世界へ漏れ出そうとしている。

 

 気持ち悪い。

 

 そう思うより早く、剣の記憶が濁流のように流れ込んできた。

 

 刃の厚み。

 

 重心。

 

 柄の感触。

 

 左右で噛み合う曲線。

 

 知らないはずの情報が、最初から自分の中にあったように浮かび上がる。

 

「違う、今はそれじゃない……!」

 

 士郎は歯を食いしばる。

 

 だが、手の中の枝が一瞬だけ形を持った。

 

 木ではない。

 

 鉄でもない。

 

 何かになりかけた輪郭。

 

 剣のようなもの。

 

 それは次の瞬間には砕けた。

 

 士郎の手に残ったのは、焦げた木片だけだった。

 

 だが、その一瞬だけ、魔力の歪みがバーサーカーの刃の軌道をわずかに逸らした。

 

 凛が身を引く。

 

 斧剣がすぐ横の地面を叩く。

 

「士郎、今の!」

 

「分からない!」

 

 士郎は叫んだ。

 

「俺にも分からない!」

 

 アーチャーが士郎の手元を一瞥した。

 

 表情は変わらない。

 

 だが、その目だけが、わずかに細くなった。

 

 追撃が来る。

 

 セイバーが割り込む。

 

 アーチャーが双剣を投げる。

 

 凛が最後の宝石を割った。

 

 森の空気が揺れる。

 

 ◇

 

 同じ頃、衛宮邸の庭で、桜は膝をついていた。

 

 凛に教えられた通り、屋敷の結界へ細く魔力を流す。

 

 簡単なはずの作業だった。

 

 ただ、流れを乱さないようにするだけ。

 

 ライダーの残り香を、この家の中に留めるだけ。

 

 けれど、指先は震え、息は浅くなっていた。

 

 森の方角に、何か大きなものがある。

 

 直接見えるわけではない。

 

 だが、分かる。

 

 遠くで、先輩たちが戦っている。

 

 自分にはそこへ行けない。

 

 今のライダーも行けない。

 

 だから、せめて帰る場所を守る。

 

「先輩たちが、帰ってこられるように……」

 

 桜は小さく呟く。

 

 隣で伏せていた白い犬が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 紅い隈取も、神鏡もない。

 

 ただの白い大型犬の姿。

 

 それでも、その瞳は森の方角を見ていた。

 

 ほんの一瞬、桜には見えた気がした。

 

 白い犬の背後に、巨大な白い太陽の影が揺らめくのを。

 

 それは光ではなく、記憶の残り香のようなものだった。

 

 けれど、桜の魔力に寄り添い、遠くへ向かう道を照らそうとしていた。

 

「ライダーさん……」

 

 白い犬は、ふす、と鼻を鳴らした。

 

 まるで、行け、と言うように。

 

 桜は震える手を、もう一度結界へ向けた。

 

「お願いします。みんなが、帰ってこられるように」

 

 白い犬は森を見つめたまま、静かに目を細めた。

 

 ◇

 

 その時、士郎は微かな温かさを感じた。

 

 遠く。

 

 森の外側。

 

 衛宮邸の方角から、ほんの小さな朝日のような気配が流れてくる。

 

 ライダーの力ではない。

 

 いや、ライダーの残り香だ。

 

 それを、桜が繋いでいる。

 

 強いものではない。

 

 バーサーカーを止めるほどの力などない。

 

 けれど、士郎たちが下がる方向の空気が、ほんの少しだけ澄んだ。

 

 足が動く。

 

 迷わず下がれる。

 

 凛が息を呑んだ。

 

「桜……!」

 

 セイバーも気づいたのか、わずかに目を細める。

 

「道が、開いている」

 

 士郎は振り返らずに言った。

 

「戻るぞ!」

 

 誰も反対しなかった。

 

 撤退は、敗北ではない。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 バーサーカーはまだ追える。

 

 だが、イリヤの声が響いた。

 

「もういいよ、バーサーカー」

 

 巨人の動きが止まった。

 

 斧剣を下ろす。

 

 イリヤは森の奥で笑っていた。

 

「今日はここまで」

 

「イリヤ!」

 

 士郎が叫ぶ。

 

 イリヤは手を振った。

 

「ちゃんと分かったでしょ? バーサーカーは強いんだよ」

 

 士郎は何も言えなかった。

 

「次は、逃がさないから」

 

 イリヤの声が、夜の森に溶ける。

 

 士郎たちは、その場を離れた。

 

 背中に巨人の気配を感じながら。

 

 生き延びるために。

 

 ◇

 

 衛宮邸へ戻る道は、長かった。

 

 誰も大きな怪我はない。

 

 だが、全員が消耗していた。

 

 セイバーは肩で息をしている。無理をしていないと言いながらも、バーサーカーの圧力を受け流すだけで霊基に負担がかかっている。アーチャーは姿を見せていないが、気配は少し重い。凛は宝石をかなり消費したらしく、表情が険しい。

 

 士郎の手には、焦げた木片が残っていた。

 

 さっき、自分が何をしたのか分からない。

 

 強化ではなかった。

 

 少なくとも、いつもの感覚とは違った。

 

 アーチャーの双剣。

 

 あの構造。

 

 あの重さ。

 

 頭の中に一瞬浮かんだ剣。

 

 自分の手の中で、枝が剣になりかけた。

 

 そして砕けた。

 

 何だったのか。

 

 分からない。

 

 分からないことが、気持ち悪かった。

 

 衛宮邸の門が見えた時、桜が玄関先に立っていた。

 

 隣には白い大型犬のライダーがいる。

 

 桜の顔には疲れがあった。結界の補助を続けていたのだろう。額に少し汗が浮かんでいる。それでも、士郎たちを見た瞬間、ほっとしたように息を吐いた。

 

「先輩……!」

 

「ただいま」

 

 士郎は言った。

 

 その言葉を口にした瞬間、ようやく帰ってきたのだと実感した。

 

 桜は泣きそうな顔になった。

 

 だが、こらえた。

 

「おかえりなさい」

 

 ライダーが士郎たちを見る。

 

 真っ白な犬のままだ。

 

 だが、その目は静かに細められていた。

 

 士郎はライダーに言う。

 

「桜のおかげで戻れた」

 

 桜が驚いたように顔を上げる。

 

「私……?」

 

「ああ。途中で、道が分かった。遠坂も気づいた」

 

 凛が頷く。

 

「あなたが屋敷に留めたライダーの残り香が、ほんの少しだけ外へ伸びたのよ。戦闘には使えない。でも、撤退方向を整えるには十分だった」

 

 桜は自分の手を見る。

 

「私が……」

 

「そうよ」

 

 凛は少しだけ笑った。

 

「ちゃんと役に立ったわ」

 

 桜は何か言おうとして、言葉が出なかった。

 

 代わりに、ライダーの首元に手を置く。

 

 白い犬は、ふす、と鼻を鳴らした。

 

 奥の部屋の障子が少し開く。

 

 慎二がこちらを見ていた。

 

「……帰ってきたのかよ」

 

「ああ」

 

 士郎が答えると、慎二は顔を逸らした。

 

「しぶといな」

 

「おかげさまで」

 

「褒めてねぇ」

 

 慎二はそう言って、障子を閉めた。

 

 だが、その手は少しだけ震えていた。

 

 ◇

 

 茶の間で、凛は地図の上に新しい印をつけた。

 

「分かったことを整理するわ」

 

 声は疲れているが、頭は働いている。

 

「まず、バーサーカーは一度殺しても死なない。あの耐久力は単なる回復じゃない。何らかの宝具か、霊基そのものに仕込まれた能力と見ていい」

 

「あと何回かな、って言ってた」

 

 士郎が呟く。

 

「ええ。つまり、一回や二回じゃ済まない可能性が高い」

 

 セイバーの表情が険しくなる。

 

「一度の致命傷で倒せない相手。しかも、純粋な力量も桁外れです」

 

「普通に倒す相手じゃないわ」

 

 凛は言った。

 

「正面からやれば負ける。セイバーとアーチャーで一度は殺せたけど、それを何度も繰り返せるほど余裕はない。今の一回だって、かなり無理をした結果よ」

 

 セイバーは悔しそうに目を伏せる。

 

「私も、次に同じ動きができるとは限りません」

 

 アーチャーの声が静かに響いた。

 

「こちらの手札も見られた。次は、同じ一手では通らんだろうな」

 

「じゃあ、倒し方を考える」

 

 士郎が言った。

 

 凛が士郎を見る。

 

 士郎は焦げた木片を握ったままだった。

 

「逃げた」

 

 士郎は続ける。

 

「でも、生きて戻った。生きて戻らなきゃ、次はない」

 

 凛は少しだけ目を細める。

 

「そうよ」

 

「あいつはまだ立ってる。でも、何も分からなかったわけじゃない」

 

 士郎は拳を握る。

 

「次は、逃げるためじゃなくて、勝つために考える」

 

 セイバーが頷いた。

 

「私も、次までに可能な限り回復します」

 

 凛は士郎の手元に目を向けた。

 

「その前に、衛宮くん」

 

「何だ」

 

「さっきの、何をしたの」

 

 士郎は焦げた木片を見る。

 

「分からない。強化しようとした。でも、違うものが見えた」

 

「違うもの?」

 

「剣だ。アーチャーの剣」

 

 茶の間の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 凛が眉をひそめる。

 

 セイバーも士郎を見る。

 

 桜は不安そうに口を開きかけ、黙った。

 

 アーチャーは姿を見せない。

 

 だが、沈黙していた。

 

 その沈黙が、逆に重かった。

 

 凛が低く言う。

 

「詳しく聞かせて」

 

「ああ」

 

 士郎は頷いた。

 

 自分の中で何が起きているのか、まだ分からない。

 

 だが、それもまた、次の戦いに必要なことなのだろう。

 

 森の巨人は、まだ立っている。

 

 けれど士郎たちは、初めてその理不尽に触れ、生きて戻った。

 

 次は、逃げるためではなく、勝つために考えなければならなかった。





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