女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
地下室の空気が、急激に重く、冷たく変わっていく。
オールマイトの放つ、太陽のように輝く圧倒的な光。
対するフローレンスから滲み出る、夜の深淵を湛えた、底知れぬ月光。
二つの異質なオーラが衝突し、室内の電灯が不快なノイズを立てて一斉に破裂した。
暗転した瞬間、部屋の隅で人質の少女が短い悲鳴を上げた。オールマイトは無意識に半歩だけ位置を変え、崩れかけた天井と少女の間へ自分の体を差し入れる。フローレンスを捕らえるなら踏み込むべき場面でありながら、彼は目の前の命を盾にして勝つことを選べない。その性質をフローレンスは弱さと断じなかったが、戦場で読める制約としては余すところなく利用した。
闇が支配する室内で、フローレンスの銀眼だけが怪しく輝き続けている。
「そこまでだ、月狩! これ以上の抵抗は無意味だ!」
オールマイトが、その巨大な手の手のひらを広げ、フローレンスの肩を掴もうと鋭い踏み込みを見せた。
彼の放つ突風が室内の瓦礫を吹き飛ばす。
力任せに振るえば、老朽化した柱も人質も無事では済まない。ゆえにオールマイトの手は速くとも、掴む直前には必ず威力を絞る。その僅かな減速を、幾夜もの狩りで生き残った者が見逃すはずもなかった。
しかし、フローレンスは正面からの力比べを最初から放棄していた。
彼女の体が滑るように後ろへと沈む。
それは、重力を完全に無視したかのような、静かで、滑らかなバックステップ。
オールマイトの強固な手は彼女の衣服の裾すら掠めることなく、虚しく空を切った。
「なっ……!?」
オールマイトは一瞬の目眩を覚えた。
彼女が漂わせる、あの青白い月光の歪みのせいだった。
彼女の周囲に澱む神秘は、この世界における空間の距離感や輪郭を物理的に狂わせているのだ。
手が届くはずの距離が一瞬にして遠く感じられ、彼女の位置情報そのものが、彼の脳の認識からズレていく。
これが狩人の、そして啓蒙を極めた上位者の身のこなし。
フローレンスは影のように滑らかに、室内の瓦礫や壁の隙間を利用して、オールマイトの死角へと回り込み続ける。
速さだけなら、正面から追い縋ることはできる。だが床には負傷者があり、天井には亀裂が走り、狭い地下室へ腕を振り抜けば衝撃だけで壁が崩れる。対してフローレンスは、砕けた机の脚一本、垂れた配線一本まで、自分と巨体の間へ置く障害として選んでいた。勝とうとしているのではない。
戦う価値のない相手から、最小の手数で狩場を離れようとしている。その冷めた判断が、オールマイトには力の差以上にもどかしかった。
「私を神楽木と同じ『殺人者』という低俗な言葉で括るつもりね」
彼女の声が闇のあちこちから反響するように聞こえてくる。
「実につまらない括りだ。私は狩人で、あれは血に酔った獣だった」
「言葉遊びはやめなさい! 命を奪う権利など、誰にもない!」
「……これ以上の問答は、時間の無駄だわ」
権利も承認も必要としないという返答は、オールマイトの正義と最も遠い場所にあった。彼の力は人々から託され、人々を安心させるために振るわれる。フローレンスの力は誰にも託されず、誰の安心も求めず、ただ彼女自身の確信だけで完結している。互いに同じ言葉を使って説得できる余地がないことを、二人はこの短いやり取りで理解した。
オールマイトは周囲の瓦礫を払い除けながら、なおも彼女を捕らえようと躍動する。
しかし、彼の心の片隅には、先ほど救出した人質の少女の安全を確保せねばならないという、ヒーローとしての優先事項があった。
その、ほんのわずかな迷いと責任感。
フローレンスはそれすらも完璧に利用していた。
彼女は少女のいる方向とは真逆に位置取りをし、自らへと注意を引きつけながら、ゆっくりと廃ビルの外へと繋がる闇の奥へと後退していく。
「獣狩りは終わった。お前と遊ぶほど暇ではないの」
彼女が小さく囁いた瞬間。
地下室の入り口から数発の発煙弾が投げ込まれた。
シュゥゥゥ、と不快な音を立てて広がる、視界を遮る高濃度の白い煙。
それと同時に廃ビルの周囲に、公安の清掃部隊の足音が次々と響き始める。
足音は揃っていた。封鎖地点と回収対象をあらかじめ割り振られた部隊の正確さで近づいてくる。彼らは神楽木の生死を確認するより先に外周を閉じ、監視機器と通信端末を押さえ始めていた。公安はこの結末を予測していた。それどころか、オールマイトが到着してなお止められない時刻を選んだのではないか。その疑念が彼の拳をいっそう強く握らせた。
「オールマイト、そこまでだ!」
通信機から響く、公安長官の冷徹な声。
すでに公安の特殊部隊が現場を包囲し、事後処理と情報の隠蔽を同時に開始していた。
煙が晴れたとき、血濡れた床にも、崩れた壁際にも、フローレンスの姿だけが見当たらなかった。残された人質と倒れた護衛を救護班が確保し、神楽木の亡骸には公安の隊員が近づいていく。
オールマイトは自らの拳を強く握りしめ、ただ無言でその闇を見つめていた。
背後では救護班が人質の少女を担架へ移し、別の隊員が神楽木の遺体へ遮蔽布を掛けていた。誰も月狩の名を口にしない。問いかけても、現場指揮官は保全命令を繰り返すだけで、オールマイトが見たものを公的な記録へ残す意思すら見せなかった。捕らえ損ねたのは一人の少女だけではない。彼女を通路の向こうへ逃がし、直後から事実そのものを解体し始めた巨大な仕組みもまた、彼の手の間をすり抜けている。
正面から殴り合う相手ならば、どれほど強くとも立ち向かえる。だがフローレンスは勝敗を求めず、公安は姿を持たず、救うべき少女だけが確かな重みを伴って残された。力を振るうほど守るものを壊しかねない状況で、平和の象徴という肩書は何の答えも与えてくれなかった。
この少女は単なる危険な能力者でも、ヴィランでもない。
ヒーロー社会の光が、決して照らすことのできない、深淵のその先に住まう、異質の存在なのだ。
その確信が、彼の心に決定的な亀裂となって刻み込まれた。
次に会えば止める。その決意だけは揺らがない。けれど同時に、もう一度法へ引き渡せば今度こそ守り切れるのかという疑念も消えなかった。その二つが同じ胸にあることこそ、月狩が残した最も深い傷だった。