現れたオールド・タイム・ロンドンは、深海の底の都市だった。
霧の夜は水底に沈んでいて、空には淡く発光する魚が泳いでいる。
次の光がゆらゆらと揺れ、霧に隠れてぼやけて不気味だが幻想的な空気を醸し出していた。
通信阻害によって短いものとなった阿笠博士の助言であったが、最低限の情報は得ることができた。
コナン君が難しい顔をして上を見上げた。
「どうして水の底なんだろうね。阿笠博士が言うには普通のロンドンのはずだったみたいだけど」
「確かに、不思議よね」
蘭ちゃんが困惑のままに空を眺めている。
ガスライトは水底にも関わらず煌々と灯っていて、これがただのエフェクトに近いことを示している。
おそらく、悪霊の力が関わって来ているのだろう。
何か儀式的な側面のために、ここを水底に変えているのだ。
警戒する弟君が私の懐に入ってぴたりと出てこなくなっている。
私はそのまま弟君の魂を包み込んでもちもちした。
『えへへ。兄君が撫でてくれた。もっと』
『よーしよしよしよし』
無心でモチモチして癒されていると、ウロウロと諸星君の取り巻きの太っちょ君……確か銀行頭取の子だったか。
太っちょ君がうろつくペンケース大の発光する魚に近づいていく。
そしてちょいちょい、とつついた。
瞬間。
魚が豹変。
背鰭を真っ赤に染めて、こぼれ落ちんばかりに目を見開いて牙を向いた。
素早い動きで太っちょ君の頭蓋に食いつき、驚くべき顎の力にてその肉を噛み切り骨を砕いた。
吹き出した血飛沫が水底の水にぼんやりと赤い霧を作る。
事切れた太っちょ君が倒れ込み、次の瞬間光となって消えていく。
唖然としたコナン君が叫んだ。
「ッ逃げろ!!!!」
訳もわからずがむしゃらに逃げ出すも、地理がわかるわけでもなくどうしようもない。
蘭ちゃんが空手で1匹撃退したが、数が多くてかすり傷が増えていく。
私も諸星君の正面に迫る魚を1匹処理したが、埒が明かない。
光彦君が頭を隠しながら悲鳴を上げた。
「逃げましょう!ひとまず建物の中に隠れないと!」
「建物ってどこにだよ!」
「あかりは灯っています!おそらく住民は皆建物の中に避難している!公共の建物に向かうんです!」
私の発言にコナン君が苦い顔をした。
全力で思考を巡らせているんだろう。
私たちがある程度動けることを警戒して、魚たちが距離をとってこちらを威嚇している。
「ザ・ロイヤル・ロンドン病院だ!博士の見せてくれた地図が正しいなら、この近くに1740年創立の大学病院がある!こっちだ!」
コナン君の案内に従って慌てて走り出す。
魚たちはピラニアのように牙を剥き出しにしてそれを執拗に追いかけた。
全員が無事逃げられたのはひとえに幸運ただ一つだったろう。
たどり着いたザ・ロイヤル・ロンドン病院の入り口で、素早く異変に気づいた年配の看護師さんがドアを細く開けてこちらを手招きした。
「貴方たち!早くこっちへ!」と言って入れてくれる。
私は追って来た2匹を素早く処理し、建物内に魚が入るのを防いだ。
看護師さんが心配そうにへたれ込んだ子供たちを助け起こす。
「逃げ遅れたのかい!こんな時間になる前にどこも屋根くらい貸してくれただろうに!」
「入れていただきありがとうございます。本当に助かりました」
お礼を言うと、看護婦さんは「水を飲むかい、持ってくるよ」と優しく声をかけてくれた。
私たちをストリートチルドレンだと思っているのかもしれない。
皆でありがたく水を飲んでいると、蘭ちゃんが恐怖に満ちた顔で問いかけた。
「すみません、あの魚は一体何なんですか?」
「田舎から出て来たのかい。今のロンドンは危険なのによくやるよ。……あれは魚だよ。人を食う。昨晩も三人も運ばれて来た。手遅れだったけどね」
看護師のおばさんは憂鬱そうにため息をついた。
「どこから来たのかはわからない。でもジャックザリッパー騒ぎもあるのに、夜はもう人間の時間じゃなくなってしまった」
「ジャックザリッパーは魚に襲われないの?」
「さてね。何か条件があるのか、逃げ遅れた人を切り裂いて殺すのさ。その死体は魚も食わないからよくわかる」
「昨晩もレストレード警部が来たよ」と言って看護師さんは椅子に座った。
「この受付の部屋から奥は立ち入り禁止だよ。毛布は貸してあげるからそれで夜を過ごしな」
「ありがとうございます。明るくなったら出て行きますから」
「次からは気をつけて。夜は危険だから、逃げ遅れたらあっという間にお陀仏だ」
奥に引っ込んでいく看護婦さんの姿をぼんやり見ながら、諸星君のとりまきの一人、光彦君似の敬語の子が俯いた。
「これから私たち、どうすればいいんでしょう」
「ジャックザリッパーの捕獲がゲームクリア目標なのは間違いない。問題はあの魚だけどな」
コナン君が力強く宣言した。
「ひとまずシャーロックホームズに会いに行こう」
「はぁ?それって小説の登場人物じゃねーか」
諸星君が呆れたように言う。
コナン君は首を振ってそれを否定した。
「さっき看護師さんが『レストレード警部が来てた』って言ったろ?レストレード警部といえばシャーロック・ホームズの登場人物だ。このタイミングでわざわざ口に出すってことはヒントの可能性が高い」
「そうですね。僕も同意見です。どうやら魚は夜しか出ないようなので、明日明るくなったらベイカー街に向かいましょう」
「ここからベイカー街までは結構あるけど…まあ、頑張るしかねーな。幸いここはゲーム内。実際の体力は問われないしな」
不安そうな歩美ちゃんの手を、蘭ちゃんが握って元気づけてあげている。
優しい人だ。
多分靴擦れもないから、明日は優雅な革靴の彼らも安心して歩けることだろう。
およそ8キロほどあるから、子供の足なら2時間ってところか。
コナン君が優しく笑って皆を鼓舞した。
「大丈夫、絶対生き残れるさ。元気出していこう」
子供達の不安な顔に僅かに光が浮かぶ。
流石コナン君だと、私は思った。
さて、短い睡眠を終えて翌日のことである。
実ゲーム時間とは同期していないだろうが、それなりに時間は経ったらしい。
ビッグベンが指し示す人数は、残り13名となっていた。
私たちは11人グループで、太っちょ君が脱落して残り10人。
もうすでに私たち以外は3名しか生きのこっていないことになる。
ゲームスピードの違いもあるが、やはり初撃の魚で大部分が刈り取られたと考えていいだろう。
やはり太っちょ君が無惨な死に様を見せたのはショックだったのか、諸星君達は覇気が無かった。
「江守、痛かったのかな」と髪を一つ縛りの子が呟く場面もあった。
ホームズがダートムーアで外出中という原作展開によって私たちのホームズ邂逅は阻害されたが。
モラン大佐が根城とするトランプ・クラブの場所は把握した。
ジャック・ザ・リッパーはどうやらモリアーティ教授の子飼という設定らしい。
だとするなら、ジャック・ザ・リッパーの行方を知るのにモリアーティ教授を使うのは良い手だろう。
夕方、もうすぐ沈み、獰猛な肉食魚の時間がやってくる。
怯える子供達を鼓舞し、「シャキッとしろてめーら!」と諸星君が声を上げた。
トランプクラブは夕方から夜にかけての店だ。
危険は必ず冒す必要があった。
髪の毛を後ろで一つ縛りにした子、確か与党政治家の子だったか。
その子が心底困惑したように眉のハの字に下げた。
「なぁ。なんであのノアズアークとかいうやつは俺らを狙ってるんだ」
「それはおそらく、ここにいる子供は皆、著名人の子供だからでしょうね。皆将来を約束されている。つまり成り代われば、効率的に力を手にできるということだ」
私の言葉に光彦君似の子が震え上がった。
「そんなの、私達は好きで有名人の子に生まれて来たわけじゃありません!」
「父さん、母さん……」
嘆く子らに、少年探偵団も暗い顔をしている。
彼らとて立場は同じだが、自分のせいでないことで命を狙われる辛さを思っているのだろう。
優しい子達だからな。
「悪意とはそういうものです。相手の都合とは関係なしに振り上げられる害ある力。だからこそ社会はそれを忌避し、取り締まる」
それを取り締まるのがあなたの父親なんだぞと、そう言うメッセージを込めて諸星君を見つめる。
諸星君がごくりと、息を呑んだようだった。
「助けは来ないんですか」
「難しいんじゃないかしら」
灰原さんが素っ気なく答えた。
「このコクーンには不意な切断でエラーが出ないよう、大容量のバッテリーが積まれてるわ。上手く使えば私たちの脳を茹でられる程度のエネルギーがあるってわけ」
「無理やり引き摺り出そうとすればジエンド、と。とすると、まずは犯人の要求通り、ゲームのクリアが第一目標になりますね」
灰原さんの解説で我々に選択肢がないことはよくわかった。
いかに私とて、脳をチンされれば死ぬしかなかろう。
いや、能力を使えば生き残れるが逆に何で生きてんのって話になると言うか。
不意に、諸星君がコナン君に凄んだ。
「おいガキ、オメーの親はなんだ」
「あー、僕は新一兄ちゃんの親戚で…」
「新一?誰だ」
うむむ、という顔の諸星君に、自己認識が有名人だったコナン君はむっつりした。
与党政治家の子がパッと顔を明るくして声を上げる。
「工藤新一じゃねー?日本警察の救世主の。父親がこのコクーンのシナリオ監修やってたはずだぜ」
「お前相変わらずすげぇな。」
「人の顔と名前はまじで生命線だってのは親父の口癖だからな」
「ふぅん、だったらこのステージの攻略のヒントも聞いてんじゃねーか?」
諸星君の言葉に。コナン君は困って肩をすくめた。
「知らないよ。自分から種明かしをしない人だし。なにより、たぶんノアズアークの手が入って大きくシナリオが変わってる」
「ちっ………ほんと何なんだよ、ノアズアークってやつは」
諸星君が吐き捨てる。
あれがノアズアークの意思かどうかは正直怪しいところだが。
ノアズアークを消去すれば悪霊どもも依代を失い大きく弱体化することは間違いない。
ノアズアークもサワダヒロキも、欲深く自分勝手な大人に弄ばれて使い潰される。
胸糞悪いから、せめて、悪霊だけでも潰しておかないと。
「ともかく、トランプクラブには俺が行く。多分モラン大佐とうまく交渉すれば、何とかなるはずだ」
「流石に多勢に無勢ですよ。どこかに追い込めませんか」
「難しいだろうな。動線はあってると思うから、ひとまず様子を見ることにする」
コナン君がいうなら間違いないだろう。
乱闘になれば我々も半分以下になることは確実なので、できれば避けたいところである。
「僕らは手分けして退避経路を再確認しましょう魚が出る前に逃げ込める場所を整備しておくんです」
「わかった!」
「頼んだぜ、オメーら!」と、名実ともにリーダーのコナン君が声を上げた。
・表の世界
ノアズアークの「子供の体乗っ取り」だけは伏せられているが、それ以外は大人向けに放映されてる。
都合の悪い会話は逐次ノイズかけてる。
既に工藤優作は乗っ取りについて想像がついている。
降谷さんは知っていたのに事前に大事件を防げなくて、みすみす空君をこんな危険に晒して大鬱。