湊朔夜(みなと さくや)。それが少年の名だ。
北海道、小樽の静かな港町。ロシア人の父と日本人の母の間に生まれた彼は、父譲りの白い髪と灰色の瞳を持っていた。周りと少し違うその容姿を除けば、元軍人の父と時折山へ狩りに出かけるだけの、どこにでもある普通の日常を送る少年だった。
しかし、その日常は突如として破られる。
ある日の夕暮れ。港町で友人と別れ、いつもの帰路についていた時だった。背後から音もなく近づいた影。強烈な衝撃が少年の頭を割り、視界が暗転する。
――それが、すべての終わりで、すべての始まりだった。
どれほどの時間が経っただろうか。目を覚ました朔夜は、手足を縄で固く縛られ、頭から粗末な袋を被せられていた。
不快な振動と、絶え間なく揺れる感覚。車の荷台に乗せられているのだと悟る。袋の隙間から、どこか怯えたような子供たちの声が微かに聞こえていた。自分と同じように、どこかから拐われてきたのだろうか。だが、当時の朔夜にそれを確かめる術はなかった。
幾度も車を乗り継ぎ、昼か夜かもわからぬ暗闇の旅路の果て、ようやく引き剥がされるように袋が取られた。数日ぶりに浴びる眩しい光の中、朔夜が目にしたのは、異常な光景だった。
そこには自分と同年代の子供たちが、数百人も集められ、怯え、泣き叫んでいた。そして彼らを囲むのは、自動小銃を構えた、一目で普通ではないとわかる男たち。飛び交う言葉の響きから、ここが日本ではないことだけはすぐに理解できた。
パァン、と乾いた音が響き渡る。
リーダーらしき男が、天に向けて拳銃を発砲したのだ。子供たちの悲鳴がさらに跳ね上がる。
男が何かを怒鳴り散らすと、周囲の男たちも一斉に空へ銃弾をぶちまけた。耳を聾するような銃声の嵐に、子供たちは恐怖で声を失い、やがて静まり返った。
静寂の中、リーダーの男がニヤニヤと笑いながら、一人の子供に銃を差し出した。
その子は恐怖に震えながら、首を横に振って拒否した。
次の瞬間、男の銃口から炎が吹き、その子の頭部が文字通り消し飛んだ。
再び湧き上がる悲鳴。それを圧殺するように響く脅迫の銃声。ここにいる全員が、言葉ではなく本能で理解した。
――逆らえば、殺される。
それからの日々は、地獄の訓練だった。
子供たちは小さな手に銃を持たされ、戦い方を叩き込まれた。成績の悪い者、脱落した者は、見せしめとしてその場で即刻処刑された。
そんな中、朔夜は「父との狩猟経験」という唯一のアドバンテージを持っていた。銃の扱い、サバイバル技術、気配の殺し方。彼の能力は、子供たちの中で群を抜いていた。
その才能に目をつけたリーダーは、朔夜を訓練から引き抜き、すぐさま実戦へと投入した。
命令は、敵対組織の上官の暗殺。
しくじれば、自分だけでなく、寝食を共にするようになった他の子供たちまで連座で殺される。生き残るための競争相手でありながら、同時に奇妙な絆で結ばれつつあった仲間たちの命が、朔夜の指先に懸かっていた。
見知らぬ誰かを殺すか、仲間たちが死ぬか。選択の余地など、最初からなかった。
朔夜は敵の厳重な警戒を掻い潜り、目標のいる建物へと接近した。
距離、およそ200メートル。
身を潜め、照準を合わせたまま、ただひたすらに標的が現れるのを待つ。呼吸を整え、世界の音を消す。数時間が経過した頃、ようやく男が建物から姿を現した。
男が車に乗り込もうとした、その刹那。
朔夜の指が引き金を引いた。
放たれた7.62mm弾は、正確に男の頭部を撃ち抜き、その身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「……あ」
喉の奥から乾いた声が出た。茫然失当。自分は間違いなく、人の命を奪ったのだ。
しかし、その罪悪感に浸る時間は与えられない。すぐ近くの地面に、敵の反撃の銃弾が着弾したからだ。泥を跳ね上げ、朔夜は必死に戦場を駆け抜け、なんとか生還を果たした。
アジトに戻ると、男たちは「見事だ」と歓喜し、朔夜を称えた。だが、少年の心は凍りついたままだった。
そんな彼の元へ、他の子供たち涙を流しながら駆け寄り、次々と抱きついてきた。
「お前が成功したから、俺たちは殺されずに済んだ」と。
仲間たちの温もりと涙に触れたその瞬間だけ、朔夜は、胸を焦がす人殺しの罪悪感から解放されるような気がした。
――それから、数年が経った。
成長するにつれ、朔夜は自分が置かれている狂った世界の全貌を理解し始めた。
ここはチェチェン共和国。自分は「テロリスト」の少年兵として消費されているのだと。
彼が連れてこられたのは、ロシア軍による焦土作戦が完了した後の時代だった。すでに正規戦の形態は崩壊しており、カフカス山脈の峻険な山々に逃げ込み、泥沼のゲリラ戦を展開するしかなかった。
数年という月日は、あまりにも多くの命を奪った。
最初に数百人いた子供たちは、今や片手で数えるほどしか残っていない。ほとんどが戦闘で命を落とし、敵に捕まった者はその場で処刑された。国際法上、子供は保護されるべき対象だが、実戦で銃を取る少年兵は「テロリストの構成員」として容赦なく排除される。かと言って、戦意を失い投降しようとすれば、今度は身内であるテロリストの男たちに背中から撃たれた。
やがて情勢は決定的に悪化する。カディロフ一族による反体制派への徹底的な弾圧が始まり、ロシアの正規軍に代わって、冷酷な親露派チェチェン人の大軍が山へと押し寄せてきた。
圧倒的な「数の暴力」の前に、抗う術はなかった。朔夜たち生き残りの少年兵は、ついに包囲され、拘束された。
待っていたのは、容赦のない尋問と拷問。
薄暗い監獄の中、まともな食事も与えられず、何日も放置された。そこでさらに仲間たちが息を引き取っていった。
そして、その日が訪れる。
生き残ったわずかな子供たちと共に、朔夜は縄で数珠繋ぎにされ、冷たい地面に跪かされた。
周囲を囲むのは、銃を構えたロシアの正規軍。
(ああ、ついに処刑が始まるんだな……)
朔夜の心にあったのは、死への恐怖と――それ以上に、「これでようやく、すべてから解放される」という歪んだ安堵だった。
「……ミナト、サクヤ、か?」
突然、頭上に突きつけられていた銃口の主が、低く厳つい声でそう呟いた。
あまりにも久しぶりに耳にする、自身の本当の名前。予想だにしない事態に、朔夜は思わず顔を上げた。
そのロシア軍の兵士は、朔夜のことを知っていた。尋ねれば、かつて軍人だった朔夜の父の、部下だという。
その奇跡的な繋がりが、凍りついた運命を動かした。兵士の尽力により、拘束されていた子供たちの処刑は急遽中止され、裏ルート(カットアウト)を通じて国際的な人権団体へと身柄が引き渡された。
保護された後、朔夜は恩人であるその兵士に、両親の行方を尋ねた。
――返ってきたのは、残酷な事実だった。
あの日、朔夜が連れ去られて以来、両親は狂ったように息子の情報を追い続け、ロシアへと渡っていた。しかし2004年、彼らが乗った旅客機は、チェチェン凶行派による「ロシア航空機同時多発墜落事件」のテロに巻き込まれ、両親は共に帰らぬ人となったのだ。
朔夜を縛る皮肉な因果。自分が加担させられていた組織のテロによって、自分を探していた両親が死んだ。
もはや、少年の帰る場所はどこにもなかった。
法律上、湊朔夜はすでに「死亡」したものと処理されており、小樽の生家には、すでにまったく見知らぬ他人が暮らしていた。
父の部下だった男は、「手続きを踏めば、今からでも日本に戻れるよう手配する」と言ってくれたが、朔夜はそれを拒んだ。どの面を下げて、両親の命を奪ったテロの片棒を担いでいた自分が、日本の土を踏めばいいというのか。
その後、朔夜は海外の養護施設を転々とし、抜け殻のような無気力な日々を送った。
施設の人々は親切だったが、彼らの目の奥には常に「腫れ物」を扱うような怯えがあった。いくら被害者であり子供だとはいえ、本物のテロに加担し、人を殺めてきた者だ。それに戦場とは病気を運ぶものだ。何かしらの病気を持っていてもおかしくはない。いつ牙を剥くかわからない――その視線が、朔夜には酷く冷たく、そして正当なものに思えた。
――2010年、3月12日。
桜の蕾が膨らみ始める頃、15歳になった朔夜に、突然の転機が訪れる。
「あなたを養子として迎え入れたいという申し出がある」
朔夜の知らないところで手続きは迅速に進められ、彼はある日本の家族の籍に入ることとなった。
その家を訪れた時、出迎えてくれたのは、穏やかな両親と、そして朔夜と同い年くらいの一人の長身の少女だった。
その両親からの提案は、奇妙なものだった。
「今年、娘が『学園艦』と呼ばれる巨大な船で高校生活を送ることになっている。あなたも一緒に、そこで普通の学生として暮らさないか」と。
なぜ、自分のような血に汚れた存在をあえて引き取り、そんな大層な環境へ送ろうとするのか。理由を尋ねても、彼女たちはただ優しく微笑むだけで、煙に巻かれるように答えは返ってこない。
だが、その瞳に宿るものが、施設の人々が向けたような怯えではなく、深い「慈愛」であることだけは確かだった。
自分の年齢や、これからの行き場のない未来を考えても、拒む理由はなかった。
朔夜は静かに、その提案を受け入れた。
「学園艦」と呼ばれる、洋上に浮かぶ巨大な都市。
その一角、居住区から遠く離れた森林地帯の開けた場所に、ポツンと佇む一棟のバンガローがある。
そこが、朔夜の新たな住処だった。
当初は普通の学生寮に入る話も出ていたが、彼の経歴や、衣服の下に無数に刻まれた生々しい拷問・戦闘の傷跡は、あまりにも目立ちすぎる。何より、未だに平和な「日常生活」の空気感に馴染めず、不測の事態を防ぐための隔離措置でもあった。
居住地から離れたこの場所は、買い物や通学には不便極まりない。だが、近くに清流があり、周囲の動植物を狩れば食料には困らない環境は、かつて山中でゲリラ戦を生き抜いた朔夜にとっては、むしろ生温いほど快適だった。
今朝の朝食も、目の前の川で釣った魚と、手際よく摘んできた山菜を火に通したものだ。
コン、コン。
朔夜が新しい制服に袖を通し、登校の準備を整えていた時、静かな玄関にノックの音が響いた。
前述の通り、ここは大自然の真ん中であり、普通の人間が朝からふらりと立ち寄るような場所ではない。だが、朔夜にはその主の心当たりが、正確に一つだけあった。
扉を開けると、そこには陽光を浴びてプラウダ高校の制服を完璧に着こなした、美しく、長身の少女が立っていた。
「おはようございます、同志朔夜。よく眠れましたか?」
彼女の名は、ノンナ。
朔夜を養子として迎え入れた家の娘であり、朝からこんな辺境のバンガローまで、彼を迎えにやってきたお人好しな人物だった。
「おはよう、同志ノンナ。おかげさまで、よく眠れたよ」
朔夜の淡々とした返答に、ノンナは少しだけ小首を傾げ、悪戯っぽく、しかし底知れない包容力を感じさせる笑みを浮かべた。
「……お姉さんと呼んでもいいのですよ?」
戸籍上、ノンナの方がわずかに早く生まれているため、彼女は朔夜の「姉」にあたる。
「……遠慮しておこう。それより急ごう、今日は入学式だ」
朔夜が少しだけ視線を逸らしながら靴を履くと、ノンナは満足そうに微笑み、「ええ、行きましょう」と頷いた。
こうして、日常を知らない少年と、吹雪のように気高く優しい少女は、プラウダ高校の入学式へと向かって歩き出す。彼らの乗る巨大な学園艦が、穏やかな海を滑るように進んでいく中で。