プロローグ 親の愛とは。
親の愛とはなんだろうか。
東京近郊、自身の家が保有する建物の一角で少年はふと思った。
窓の外、さんさんと輝く朝日とともに、おもむろに寝ぼけた頭で自身の人生を考える。
幸せに生きてほしい。
優しい子になってほしい。
頭の良い子になってほしい。
強い子になってほしい。
自身の後を継がせたい。
自分のような後悔はさせたくない。
第三次世界大戦から30年を経た2095年の一般的な家庭ではこのようなことを考えるだろう。
朝は嫌いではない。
夜の間に膨らんだ悪い考えが、光に触れて少しだけ薄まる気がするからだ。
世界が新しくなったような顔をして、窓の向こうで静かに息をしている。
だが、人間はそう簡単に新しくならない。
昨日の疲れは残る。
昔の言葉も残る。
触れられた場所も、触れられなかった場所も、意外なほど体は覚えている。
父に頭を撫でられた記憶がある。
たぶん、幼い頃のことだ。
正確な年齢は覚えていない。
ただ、その手が大きかったことと、思ったより優しかったこと、何とも言えない、失望と諦観の感情を父親自身にだけ向けて、それでも期待を示そうとしている表情だけは覚えている。
その記憶があるせいで、俺は父を単純な悪人にできない。
あの人は俺を見ていた。
俺に期待していた。期待しようとしていた。
俺ができることを喜び、できないことに落胆し、それでも次を用意した。
その全部が嫌だった。
同時に、その全部が嘘ではなかった。
愛はある。
良識もある。
期待もある。
金もある。
技術もある。
権力もある。
ちょっとした闇があり、
俺を通した野望がある。
そして、ブレーキがない。
最悪の組み合わせである。
寝不足の頭は、ろくでもない結論ばかり運んでくる。
父の愛が重い。
そう考えるのは簡単だ。
親の愛とはなんだろうか。
子供のために泣けることか。
子供のために怒れることか。
子供のために何かを捨てられることか。
それとも、子供のためだと信じて、子供が嫌がろうとも試練を課せることだろうか。
たぶん、世の中の大半の親は善人なのだろう。
少なくとも、自分は善人であろうとしているのだろう。
子供の未来を案じている。
子供が傷つかないように願っている。
子供が自分より高い場所へ行くことを望んでいる。
実際、父は俺のために多くを用意した。
俺が生き残れるように。
俺が価値を持てるように。
俺が誰にも奪われないように。
俺が、誰かを奪えるように。
そこまでして、俺に生きてほしかったのだろう。
ならば、それは愛なのか。
愛なのだと思う。
だからこそ、最悪なのだ。
寝返りを打つ。
では、俺はどうなのだろう。
俺は父を否定できるほど、真っ当な人間なのだろうか。
妹には幸せでいてほしい。
姉には笑っていてほしい。
少し避けられ気味な兄達にだって、人並み以上に幸福に生きてほしいとは思ってる。
家族には、できるだけ傷ついてほしくない。
それは本心だ。
だが、そのためなら何をするかと問われれば、俺はたぶん、綺麗な答えを返せない。
必要なら嘘をつく。
必要なら隠す。
必要なら相手の意思を確認する前に、危険から遠ざけようとする。
それは父と何が違うのだろう。
程度の差か。
手段の差か。
俺はまだ一線を越えていないという、ただそれだけの話か。
父を毒親と呼ぶことは簡単だ。
実際、毒である。
濃度も高い。
取り扱い注意にもほどがある。
ぼんやりと、天井を見上げる。
布団は偉大である。
人類が戦争と魔法と政治を生み出した一方で、布団という文明の到達点も生み出したことについては、もう少し誇っていいと思う。
親の愛などという、朝から胃に悪い概念を考えるより、布団の柔らかさについて思索する方がよほど建設的だ。
だが、まどろむ中の思考というものは厄介である。
考えたくないことほど、考えてしまう。
父は俺を愛している。
たぶん。おそらく。
かなり高い確率で。
その事実が、思春期を迎え、自身について知れば知るほどどうにも苦手だった。
憎める親ならよかった。
俺をただの道具としてしか見ていないなら、分かりやすかった。
ああ、この人は敵なのだと、境界線を引けた。
けれど、そうではない。
父は俺の体調を気にする。
食事の量を覚えている。
俺が嫌いなものも、好きなものも、たぶん知っている。
誕生日には贈り物をくれる。
俺の将来について、誰よりも真剣に考えている。
たまの二人の食事では正直話がある。
他の兄姉妹に比べ、誰が見てもわかりやすいほどに。
問題は、父の将来設計図の中で、いや、提供してくる日常の中でも俺の人権がやや省略されがちな点である。
いや、ややではない。
かなり。
だいぶ。
控えめに言って、欄外である。
それでも、父は俺を愛している。
そこが一番、たちが悪い。
そしてそれを知ってしまっている。
だから、困る。
憎める親なら楽だった。
愛していない親なら切り捨てられた。
だがあの人は、俺の誕生日にスポーツカーではなく、精一杯の父心で脳みそが詰まった専用車両をオーダーメイドで贈ろうとするタイプの父親なのである。
どちらにしろ無免許だが。
というか今の時代わざわざ手動の運転免許を態々取りに行く意味も成金趣味しかないが。
困っていたら目が覚めてくる。
至福の睡眠は終わりを告げる。
今日はやけに心地よくまどろめる。
少年はやっとここが自身の邸宅でないことに気が付く。
普段なら起こしてくる使用人も姉妹もいないから当然だ。
起き上がった少年はのんびりとシャワーを楽しむ。昨晩の疲れと筋肉痛に効く。
体を拭きながら、サイレントモードになっていた端末を見た。
着信:姉さん 32件
さらに端末が震えた。
着信。姉さん。
一回目。
二回目。
三回目。
体を拭きながら朝日を見て今日の日付、端末のカレンダーを確認し、コーヒーをのむ。
端末が震える。
四回目。
五回目。
六回目。
ここまで来ると、姉ではなく警報である。
「……はい」
『今、どこ?』
声が低い。
姉の声が低い時は、だいたい人が死ぬ。社会的に。
「セカンドハウスの警備中」
『今日は何の日か分かってる?』
「国立魔法大学付属第一高校の入学式」
『あなたは何をする予定だった?』
「……新入生総代挨拶?」
『今、式は?』
「もう開催中?」
『あなたは?』
「布団」
沈黙。
少年は悟った。
これは死ぬ。
と同時に糞親父殿からメッセージである。
『校長には伝え忘れていた公務が長引いて遅れると先ほど謝罪を送った。
10分後には名倉が迎えに行く』
訂正。敬愛しております親父殿。
そうと決まれば名倉さんに小言言われないよう着替えを済ませる。
昨晩
女子用のあの着替えにくそうなデザインでなくてよかったと今だけ心底思う。
ベルトを通したら、気が利いている、白と黒の二丁拳銃型のCADがホルスターに入ってすぐにベルトにかけられるよう脇に置かれてた。
我が愛用の
だがデザインは最高に気に入っている。自分でも最高にオサレな名前も付けられた。
気付いたら10分後、いそいそと建物の外に。
時間調度に車が止まる。
「若様、支度はできてますね」
「名倉さん、俺まだ香水が」
「首がついていれば問題ありません」
「七草家の身だしなみ基準、戦場?」
ふと、思い出す。
「あ、新入生総代挨拶は」
「既に次席の方が行ってます。中継をみられますか。
少年、いや、
前代未聞。