午後の日差しが、十二万を埋めた観客席をまっすぐに焼いていた。
レクリエーションの喧噪が、まだ通路の外でくすぶっている。その向こうで、電光掲示板が二回戦の組み合わせに切り替わった。
勝己は控えの通路で壁に背を預けた。掲示板は見上げない。誰がどこへ進もうと、やることは変わらなかった。
息はもう整っている。麗日を退けた一回戦から、指先の震えひとつ残していない。
掌の汗腺が、勝手に潤んでくるのがわかる。夏は爆破がよく乗る。冬の乾いた空気と違って、この借り物みてェな体でも、それだけは昔と同じ味方だった。
通路の向こうから、拳を打ち鳴らす音が近づいてきた。
切島だった。一回戦は鉄哲と相打ちで、最後は腕相撲までもつれた末に、ようやく勝ち上がった男だ。それでいて、顔に疲れの色はまるでない。
「次の次、おまえと俺だ。わかってんだろ」
勝己は薄目で切島を見た。
「黙ってろ、クソ髪」
「つれねえなあ。俺はおまえと真っ向からやりてえんだよ。小細工なしの、漢らしいやつをよ!」
拳と拳をぶつける仕草をして、切島が白い歯を見せる。硬派ぶった面の割に、笑い方だけがやけに無防備だった。
勝己は鼻を鳴らしただけで、追い払わなかった。追い払う気にならない理由を、わざわざ深く考えはしなかった。
真っ向からやりたい、と来たもんだ。小細工で間合いを支配して勝つことのほうが多い勝己からすれば、切島のそのまっすぐさは、少しばかり眩しくて、少しばかり面倒だった。
ミッドナイトの声が、フィールドに通る。
「二回戦、第一試合──緑谷出久、対、轟焦凍!」
「お、始まるぜ」
切島が手すりから身を乗り出す。勝己も壁から背を離し、フィールドの見える位置まで歩いた。
――――――――――――――――――――――
フィールドの中央で、出久と轟が向かい合った。
一回戦で心操をねじ伏せた出久と、瀬呂を一瞬で凍らせてみせた優勝候補の轟。客席のざわめきは、明らかに轟の名のほうへ傾いている。
開始の合図と同時に、轟の右足から氷が奔った。
フィールドの半分を一息に飲み込む量だ。白い壁が地面を駆け上がるようにして、まっすぐ出久へ殺到する。
冷気が観客席の最前列まで届いて、近くの誰かが小さく息を呑んだ。まともに食らえば、それだけで勝負がついていてもおかしくない量だった。
出久は逃げなかった。逆だ。迫る氷へ向かって自分から踏み込み、振りかぶった腕の、その指の一本に力を絞り込む。
弾けた。
指の砕ける音と、衝撃波が氷を内側から吹き散らす音が、ほとんど同時に勝己の耳を打つ。
(また、自分の体ぶっ壊して撃ちやがった)
観客席がどよめいた。出久の人差し指は、一本目からもう不自然な方向へ折れ曲がっている。
二本目を撃つときには、その指も同じ角度へ曲がっていた。撃つたびに、出久は自分の手を一本ずつ、確実に壊しにいっている。
客席のどよめきが、いつしか悲鳴に近い色を帯び始める。あんな撃ち方を続けたら腕が保たないと、誰の目にもわかるからだ。
解説席で、顔に包帯を巻いた相澤が短く何か言った。実況のマイクがそれを拾って場内へ流す。無茶をしているんじゃない、あれが今のあいつにできる精一杯だ──おおよそ、そういう趣旨の声だった。
轟が氷で足場を盛り上げ、距離を取りながら次の壁を組む。出久はそのたびに、腕か指のどこかを犠牲にして撃ち抜き、潰れた間合いを必死に詰め直した。
それでも縮まらない。
何度繰り返しても、出久の体が削れていくだけだ。轟の涼しい横顔には、傷ひとつつかない。
セメントスが砕けたリングを直すそばから、また床が割れていく。氷の壁は組まれては砕け、砕けては組まれ、そのあいだに減っていくのは、出久の体だけだった。
勝己は腕を組んだまま、轟を見ていた。
あいつは右の氷しか使っていない。左を頑なに出さないまま、最強の手札を半分も切らずに、出久を圧している。
(てめェも、てめェと戦ってやがるな)
半分を捨ててなお勝てる相手に、わざわざ縛りを課している。あの澄ました横顔の裏で、何と噛み合わずにいるのかは、勝己には半分しか見えなかった。
客席の最前列で、炎を背負った巨漢が身を乗り出して、轟の戦いを食い入るように見つめていた。轟は一度だけそちらへ視線を投げ、すぐに前へ戻す。
場内の野次に、少しずつ湿り気が混じり始めた。あんなに体を壊させるな、もう止めてやれ──そういう声だ。
勝己は動かなかった。あれを止めてやるのが優しさだと思っている連中の気が、心底知れなかった。
出久は止まらない。折れた指で、腫れ上がった腕で、それでもまた前へ出る。あのいつもおどおどしていたクソナードが、十二万人の前で、ただの一度も諦める顔を見せない。
(……ムカつくんだよ、そういうとこが)
昔から、何ひとつ変わらない。勝己が何度地面に這わせてやっても、こいつはそのたびに立ち上がってきた。ボロボロになっても、最後には必ず、立っていやがった。
――――――――――――――――――――――
何度目かの応酬のあと、轟がふいに動きを止めた。
出久のもう使い物にならない両腕を見て、何か声をかける。終わりにしよう──口の動きから、そう読めた気がした。
出久が吼えた。
言葉そのものは、勝己のいる位置までは届かない。だが意味だけははっきり届いた。まだ何ひとつ届かせてねェ、全力で来い──そういう叫びだ。半分の力で立っている相手への、怒りに限りなく近い何かだった。
勝己の視線は、とうに轟の左半身へ張りついている。
その左半分が、燃えた。
赤い熱がフィールドの空気を歪ませ、観客席の温度まで一段持ち上げる。氷しか出さなかった男が、初めて左を解いた瞬間だった。
場内が、声を失った。
十二万人の息が、一斉に止まる。誰も見たことのなかった轟焦凍の左半身が、噴き上がる熱でフィールドの輪郭まで歪ませている。
(……出しやがった)
腹の底で、苦いものと、それと裏腹の何かが同時に動いた。
あのクソナードが、轟のそれを引きずり出した。泣き言でもなく、土俵際の苦し紛れでもなく、相手の一番奥に仕舞い込まれていた火を、正面から殴りつけて表へ引っ張り出してみせた。
自分の体を全部賭け金にして、相手の一番厄介な手札を、賭場の真ん中へ引きずり出す。そういう勝ち方をこいつは昔から、半ば無自覚にやってのける。
氷と炎が、真正面からぶつかる。
競技場が激しく軋み、足元のコンクリートが波打って砕けた。爆風と冷気と熱がひと塊になって観客席まで吹き上げ、勝己は咄嗟に腕で顔を庇う。
土煙が晴れたとき、フィールドには二人とも倒れていた。
ミッドナイトが轟の勝ちを告げる。出久は担架に乗せられ、運ばれていった。両腕は、見ているこっちの奥歯が浮くような形をしていた。
勝己はそれを、運び出される最後まで目で追った。
(毎度毎度、自分から潰れに行きやがって)
舌打ちがひとつ出た。それでも、遠ざかっていく背中から目を逸らすことはしなかった。
――――――――――――――――――――――
二回戦は続く。
第二試合、飯田と塩崎。塩崎の伸びる茨が飯田を絡め取るより速く、飯田の脚のエンジンが間合いそのものを食い破った。直線でしか強くないと言われ続けた脚が、今日ばかりは茨の拘束を上回る。飯田の勝ちだ。
第三試合、常闇と芦戸。芦戸の酸が床を溶かしながら迫っても、常闇の闇影がそのことごとくを宙で叩き落とした。芦戸は一歩も間合いの内へ入れないまま、じりじりと押し出されていく。常闇の勝ち。
勝己は、その闇影の動きだけ少し長く目で追った。
実体を持った黒い影が、常闇の周りを縦横に駆け、酸の槍を空中で薙ぎ払う。手数も速さも、明らかに本人より上だ。
芦戸の酸が床に穴を穿つたび、影はその縁を蹴って跳び、本体を背後へ庇いながら次の酸を払い落とす。常闇は自分では、ほとんど動いていなかった。
だがあの影は、光の量で強さが変わる。明るい場所ほど細って縮こまり、暗がりほど膨れ上がって手がつけられなくなる。
(昼の日向じゃ、せいぜいあんなもんか)
口には出さず、胸の内でだけ呟いて消した。
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「二回戦、第四試合──切島鋭児郎、対、爆豪勝己!」
地鳴りのような歓声に押し出されるようにして、二人でコンクリートのフィールドに立った。
切島はもう全身を硬化させている。岩を削り出したような肌が、午後の陽をぎらりと鈍く撥ね返していた。
一回戦で鉄哲の鋼と削り合って、それでも一歩も退かなかった硬さだ。生半可な爆破では、表面の埃ひとつ落とせないだろう。
「待たせたな、爆豪!小細工なしだ!」
拳を構えて、白い歯を見せる。硬く強張った顔でも、その笑い方だけは少しも変わらなかった。
勝己は応えない。掌を一度ゆっくり開いて、汗の乗り具合を確かめた。
(こいつの硬化を、面でまとめて割る……今の掌じゃ、まるで足りねェ)
十五のガキの体だ。出力は知れている。真っ向からどつき合えば、削り切るより先にこっちの腺が音を上げて終わる。それくらいの算段は、構える前からついていた。
だが、と勝己は切島の構えをじっと見据える。
硬化は無敵じゃない。あれには時間がある。ずっと最高硬度を保ってはいられないし、同じ一点を叩き続ければ、どんなに硬い殻でも、いつか必ず疲れていく。
割ろうとするんじゃねェ。一点に、芯が緩むまでひたすら通すんだ。
切島が地を蹴った。
硬化した巨体が、見た目に似合わない速さでまっすぐ突っ込んでくる。勝己は真正面を外した。掌を後ろへ弾いて体を横へ滑らせ、すれ違いざまに、切島の右肩へ爆破を一発ねじ込む。
硬い肌の上で火花が散り、爆音だけが大きく鳴った。切島はびくともしない。
「効かねえぜ、それくらい!」
想定どおりだ。一発で割れるなら、誰も硬化なんざ厄介がらない。勝己が見ているのは、目の前の硬さじゃない。その硬さが、何発目で音を上げるかだった。
切島の硬化は、殴られるほど硬さを増す。鉄哲との殴り合いで、誰よりこいつ自身がそれを知っているはずだ。だが硬さと引き換えに、その身は確実に重く、鈍くなっていく。
振り向きざまに繰り出される拳を、勝己はまた半歩で外す。がら空きになった同じ右肩へ、もう一発。
切島が苛立ったように吠え、両腕を交差させて突進の角度を変えてくる。勝己はそれも読んでいた。伸びてきた腕の下へ潜り込み、開いた脇から、また寸分たがわず同じ右肩を撃つ。
切島が追ってくる。腕を振り回し、肩から体当たりにくる。そのどれもが勝己には掠りもしない。間合いの外へ外へと体を流し続けながら、勝己は判で押したように、ただ同じ一点だけを撃ち込んでいった。
大きく踏み込んで殻ごと叩き割ろうとは、一度も考えなかった。今のこの掌で力任せにいけば、肝心なときに腺が焼き切れて終わる。狙うのは一点だけ。それ以外のどこにも、爆破は散らさない。
撃ち込む位置を、一発ごとに寸分もずらさない。爆破の熱が罅の種を一つずつ奥へ食い込ませていくのを、勝己は撃ち込む掌の感触だけで確かめていた。
場内が沸き始めた。一回戦で勝負を急がなかった男が、今度もまた一向に決めにいかない。だが今日の声に、あの湿った野次は混じらなかった。何度弾かれても硬い壁に食らいついていく切島の姿に、観客 特に鉄哲のほうが先に熱くなっている。
「いいぞ切島ァ!」「もう一発耐えろ!」
切島の声も、まだ少しも細らない。
「おらおらどうした、その程度かよ爆豪ォ! まだまだ立ってんぜ、俺はよォ!」
殴られても、弾かれても、こいつは一歩も退こうとしない。それどころか勝己が一発ねじ込むたびに、硬い顔の笑みを、かえって深くしていく。
楽しんでいやがる。削られていく一方の状況で、こいつはこの殴り合いそのものを、心の底から楽しんでいる。その面の皮が、爆破の熱より幾分か癪に障った。
こいつは、痛がらない。痛みを面に出すことを、男らしくないとでも決め込んでいやがる。殴っても殴っても薄い手応えしか返ってこない感触は、正直、薄気味が悪いほどだった。
日差しと爆音の熱で、勝己の掌の汗は確かに増していた。爆破がいつもよりよく乗る。それでも勝己は、出力を一段も上げなかった。上げる必要が、どこにもなかったからだ。
――――――――――――――――――――――
何発目かで、切島の右肩の表面に、細かい罅が走り始めた。
切島も当然それに気づいたはずだ。だが下がらない。それどころか硬度を上げ直し、むしろ前へ前へと出てくる。
「まだまだァ! 俺はなァ、倒れねえのだけは得意なんだよ!」
(上等だ)
倒れねえのが得意、と来たか。ならその得意を、根こそぎ削り取ってやるまでだ。
硬度を上げ直すたびに、切島の中の時間は確実に削れていく。勝己はわざと同じ肩ばかり狙って挑発し、切島が意地でも最高硬度を保ち続けるよう仕向けた。
前へ出れば出るほど、その足は鈍る。岩のように重くなった体は、急には止まれない。狙いどおり、切島の踏み込みは一歩ごとに大振りになっていった。
勝己はずっと数えている。硬度の戻る速さ。罅の伸びていく早さ。そして切島が次に、どれだけ深く踏み込んでくるか。
数えながら、勝己はわざと挑発を続けた。同じ肩ばかりを狙い、こいつの意地に油を注いでやる。前のめりに踏み込ませるほど、戻りの一手が遅れる。
硬度を上げ直す間隔が、一回ごとにほんのわずか延びていく。最高硬度を保てる時間が、確実に目減りしている証拠だった。
あとは、いちばん大きく踏み込んでくる一手を待つだけでよかった。意地の張ったこいつなら、必ず一度、全部を乗せて突っ込んでくる。
罅が肩から胸元へと伝った頃、切島がこの試合いちばんの踏み込みで突っ込んできた。
(そこだ)
ずっと読んでいた。勝己はこの試合で初めて、自分のほうから真正面へ踏み込む。
すれ違うのではなく、切島の懐の内側へ。罅の入ったそのただ一点へ、これまで散らさずに溜めてきた全部を、ゼロ距離で押し込んだ。
殻が、その一点で砕けた。
踏み込んだ勢いの行き場をすべて失って、切島の巨体が前のめりに泳ぐ。勝己はその勢いに逆らわず、崩れる肩を爆破であおって、コンクリートの上へ叩き伏せた。
硬化で守りきった体のどこよりも先に、こいつは自分の意地のほうを、使い果たしたらしかった。
「ぐ…ッ…!」
切島は片膝をついて、それでもなお立ち上がろうとした。硬化はもう解けて、傷だらけの地肌が剥き出しになっている。突いた腕が、小刻みに震えていた。
立ち上がりきる前に、その体からふっと力が抜けた。
ミッドナイトが手を挙げる。
「切島くん、戦闘不能! 爆豪くんの勝ち!」
割れるような歓声が降ってくる中で、勝己は荒い息のまま、足元の男を見下ろした。
さんざん殴り倒したはずの切島が、地面に伏したまま笑っている。負けて、それでもなお。
「……つええな、爆豪。完敗だ」
掠れた声でそう言って、切島は震える手で、それでも親指だけをぐっと立ててみせた。
勝己は、何も返さなかった。
(何発食らっても、最後の最後まで前に出やがった、こいつは)
あれだけ撃ち込まれて、罅だらけにされて、なお地面で笑っていられる。その底なしの図太さが何なのか、勝己はその答えを、口にはしなかった。
ただ、妙に据わりの悪い感覚だけが、胸の奥に残っていた。何度叩き伏せても、こいつは性懲りもなくまた立ってくる──半ばそう確信している自分が、確かにいた。
踵を返す間際に、もう一度だけ、倒れたままの相手を見た。
それだけだった。
――――――――――――――――――――――
引き上げる通路は、一回戦のあとよりも、いくらか静かだった。
掌の腺が、じくじくと熱を持っている。一発も無駄に大きくは撃たなかった。それでも体のあちこちが、鈍く軋んでいた。
十五の体は、相変わらず勝己の知っている上限にはまるで届かない。全部を出し切ったわけでもないのに、もうこのざまだ。
だが、それでいい。
力で押し切ったわけじゃない。どこを、いつ撃つか。たったそれだけで、あの硬さは内側から崩れた。
昔の自分なら、最初の一撃に全部を込めてた。今は、割れる時と場所を待てるようになっただけだ。
識ってるだけじゃ、何も崩せねェ。識った上で、どこを、いつ撃つか──そこまで詰めて、ようやく一点は通る。
通路の壁に、轟が背を預けて立っていた。
左手の指を、まだ持て余すように、開いたり閉じたりしている。さっき自分で解いたばかりのあの火を、これからどう扱えばいいのか分からない──そういう手つきだった。
半分しか使わなかった男が、ようやく半分を出して、それでもまだ迷っている。
あれだけの炎を自分の手で引きずり出しておいて、当人がいちばん戸惑った顔をしている。出久が体を張って暴いてやった半身を、こいつはまだ、自分のものだと思いきれていない。
勝己は、その横を黙って通り過ぎた。
(決勝で、てめェがまたその火を仕舞いやがったら)
そのときは、容赦しねェ。半端な一位なんざ、こっちから願い下げだ。完膚なきまでに。その一番上に立ってやる。
通路の先に、出口の白い光が見えてきた。
準決勝の相手は、常闇だ。あの影は、明るい場所でこそ脆い。どこを撃つかは、もう決まっている。
(ここからだ)
この借り物みてェな体の上限も、この大会の優勝も、そのさらに先で待ち構えている、もっとずっとデカい化け物も。
識ってるだけの俺で、終わってやる気はさらさらねェ。