坂柳有栖にとって、“彼”という存在は路傍の石ころでしかなかった。
取るに足らない凡夫。駒にする価値もない凡庸。自身の人生において何の障害にもならないはずの人間。偽りの天才の打倒の前座にもならない存在。
少なくとも、天才の彼女は彼のことをその程度の人間だと認識していた。
きっとその判断は間違いじゃないなかった。
正しく、彼はどこにでもいる“普通”の人間であったから。
しかし、たとえ路傍の石ころでも注意しなければいけないことはある。天才であったとしても、彼女が人間である限り、時に人は石ころであっても簡単につまづいてしまうことがある。
人を傷つけることに銃や刃物なんて大層な物がいらないように。
鉛筆や拳、言葉さえあれば十分なように。
天才は失敗をすることが少ない。つまづいた後にどう受け身を取るか、どうやって起き上がるのかを、学ぶ機会がないから。
それゆえ天才は石ころにつまづいてしまった。治ることのないケガを負ってしまった。それは、当然の結果だったのだろう。
◇
物語というのはいつでも好きな時に見たいシーンを見れるものだが、人生というものはそう簡単にスキップできない。
この世界に転生して数十年が経ち、俺はようやくプロローグにたどり着くことができたのだ。
正直、大変だった。二度目の人生は強くてニューゲームができると思ったのに。俺の中学生活は波乱万丈という言葉が相応しいくらいに酷かった。
主に隣にいる彼女のせいで。
「幸太郎くん、着きましたよ」
これまでの苦労を振り返っていると、隣に座っていた少女に声をかけられる。
小柄でどこか儚さを思わせる華奢な少女。普段被っているベレー帽を太ももに置き、俺のことを上目遣いに見ていた。
「あぁ、わかったよ。坂柳」
坂柳有栖。通称、邪ロリ。
幼なじみというには付き合いが短く、顔見知りというには関わり過ぎてしまった存在。
どういうわけか、俺は『よう実』という物語における主要キャラと一緒に、物語の舞台である高度育成高等学校に通うことになってしまったのだ。
正直、信じられない。というか、あまり関わりたくはなかった。彼女は登場するキャラクターの中でも、少しばかり……いや、かなり攻撃的に過ぎる。どれだけ物語が好きだと言っても、傍から彼女を見るのと彼女の直接の被害者になるのとでは、重みがまったく違うから。
とはいえ、口は災いの元。
そんな内心を口にすることはなく席を立ち、バスを降りる。後ろを振り返ると、杖をついた彼女がゆっくりとコケないように、出入口の段差と格闘していた。
「大丈夫か?」
迷うことなく手を差し出す。そんな俺の行動を見て、一瞬、坂柳が目を丸くするものの、すぐに微笑みと共に手を繋ぎ返された。
「お気遣い、ありがとうございます」
「別にこれぐらい普通のことだろ」
「ふふ、お礼ぐらい素直に受け取ればいいですのに」
別に恥ずかしがっているわけじゃない。ただ慣れてないだけ。坂柳との関係はまだまだ浅い。彼女に対してなんて言うのが正解だったのか、わからなかった末の無難な回答だったのだが。
しかし、坂柳の中では俺が照れてることになっているのは、付き合いが短くともなんとなくわかった。
「……ところで、おじさんと一緒に学校に行かなくて良かったのか?」
訂正しようかとも考えたが、ここで必死になるほうがマジっぽくなるのを想像して、話題を変えることにする。
ご存知、坂柳パパは高育の理事長である。正直な話、体が不自由な彼女にとって坂柳パパと共に車で移動したほうがバスよりも楽だったはずだ。バスの中で聞いた坂柳の話だと、坂柳パパとは朝も一緒に食卓を共にしたみたいだし、不可能ではないはず。
なぜわざわざバスに乗ったのか?
そう思って口にすると、これ見よがしにため息をつかれた。
「相変わらず察しが悪いですね」
「なんだよ」
「遠回しにあなたのことを貶しています」
「おい」
ぶすっとした顔になりながらも坂柳がやれやれと首を振った。理不尽だ。
けれど、俺の不満なんてお構いなしに、坂柳は頬を染め、モジモジとし始めた。突然の彼女の奇行に思考が追いつかない。というか普通に怖い。情緒が不安定すぎないか?
「あなたと一緒に通学したかったのですよ。可憐で病弱な女の子にそんなこと言わせないでください」
「病弱はともかく、可憐か?」
「何かおかしなことでも?」
「なんでもないです、ごめんなさい」
すんっと冷めた目つきで睨まれる。あまりの急変に思わず、謝罪をしてしまった。
別に俺は悪くないはずなのに。しかし、下手に否定すれば後がない気がして、ここは取り繕った。
そのおかげか冷えた空気が和らいだ気がしたのは勘違いじゃないはず。
こほん、と坂柳がごまかすように咳をする。
「私に恥をかかせたんです。紳士らしくエスコートしてください」
繋いでいた手が離され、腕を組まれ、指が絡め取られる。俗にいう恋人繋ぎ。
少なくとも俺たちは恋人なんていう甘い関係ではなかったはずだが。
「入学式すら始まってないのに、変な噂が経つぞ?」
「子どもじゃないんですから、そんなこと気にしませんよ」
澄ました顔でピッタリとくっつかれる。腕を振り払えば簡単に飛んで行きそうな彼女の細腕。そんなことすれば俺の学校での評価は最底辺に落ちるのは目に見えていた。
説得しても意味がないなら、つまり諦めが肝心なのだろう。
「はいはい、お嬢様」
「それは子ども扱いみたいで、嫌ですね」
「そんなことないですとも」
「心にもないことを言って。私たちお似合いですね」
「それは嫌だなぁ」
杖を代わりに持ち、意味もないやり取りと共に校舎を目指す。が、坂柳のペースに合わせているから当然、その歩みは遅い。ゆっくりと彼女の歩みに合わせて、歩幅を調整する。まるでお嬢様を守るボディガードみたいに丁寧な配慮。
そんな光景が珍しいのか。予想通り、同じように入学してきた生徒たちが、俺たちのことを遠巻きに見ていた。
「見られてますね」
「まぁ、坂柳は目立つからな」
「それか、恋人同士だと勘違いされてるのかもしれませんよ。どうですか、青春を味わえて内心嬉しいんじゃないですか?」
ニヤニヤと笑う坂柳が、ついでとばかりに繋いでいた手をにぎにぎして、からかってくる。
柔らかく温かい肌の感触に意識が向いてしまうのを堪えて、そっぽを向く。
「別に嬉しくないですけどー」
「やはり素直じゃないですね。これが所謂ツンデレ、というものなんでしょうか?」
オタクでもないのに、どこでそんな言葉を覚えたのか。否定するのもめんどくさくなり、無言を貫く。坂柳はそんな俺の態度に気を悪くすることなく、鼻歌を口ずさみ始めた。
珍しい。というか、初めて見た。
そもそも俺は物語の“坂柳有栖”は知っていても、この世界に生きる彼女のことはほとんど知らない。好きな食べ物も、よく聴く曲も。何に嫌悪感を示し、俺のことをどう思っているのかすら、何も知らないのだ。これほど物理的に距離が近づいているのに。それは、とてもおかしなことだと思う。
……いや。俺と坂柳の関係は始まりから間違っているのだから、おかしくても仕方ないのかもしれない。お世辞にも他人には説明できない、彼女との馴れ初め。共に過ごした中学生活は、悪意で満ち溢れた地獄と大差なかった。
俺はよう実が好きだから、そこまで気にしなかったけど。下手をすれば“坂柳が高育に行くこともない”。それどころか彼女という“天才が死んでいてもおかしくない”。なんて未来まであったのだ。紙一重というか、俺がどうにか手繰り寄せたそんなどうしよもない結末が、ここにあった。
共に歩く坂柳を盗み見る。
楽しそうに気分良く歩いている彼女は、何を考えているのだろうか? わからない。天才の考えていることはちっともわからない。
今でも彼女は学校に行くのは嫌なのだろうか? もしそうだとしたら、俺は自分本位な理由で彼女をここに縛り付けたことになる。それは嫌だ。彼女のことをただのキャラクターとしか見なしていないみたいで、自己嫌悪に走ってしまいそうに——、
「安心してください。もう学校には行かないなんて、バカなことは言いません」
「坂柳?」
歩みが止まる。
気づいたら坂柳が俺のことを見上げていた。いつになく真剣な顔で、空いてる片手が俺の頬に添えられる。
「あなたが気にする事はありません。なぜならアレは私の自業自得です。幸太郎を甘く見た私の浅慮で未熟な行動だったんですから」
それに、と。
頬を紅色に染め、どこか熱気を孕んだような濡れた瞳が向けられる。
「あの日、私は終わってしまったんです。全てを失って。天才としての私も絶望して、何もかも。…………そして、私の心も体も、砕け散った尊厳すら……すでにご主人様のものになったんですから」
「あの、公道で口にするには、あまりにもはばかられる内容が飛び出してるんですけど? 少しだけ黙ってもらえるとありがたいんだが?」
「それはご主人としての命令ですか? 酷いです。あれ程、人には言えないことをし合った関係なのに、今更なかったことにするんなんて」
「し合った、というか一方的に攻撃してたの間違いだろ」
著しく酷い坂柳の発言に、自己嫌悪もスっと引っ込んでしまう。ついでにアレを楽しそうに語れる彼女にドン引いてしまった。
そんな俺の態度を気にすることもなく、坂柳はお頬を撫で、ついには俺の唇を愛おしそうに触れ始めた。
なんていうか、いやらしい手つきだった。
「ですが、あなたが勝ちました。それは否定のしようもない事実ですよ」
「俺は勝ったとは思ってないんだけどなぁ」
そもそもアレは勝負と言っていいのかすら怪しい。一方的な雑魚処理戦と言う方が相応しいだろう。
「わかっていませんね。天才が、“天才ですらない者”に勝てない時点で、それは敗北と変わりませんよ」
「そういうもんか?」
「そういうものですよ、幸太郎くん」
しかしそれは俺という視点の一方的な考えであり、天才という視座を持つ彼女からしたら、正反対の結論にたどり着いたのだろう。
坂柳は今日一番、花が咲くように微笑んだ。
「だから、誇ってください。あなたは紛れもなく天才を下した勝者なんですから。——思う存分、敗者である私をめちゃくちゃにしてください」
「後半さえ聞こえなかったら、喜んで誇ったんだけどなぁ」
「では、前半は忘れてもらっても構いませんよ」
「一番大事なところが消えちゃってるからっ!」
そのやり取りを最後に、どちらからともなく吹き出してしまった。やっぱり、改めるまでもなく俺と坂柳の関係は歪みに歪みまくっていた。
友達でも、恋人でもない。勝者と敗者の末路。それでも俺が望んでしまったから、この関係はこの学校生活でも続いていくのだろう。
とはいえ、だ。
残念なことに俺がAクラスになる未来は見えないので、三年間の間はマトモに坂柳と交流もできないだろう。そういう学校なんだから仕方ない。後から、その事実を知った時の彼女が怖いけども。それは俺の知るところではない。坂柳パパが悪いのだ。俺の知らないところで勝手に親子喧嘩でもしておいてくれ。
「さて、クラスはどこなんでしょうね? 一緒のクラスだと嬉しいのですが」
坂柳の言葉をテキトーに流しながら、ゆっくりと歩みを進めていくと、張り出されたクラス表の元にようやく到着した。さて、クラスはどこかな?
何気なく俺はAクラスから確認する。そこには、“坂柳有栖の名前がなかった”。
「……あれ?」
思わず、疑問の声が漏れた。目を見開いて、何度も何度もAクラスを確認するが、どこにも彼女の名前が見つからないのだ。
「え、嘘だろっ」
次にB、Cとクラス表を確認する。一ノ瀬や龍園といったネームドたちはちゃんと原作通りのクラスに振り分けられている。それなのに、坂柳の名前はまだ存在しない。
もしかして合格してないとかある? なんて、冷や汗が背を伝っていると、ちょんちょんと坂柳に頬をつつかれた。
「幸太郎くん、何を焦ってるんですか?」
「坂柳。その、坂柳の名前が見つからなくて」
「……自分の名前を探す前に私のを探すなんて、口ではなんだかんだ言ってましたが、私のこと好きすぎるんじゃないですか?」
どこか呆れるように、頬を赤く染めながら坂柳からじとーっと目を向けられる。それから、ふふ、とおかしそうに笑って、指がある一点を指した。
「良かったですね。私たち、高校でも“一緒のクラス”みたいですよ」
坂柳の言葉を聞いて、彼女の指差した先を見た。たっぷり十秒、黙り込んだことでようやく理解が追いついた。
確かにそこには俺と坂柳の名前がある。だが、ある場所が問題だ。
「Dクラス、だな……」
(え? ……原作崩壊しちゃった?)
俺という存在がいるから、イレギュラーは確実に起きるとは思っていた。だからとはいえ、まさか、こんなことになるなんて。
どうやら俺はとんでもないやらかしをしてしまったみたいだった。