古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜 作:パラレル・ゲーマー
王の広間で、あの茶色く武骨な「清めの塊」を披露した日から、数週間が過ぎた。
どんよりと垂れ込めていた冬の雲はまだ低いが、顔を刺す氷雨の匂いの奥に、わずかに土が緩み始める春先の気配が混じり始めている。
だが、私の業務内容は春の訪れを楽しむような牧歌的なものではなかった。
「なんで魔女の弟子が、朝から石鹸サプライチェーンの現地視察に駆り出されてるんですかね……」
私は、西の街道沿いに建つ大きな倉の前で、深い深い溜息をついた。
「お前が、商人の商売の力に任せると言ったんだろう」
隣を歩く師匠魔女様が、鼻で笑う。
「任せるって言いましたけど、まさか初期の仕入れ先監査まで魔女の業務範囲だとは思わないじゃないですか!」
「馬鹿をお言い。任せる相手を自分の目で見極めないで、丸投げする阿呆がどこにいるんだい」
師匠の言う通りだ。
石鹸を社会に「実装」すると決めた以上、運用設計は導入してからが本当の戦いなのだ。
今日の視察対象は、王の申し渡しを受けた獣脂商人に、灰を作る炭焼きの一家、香りづけの薬草を扱う女、そして布商人。
「完全に石鹸事業部の現地担当コンサルタントじゃん……」と内心でボヤきながら、私は最初の視察先である獣脂商人の倉へと足を踏み入れた。
*
倉の中は、獣の皮、毛、そして何より強烈な脂の酸化した匂いと、乾かした肉の匂いが充満しており、私は思わず鼻をつまんだ。
出迎えたのは、腹周りにたっぷり余剰資産を蓄えた、オスリックという名の商人だった。
彼は決して無能ではない。
むしろ、王の広間で石鹸のデモンストレーションを見た瞬間に、その商売価値を誰よりも早く理解した切れ者だ。
「お待ちしておりました、森の使い様」
オスリックは、もみ手をするようにして私を出迎えた。
「あの清めの塊……王の広間で拝見した時から、これは間違いなく莫大な金になると思っておりましたよ」
「……目が、完全に銀貨の形をしてる」
私は引き攣りそうになる頬を引き締めながら、彼が集めた脂の在庫を確認した。
オスリックはすでに迅速に動いていた。
食用には回せないほど古くなった脂、匂いが強すぎる脂、あるいは皮なめしや燭台用として安価に回されていた脂を、各地からかき集めていたのだ。
「おお、素晴らしい廃棄物の有効利用! これなら食料と競合しない!」
私は内心で称賛したが、すぐに厳しい顔を作って釘を刺した。
「オスリックさん。くれぐれも言っておきますが、貧しい村から『食べられる新鮮な脂』を無理に買い叩くようなことはしないでくださいね」
オスリックは、ギクッと肩を揺らして激しく頷いた。
「わ、分かっておりますとも! 王の申し渡しにもありましたからな。飢えた家から強引に食い物を奪えば、王に両耳を引きちぎられると」
「王の耳引きちぎりで済めばいいけどね」
背後から、師匠がボソリと地を這うような声を落とした。
オスリックの顔からサッと血の気が引き、彼は土下座せんばかりの勢いで首を縦に振った。
私は、彼に石鹸製造における「仕様」を細かく伝達した。
「脂の質によって、用途を明確に分けてください。古すぎて匂いが酷い脂は、上等品には向かないので布や道具用に。肌用と布用は、必ず別々に作ること。肌用は灰汁を弱く、布用は強くです。……これを間違えて、強い布用石鹸を肌に使わせると、荒れて割れた肌から逆に病気が入ります。絶対に用途を混ぜないでください」
オスリックは、真剣な顔で私の指示を聞き、文字が書けない代わりに、木片の刻みの形や、小袋に結ぶ紐の色を変えることで分類を行っていた。
「すごい……。ちゃんと用途ごとに分ける意味を理解してる。肌用、布用、道具用で明確に分けないと、現場で絶対に事故るやつだ……!」
私は、中世の商人の実務能力の高さに内心で舌を巻いた。
*
だが、商人の動きが早いということは、悪い方の動きも早いということだ。
「おい、森の使いよ。早くも街の市場で、あの清めの塊の粗悪なもどきが出回り始めているらしいぞ」
数日後、布商人のベオルンが、憤慨した様子で報告にきた。
問題は多岐にわたった。
汚れを落としたいばかりに灰汁を強くしすぎて、使った者の手が真っ赤に腫れ上がる粗悪品。
腐り切った脂を使っており、洗った方が逆に酷い悪臭を放つ品。
匂いをごまかすために毒性の強い香草を大量に練り込み、肌が酷くかぶれる品。
強力な「布用」を、高く売れる「身体用」と偽って売る商人。
そして極めつけは、「これを患部に擦り込めばどんな病も治る奇跡の薬だ!」と嘘をついて売り歩く輩の出現。
「は、早い! 粗悪コピー品の流通と悪徳商法の立ち上がりが早すぎる!」
私は頭を抱えた。
師匠が、呆れたように言う。
「良い術はすぐ真似されると言っただろう? それは、悪い商人にとっても同じことさ」
私は、すぐさま王の申し渡しに添えるべき「石鹸の使い方」を整理し始めた。
薬ではない。
絶対に飲ませるな。
傷口へ直接塗り込むな。
肌用と布用を厳密に分けろ。
赤子に使う時は、肌用をさらに大量の水で薄めろ。
肌が赤く荒れたら、すぐに使用を中止しろ。
前回の「清めの作法」に続く、完全な「使い方の決まり」の作成である。
文字が読めない一般層に伝えるため、私はオスリックたちと協力し、色付きの紐による「ラベル運用」を徹底させた。
布用は「黒い紐」。
手肌用は「白い紐」。
祈り用や香り付きの高級品は「青い紐」。
強すぎる失敗作は「赤い印」をつけ、商人倉の内部でのみ道具洗いに使用する。
「あああ……また使い方の周知が一つ増えた……! こういう表示の工夫、前世で一番嫌いだった仕事なのに!」
私が髪を掻きむしっていると、師匠が顔を覗き込んできた。
「顔に『死ぬほど面倒くさい』と書いてあるよ」
「面倒です! でも、ここで運用をサボったら、石鹸が『肌を焼く呪いの品』として定着しちゃうからやるしかないんです!」
*
場面は変わって、エゼルベルト王の広間の奥。
フランクから輿入れしてきた王妃ベルタの居住区画では、全く別のルートで石鹸の普及が始まっていた。
フランク風の美しい織物が飾られた木造の部屋には、芳しい香草の匂いが漂っていた。
水桶の周りに集まった女房衆たちが、青い紐が結ばれた「香り付き石鹸」の試作品を手に、さざめき合っている。
「最初は灰臭くて嫌だと思ったけれど……この花のエキスが入ったものは、本当に良い香りがするわ」
「ええ。それに、手についた獣脂の嫌な匂いも、これを使えば綺麗に消えるのよ」
「お産の後で汚れた布を洗う時、少しこするだけで汚れが浮いてきて本当に助かっているわ」
「祈りの前にこの香りで手を清めると、心まで整うような気がするの」
女たちの反応は、すこぶる良好だった。
ベルタ王妃は、静かに微笑みながらその様子を見つめ、私に向かって優美に頷いた。
「……森の使いよ。この清めの品は、間違いなく女たちの間から広がっていくでしょう」
ベルタの目は、ただの贅沢を喜ぶ貴婦人のものではなく、極めて鋭い実務者のものだった。
「衣と肌を清く保ち、良い香りを纏えることは、ただ祈りのためだけではありません。自らの身分と権威を周囲に示す、強力な手段にもなるのです」
ベルタは、私に真っ直ぐ視線を向けた。
「ただし、肌を荒らすような強すぎるものを、奥の女たちに使わせてはなりません。香りをさらに整え、徹底的に肌に優しいものを作らせなさい。……女たちは、ただ汚れが落ちるだけのものより、『自分をより美しく、清らかにしてくれるもの』にこそ、惜しみなく対価を払うのですから」
私は、内心で激しく拍手喝采を送っていた。
「王妃様……完全に商品企画会議の上級役員だ……! 女性たちが何に価値を感じるかと、品物にどう付加価値をつけるかを完璧に理解してる!」
キリスト教の信仰とフランクの先進文化、そして女性ネットワークの強さを併せ持つベルタ。
彼女が「祈りの前の清め」と「女性の身だしなみ」を強烈に結びつけたことで、石鹸は単なる男たちの商売道具から、強力な女性のステータス品へと一気に昇華されたのだ。
*
一方、村への巡回の道すがら。
私は、あの十字の宣教者マルクスとすれ違うことが増えていた。
彼は、病人の家を訪問する前後に、持参した小さな器の水に、白っぽい石鹸の欠片を溶かして丁寧に手を洗っていた。
それを見た現地の村人たちが、ヒソヒソと囁き合っている。
「十字の祈り手も、病の家から戻ると必ず手を清めているぞ」
「森の作法と全く同じことをしているじゃないか」
「……なら、あの男の神も、決して悪いものではないのかもしれないな」
私はその光景を遠目から見て、ひどく微妙な顔になった。
「また私の作った運用フローが、十字側の善行としてナチュラルに吸収されてる……。いや、衛生環境が広がるならいいんだけど……でも、なんかもにょる……」
私がモヤモヤしていると、手を洗い終えたマルクスがこちらに気づき、小走りで近づいてきた。
「森ノ使イ。アナタノ教エ、本当ニ役ニ立ッテイル」
マルクスは、疲れた顔に真面目な笑みを浮かべて言った。
私はため息をついて首を振った。
「私の教えというより、ただの汚れを落とす道具の使い方です。あれは薬じゃないし、奇跡でもないですから」
「デモ」と、マルクスは真剣な目で言った。
「清メノ道具ヲ使イ始メテカラ、確カニ病ノ子、減ル」
私は、その真っ直ぐな言葉に少しだけ救われた気がした。
「……なら、いいです」
手柄がどちらに転ぼうと、あの腹痛で命を落とす子供が一人でも減っているのなら、私が泥まみれで駆けずり回った意味はあったのだ。
*
だが、良いことばかりではない。
王の申し渡しを受け、各地の有力者たちも石鹸を使い始めていた。
しかし、彼らの動機は純粋な「衛生」とは程遠いものだった。
「王が使っているから」
「王妃が香りを好んでいるから」
「清い布を纏うことが身分が高い証になるから」
「祈り手から清らかだと褒められるから」
そして何より、商人たちが「王の広間でも使われている、最高級の清めの品ですぞ!」と猛烈な売り込みをかけているからだ。
「……なんか、純粋に病を減らすためのインフラとして作ったはずなのに、完全に成金向けのステータス・ブランド品になっちゃってますね」
私が複雑な顔をしていると、隣を歩く師匠が淡々と言った。
「それでいいんだよ」
「いいんですか?」
「人間というものはね、ただ『病が減るから』という正しいだけの理由では、重い腰を上げないものさ」
師匠は、遠くに見える有力者の館を指差した。
「見栄、欲、恐れ、信仰、そして商売。……そういう人間のドロドロした感情を全部巻き込んで、ようやく新しい術は社会に根付いていくんだ」
あの時、師匠がお茶会で言った「対価」の話が蘇る。
善意だけで社会を回そうとしてはいけない。
相手の欲も、誇りも、商魂もすべて利用してシステムを組み上げなければ、本当の変化は起こせないのだ。
*
数週間後。
石鹸が上流階級や商人、祈り手たちの間に広がり始めた結果、小さな、だが確実な変化が、口頭での聞き取りとして表れ始めた。
王の広間の食事係の間で、腹下しが少し減った。
薬草を処理する女たちの手荒れや、染み付いた匂いが改善した。
産婦の世話をする女たちが、汚れ布をきちんと分けて洗うようになった。
王妃の女房衆の衣の匂いが、明らかに軽やかになった。
病人の家から戻った祈り手が、必ず手を清める習慣が定着した。
商人の倉で、長旅で汚れた布の「洗浄サービス」という新たな需要が生まれた。
私は、「初期導入後の効果測定」として、村々や商人から聞き取りをして回った。
「本当なら表にまとめて発症率の推移を見たい! でもこの時代にそんなものないから、足で稼ぐしかない!」
集まった声は、悲喜こもごもだ。
「前より、原因不明の腹下しで倒れる者は減った気がする」
「産婦の布の臭いが軽くなって助かってるよ」
「まだ強い。手がひび割れた」
「高い。もっと安くしてくれないと続けられない」
「香りつきの青い紐のやつは、奥方様に大評判だ」
「黒い紐の布用を、間違えて子供の顔に使った馬鹿が出たぞ!」
「うわあああ! 使い方の表示が圧倒的に足りてない! もっと一目で分かる工夫が必要だ!」
私は、聞き取り結果をまとめた木片を抱えて、エゼルベルト王への「中間報告」へと向かった。
*
王の広間にて。
エゼルベルト王は、すでに有力者や商人から石鹸に関する様々な報告を受けていた。
「清めの道具は、上流の者たちの間では確実に広がり始めています」
私は、木片のメモを見ながら報告した。
「ですが、問題も山積みです。価格が高すぎること。食用の脂を無理に買い占めようとする動きが出始めていること。粗悪品が出回っていること。布用を身体に使う事故が絶えないこと。そして、病を治す万能薬だと偽って売りつける悪徳商人が出たことです」
私が一気に問題点を並べ立てると、エゼルベルト王はわずかに眉をひそめ、即座に傍らに控える従者と長老たちに命じた。
「主だった商人どもを集めよ」
王の通る声が、広間に響き渡る。
「食える脂を、飢えた家から買い叩く者は厳罰に処す。病を治す薬だと偽って売り歩く者は、捕らえて市で晒し者にせよ」
「はっ!」
「布用と肌用を分ける印を、商人たちに必ず守らせる。それに背いて売った者からは、王の市で商う権利を取り上げる。……それから、王の広間で使うものは、香りなどの見栄えよりも、まずは実用を優先させよ」
その迅速かつ的確なトップダウンの判断に、私は思わず感嘆の声を漏らしそうになった。
「王様……対応が早すぎるし、的確すぎる……!」
私が目を見張っていると、エゼルベルト王は私の方を見て、ニヤリと笑った。
「森の小さな使いよ。お前が持ってくるものは、実に使える。だが……使えるものほど、人の強い欲を呼ぶのだ」
「はい」
「だからこそ、その欲を裁き、暴走を止めるための『王』がいるのだ」
その言葉の凄みに、私は圧倒された。
王は、ただの便利なチートアイテムの受け取り役ではない。
そのアイテムが社会に及ぼす混乱を統治し、コントロールする、本物の「統治者」なのだ。
*
その日の夕方。
師匠の小屋へ帰り着いた私は、疲労困憊で土間に倒れ込んだ。
「あー……もう無理。石鹸の作り方を広めるだけのはずだったのに、商人への監査、仕様の分類、安全ルールの整理、王様への中間報告、王妃様ルートの女性向け導線確認、祈り手への説明……。やること多すぎません? 完全に現場の取りまとめ役じゃないですか」
私が泥のついた顔を拭いながら愚痴ると、師匠は炉の火に薪をくべながら言った。
「お前が『社会に乗せる』と言ったんだろう?」
「社会、重すぎます!」
「そうだよ。だから、その重さを舐めて軽く扱う者は、あっという間に社会の欲と混乱に押し潰されるのさ」
師匠の言葉に、私は少しだけ黙り込んだ。
大変だった。
地獄のように忙しかった。
でも、確実に成果は出ている。
王の広間での腹痛は減った。
産婦の布は前より清潔に保たれている。
祈り手たちも、病人の家から戻った後は必ず手を清めている。
「……まだ、本当に余裕のある『上澄み』の部分だけですけどね」
私がポツリと呟くと、師匠は振り返らずに言った。
「上澄みが大きく動けば、下の方の水も、少しずつ揺れ始めるものさ」
その静かな言葉が、疲れ切った私の心に少しだけ染み渡った。
夜。
私は、作業台の端に残っていた、小さな茶色い石鹸の欠片を見つめていた。
あの不格好な茶色い塊が、王の広間で使われ、王妃様の女房衆の衣を洗い、商人の倉に高く積まれ、祈り手の水桶のそばに置かれている。
でも、まだあの西の村の、泥だらけの子供の手には届いていない。
「……届かないけれど、道は、確かにできた」
こうして、「清めの泡」は王侯貴族の贅沢品として、このブリテン島の上澄みから静かに、だが確実に広がり始めた。
それはまだ、貧しい村の子供が毎朝の手洗いに使えるほど、安くてありふれたものではない。
だが、王の広間で、王妃の奥の部屋で、商人の倉で、祈り手の祭壇の脇で、清めの泡は確かに使われ始めていた。
いつか、その泡が、泥だらけの小さな手まで届く日を夢見ながら。
私は明日もまた、商人の顔と脂の値段、そして灰の質を確認するために、冷たい氷雨の降る泥道を歩くのである。
「……魔女の弟子っていうか、完全に石鹸事業部の現地営業担当ですよね、私」
「文句を言う暇があるなら、とっとと寝な! 明日は朝から、香草売りの女に会いに行くよ!」
「また外回り!!」
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