星の病と呪いの理〜記憶を持たない転生者たちの新たな戦い〜 作:いくと
午前一時を回った高専の廊下は、非常灯の緑だけが灯っている。
その中で、自販機の光だけが場違いに明るかった。
夏油傑は、その前に立っていた。財布を出したまま、もう三分ほどそうしている。何を買うかを決めかねているわけではなかった。買いに来たこと自体が、ただの口実だったからだ。
部屋にいると眠れない。眠れないまま天井を見ているより、歩いた方がいい。歩いた先に自販機があった。それだけの話だった。
ボタンを押すと、缶が落ちる音が思いのほか大きく響いた。
夏油「……」
拾い上げて、その場で開ける。温かい。深夜の廊下では、それだけでずいぶん助かる気がした。
彼が壁に背を預けたところで、廊下の奥から足音がした。
アーデン「やあ」
夏油「……アーデン」
黒いコートの男が、片手を上げて近づいてきた。この時間に見かけても、もはや誰も驚かない。彼はいつも高専のどこかにいるか、あるいはどこにもいない。
アーデン「奇遇だね。眠れないのかい」
夏油「そっちこそ」
アーデン「僕は元々こういう生き物だよ」
彼は財布も出さずに、慣れた手つきで硬貨を投入した。缶が二本落ちる音がした。
一本を自分で拾い、もう一本を夏油に差し出す。
夏油「……もう持ってるんだが」
アーデン「二本目だ」
夏油「……悪いな」
受け取った缶は冷たかった。温かいのと冷たいのを一本ずつ持って、夏油は少し笑った。
二人は並んで、廊下の壁に背を預けた。
しばらく、どちらも喋らなかった。喋らないことが気まずくならない相手というのは、そう多くない。
先に口を開いたのは夏油だった。
夏油「虎杖が、また上手くなった」
アーデン「ほう」
夏油「先週の訓練で、七海の型を見様見真似でやってみせてね。まだ形だけだが、あの子は覚えるのが異様に速い」
アーデン「あの子は理屈より先に体が動くタイプだからねぇ」
夏油「ああ。……それが少し、怖くもある」
アーデン「怖い?」
夏油「速すぎるんだ」
彼は缶を両手で包んだ。
夏油「僕らが教えるより速く、あの子たちは強くなっていく。悪いことじゃない。むしろ喜ぶべきことだ。……でも、追いつかれる速さで走られると、こちらが手を離すタイミングを見誤る」
アーデン「……なるほど」
夏油「伏黒も、そうだ」
アーデン「彼は慎重だろう」
夏油「慎重なんだよ。慎重だから、一人で背負おうとする」
夏油は天井を見上げた。
夏油「あの襲撃の時、最初に号令をかけたのは伏黒だったと聞いた。生徒だけになった状況で、真っ先に『共闘しよう』と言い出したのがあの子だと。……立派だ。立派なんだが、十五の子供がやることじゃない」
アーデン「大人がいなかったからね」
夏油「ああ」
夏油「僕らがいなかったから」
短い沈黙が落ちた。
あの日、帳の外にいた。五条も、アーデンも、夏油も、夜蛾も。強すぎる者だけが弾かれる帳の外で、内側の音を聞きながら、ただ壁を殴っていた。
アーデン「……あれは僕らのせいではないよ」
夏油「分かってる。分かってはいるが、腹の底では別のことを思っている。教師というのは因果な仕事だな」
アーデン「まったくだ」
彼は缶に口をつけた。中身は、ひどく甘いコーヒーだった。
夏油「あの四人のことも、気にかかってる」
アーデン「ノクティスたちかい」
夏油「ああ」
夏油は少し言葉を選んでから、続けた。
夏油「初めて会った時に言ったんだ。あの子たちの力は、呪術の枠組みから外れている。最大の弱点は、自己治癒能力の欠如だと」
アーデン「覚えているよ」
夏油「あれから随分経つが、そこだけは何も変わっていない」
夏油「反転術式は使えない。誰も。四人とも」
アーデン「……そうだね」
夏油「なのに、あの子たちは前に出る。前に出るのが役割だと思っている。被弾を前提にした戦い方ができないのに、被弾する場所に立ち続けている」
彼は自分の手のひらを見た。
夏油「今は、ルナフレーナがいる。家入もいる。だから間に合っている。……でも、間に合わなかった時のことを考えると、眠れなくなる」
アーデン「……」
夏油「一人でも欠けたら、あの連携は成立しないだろう。理屈は分からないが、あれは四人で一つだ。一つ欠けた時に、残りの三人がどうなるのか――僕には想像がつかない」
アーデンは何も言わなかった。
言えることが、なかったからだ。
彼はその答えを、この教師よりもいくらか多く知っている。知っているが、その知識の出どころを説明することができない。だから黙るしかない。
アーデン「(――やれやれ)」
アーデン「……手は打っているよ」
夏油「先生が?」
アーデン「僕にできる範囲でね。大した範囲ではないが」
夏油「それは、心強い」
素直な返事だった。疑いも、探りもなかった。
アーデンは缶の縁を親指で撫でた。
夏油「……アーデン」
アーデン「うん?」
夏油「あの同時多発の時、新宿を引き受けてくれたな」
アーデン「ああ、あれか」
夏油「あの日、僕は池袋にいた。悟は渋谷。もし新宿に誰も行けていなかったら、と何度か考えたことがある」
アーデン「考えても仕方のないことだねぇ」
夏油「ああ。仕方のないことだ」
夏油は缶を軽く持ち上げた。乾杯というほどの動作でもない、ただの手の動きだった。
夏油「あなたがいてくれて、よかった」
アーデンの指が、缶の上で止まった。
一秒か、二秒か。
この学校に来てから、彼は数え切れないほどの言葉を受け流してきた。褒められることも、疑われることも、頼られることも、すべて同じ手つきで、同じ角度で、同じ表情で受け流してきた。それが仕事だった。
だが今の一言は、受け流す形が見つからなかった。
アーデン「……買い被りだよ」
夏油「そうかな」
アーデン「僕は、行きたい場所に行っただけだ」
夏油「それでも、行ってくれた」
アーデン「……」
言い返せなかった。
この男は、僕が何をしているのかを知らない。知らないまま、こうして礼を言う。そして僕は、知らせるわけにはいかない。
嘘をつくのは慣れている。慣れているが、慣れたからといって軽くなるものでもないらしかった。
五条「なーに深夜に男二人でしっぽりしてんの」
廊下の反対側から、場違いに明るい声がした。
夏油「悟」
五条「傑が部屋にいないから探しに来たんだけど。……あ、アーデンもいる」
アーデン「やあ」
サングラス越しの視線が、二人の間を一往復した。五条悟という男は、深夜の一時だろうと真昼だろうと、態度がまったく変わらない。
五条「なに、二人でしんみりしてたわけ? 教師の悩み相談?」
夏油「まあ、そんなところだ」
五条「あー、やめとけやめとけ。悩んでも強くならないよ、生徒は」
夏油「お前が言うと説得力があるのが腹立つな」
五条「事実だからね」
彼は自販機に硬貨を放り込んで、迷わず甘そうなものを選んだ。缶を拾い上げ、二人の向かいの壁に背を預ける。
五条「でもさ。虎杖のことでしょ、どうせ」
夏油「……なぜ分かる」
五条「顔」
夏油「顔か」
五条「傑、生徒の話してる時、眉間がすごいことになってるもん」
夏油「自覚がない」
五条「ないから言ってんの」
三人はしばらく、どうでもいい話をした。伊地知が最近やつれていること。夜蛾が新しい呪骸を作っていること。家入が医務室でまた煙草を咥えて我慢していること。
そして、話が途切れたところで、五条が唐突に言った。
五条「ねえアーデン」
アーデン「なんだい」
五条「あんたっていつ寝てんの?」
夏油が小さく吹き出した。
夏油「悟、それは失礼だろう」
五条「いや素朴な疑問。昼間もいるし夜もいるし。分身でもしてんじゃないの」
アーデン「……ははは。買い被りだよ、それも」
サングラスの奥は見えない。見えないまま、五条はもう笑っていた。
五条「まあいいや。じゃ、俺は寝るわ」
夏油「お前、探しに来たんじゃなかったのか」
五条「見つけたからいいでしょ」
そう言って、彼は缶を持ったまま廊下の奥へ消えていった。
夏油「……相変わらずだ」
アーデン「まったくだねぇ」
だが、アーデンは笑っていなかった。
正確には、笑った顔のまま、内心だけが冷えていた。
アーデン「(――あれは、素朴な疑問だったのかな)」
分からない。あの男の言葉は、いつも二重に読める。読めるが、確かめる方法がない。確かめようとすれば、それこそが答えになってしまう。
夏油「僕もそろそろ戻る。……付き合わせて悪かったな」
アーデン「気にすることはないよ。僕は元々こういう生き物だ」
夏油「二度目だな、それ」
アーデン「気に入っているんだ」
夏油は笑って、缶を軽く掲げてから歩き去った。
その背中が角を曲がるまで、アーデンは見送っていた。
一人になった廊下は、また非常灯の緑に戻った。
アーデンは空になった缶を握り潰して、ゴミ箱に落とした。
守るべきものが、また一つ増えた気がしていた。あの日、新宿のカフェで感じたのと同じ種類の重さだった。増えるたびに、身動きが取れなくなっていく。
そして、もう一つ気になっていることがあった。
――連絡が来ない。
交流会の後、数日のうちに羂索から次の指示が来るはずだった。あの男が集めたデータを、次に何へ使うつもりなのか。それを確かめるつもりでいた。
だが、二週間が過ぎても、何も言ってこない。
急かされるより、放っておかれる方が悪い。あの男が黙っている時は、たいてい何かを組み立てている時だ。
アーデン「(――さて。何を作っているんだろうね、君は)」
彼はコートの襟を立てて、歩き出した。
高専の門を出た時、時刻は午前二時を回っていた。
新宿に着いたのは、それから四十分後だった。
古い雑居ビルの一階。木の看板に彫られた店名の上に、まだ灯りが点いていた。閉店の時刻はとうに過ぎている。
扉を押すと、鈴が鳴った。
エイラ「……あら」
カウンターの内側で、彼女は椅子を上げているところだった。手にした布巾を置いて、少し驚いた顔をする。
エイラ「もう閉めるところですけど」
アーデン「知っていて来た」
エイラ「悪い人ですね」
アーデン「よく言われる」
彼女は笑って、椅子を一つだけ下ろした。
エイラ「豆、もう挽いちゃったので薄いですよ」
アーデン「構わないよ」
出されたカップは、確かに薄かった。だが温かかった。
エイラは向かいで店じまいの続きをしながら、思い出したように話しかけてくる。今日は昼に雨が降ったこと。近所の花屋が結局店じまいしたこと。豆の入荷がまだ遅れていること。何の意味もない話だった。
アーデンは相槌を打ちながら、その意味のなさに救われていた。
そして、彼女がふと手を止めた。
エイラ「……アーデンさん」
アーデン「うん?」
エイラ「疲れてますね」
彼の指が、カップの取っ手の上で止まった。
エイラ「顔色じゃなくて、なんというか……座り方が」
アーデン「座り方」
エイラ「はい。いつもより、こう。……重そうです」
アーデン「……」
高専では、誰にも言われていない。
夏油にも、夜蛾にも、七海にも。あの六眼の男にすら言われていない。彼らは全員、アーデンという男が疲れる生き物だとは思っていない。思わせないように作ってきたのだから、当然だった。
なのに、この店主だけが見抜く。
いつもなら、ここで肩をすくめて何か軽口を叩いている。その手つきは体に染みついている。
だが今夜は、そこまで一拍かかった。
アーデン「……年かな」
エイラ「まだそんなお年には見えませんけど」
アーデン「見えないだけだよ」
エイラ「そうですか」
彼女はそれ以上追及せずに、また布巾を動かし始めた。心配はしているが、詮索はしない。この人はいつもそうだった。
薄いコーヒーを飲み干して、アーデンは席を立った。
アーデン「ご馳走さま」
エイラ「はい。……ちゃんと寝てくださいね」
アーデン「善処しよう」
エイラ「善処、じゃなくて」
アーデン「……はいはい」
扉が閉まり、鈴が小さく鳴った。
秋の夜風の中で、彼はしばらく立っていた。
守れないものが二つある、と思った。
一つは、真実を話せない相手。もう一つは、話すべき真実を自分でも持っていない相手。
どちらの前でも、彼は同じ顔をしている。
同じ頃。
血の池に、生温い波が立っていた。
骸を積み上げた玉座の上で、両面の男が指を組んでいる。この場所には昼も夜もない。ただ、器が眠っている間だけ、彼の視界はいくらか静かになる。
宿儺「……騒がしい日々よ」
彼は目を閉じたまま、器の記憶をなぞっていた。白球を追いかける小僧の姿。菓子を奪い合う声。手紙とやらを回し読みする愚かしい光景。
宿儺「腑抜けたものだ。囲われ、飼われ、それを幸福と呼んでおる」
だが、彼の口の端は上がっていた。
高く積み上げるほど、崩した時の音がよい。それを知らぬ者ほど、熱心に積み上げる。
宿儺「……あの白い魂は、まだあそこにおるのか」
呪いを根本から否定する異物。触れれば消える雪のような、腹立たしいほど汚れのない形。あれが崩れる様を見たいという欲は、日に日に濃くなっていた。
宿儺「時が要る」
彼は組んだ指をほどいた。
宿儺「あの約定――いつ、どう使うてやろうかのう」
器はそれを覚えていない。結んだことすら忘れている。忘れていることこそが、あの取り決めの妙味だった。
急ぐ必要はない。急いで使えば、一度きりの札が安く終わる。
宿儺「……まだ足りぬ」
その一言が、誰にも聞かれることなく血の池に沈んだ。
やがて器が寝返りを打ち、内界の波が静まった。
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