あの忌まわしい夜から数日。四畳半のボロアパートの部屋には、重苦しい沈黙とマシュの浅く苦しげな呼吸音だけが絶え間なく満ちていた。
野崎が連行され物理的な害虫は排除された。だがマシュの精神に刻まれた「檻を汚され、先輩の足手まといになった」という強烈な恐怖と自責の念は彼女の心を内側から引き千切り続けていた。万年床の隅でガタガタと震え紅音の姿を見るたびに涙を流して過呼吸を繰り返す日々。
そしてその夜、決定的な破滅が二人の引きこもり生活に襲いかかった。
「……あかね、先輩。身体がうまく動かなくて……冷たい、です……っ」
深夜二時。紅音がバイトから戻り、部屋の明カリを点けた瞬間、床に力なく倒れ込むマシュの姿が目に飛び込んできた。背中の真ん中を過ぎて畳に広がる藤色のロングヘアが、冷たい汗でぐっしょりと濡れている。
「マシュ!? しっかりしろ、どうした!」
紅音は慌てて駆け寄り彼女の豊かな肢体を抱き起こした。その瞬間、彼の指先を貫いたのはかつてカルデアで弄んでいた魔術回路の過負荷などではないあまりにも生々しい人間の「高熱」だった。
スマホから症状を調べる。
急性肺炎および精神的ショックによる急性呼吸不全。直ちの救急搬送を要する。
「は、……はは、なんだよ、これ……っ」
紅音の喉から掠れた情けない自嘲の声が漏れ出た。
逆転生を果たし完璧に健康な人間の肉体を手に入れたマシュ。だが紅音の歪んだ優越感と自尊心を維持するために何年も日光を浴びず、他者との関わりを断たれて四畳半の暗闇に引きこもり続けた結果彼女の免疫力は限界まで低下していた。ただの現実のウイルスすら跳ね返せないほどに彼女の肉体は生身の脆い女の子へと成り果てていたのだ。
「嫌、です……あかね先輩……病院なんて、いかないで……っ。私は、先輩のお人形……。このまま、先輩の腕の中で、腐らせて……っ」
混濁する意識のなかで、マシュは熱で真っ赤に腫れ上がった細い指先で、必死に紅音の安いTシャツの裾を握り締めようとした。だがその手にはもうかつて世界を拒絶したあの強固な大盾の強さはどこにも残っていなかった。
「――俺は、間違えていたのか……?」
床に崩れ落ちたまま紅音の喉から血を吐くような絶望の独白が零れ落ちた。死んだ魚のようだった彼の瞳が、激しい後悔と初めて剥き出しになった本物の恐怖で大きく揺れる。
前世の記憶を使いカルデアを騙しマシュを自分のためだけに強奪した。自分の差し出した「暗闇の全肯定」こそが彼女の救いだと信じ込んでいた。
だが、現実に起きたのはどうだ。学生の扶養という都合の良い鎖で社会の死角に監禁し続けた結果マシュはストーカーの暴力にただ怯えて涙を流すしかなくなりただの現実の病に侵されて、今自分の腕の中で無残に消えかけようとしている。
彼女を殺そうとしている本当の怪物(加害者)は、汎人類史の搾取なんかじゃない。
自分の無能な自尊心を満たすために彼女を都合の良いお人形として水槽の底に閉じ込め、呼吸の仕方も忘れさせて甘やかし続けてきた――他でもない、来栖紅音という男のエゴそのものだった。
カラン、と。彼の胸の奥で、強固に守り続けていたひねくれた価値観の防壁が完璧に粉々に砕け散った。
お前に幻滅されてもいい。大嫌いだと罵られても構わない。無能な自分を「神様」と呼んでくれる最高に都合の良いお人形を失って、また惨めな傍観者の泥に戻ることになっても――それでも、俺はお前に生きていてほしい。
「静かにしろ、マシュ。……俺のプログラミング(嘘)は、ここで終わりだ」
紅音は自分の黒髪を乱暴にかきむしり、スマホの通話ボタンを叩いた。ハッキングの裏回線ではない一般の普通の119番のダイヤル。
「生きろ、マシュ……っ! 俺のくだらない檻から出て、外の眩しい世界で、しぶとく生き長らえるんだ……!!」
ウー、ウー、と遠くから近づいてくる現実の救急車のサイレンの音。
それは、二人の築き上げた退廃的な楽園(バグ)の完全な終焉を告げる音であり同時に彼女を光の社会へと羽ばたかせるための健気で泥臭い再生への幕開けだった。