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現実の救急車に運び込まれ一週間の集中治療を経て、マシュ・キリエライトの急性肺炎は薬によって綺麗に収まっていた。肺の炎症は引き彼女の呼吸は生身の健康な人間のそれを取り戻している。
だが、夕方の冷たい西日が差し込む白い病室のなかで来栖紅音は言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「……マシュ。お前何をしているんだ」
「あは……あかね、先輩。……これとても安心するんです」
ベッドの上に座るマシュの姿は病み上がりとは思えないほど、ねっとりとした「肥大化した精神依存」の熱に浮かされていた。
彼女は背中の真ん中を通り過ぎてシーツに広がる藤色のロングヘアを乱れさせ病院から支給されただぶだぶの白い入院着の胸元をはだけさせたまま自分の首に点滴用の透明なプラスチックチューブをまるで首輪のように幾重にも巻き付けていたのだ。そのコードの端は紅音の持ち込んだノートパソコンのUSBポートへ、強引に差し込まれている。
魔力も他罰逆流コードもないただの無機質な医療器具の塊。
なのに、シュは濁った紫の瞳をトロンと蕩けさせ豊満になった大人の肢体を細い両腕で抱きしめながら狂信的な恍惚の涙を流していた。
「先輩が私を病院(外の世界)へ放り出した時、本当に死ぬかと思いました。お医者様や看護師様が、私に『もう大丈夫、健康だよ』って優しい綺麗事を言うたびに私の心臓があのドクターたちの呪いで止まりそうになったんです。私は先輩のお給料という鎖で首を縛られてあの薄暗いマイルームの底でただ消費されるお人形(標本)でいたい。……ねえ、先輩私を普通の女の子にしないで。また、あの最高に不健全な檻に戻して……っ」
マシュはベッドから音もなく這い出し首にチューブを巻き付けたまま冷たい床にひざまずいて紅音の腿の上にそっと両手を重ねた。肉感的に成長した彼女の身体が逃れられない質量を以て紅音の足元へとしがみつく。
紅音は自分の黒髪を乱暴にかきむしり、彼女の首に巻き付いた冷たいチューブにそっと手を触れた。
「俺は間違えていたのか」と慟哭したあの夜を経て、彼女の命が消えかけたあの温度を知ってしまった紅音の胸の奥の願いは、もう、歪んだ優越感のなかには戻れなかった。
「……マシュ。お前は本当に最高に厄介で度し難いバグだな」
紅音は死んだ魚のような目のままけれどその指先には確かな温もりを込めて彼女の首から点滴のチューブを一本ずつ無悲惨にしかし優しく解いて床へ投げ捨てた。
「嫌、です、外さないで……っ! 先輩の首輪を外されたら、私はどこへ行けばいいんですかっ!」
マシュが悲鳴のような声をあげて紅音に顔を埋める。
「外の世界へ行くんだよ、マシュ」
紅音は彼女の長く豊かな藤色の髪を支配の温度ではなく女の未来を信じるための強さで、静かに撫し回した。
「マシュ、お前に俺の『本当の気持ち』を話してあげるよ。……俺はね、前世じゃ何一つ成し遂げられないまま死んだ、ただの有象無象の凡人だったんだ。どれほど努力しても世界の中心には立てず、誰の『特別』にもなれない。画面の向こうで世界を救っていく藤丸立香の輝きを激しい自己嫌悪と劣等感に塗れながら見上げるしかなかった、惨めな傍観者さ。そんな無能なゴミクズの俺がカルデアでお前と出会った時、素直に『生きて普通の女の子の幸せを掴もう』なんて眩しい言葉を絶対に口にできなかったんだ。そんな光の綺麗事は特別な主人公である藤丸くんだからこそ許される特権だからね。無力な俺が口にすれば、安っぽい偽善でしかない。自分の無力さにいつかその綺麗事が嘘だと暴かれお前に幻滅されるのが俺は死ぬほど怖かったんだよ」
紅音はマシュの顎をそっと引き上げ、ハイライトの完全に消えた彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「お前を綺麗に救ってやれるヒーローの器じゃない。お前が俺の檻から出て、校へ行って他の奴らと関わって、俺の届かない場所へ行ってしまうのが、今でも死ぬほど怖いし嫉妬で気が狂いそうだ。…だから俺はお前を光の社会に奪われたくなくて自分の自尊心のためだけに彼女の壊れた初恋を全肯定するフリをして暗い部屋に監禁したんだ。お前を、俺と同じ寂しいお人形のまま世界で一番不完全なお前を、世界で一番無能な俺だけのものにしたかった。マシュへの同調すらも前世の自分の惨めな劣等感を慰めるための、身勝手で独善的な『個人的な主観』にすぎなかったんだよ。本物のお前が暗闇を愛していたのではなく、光を掴むために耐えていた気高さから目を背け、自分と同レベルの可哀想な怪物であっほしいと強く呪うような、あまりにも不器用で一途な、ただ一つの純愛(執着)だったんだ」
紅音は自嘲気味にしかし生まれて初めて剥き出しの告白を彼女の瞳へ突き刺した。
「でもな、マシュ。お前が俺のくだらないプライドを満たすためだけに、あの四畳半の暗闇で呼吸の仕方も忘れて、ストーカーの暴力にただ怯えて惨めに腐っていくのを見るのは……それ以上の地獄だ。お前にどれだけ嫌われてもいい。大嫌いだと罵られても構わない。それでも俺はお前に生きていてほしい。俺の嘘はもう終わりだ。これからは、お前が普通の女の子としての服を選び、自分の足で歩くための、泥臭い努力を始めてもらう。……私が、その最初の一歩の一番ダサい杖になってやるから」
「あ、……あかね、先輩……」
マシュは首輪を失った自分の首元に手を当て、紅音の「不実を越えた本物の愛」という光の言葉に、生まれて初めて、呆然と震えていた。
彼女の肥大化した精神依存は、先輩の差し出した『現実を生きるための絶対的な覚悟』という別の質量によって、静かに、本物の恋心へと書き換えられようとしていた。
病室の硝子窓から冬の寂しい夕日が差し込み二人の影を長く真っ直ぐに伸ばしていく。
不器用な男の心変わりとそれに初めて正しく絆されようとしているマシュとどこまでも泥臭くどこまでも眩しい『再生への対話』が静かにしく紡がれていくのだった。