ひかりより速く、   作:おいかぜ

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五話 四番目の背中

「朝倉、今の声、遅い」

「はい」

「返事じゃなくて次で直して」

「はい」

「だから返事は一回でいい」

 

 私は口を閉じた。

 茅野梨央先輩は、怒鳴らない。

 だから余計に、返事の置き場がなくなる。

 

 四継の練習が始まってから、まだ二日しか経っていない。

 それなのに、バトンの感触はもう手に残るようになっていた。

 

 軽い金属の筒。

 落とせば音がする。

 受け取った瞬間は冷たいのに、握っているうちに手の中で汗ばむ。

 

 それを渡す相手は、茅野先輩だ。

 昨日の先輩の言葉が、まだ手のひらに残っている。

 

 今日は風が強かった。

 グラウンドの砂が、不規則に舞い上がる。

 砂が流れるたびに、マークの白線が一瞬だけ薄くなった。

 

「あと何本かやれば──」

 

 茅野先輩が一歩、アンカーゾーンの方へ出る。

 片桐先生はストップウォッチを手元に下ろした。

 

「茅野、今日は本数を増やすな」

「流しです」

「流しでも、数は数だ。あと一本だけ」

 

 茅野先輩は一拍だけ黙った。

 

「分かりました」

 

 返事はした。

 でも、その声は風に削られなかった。

 真帆先輩が近くで小さく息を吐く。

 

「梨央、前に出てるね」

「焦ってるんですか」

「たぶんね」

 

 真帆先輩はアンカーゾーンへ顎を向けた。

 茅野先輩は何も説明しない。

 

 ただ、一本目より二本目、二本目より三本目で、出る位置が少しずつ前になる。

 私が届くぎりぎりの場所まで、攻めようとする。

 届かなければ、茅野先輩の背中だけが前へ行ってしまう。

 

「位置、戻しますか」

 

 私が尋ねると、茅野先輩はすぐに首を振った。

 

「戻さない」

「でも、さっき少し詰まりました」

「あんたが詰まっただけ」

「はい」

「私が遅く出たら、それは安全じゃなくて損」

 

 茅野先輩は、マークを指で示した。

 

「リレーは、お願いする競技じゃない」

 

 前にも似たことを聞いた。

 でも、今日は少し違って刺さった。

 

「来た速度ごと渡す。遠慮したら死ぬ。タイムが」

 

 千秋が小声を落とした。

 

「タイムの命って重い」

 

 茅野先輩の顔が千秋の方へ向く。

 

「聞こえてる」

「すみません!」

 

 真帆先輩が笑った。

 その一瞬だけ、空気が柔らかくなる。

 でも、バトンを持つとすぐに戻った。

 

 千秋が出る。

 真帆先輩が受ける。真帆先輩の動きは派手ではない。

 けれど、千秋の鋭い出だしを受けても崩れない。

 

 手に入ったバトンを、そのまま私へ運んでくる。

 私はマークで出る。真帆先輩の声。

 右手に金属が触れる。掴んだ瞬間、意識を前へ送る。

 

 茅野先輩の背中。

 私を待たないまま、もう加速に入っている。

 それなのに、私が届く前提で前へ出ている。

 

 その感じが、怖い。

 

「はい!」

 

 声を風の前に置く。

 茅野先輩の左手が後ろへ出る。

 金属の筒を、その手の奥へ押し込む。指先の抵抗が消えた。

 

 茅野先輩はバトンを握り込み、振り返らずそのままゴール方向へ伸びていく。

 私の手から離れたあとも、しばらく手のひらに熱が残った。

 茅野先輩は戻ってくるなり、短く息を吐いた。

 

「今のは悪くない」

 

 私は一瞬、返事を忘れた。

 千秋が横から小さく肘を当てる。

 

「翠、褒められてる」

「分かってる」

「顔が分かってない」

「だって、急に」

 

 茅野先輩は少しだけ眉を上げた。

 

「悪くないってだけ。良いとは違う」

「はい」

「最後の二歩で、まだ手を探してる」

 

 私は自分の指を握り込んだ。

 

「探してるつもりは」

「つもりじゃなくて、身体がそうなってる」

 

 茅野先輩は背中を向けて、左手だけを軽く後ろへ出した。

 

「私は手を出す。だから、背中を追って来て」

「背中」

「手は最後に勝手に入る。そうなるまでやる」

 

 怖い。

 でも、言われた場所だけが次の一本で熱く残る。

 

 逃げ道を塞がれているのではなく、バトンの通り道だけを残されている気がした。

 

 練習後、グラウンドの端でストレッチをしていると、二年生の誰かが口にした。

 

「これ、鴻上が戻ったら結構いけるんじゃない?」

 

 声は大きくなかった。

 たぶん、ただの雑談だった。

 それでも、千秋のスパイク袋が揺れる音まで止まった気がした。

 

 真帆先輩が顔を上げる。

 千秋の気配が、こちらに寄る。

 私の視線は、靴紐を結ぶ茅野先輩の手元へ落ちた。

 

 茅野先輩の指先は止まらなかった。

 けれど、結び目を作るまでが、いつもより長かった。

 名前を呼ぼうとして、やめた。

 

 ──ひかり先輩が戻ったら。

 

 私も、何度も考えた言葉だった。

 だから、何を返せばいいのか分からなかった。

 

 ひかり先輩がアンカーに入れば、四十七秒六二を抜けるかもしれない。

 今でもそう思っている。

 なのに他の人の口から聞くと、違う場所が痛んだ。

 

 今、アンカーゾーンに立っている人がいる。

 私はその人の前で、何度もバトンを落とした。

 それでも茅野先輩は、次も同じ場所で手を出した。

 そのことが、急に重くなった。

 

 練習が終わって、部室に戻っても、茅野先輩はあまり喋らなかった。

 千秋は空気を変えようとして、いつもより大げさに今日の失敗を話している。

 

 真帆先輩がそれに付き合っていた。

 私はシューズを片付けるふりをしながら、棚の前に立つ茅野先輩の気配ばかり拾っていた。

 茅野先輩はタオルを畳み、バトンケースを棚に戻す。

 棚の扉を閉めたあと、手を離すまでが遅かった。

 

「朝倉」

 

 呼ばれて、私は背筋を伸ばした。

 

「はい」

「ちょっといい?」

 

 部室の外に出ると、夕方の廊下は静かだった。

 雨は降っていないのに、空気だけが湿っている。

 

 茅野先輩は壁に背を預けず、立ったまま私と向き合った。

 

「あんたは、鴻上ひかりを戻したいんだよね」

 

 息が止まりかけた。

 

「……はい」

「リレーに入ってほしいんだよね」

「はい」

 

 嘘はつけなかった。

 ここで曖昧にしたら、もっと失礼になる気がした。

 茅野先輩は廊下の窓へ顔を向けた。

 

「じゃあ、私は?」

 

 すぐには意味が分からなかった。

 

「え」

「私は、どこに行けばいいの?」

 

 言葉が、廊下に落ちた。

 私は何も返せなかった。

 

「みんな、鴻上が戻ればって言う」

 

 茅野先輩の声は荒れていなかった。

 

 怒ってくれた方が、まだ楽だった。

 

「鴻上なら。鴻上がアンカーなら。……何回も聞いた」

 

 誰かを選ぶことは、誰かを選ばないこととよく似ている。私は、ひかり先輩の名前ばかりを追っていた。

 その名前の下に、今立っている人がいることを、まだちゃんと考えていなかった。

 

「私も、ひかりの走りは好きだった」

 

 ひかり、と呼んだ。

 先輩でも、鴻上でもなく。

 その呼び方だけ、少し近かった。

 

「悔しいくらい」

 

 茅野先輩は、手のひらを軽く握った。

 

「でも、今アンカーにいるのは私」

「はい」

「私もアンカーなんだよ」

 

 怒りではなく、確認に近い声だった。

 自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 

「私、」

 

 声が掠れた。

 

「渡す相手のこと、ちゃんと考えてませんでした」

 

 茅野先輩は黙っていた。

 

「ひかり先輩に戻ってほしい気持ちは、あります」

 

 怖かった。

 でも、隠す方がもっと失礼だと思った。

 

「でも、明日バトンを渡す相手は、茅野先輩です」

 

 そこで一度、言葉が止まった。

 

「だから、ちゃんと渡したいです」

 

 しばらく何も返ってこなかった。

 廊下の向こうから、千秋の笑い声が届く。

 真帆先輩が何か返している。

 部室の中はいつも通りなのに、ここだけ別の場所みたいだった。

 

 茅野先輩は、息をひとつ吐いた。

 

「真っ直ぐ言うね」

「すみません」

「そこは謝らなくていい」

 

 私は口を閉じた。

 茅野先輩は廊下の窓枠に指をかけた。

 

「別に、鴻上を戻したいって思うなとは言わない」

「はい」

「私だって、あいつが出たら速いのは知ってる」

「はい」

「でも、あんたが私に渡すなら」

 

 茅野先輩が、こちらへ向き直る。

 

「私を使って」

「使う?」

「アンカーなんだから。最後は私が持っていく」

 

 その声は、さっきより強かった。

 

「遠慮して渡される方が嫌」

 

 茅野先輩はまぶたを伏せた。

 

「誰かと比べながら渡されるのも嫌」

「はい」

「私に渡すなら、私に勝たせるつもりで来て」

 

 私は頷いた。

 

「明日も、ちゃんと渡して」

「はい」

 

 茅野先輩はそれで話を終えようとした。

 そのとき、廊下の段差を降りる右足だけが一拍遅れた。

 

「今、脚」

 

 言いかけて、遅かったと思った。

 茅野先輩の表情が変わる。

 

「何」

「今、少し」

「ただの段差」

「でも」

「朝倉」

 

 名前を呼ばれて、私は黙った。

 

「心配するくらいなら、ちゃんと渡して」

 

 茅野先輩の声は、さっきより低かった。

 

「私が余計なところで踏ん張らなくて済むように」

 

 その言葉で、さっきのバトンが頭に戻った。

 遅れた声。詰まった距離。茅野先輩が合わせてくれた手。

 私の乱れが、アンカーに余計な負担をかける。

 

「……はい」

「じゃあ、明日」

 

 茅野先輩は部室へ戻っていった。

 翌日、私は茅野先輩の左手ではなく、前へ進むラインに意識を置いた。

 フェンスの外は拾わない。

 記録表の名前も、今は呼ばない。

 

 千秋が出る。真帆先輩が受ける。

 真帆先輩の声で、私はマークを踏んだ。

 右手にバトン。持った瞬間、安心しない。左へ持ち替える。

 茅野先輩の背中は、もう前へ出ている。

 

 怖い。

 

 でも、止まらない。

 私は腕を振った。昨日より一歩早く、声を置く。

 

「はい!」

 

 茅野先輩の左手が出る。手を探さない。

 金属の筒を、その奥へ押し込む。少しだけ指先に引っかかった。

 でも、落ちない。止まらない。

 

 茅野先輩は振り返らず、そのままゴール方向へ伸びていく。

 片桐先生の笛が鳴った。

 茅野先輩は戻ってくるなり、バトンを軽く振った。

 

「今の、使える」

 

 たったそれだけだった。

 でも、昨日の「悪くない」より、ずっと確かに聞こえた。

 私は手のひらを開いた。バトンを渡した感触だけが残っている。

 

 その感触は、ひかり先輩の記録とは別の場所にあった。

 

 練習後、茅野先輩はいつもより長くダウンをしていた。

 片桐先生は少し離れたところで、クリップボードを抱えたまま立っている。

 

 私は声をかけなかった。

 心配そうな顔をするより、明日ちゃんと渡す方が必要だと思った。

 

 部室へ戻る途中、茅野先輩が振り返った。

 

「朝倉」

「はい」

「明日は、今日より早く声出して」

「はい」

 

 茅野先輩はそれだけで前へ向き直った。

 私は、まだ熱の残る手のひらを軽く握った。

 

 ひかり先輩の記録を追うこと。

 茅野先輩にバトンを渡すこと。

 

 その二つは、同じ手の中にあるのに、初めて別の重さを持った。

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