「朝倉、今の声、遅い」
「はい」
「返事じゃなくて次で直して」
「はい」
「だから返事は一回でいい」
私は口を閉じた。
茅野梨央先輩は、怒鳴らない。
だから余計に、返事の置き場がなくなる。
四継の練習が始まってから、まだ二日しか経っていない。
それなのに、バトンの感触はもう手に残るようになっていた。
軽い金属の筒。
落とせば音がする。
受け取った瞬間は冷たいのに、握っているうちに手の中で汗ばむ。
それを渡す相手は、茅野先輩だ。
昨日の先輩の言葉が、まだ手のひらに残っている。
今日は風が強かった。
グラウンドの砂が、不規則に舞い上がる。
砂が流れるたびに、マークの白線が一瞬だけ薄くなった。
「あと何本かやれば──」
茅野先輩が一歩、アンカーゾーンの方へ出る。
片桐先生はストップウォッチを手元に下ろした。
「茅野、今日は本数を増やすな」
「流しです」
「流しでも、数は数だ。あと一本だけ」
茅野先輩は一拍だけ黙った。
「分かりました」
返事はした。
でも、その声は風に削られなかった。
真帆先輩が近くで小さく息を吐く。
「梨央、前に出てるね」
「焦ってるんですか」
「たぶんね」
真帆先輩はアンカーゾーンへ顎を向けた。
茅野先輩は何も説明しない。
ただ、一本目より二本目、二本目より三本目で、出る位置が少しずつ前になる。
私が届くぎりぎりの場所まで、攻めようとする。
届かなければ、茅野先輩の背中だけが前へ行ってしまう。
「位置、戻しますか」
私が尋ねると、茅野先輩はすぐに首を振った。
「戻さない」
「でも、さっき少し詰まりました」
「あんたが詰まっただけ」
「はい」
「私が遅く出たら、それは安全じゃなくて損」
茅野先輩は、マークを指で示した。
「リレーは、お願いする競技じゃない」
前にも似たことを聞いた。
でも、今日は少し違って刺さった。
「来た速度ごと渡す。遠慮したら死ぬ。タイムが」
千秋が小声を落とした。
「タイムの命って重い」
茅野先輩の顔が千秋の方へ向く。
「聞こえてる」
「すみません!」
真帆先輩が笑った。
その一瞬だけ、空気が柔らかくなる。
でも、バトンを持つとすぐに戻った。
千秋が出る。
真帆先輩が受ける。真帆先輩の動きは派手ではない。
けれど、千秋の鋭い出だしを受けても崩れない。
手に入ったバトンを、そのまま私へ運んでくる。
私はマークで出る。真帆先輩の声。
右手に金属が触れる。掴んだ瞬間、意識を前へ送る。
茅野先輩の背中。
私を待たないまま、もう加速に入っている。
それなのに、私が届く前提で前へ出ている。
その感じが、怖い。
「はい!」
声を風の前に置く。
茅野先輩の左手が後ろへ出る。
金属の筒を、その手の奥へ押し込む。指先の抵抗が消えた。
茅野先輩はバトンを握り込み、振り返らずそのままゴール方向へ伸びていく。
私の手から離れたあとも、しばらく手のひらに熱が残った。
茅野先輩は戻ってくるなり、短く息を吐いた。
「今のは悪くない」
私は一瞬、返事を忘れた。
千秋が横から小さく肘を当てる。
「翠、褒められてる」
「分かってる」
「顔が分かってない」
「だって、急に」
茅野先輩は少しだけ眉を上げた。
「悪くないってだけ。良いとは違う」
「はい」
「最後の二歩で、まだ手を探してる」
私は自分の指を握り込んだ。
「探してるつもりは」
「つもりじゃなくて、身体がそうなってる」
茅野先輩は背中を向けて、左手だけを軽く後ろへ出した。
「私は手を出す。だから、背中を追って来て」
「背中」
「手は最後に勝手に入る。そうなるまでやる」
怖い。
でも、言われた場所だけが次の一本で熱く残る。
逃げ道を塞がれているのではなく、バトンの通り道だけを残されている気がした。
練習後、グラウンドの端でストレッチをしていると、二年生の誰かが口にした。
「これ、鴻上が戻ったら結構いけるんじゃない?」
声は大きくなかった。
たぶん、ただの雑談だった。
それでも、千秋のスパイク袋が揺れる音まで止まった気がした。
真帆先輩が顔を上げる。
千秋の気配が、こちらに寄る。
私の視線は、靴紐を結ぶ茅野先輩の手元へ落ちた。
茅野先輩の指先は止まらなかった。
けれど、結び目を作るまでが、いつもより長かった。
名前を呼ぼうとして、やめた。
──ひかり先輩が戻ったら。
私も、何度も考えた言葉だった。
だから、何を返せばいいのか分からなかった。
ひかり先輩がアンカーに入れば、四十七秒六二を抜けるかもしれない。
今でもそう思っている。
なのに他の人の口から聞くと、違う場所が痛んだ。
今、アンカーゾーンに立っている人がいる。
私はその人の前で、何度もバトンを落とした。
それでも茅野先輩は、次も同じ場所で手を出した。
そのことが、急に重くなった。
練習が終わって、部室に戻っても、茅野先輩はあまり喋らなかった。
千秋は空気を変えようとして、いつもより大げさに今日の失敗を話している。
真帆先輩がそれに付き合っていた。
私はシューズを片付けるふりをしながら、棚の前に立つ茅野先輩の気配ばかり拾っていた。
茅野先輩はタオルを畳み、バトンケースを棚に戻す。
棚の扉を閉めたあと、手を離すまでが遅かった。
「朝倉」
呼ばれて、私は背筋を伸ばした。
「はい」
「ちょっといい?」
部室の外に出ると、夕方の廊下は静かだった。
雨は降っていないのに、空気だけが湿っている。
茅野先輩は壁に背を預けず、立ったまま私と向き合った。
「あんたは、鴻上ひかりを戻したいんだよね」
息が止まりかけた。
「……はい」
「リレーに入ってほしいんだよね」
「はい」
嘘はつけなかった。
ここで曖昧にしたら、もっと失礼になる気がした。
茅野先輩は廊下の窓へ顔を向けた。
「じゃあ、私は?」
すぐには意味が分からなかった。
「え」
「私は、どこに行けばいいの?」
言葉が、廊下に落ちた。
私は何も返せなかった。
「みんな、鴻上が戻ればって言う」
茅野先輩の声は荒れていなかった。
怒ってくれた方が、まだ楽だった。
「鴻上なら。鴻上がアンカーなら。……何回も聞いた」
誰かを選ぶことは、誰かを選ばないこととよく似ている。私は、ひかり先輩の名前ばかりを追っていた。
その名前の下に、今立っている人がいることを、まだちゃんと考えていなかった。
「私も、ひかりの走りは好きだった」
ひかり、と呼んだ。
先輩でも、鴻上でもなく。
その呼び方だけ、少し近かった。
「悔しいくらい」
茅野先輩は、手のひらを軽く握った。
「でも、今アンカーにいるのは私」
「はい」
「私もアンカーなんだよ」
怒りではなく、確認に近い声だった。
自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「私、」
声が掠れた。
「渡す相手のこと、ちゃんと考えてませんでした」
茅野先輩は黙っていた。
「ひかり先輩に戻ってほしい気持ちは、あります」
怖かった。
でも、隠す方がもっと失礼だと思った。
「でも、明日バトンを渡す相手は、茅野先輩です」
そこで一度、言葉が止まった。
「だから、ちゃんと渡したいです」
しばらく何も返ってこなかった。
廊下の向こうから、千秋の笑い声が届く。
真帆先輩が何か返している。
部室の中はいつも通りなのに、ここだけ別の場所みたいだった。
茅野先輩は、息をひとつ吐いた。
「真っ直ぐ言うね」
「すみません」
「そこは謝らなくていい」
私は口を閉じた。
茅野先輩は廊下の窓枠に指をかけた。
「別に、鴻上を戻したいって思うなとは言わない」
「はい」
「私だって、あいつが出たら速いのは知ってる」
「はい」
「でも、あんたが私に渡すなら」
茅野先輩が、こちらへ向き直る。
「私を使って」
「使う?」
「アンカーなんだから。最後は私が持っていく」
その声は、さっきより強かった。
「遠慮して渡される方が嫌」
茅野先輩はまぶたを伏せた。
「誰かと比べながら渡されるのも嫌」
「はい」
「私に渡すなら、私に勝たせるつもりで来て」
私は頷いた。
「明日も、ちゃんと渡して」
「はい」
茅野先輩はそれで話を終えようとした。
そのとき、廊下の段差を降りる右足だけが一拍遅れた。
「今、脚」
言いかけて、遅かったと思った。
茅野先輩の表情が変わる。
「何」
「今、少し」
「ただの段差」
「でも」
「朝倉」
名前を呼ばれて、私は黙った。
「心配するくらいなら、ちゃんと渡して」
茅野先輩の声は、さっきより低かった。
「私が余計なところで踏ん張らなくて済むように」
その言葉で、さっきのバトンが頭に戻った。
遅れた声。詰まった距離。茅野先輩が合わせてくれた手。
私の乱れが、アンカーに余計な負担をかける。
「……はい」
「じゃあ、明日」
茅野先輩は部室へ戻っていった。
翌日、私は茅野先輩の左手ではなく、前へ進むラインに意識を置いた。
フェンスの外は拾わない。
記録表の名前も、今は呼ばない。
千秋が出る。真帆先輩が受ける。
真帆先輩の声で、私はマークを踏んだ。
右手にバトン。持った瞬間、安心しない。左へ持ち替える。
茅野先輩の背中は、もう前へ出ている。
怖い。
でも、止まらない。
私は腕を振った。昨日より一歩早く、声を置く。
「はい!」
茅野先輩の左手が出る。手を探さない。
金属の筒を、その奥へ押し込む。少しだけ指先に引っかかった。
でも、落ちない。止まらない。
茅野先輩は振り返らず、そのままゴール方向へ伸びていく。
片桐先生の笛が鳴った。
茅野先輩は戻ってくるなり、バトンを軽く振った。
「今の、使える」
たったそれだけだった。
でも、昨日の「悪くない」より、ずっと確かに聞こえた。
私は手のひらを開いた。バトンを渡した感触だけが残っている。
その感触は、ひかり先輩の記録とは別の場所にあった。
練習後、茅野先輩はいつもより長くダウンをしていた。
片桐先生は少し離れたところで、クリップボードを抱えたまま立っている。
私は声をかけなかった。
心配そうな顔をするより、明日ちゃんと渡す方が必要だと思った。
部室へ戻る途中、茅野先輩が振り返った。
「朝倉」
「はい」
「明日は、今日より早く声出して」
「はい」
茅野先輩はそれだけで前へ向き直った。
私は、まだ熱の残る手のひらを軽く握った。
ひかり先輩の記録を追うこと。
茅野先輩にバトンを渡すこと。
その二つは、同じ手の中にあるのに、初めて別の重さを持った。